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2001年2月のお嬢(下)

2月27日 サクラサク

合格通知が届いたので、春から学生をすることになった。
といっても、1年7ヶ月の通信教育だから、別に引っ越しとかそういうのはないのであって。
「精神保健福祉士」という資格を目指すことにした。
続くかどうかわからないし、続いたところで後の国家試験に受からねば意味がない。
が、頑張ってみることにする。

で、「精神〜」ってなんだ、という質問をよく受けるのだが、いつもうまく説明ができない。
というのも、その資格はなんだ、という疑問と同時に、何でお前が、どういうわけで、
という疑問を立て続けにぶつけられるからで。
話せば長いから、ココには書かない。

ただ、その勉強を始める最大の理由は、その先にどうしても知りたいことと、
知ってしまったからには関わりたくなるだろうことがあるからで、
関わってしまった日には、それはそれは途方もなく長い道のりなんだろうけど、
それでもどういうわけかどうしても関わっていたいと思うことがあるからで。

期間中、スクーリングの他、病院や施設での実習がある。
とにかく実習が今から楽しみで楽しみで、仕方ない。
未来を確信するか、絶望に直面するか、いずれにせよ、貴重な経験となるだろう。
その時私はここに何かを書くことができるだろうか。
書かねばならぬと思う。

<参考資料>
精神保健福祉士法

第二条
この法律において「精神保健福祉士」とは、第二十八条の登録を受け、精神保健福祉士の
名称を用いて、精神障害者の保健及び福祉に関する専門的知識及び技術をもって、
精神病院その他の医療施設において精神障害の医療を受け、又は精神障害者の
社会復帰の促進を図ることを目的とする施設を利用している者の社会復帰に関する相談に応じ、
助言、指導、日常生活への適応のために必要な訓練その他の援助を行うこと
(以下「相談援助」という。)を業とする者をいう。


2月22日 「散」

筑紫哲也のまねをして、一文字でタイトルを付けてみる。
なんのことはない。
税金と年金を払ってすっからかんになり、その憂さを晴らしに、
プールと温泉(スーパー銭湯、ってやつね)に行った、というだけ。

散財と、発散。
ひょっとして「散財」は、意味が違うかも知れないけど、税金だろうが衝動買いだろうが、
今の私にとって「財が散った」ことには変わりない。
ところで、今の今まで「散る」の反対は「咲く」だと思っていたのだけど、
コレを書いてて、それじゃまずいと気が付いた。
だって咲いたら、散っちゃうし。

今日一日を振り返って考えてみると、どうやら「たまる」が正解か。
「金が貯まる」「ストレスが溜まる」っていうもんね。
貯まって欲しいものもあれば、そうでないものもあるってことは、
散って嬉しいことも、そうでないこともあるってわけだ。
なんか、「散」ってあまり良いイメージが無かったけれど、
意外と器用な言葉でかわいいじゃん、と思ったのは私だけかな。
そういうファジーなものも、最近嫌いじゃないのだ。


2月21日 職安にて(2)

職安にプライバシーの概念はないのか。
失業給付金の申請説明会にでかけて、また腹を立てて帰ってきた。

入り口に受付でもあるのかと思っていたが、あったのは点呼だ。
大きな声で名前を呼ばれると、印鑑持って前に出て、支給額が書かれた書類を受け取る。
失業中であることにいじけているわけでも、しょげているわけでもないけれど、
いいようもない屈辱感を感じてしまう。
私より先に、近所に住む同年代の女の子の名前が呼ばれていて、
彼女も仕事を辞めたのだと知った。

今どき、入学試験の合格発表という、一応めでたい場面でさえ匿名だというのに、
失業、という、マイナス要素の濃い場面での気遣いのなさに、深く憤りを感じる。
こういう経験をすると、たとえば生活保護だとか、障害者年金を受けている人たちは日常的に、
もっともっと「してやってんだぞ」的扱いをされているのではないか、と思うのだ。

働かざる者食うべからず、という考え方は嫌いではない。
だからといって、働く者がそうでない者を見下してもいい、なんて理屈は認めない。
当然、金持ちだからといって貧乏人を見下すことに正当性はない。
でも、悲しいかな、金を渡す側ともらう側の間には、きっちりと高低差がある。
自分だって税金を払う時、払ってやったぞと大きな顔をし、手当を「頂く」時には低頭になる。

お金なんてたった紙切れだというのに、それでもそのやりとりで誰かが高慢になり、
誰かが卑屈にならなくてはいけないのはどうしてだろう。
それとも、やはり、持つ者が持たざる者の上に立つということは、疑いようもない、
ごく当たり前の現象として受け止めるべき、この社会の現実なのだろうか。


2月20日 「ペン派遣よりも剛」

ペンは剣よりも強し、と書こうと思ったら、タイトルのようになった。情けない。
こんなマシンを使って書いて、いや、作っているこの欄で、ある人を傷つけてしまった。

ただなんとなく、そう、ただぼんやり書いたひとことだったけど、その人にとっては、
剣で刺すような意味を持った、ということだ。
中傷とか、攻撃とか、そういうのではない「ぼんやり」だったから、なおショックだ。

それでも、私はこの欄をやめない。
ここで生じた傷を、できることなら、ここで癒して欲しい、と思うからだ。
うまくいくかどうかは未知数。
ただその人が、これからもここを読んでくれるだろう、という漠然とした期待だけが、
これからの私を支えていく。


2月18日 団らん

ゆうべは、一緒にスキーに行った2人がうちに来て、焼き肉を食った。
家族と離れて一人暮らしをしている2人だから、たまには楽しんでもらえたかな。
我が家はいつもオープンですよ。いつでもどうぞ。

夕方、夫婦の年の差が一回り以上ある新婚家庭にお呼ばれした。
パステル調のアパートがなんだかこそばゆい感じで、とっても卑猥だ(失礼)。
チャイムを押すと新妻がエプロンで「いらっしゃ〜い」とお出迎え。
新妻がエプロン姿でお出迎え、だよ、まったく。鼻血出るかと思った。ぐふ。
まぁ、それはいいとして。

他人のお宅には不思議と、お邪魔したい家とそうじゃない家がある。
私は子どもの頃から、人を呼ぶのは好きだけど、お呼ばれするのが嫌いだ。
小心者の私は、他人のテリトリーでどう振る舞って良いのかわからなくて混乱するのだ。
そしてその結果、愛想笑いをする可愛げない子、と思われるのが、何より辛かった。
そういうわけで、今でも滅多によそのお宅には行かないのだが、
今回のように、どういうわけか抵抗無く伺うことが出来るお宅、というのがある。

おそらく、である。
お邪魔したい家と、そうじゃない家の違いは家主にある。
「異」なるテリトリーに入ると言うことは、誰にとっても多かれ少なかれストレスなわけで、
それをいかに軽減するか、というのは、家主にかかっている。
いや、家主にもテリトリーを侵されるストレスがある、と言う人もいるかも知れないが、
だったら初めから他人なんか呼ばなきゃいい。

個人的には「気にしないでイイから楽にして、ほんとにー」なんて言う人は要注意。
やれ、それは動かさないで、それはそのまま、これを使って、これはオススメ、
なんて気遣ってくれてるようで、実はその家のルールを押しつけるだけ、ということ多々。

本当の気楽な家、というのは、楽にして、といわれなくても、自然と楽になる家だろう。
なんだかわからないけど、我が家には人がよくやってきて、みんな、ここは気楽だと言って、
たらふく食って、人によってはぐっすり眠って帰っていく。
私はその伝統を守っていけるかな。守っていかなきゃな、と最近よく思う。


2月17日 スキー日和

朝からスキー、のつもりが、山に着いたら昼だった。
1本滑って1時間の休憩、そして1時間滑って、また休憩。
結局4時間ちょっとを、スキー2時間、休憩2時間で過ごしてきた。
なんとまぁ、ぜいたくな、というか、ぐーたらな、というか。

体力がないせいか、怖くてガンガン滑れない。
雪も重くて、怖々滑って、足だけが疲れていくようだ。
下準備が整わないうちに、ポンと飛び出し四苦八苦、すぐに疲れて一休み。
どうも私の性格を如実に表しているようでいかん。

もっとオフシーズンに泳いだり歩いたり、体力を蓄えておけば良かった。
とかなんとかいっても、結局ゲレンデで飲むビールの美味さがちょっと増すだけかな、
という気がしないでもないから、たぶん今年の夏もダラダラ過ごすような気がする。
「たら、れば」で物事を語るのが一番空虚だ、とはわかっているつもりなのだけど、
「わかっているつもり」というのが、もっと空虚だということをついつい忘れそうになる。


2月16日 気持ち

かつての同僚だった女性が集まって退職記念飲み会を開いてくれた。
みんなが辞めたとき、そんなこと企画した記憶がないのにもかかわらず、
こんな催しを開いていただき、とても申し訳なく、そして、有り難く思う。

私は物覚えが悪い上に物忘れがひどく、その上、もらった物をなくしてしまうという、
とてもけしからん習性があったりする。
ピアスなどに至っては、かなりの紛失率だ。まったくもって恥ずかしい。
人嫌いを公言してはばからず、出不精で面倒くさがりの私だというのに、
いやいやあんたがおるさけぇ行くんや、みたいなことを言ってくれて、心から感謝。

ある人からプレゼントをもらった。
以前、誕生日に、アクセサリーを滅多につけない私でも使いやすいシルバーの
ペンダントをくれたその人が、今度はなんと、眼鏡をくれた。
レンズもセットで、あとは検眼に言ってね、と言う。
そろそろ眼鏡を新調しようと思っていた矢先、大体、眼鏡好きの私には、
何本あっても邪魔になるどころか嬉しくてたまらない贈り物だった。本当に嬉しい。
こんなに気の利いたプレゼントが今までにあっただろうか。

その人は会社の送別会には、花束を届けてくれている。
私も常々そういう心配りの出来る人でありたいな、と心から思うのだけれど、
私はその人の誕生日すら知らない。
こんな失礼な人間がいるだろうか。穴があったら入りたい、ってのはこのことだ。