コトバ表現研究所
はなしがい127号
1997.2.1 
「先生は、ぼくを愛していないんだね」

 はじめのうちは子どもに言われるとドキッとしたものです。子どもたちはディベートの達人です。教師がどんな考えを根拠に教育しているのかよく知っています。今ではわたしも「きらいだよ」と笑いながら子どものホッペタを軽くたたくことができます。

●Hくんのおしゃべり

 先日、Hくんにちょっとした変化が起こりました。Hくんはわたしの専門学校の高等課程(中学卒業で入学する三年課程)の二年生です。一年のときから、じつに口達者でした。

 授業中に隣りとおしゃべりをしているので注意すると、あわてて「先生、それはね……」とていねいな口調でペラペラ反論をしてきます。いわゆる屁理屈なのですが、立て板に水といったみごとな話しぶりには驚かされたものです。しかし、どんなに話が続いてもカッとすることがないのはいい点でした。

 ところが、こまったことに、授業中にノートを取らないことに始まり、提出課題や宿題などまともにやったことがありませんでした。もちろん成績もよくありませんから、去年の七月の試験でも、わたしの科目を落としました。それで九月に再試験のかわりに補講をしたのですが、Hくんとほかに三人が欠席しました。欠席者の課題にしたレポートも、Hくんはなぐり書きの一枚を出してすまそうとしました。

●きびしさの根拠

 それから、わたしの作戦が始まりました。授業中の雑談で「レポートを出してない人もいますが……」とにおわせます。Hくんは隣りとおしゃべりしていてもすぐに気づいて、「先生、それはね。バイトが忙しくて……」とか、「先生、それはね。途中まで書いたんだけど……」と応じます。しまいには、ちょっとにやけて「うちは父ちゃんが死んで……、母ちゃんが働きに出ているから……」と言いだします。

 しかし、Hくんが笑っているからといって冗談とばかりはいえません。二十五人のクラスで両親のどちらかがいない家庭は半数ほどあります。わたしは確かめていませんがHくんの家庭もそうかもしれません。そんな事情があったとしても、わたしはきちんとやるべきことはやらせてきました。それで「きびしい」「冷たい」などと言われて心がゆらぐこともありました。

 しかし近ごろ、アラン『教育論』のことばを読んで、これでよかったのだと確信しました。アランの言うには、家庭での子どもたちには父母との関係や経済的に不幸な事情があるにはちがいないが、学校の教育は、そんな事情とは一線を画して行われるべきだというのです。

 しかし、いまだに学校の先生は、子どもたちが問題を起こすと「親の顔が見たい」「家庭では何をやっているのか」と思いがちです。家庭に不幸な事情があればなおいっそう学校が楽しく、自由に過ごせる場所となるべきでしょう。そして、子どもたちの教育に責任を持たねばなりません。

●プラスの行動とマイナスの行動

 さて、わたしがHくんに話したのは、「レポートの提出期日は過ぎた。しかし、事情があるなら、待つこともできる。いつまでなら、確実に出せるか」ということでした。

 すると、またHくんの弁解がはじまりました。
「今週の土曜と日曜は出かけなくちゃならない用事があるし、来週はずっとバイトが入ってるし……」

 わたしは口をはさまずにHくんのしゃべるかぎりを聞きました。レポートは逃れたいけれど、進級は気になるらしく、「担任から、もう一度、何かすると退学にするって言われているんだ」といいます。

 何かするというときに、子どもたちが考えるのはマイナスの行動です。プラスの行動ではありません。罰を受けるようなことさえしなければ何もしなくていいという価値観がしっかり身についています。これまでの教育で、「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」と育てられた結果だとわたしは考えています。

 何日かそんなやりとりをするうち、Hくんはレポートを気にかけるようになったようです。わたしが教室を歩きながらふとHくんを見ると、「先生、また、あのこと言いたいんだろう」といいます。
「あのことって何だ」
「いやだな。知ってるのに言わないんだから」
「いや、何だかわからないよ」
 わたしは、それ以上いいません。

 その日、チャイムが鳴って授業終了のあいさつを終えると、Hくんが教壇に近づいてきました。
「先生、今週はムリだけど、来週の火曜までに書いて出すから……」
「ああ、そう。じゃ、待ってる」
「なーんだ、おれがせっかく出すっていうのに、うれしくないの」
「だって、当たり前のことじゃないか。それに、もう締切はとっくに過ぎているんだよ」
「また、それだよ。いやになっちゃうな」
 Hくんは笑っています。わたしには、すっぽかされるかもしれないという警戒心がありました。

 翌週になっても、Hくんのレポートは出ませんでした。そして、いよいよ今週で冬休みに入るという日でした。授業が終わると、Hくんが廊下まで追いかけて来て、しんみりとした調子でいいました。
「先生、今から出してもいい?」
「いいよ」
「冬休みに入るけど、二十五日に必ず学校に届けるから」
「わかった。待ってる。でも、その日は家の仕事で学校に来てないから、提出したらすぐに『出した』って、家に電話をかけてくれるかな」
「うん」

 Hくんから電話が来たのは十二月二十六日でした。家の者と替わると、「出した、出した。きのう出した」と大きな声が聞こえました。どうしてきのうかけなかったのかきくと、「先生は仕事で忙しい日だといっていたから」といいます。家の者は「しっかりした話し方だから専門課程の学生かと思ったわ」と驚いていました。

 今年になってHくんは心理学に興味を持ちはじめました。人間の心というものを知りたいのだそうです。今は、わたしがあげた『心の底をのぞいたら』(なだいなだ著。筑摩書房)という本を読んでいます。


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