フォト紀行

     旭川、稚内、宗谷岬、オホーツク海道、サロマ湖、能取湖、網走、知床、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖の旅

平成22517 月曜日 曇一時雨

思い立って、初めての気ままな旅に出た。道北からオホーツク海道を走る旅である。もちろん厳冬の頃の寒さは想像できるし、その頃がこの地域を独特の風土にしているのかもしれない。だから一時期の旅行は地域のほんの一瞬を切り取るに過ぎない。それさえも天候に左右され、印象は大きく異なるであろう。しかしそうであっても、行く前に想像していた風景と実際の風景は大きく異なることがあって、それもまた旅の醍醐味である。

今回の旭川から稚内、稚内から網走、知床から阿寒湖の旅は寂れた最果ての地という思い入れとは全く違い、明るく豊かな大地に育まれた、思いのほか住みよい土地を実感できた。決して活気があるというのではなく、シャッター通りも見られるが、それでも貧しさは感じられなかった。旭川空港から市街地へ向かうときに窓から外を見ていると、比較的新しく、小じんまりした瀟洒な住宅が並んでいた。個性が感じられないと言えばそうかもしれないが、何年か前までの日本がそうであったように、一億総中流の名残のように思われた。ここでは冬の寒さを越すのは大変なのかもしれない。どこか北欧と似ている雰囲気がある。
 
午前725分羽田発旭川行きのJAL1103便に乗り込んだ。半分ほど埋まった乗客の多くはビジネス客だった。窓側の座席で、下に広がる景色を見ていたら、すぐに水田や山が広がってきた。初夏の陽に水面が輝いていた。東北地方仙台付近の海岸線が確認できた。雪の中心に円い火山口の跡がある山がはっきりと見えた。岩手山あたりかもしれない。八戸から小川原湖の上空を飛んで海に出た。本州はどこも家屋が点在して人が住んでいた。少しうとうととしていて気がついたら、すでに北海道の夕張岳、芦別岳などの上空までさしかかっていて、雪山が綺麗に見えた。遠くには大雪山系も望めた。
 

定刻の午前910分に旭川空港に着いた。旭川市内行きのバスに乗った。広い大地に遠くに雪を戴いた山々が連なり、北海道に来たことを実感した。

旭川駅で他の乗客全てが降りて、一人だけになってしまった。市内観光のつもりで乗っていると大きなロータリーがあって、中は花壇になっていて、黄や赤の花がいっぱいに咲いていた。そこを右折して旭川市役所前が終点だった。旭川市役所の広場にも花がいっぱいだった。桜も見ごろを迎えていた。町中に遊歩道の通りが整備されていて、常盤公園まで歩いた。途中、3年前まで東京にいたという中年の男性が案内してくれたが、京急線の羽田行きの特急が蒲田駅に止まらないことが問題になっていると教えてくれた。旭川は薩摩人が開拓したとも話してくれた。また旭川市はアメリカのノーマル市やロシアのユジノサハリンスク市と姉妹都市、友好都市となっていて、それを記念するモニュメントが置かれて、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。常盤公園のチューリップの多くはまだ蕾だった。正面入り口には永山武四郎の銅像が建っていた。おそらく旭川の開拓者であろう。駅までは買物公園通りという広い遊歩道を歩いた。両側には小さな店から大きな百貨店までが並んでいた。買物公園通りが終わるとそこは駅前だった。

 

旭川駅を午前1115分発の快速なよろ1号で名寄に向かった。1両編成の車内はすでに空のボックスはなかった。買い物帰りの女性に同席させてもらった。その客も士別で降りた。それでも名寄までの駅周辺は住宅も多く開けていた。

名寄で1240分発の稚内行きの各駅停車に乗り換えた。前のなよろ1号が3分ほど遅れて到着したのですぐに出発した。1両編成のディーゼルカーで乗客は4人だけだった。音威子府からは私一人だけになった。まさにJRの専用列車だ。若い運転手と話すとこの時間帯は生徒や病院に通う人が乗ることもあるが、乗客がいないこともあるという。夏は青春18きっぷを使った学生で賑わうという。もちろん時刻表に乗っているので、乗客がいなくても運転をやめるわけにはいかない。

名寄から先は天塩川に沿って走った。天塩川は雪解け水をたたえて、ゆったりと流れていた。川面にさざ波がそこここに立っていて、流れを感じさせた。単線の線路のそばにはクマザサが生えていて、その先に白樺林やエゾ松の林が続いて、その先に川が流れている。時々線路わきに湿地が現われて、ミズバショウの群落や黄色のスイセンが咲いていた。この白と黄のコントラストは目を楽しませた。川の両岸に植えられた木々は新緑に輝き、その先には草原が広がっていた。干し草を刈った白や黒のビニールの塊りが丁寧に並べられている。暖かくなってきたので、牛を放牧しているところも出てきた。

幌延では34分間の停車だった。駅前の雑貨屋に訊くと近くにAマートがあると教えてくれた。JA女性部お勧め品「北の麦っこあんパン」という名前に惹かれて買って食べたら、ごく普通のあんパンだった。女性店員が「こっちは寒いでしょ?」という。実際冬服で来て、旭川までは暑かったが、ここでは寒いくらいになっていた。少し雨も降っていた。

幌延を午後349分に出発した。乗客は他に一人いた。豊富からは9人もの乗客があってびっくりした。利尻富士が車窓から見えるポイントもあったが、あいにく見えなかった。それでも日本海が望めた。南稚内で他の乗客がすべて降りてまた一人になってしまった。稚内駅に着いたのは午後459分だった。旭川から5時間44分の旅だった。

終着駅は閑散としていた。工事をしているのか駅前も狭かった。駅を出て近くにトヨタレンタカーの店があったので、あすの予約の確認をしてからすぐ近くの国民宿舎氷雪荘に着いた。支配人が丁寧に見所などを教えてくれた。

夕食の前に防波堤ドームを歩いた。北海道遺産になっているという。稚内は終戦までは樺太航路で賑わっていた。港で釣りをしている人に話しかけると釣れたイサキやカレイを見せてくれた。中くらいのが4、5匹入っていた。夕食はカニ、ホタテ、三平汁など北の果ての食の豊かさを感じさせてくれた。

 
旭川市常盤公園 
旭川市常盤公園

天塩川沿いを走る宗谷本線 
天塩川沿いを走る宗谷本線
 北防波堤ドーム

北防波堤ドーム
     
ノシャップ岬から見た利尻富士

ノシャップ岬から見た利尻富士

宗谷岬の丘陵に建つ旧海軍望楼 
宗谷岬の丘陵に建つ旧海軍望楼

オホーツク海道から見た知床の山々

オホーツク海道から見た知床の山々

平成22518 火曜日 晴
気分爽快に起きると5時を少し過ぎていた。朝の散歩に出た。真直ぐ稚内公園に行った。北門神社の脇から登った。氷雪の門、9人の乙女の碑、南極観測樺太犬訓練記念碑など見ものも多かった。サハリンの方を見渡したが、それが島影とは確認できなかった。散歩の中高年の方に尋ねると今日は見えないと言っていた。

7時過ぎから朝食を戴いたが、一緒は若者4人だけだった。8時過ぎに氷雪荘を出て、近くのトヨタレンタカーで黒のヴィッツを借りた。まずノシャップ岬に行った。漁港を通り過ぎて、着くと利尻富士が海上に浮いていた。美しかった。

引き返して、稚内市内を離れて、まず宗谷岬を目指した。宗谷湾に沿って、点在する漁港の先に宗谷岬があった。日本最北端の地で、サイクリングの若者にシャッターを押してもらった。苫小牧から先は寒いので半分ほどは宿に泊まって来たという。丘陵の上に登ると海峡監視用として明治に造られた旧海軍望楼や1983年に大韓航空機撃墜事件後に平和を願って建てられた祈りの塔、平和の鐘などのモニュメントが多くあった。

宗谷岬を後にして、一路、能取湖を目指した。いくつかの町中を除いては信号はなかった。高速道路ではないが、かなりのスピードで走れた。時々海辺のパーキングを見つけると立ち寄った。猿払公園にはパークゴルフ場があった。側で草むしりをしていた人に、日露友好記念館について尋ねると建物が老朽化しているので、閉まっていると教えてくれた。道は時々海岸を逸れて、アップダウンが続く丘陵地帯を行った。クッチャロ湖まで行くと、水鳥がのんびりと浮いていた。周囲は保護の網がめぐらされていた。

神威岬に迂回すると警察と消防が何やら集まっていた。訊くと昨日二人のダイバーのうちの一人が上がって来なかったという。

カムイ岬公園にも立ち寄った。オホーツク海が広がっていた。

道の駅マリーンアイランド岡島で海鮮唐揚げ丼の昼食を摂った。

さすがに一般道を300q以上走るのは走りでがある。

日出岬、沙留岬などに立ち寄って、紋別に入った。紋別には空港もあって、この辺りではかなり大きな市だった。

初めての土地で旅の前に想像することとの乖離がまた楽しい。このオホーツク海道はかなり明るく、豊かさを感じられた。季節にもよるが、少なくとも新緑の今は寂れた感じは全くなく、人々は明るく、親切だった。

網走は右折、直進はサロマ湖の標識に迷わず直進した。サロマ湖畔に出ると左折して湖に沿って砂洲を進んだ。海側は松の防風林が続き、湖側は漁港が点在していた。竜宮台で行き止まりになった。ここで昭和61年に豊かな海づくり大会が催され、皇太子同妃両殿下が来られ、美智子妃殿下が翌年の歌会始に詠まれた歌が碑に刻まれていた。引き返して、再びサロマ湖に沿って進み、遺跡で有名な常呂を過ぎると能取湖に出た。湖に沿って進み、卯原内川の手前を左折するとかがり屋だった。

午後6時少し前になっていた。宿の支配人がここでも温かく迎えてくれた。風呂からは湖が見渡せた。9月にはサンゴソウが一面赤く染まるという。夕食はカニ、刺身、てんぷら、しゃぶしゃぶなど豪華だった。風呂の後の生ビールの一杯がうまかった。

 

  

平成22519 水曜日 晴

6時過ぎに目が覚めた。6時半過ぎからかがり屋の前のサンゴソウの群生地を散策した。まだ今年の芽は出ていなかった。たくさんの水鳥がいた。昭和60年に皇太子御夫妻が来られたという。また吉田弘作詞のサンゴソウの歌碑が建っていた。午前7時から朝食を摂ってから、午前751分に車で宿を出発した。まず能取岬に向かった。湖畔の近くの林の中の道が続いていた。坂を上って牧場を過ぎると能取岬がパッと開けた。灯台も見えた。一本の道が下って海に落ちる直前で右折している。その先が灯台である。道の右側は新緑の草原で、左側はダケカンバに覆われていた。先端を取り巻くように三方に海が広がり、紺青から遠くに行くにしたがって薄く水色となり、水平線に続いていた。灯台に向かって歩いて行くと海を隔てて知床の雪山が聳えていた。なんという神々しさか、思わず息を呑む。

能取岬を後にして、網走刑務所に寄った。鏡橋を渡ると煉瓦塀が続き、その先に正門があった。正門脇の哨舎では生活の一部を展示で見ることができた。正門前には受刑者の作品を売る店があり、中にも受刑者の1日が紹介されていた。鏡橋の脇に石碑があって、当時の刑務所長の言葉が彫られていた。更生してここから出て行った多くの人々を暖かく送る内容だった。

網走から一路、知床を目指した。斜里町を過ぎるころから正面の雪山に向かって真っすぐな道路が吸い込まれるようだ。雪山は次第に大きさ、高さを増していく。道の両側は牧場が点在していた。山に突き当たる直前で道は左折した。そこから半島の北側を先端に向かって伸びていた。畑の畝の先にカラマツの綺麗な並木があり、その先に山々が鎮座していた。ウトロの町を過ぎると半島の奥に入った。キタキツネが道路の隅でこちらを見ている。半島では動植物が特別に保護されている。知床五湖に着いて木組みの遊歩道を歩いた。先端は一湖のすぐ側で、湖に逆さに映る雪山も素晴らしかった。湖に足を踏み入れてシカが草を食んでいた。

知床五湖を出て、途中を左折して、知床峠を目指した。道は左右に曲がりながら高度を上げていった。知床峠で反対側の展望が開け、国後島の姿がはっきりと見てとれた。初めて見る北方領土だ。やはり近い。知床峠から下る途中でも北方領土はよく見えた。下り切ったところが羅臼で、漁業が盛んだ。

ここから摩周湖を目指した。標津、中標津、弟子屈をひたすら走った。登って行くと摩周湖は突然現れた。山々に囲まれた急斜面の下、低くに水面があり、人を寄せ付けない気高さがあった。中に小さな島があり、山の頂上だという。澄んだ青い湖面が印象的だ。第一展望台の後、第三展望台にも寄った。さらに湖面は低くなっていた。

ここから下って屈斜路湖に出た。岸辺に出ると広い湖面がゆったりとしていた。林の間を抜けて、弟子屈を再び通って、阿寒湖に行った。さすがに観光客で賑わっていた。遊覧船が雄阿寒岳の方に進んでいた。

いよいよ女満別空港を目指す。最終目的地である。津別などの町を過ぎた。営業中の食堂らしきものも見つからなかった。午後7時前にトヨタレンタカーに到着して車を返すと、昨日が353km、今日が434km、合計で787km走っていた。旭川から稚内の鉄道の259qを総計すると1046kmにもなっていた。

芭蕉を始め昔からたくさんの人々が旅に出た。それぞれに目的があり、旅から得るものもさまざまだ。今度の旅を通じて思うのは、人々はその土地の人々の暮らしを知って、自分の暮らしと比較し、自分の生き方を顧みるのではないか。それは見知らぬ土地と人々との巡り逢いであり、見聞を広め、人生を豊かなものにしている。非日常が次の日常に新たな見方、考え方をもたらす。それは見知らぬ土地からの贈り物である。

2010年5月21日

能取岬 
能取岬

知床五湖

知床五湖

第三展望台からの摩周湖

第三展望台からの摩周湖

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