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2001年3月のお嬢(上)

 3月12日 薬の力

 うちの婆ちゃんが、最近やけに調子がいい。
 薬の副作用で、口が四六時中ガムを噛んでいるように動いてしまい、
 とにかく、寝ても冷めてもそのことを嘆くしかない毎日を送っていたというのに。

 「この口が治る、って薬もらったのよ」とやたら元気に話し始めたと思ったら、
 やれ、デイケアでサッカーをやっただの、バレーボールをしただの、
 これまで文句ばかり言っていたのが嘘のようなハイテンション。

 薬を見せてもらって調べてみると、それは新種の抗鬱剤だった。
 婆ちゃんには、口が治る薬、と渡されていたのだけれど、実際は、その症状を
 くよくよ悩まないようにする薬が処方されていた、ということなのかな。

 「口が治る薬ですよ」という医師の言葉の役割も大きいとは思うけれど、
 でも、「もうわたしゃ、死んだ方がましだ」と言っていた人間が、ある日突然、
 「わたしゃ、死ぬまでに絶対この口、治してやるわ」と言いだしたこの変化は、
 やはり尋常ではないだろう。

 私が薬を飲んでいたときも、婆ちゃんほどではないにせよ、本当に救われた。
 まさにお薬サマサマだ。
 でも、薬は逆に人間のシステムを壊すことも可能だ。婆ちゃんの口のように。
 そう考えると、私たちはいつだってスレスレのバランスで生きているのだな、
 と、その奇跡的偶然に怖くなったりすることがある。 

 3月10日 もやもや

 最近日記が長いな。それに書いても読んでもあんまり面白くない。
 何となく頭にもやがかかっているような気がする。
 それでもカウンターは静かに回っているから、誰かが読んでくれているのだろう。
 ふと、何のために皆ここに来てくれているのだろう、と思う。
 こんな退屈な私の日常に、皆の貴重な時間を分けてもらっていることに、
 甚だ申し訳なく思うと同時に、感謝している。


 3月9日 天使

 日付も変わってからunpocoに行くと、あるカップルがいた。男の方は少しだけ知ってる。
 よせばいいのに、数件隣の某店のマスターが、2人の席に乱入した。私を連れて。
 あれバラすぞ、コレしゃべっちゃおっかな〜、ほれほれほれ。
 動揺する男の姿はとてもおかしかったけど、同じ事をされているときの私もきっとこうなのだ、
 と思うと、ヘラヘラ笑っても居られなくなった。

 あー、なんで隠し事、いや、他人に知られたくない事がこんなに溜まっちゃったんだー。
 あー、なんでこの人に、過去数年の男遍歴を把握されてるのかしらー。
 あー、今からでも全部チャラにしてくれたらいいのにー。あーあーあー。(号泣)

 ところでふたりはというと。
 私たちに「俺の天使に汚れた目を向けてくれるな」という男を、
 彼女は半分笑ったような表情をひとつも変えることなく、一言の言葉も発することなく見つめていた。
 いや、正確には、見つめているように見せていた、と言うのか、どこか遠いところを見てたのか。
 私には、彼女が嬉しいんだか楽しいんだか、呆れているんだか、それともどうでもいいんだか、
 何を考えているのやら、皆目見当が付かなかった。

 そんなのが天使なのだとすれば、私はやっぱり天使のようにはなりたくない。
 ヨゴレで結構、過去をバラされそうになれば、じゃんじゃん慌てふためいてやるわい。
 っていうか、誰も私が天使になれるだなんて思ってないってか。それはどうもすみませんでした。


 3月8日 羨ましい?

 幼い頃からあらゆる場面で「あなたなら大丈夫」と言われてきた。
 「そんなあなたが羨ましい」「あなたみたいになりたいわ」……。
 努力家で、独立心旺盛、依存心も怖いモノも無く、大胆不敵。
 そんな幻想を抱いている人が今もいるようで、とても申し訳なく思う。
 そんな人間だったら、今頃こんな日記なんて、書いてない。
 「バイタリティがある」と言われるのは嬉しくないわけではないけれど、
 私にバイタリティらしきモノがあるとすれば、それは決して積極的なものではない。

 私はただただ臆病で、日々のすべてを怖がって生きているだけだ。
 家でも学校でも会社でも、ただただ他人に嫌われたくないと思いつつ、
 かといって万人に受け入れられる器用な性格をしているわけでもなく、
 いつの間にか増えてゆく敵との摩擦に胃を痛み、その痛みを忘れるために、酒を飲む。

 ひとり旅に出るのも、知らない世界に入るのも、酒を飲むのも、ここで文字を綴るのも、
 すべては自分を守るための一手段。
 そうでもしなけりゃ、ハラハラと崩れていってしまいそうな自分が怖いだけなのだ。
 私のバイタリティなんて、不安に任せて自分の存在確認をしているという、ただそれだけ。
 みんながしなくても済んでることを、しなくちゃ生きていかれない、ただそれだけのことだ。
 まったく損な性格に生まれちゃったもんだと思うぞ、我ながら。
 ほら、ちっとも羨ましくなんかないでしょう?


 3月7日 遠方より友来る(3)

 第7ギョーザは定休日だった(号泣)。私としたことが、なんたる失態。
 久々に腹の底から悔しい思いを味わってしまった。
 代わりにいき魚亭の寿司を食って、金沢の回転寿司を堪能してもらったが、
 それで悔しさと未練が完全に消えるわけもなく。

 彼はいつの日か第7ギョーザの為にこの地を再び訪れるような気がする。
 それはたとえ、私がこの街にいなくなったとしても、だ。
 そうなったとすれば、私はこの街の魅力を彼に伝えることが出来た、ということになるだろう。

 別に私はこの街に特別な愛着があるわけでも、観光客を誘致して儲けているわけでもない。
 ただどうやら、何かの橋渡しをすることが嬉しいようだ。人嫌いのはずなのに。
 何はともあれ、楽しかった、ありがとう、と言って鈍行列車に乗った彼に、幸多かれと祈る。


 3月6日 遠方より友来る(2)

 大学時代の友達が、青春18切符で九州からやってきた。
 オレら、もう26なのにな、と彼が言うように、何ともこそばゆい名前だ。青春18切符め。

 私は友人が遠方から来た時、特別なリクエストがない限り、魚が食える店に行くことにしている。
 せっかく金沢に来て魚を食わないなんて、そんなコストパフォーマンスの低い旅はあんまりだから。
 で、2軒目にたいがいFanfareというパブに行き、その後unpocoに行くというコースをたどる。
 ただし誰でも、というわけではない。私はこの2軒に嫌いな人を連れていきたくない。
 万が一、お義理で嫌いな誰かを連れていくことになったとしても、カウンターには座らない。

 とにかく私は見栄っ張り、というか、カッコつけ、というか、プライドが高いのだ。要するに。
 店は、マスターのテリトリーであると同時に、マスターにお借りしている私のテリトリーでもある。
 そこで話題に尽きて、ここはこんな店でね、マスターはこんな人でね、こんな気分の時にね、
 こうやって楽しむ、そんな場所なんだよ、とか説明している自分を想像するだけで鳥肌が立つし、
 訳の分からない名前のカクテルが無いと言って文句を言う人間など、反吐が出そうになる。
 ま、そんな知り合い、ほとんどいないけどね。
 そういうわけで、結局は何も言わなくてもわかってくれる人とだけ、行くことになる。

 彼はこの2軒を気に入ってくれたようだった。
 自分の思いが言葉での説明を経ずして誰かに伝わる、というのはとても嬉しい。
 言葉で説明してもなおわかってもらえないことが多い中で、こんな日はちょっとしたオアシスだ。
 彼は、途中で話題に上った第7ギョーザに興味を持ったようだった。
 明日は第7ギョーザに行こう、と約束して別れた頃には、時計は午前4時を回っていた。

 タクシーに乗った途端に、バケツをひっくり返したかのような土砂降りになった。
 普段は雨嫌いの私が、不思議と嬉しくなって少し笑った。


 3月4日 遠方より友来る

 今さら言うまでもないかも知れないが、私の友達には酒飲み、いや、酒好きが多い。
 今日も昼からワインとパスタでだべっていた。
 下戸はもとより、飲める人でさえ、昼酒に向ける視線は冷たい。
 なにか、とてもだらしがない、破廉恥(はちょっと違うか)な、人様に隠れてするような事、
 というような認識がされているようで。

 私にしてみれば、食事中にジュースを飲む人の方が、よほど味音痴で恥ずかしいと思うのだが。
 それなら水を飲んでる方が、随分ましだ。
 ってなわけで、昼酒に付き合ってくれる友達は、これからも末永く大事にしていこうと思っている。

 夜は夜で、京都からの友人を迎えた。
 彼は随分疲れているようで、ビールの後、焼酎を引っかけたら、深い深い眠りに落ちてしまった。
 久々に会ったからと言って、気を使わずに宴席で熟睡できるというのは、その人のキャラでもあり、
 そしてまた、周囲の人間のキャラでもある。そういう関係がとても好きだ。

 こうやって、こんなのが好き、あんなのは嫌い、と言っていると、年々友達が減ってきたように思う。
 かつては、友達100人出来るかな、と無邪気に歌っていた私だが、
 今となっては、友達なんて多けりゃいいってもんじゃないだろうよ、と思っている。

 私はむやみやたらに笑わない。
 愛想がない女だな、と言われようと何と言われようと、別に知ったこっちゃない。
 そんなエネルギーがあるならば、大切な人たちとの時間のために、取っておきたいだけなのだ。
 酒の話をするつもりが、いつの間にか違う話になったな。


 3月3日 うなずく、うなずく

 とある会合で、「酒文化研究所」ってな機関の研究員サンにお会いした。
 そばにいた「味もわからないヤツに知った顔してワインなんか飲んで欲しくない」と嘆くおじさんに、
 彼は「でもね」と声をかけた。

 英語がなぜ今、世界中で使われているかわかります?
 英国人は、あんなに堅苦しい英国英語を話すくせに、訛りや変化にとても寛容だったんですよ。
 アメリカ、インド、オーストラリア…。みんな好き勝手な英語を話してる。
 ちょっとしたことにいちいち目くじら立てていては、所詮文化なんて広まりはしないんです。
 例えば、日本酒に平気でシロップをドボドボ入れる外国人を見て日本人はつい、怒ってしまう。
 でも、それって、文化の広がり、相互理解のためには、避けられない過程。
 別にいいじゃないですか、シロップ入れようが、沸騰させようが、彼らが楽しんでくれるなら。
 (彼は箸を両手に一本ずつ持って、先を合わせて山の形をつくって見せた)
 文化って、底辺がどっしりしていてこそ、頂点が安定するんです。
 底辺が狭まると、山は尖ってしまう。尖った山は、横からの力に耐えきれず、すぐに折れます。
 一時期のワインブームに完敗した日本酒がその良い例です。
 だから、どんなユーザーのことも、軽視してはダメだし、失敗や間違いを排除してはダメなんです。
 どんな文化も、寛容さを失ってしまったときには、その成長と繁栄はあり得ないのです。

 3月2日 リーダー不在

 犬のしつけ教室が始まった。
 かかりつけの動物病院が無料で開催してくれると言うので申し込んでいたのだ。
 今日は第1回ということで、飼い主だけのお勉強会。

 無料だというから気軽に申し込んだのだが、いやいや、これが結構厳しいもんで。
 犬を公園で放すだなんて絶対にダメ、他人に寄っていってはいけないとか、
 トラブル防止のために去勢手術をしましょうとか、排便排尿は散歩前に、とか、
 書き出したらきりがないほど、既成概念の転換を求められる。
 家で排泄したら困るから散歩でさせて当然じゃないか、というのは、飼い主の勝手な言い分。
 道路だの空き地だの、すべて公共もしくは他人の所有物であって、
 ニューヨークなんかじゃ決められた場所以外でのペットの排泄は罪に問われるんだそうな。

 去勢手術なんてかわいそう、と多くの飼い主は言う。私も含め、うちの家族もそう思っている。
 でも、半径1qもの範囲で、メスの発情を嗅ぎつけてしまうオス犬にしてみりゃ、
 裸の女を目の前にさらされてお預けくらっているわけで、それが原因の無駄ぼえを責めちゃ、
 それこそ犬が可哀想、人間様のエゴでしょう、ってなわけだ。なるほど。

 犬の先祖であるオオカミは、絶対的な権力を持つリーダーのもと、群れで生活する動物だ。
 リーダーになれるのは、誰もが心からの敬意を払う、ごくごく限られた人(犬?)格者だけ。
 そこら辺が人間と似ていたから、太古の昔からともに暮らすことが出来たのだそうだ。
 だけど今、吠えたり噛んだり暴れたり、と暴君と化す犬が増えている。

 元来責任感が強い動物である犬は、リーダー不在の環境に身を置くと、たとえ愛玩犬でも
 何とかこの場の指揮を取らねば、と頑張ってしまい、挙げ句心と体を病んでゆくことになる。
 今回のしつけ教室の目的は、飼い主が犬から敬意を払ってもらえるようなリーダーになり、
 犬を守ってやれるようになることであって、決して厳しくしつけあげることではないとわかった。
 おやつをやって言うことをきかせよう、だなんて、まったく勘違いも甚だしかったなと、反省。

 それにしても、こんなリーダー不在の世の中で、その巻き添えを食う犬たちは、本当に哀れだ。
 それでもなお、人と暮らすことに喜びを見いだすという彼らを、私は心から愛しいと感じる。
 しつけは大変そうだけど、家族にも頼んでちょっと頑張ってみよう、と思っている。


 3月1日 あかうんたびりてぃ

 家族は最近私に冷たい。
 毎日学生さんのようなリクルートスーツでも着て、履歴書片手に出掛けていけば、
 少しは腹の虫も収まるのだろうが、何しろ私は連日昼前まで寝ていて、
 就職活動と言えば、パジャマでネットか、ジーンズ姿でラブロの職安。
 しかもまったく真剣さに欠けているときたもんだ。
 貧乏だと言う割には、バイトを探すわけでもない、というのも気に入らないらしい。

 母に嫌みを言われたので、まじめに就職活動をしないわけをついに説明した。
 前の職場の給料が良かったために、下手に就職するより失業手当をもらった方が
 お得なこと。前の職場と同水準の求人なんぞ滅多にないこと。
 バイトをすれば手当が減額されること。
 そして、これからのことをすこしのんびり考えてみたい、ということ。
 何か文句を言いたそうだったが、それでも少しは納得したのか、静かになった。

私はこれまで生きてきた中で、こういう説明を限りなく省略してきた。
説明するくらいなら、説明しなくても良いような状況を作るほうが楽だったし、
どうしても説明が必要だった時は、その多くを嘘でくぐり抜けてきた。
でも、この歳になって嘘をつくのも面倒になってきたのかな。
慣れない作業で面倒くさいが、嘘の罪滅ぼしも兼ねて、少しは説明義務を果たそうか。
そろそろ親にも色々諦めてもらわなくてはいけない頃だろうとも思うし。
要するに、自立の春、ってとこでしょうか。