フォト紀行U

美幌峠、根室、釧路、塘路、襟裳岬、室蘭、洞爺湖、大沼、恵山岬の旅

 

地図でしか見たこともない土地も実際に行ってみると親しみが湧いてくる。感覚的に理解できる気がする。本にさっと目を通すのに似ている。一度だけしかも通り過ぎるだけでは何もわからないと地元の人は思うだろう。それでも通ると通らないとでは大きな差だ。旅の話になった時に行ったことがある所では何らかのコメントのしようもあろうが、ないとただ聞くしかない。感覚の問題である。親しみの問題である。その分蔵書が増える。まだ目を通した所までは行かないかもしれない。単なる積読かも知れない。それでも蔵書の一部だ。

実はガイドの茅野さんに訊いたことを気にしている。塘路の昭和30年代はどうだったですかと訊いた。それは木炭を作って、日本全国に出荷するのにとても賑やかで、映画館やパチンコ屋まであったという。続いて御先祖はどちらからと訊いた。ずっとここではないですかとの答えにアイヌのことが気になってしまった。訊かなければよかった。

また茅野さんの話によると、とうろの宿のオーナーはかつては有名なロックミュージシャンで日本武道館ライブをやったこともあるという。埼玉県上尾市の出身で、奥様は広島市の出身だという。大きなキャンピングカーもあり、それで広島まで帰ることを考えているという。土地に縛られない生活も魅力だ。

 

平成2264 金曜日 曇時々雨

羽田空港を午前755分発女満別空港行きJAL1183便に搭乗した。水平飛行は上空11千メートルを飛んだ。東北地方に差し掛かった時、海に突き出た半島を見つけて、機内誌の航空路線図で確認すると牡鹿半島だった。地図の形とほとんど同じに見えた。女満別空港の上空からは家を中心に牧場と畑のまとまりが、ほとんど同じほどの広がりをもって、きれいに区画されていた。それらを繋ぐように道路が真直ぐに走っているが、人影らしいものは全くと言ってよいほどなかった。空港を出て、トヨタレンタカーの店まで歩いて800メートルほどだった。その途中で突然雨が落ちてきた。折り畳み傘を急いで広げた。用意されていたのは黒いヴィッツの4WDだった。4WDには乗ったことがないので、2WDに変えてくれないかと尋ねると北海道ではほとんどが4WDで変える車はないという。運転感覚は変わらないというので4WDを運転することになった。確かにほとんど変わりはないが、何となく重いような感じがした。後でわかるのだが、濡れた路面や急カーブでは4WDの安心感があった。しかし燃費は悪かった。

女満別空港を出て、まず美幌峠を目指した。峠近くになると急にガスってきた。標高490メートルほどだが、ダケカンバに覆われたなだらかな丘が続いていた。峠のパーキングではガスがすごかったので早々と先を急いだ。ほとんど諦めていたが、峠の反対側に出たときに風景は一変した。屈斜路湖が浮かび上がっていた。湖の真ん中に中島が見え、その湖面には雲のわずかな切れ目から陽の光が差し込んでいた。その反射が湖面にまだら模様を広げて、幻想的な光景を作りだしていた。美幌峠は期待を裏切らなかった。美幌峠という名称は憧れを抱かせるに十分の響きを持っているが、ここを通り過ぎるのは観光客ばかりではなく、大型のトレーラーやトラックが満載の物資を積んで北見と釧路の間を行き交っていた。生活と産業の動脈である。

屈斜路湖畔に沿って、白樺の林が続いていた。今は新緑が一斉に芽吹き、日に日に濃くなっていくようだ。ここから弟子屈を通り、中標津に出た。大型のショッピングセンターができていて、買い物客の車が集まっていた。ここを過ぎてしばらく行くと道はオホーツク海に突き当たる。そこを右折して海に沿って進むと野付半島の入り口がある。迷わず野付半島の竜神崎を目指す。この砂洲をどこまでも走った。ナラワラ、トドワラなどを過ぎて行くと野付ア灯台が見えてきた。しかしその大分手前で一般車は立ち入り禁止になっていた。近くに漁船が上がって、網が干してあった。引き返して自然観察センターに寄った。この日はあいにく国後島は見えなかった。トドマツの森だった所に紀元前3千年頃に海が入ってきて、湖に姿を変えたという。自然生物の種類も多い。この辺りで驚いたのは、湖や道路から湯気が上っているのである。これが霧の原因なのか、この辺りから室蘭の近くまでは霧が多かった。根室でも道路から湯気が上がっていたが、ひどい時は視界が100メートルほどだった。野付半島への道路を引き返して、再び野付国道を南に向かった。途中別海町に「四島への道 叫び」という像があって、男女と子供が北方領土の方に向かって叫んでいた。ここの資料館にも立ち寄った。オランダせんべいという根室名物を売っていたので食べてみた。少し甘いたい焼きの皮のような味がした。

野付国道は風蓮湖の西側を通って、厚床駅前で突き当たる。ここを左折すると根室半島は近い。道の両側に北方領土返還のスローガンが目立ってくる。海沿いの北側の道を根室市街地に向かう。根室市はこの半島で唯一大きな町で、漁業で栄えて来た。市街地を過ぎるとなだらかな丘が海まで続いていた。その先端まで行くと納沙布岬で、古い灯台があった。灯台のすぐ下の岩場には難破した小さな舟が二つに折れた錆びた船体を晒していた。ここが日本本土の最東端だ。車では意外に容易かったが、江戸時代末期から明治初期にかけてはいろいろな人が冒険の旅で苦労して根室まで来たという。高田屋嘉兵衛やラスクマンたちだ。いつの時代でも人はそこに地続きがある限り、先へ先へと進むのだ。その先端が岬である。このような好奇心が文明の進歩を支えてきたのだと思う。

帰りは半島の南を通って、歯舞などの小さな集落を過ぎ、花咲港に寄った。ロシア語の看板が目立つ所にあった。

ここから塘路までは厚岸を通り、尾幌を過ぎて右折し、上尾幌駅近くで根室本線の踏切を渡り、その後は森の新緑の中を進んだ。道が下る頃塘路湖が右手の林間に見えてきた。少し行くとかわいい駅舎の塘路駅があった。とうろの宿は郵便局の角を曲がって山道を少し登ったところにあった。宿のオーナー夫妻が暖かく迎えてくれた。ロッジ風の部屋に案内され、夕食はリビングで奥様手作りの家庭料理をいただいた。今夜の客は他に男性が一人だけだった。風呂も家庭にあるのを二回りほど大きくしたものだった。リビングには主人の趣味のCDやおもちゃがいっぱいだった。

 

美幌峠から見た屈斜路湖

美幌峠から見た屈斜路湖


野付半島ナラワラ

野付半島ナラワラ

納沙布岬灯台

納沙布岬灯台

塘路駅

塘路駅


釧路川でのカヌー

細岡展望台から望む釧路湿原

細岡展望台から望む釧路湿原

幣舞橋(むさまいばし)

幣舞橋(むさまいばし)
 

平成2265 土曜日 曇時々晴

6時からガイドの茅野さんの案内でサルボ展望台まで歩いた。札幌から来た若い男性とその飼い犬のトイプードルが一緒だった。道端の植物や樹木の説明を聴きながら、塘路駅の駅舎まで来た。ここは「小鹿物語」や「森と湖の物語」などの映画の舞台になった所だ。白樺の並木道を歩いて行くと映画のセットとして使ったかわいらしい家があり、撮影が終わった時に地主に譲られて今も住んでいるという。釧網本線の単線に沿って歩いた。川に架かる鉄橋の歩道橋を渡った。幹線道路と線路の間を進んだ。ディーゼルカーが1両で過ぎて行った。サルバ展望台の入り口からは木の階段が付いていて、大分昇った。途中にはシカに樹皮を食べられた木が枯れていた。今年食べられた木は今は新緑だが、そのうちに弱って枯れてしまうという。シカも冬は木の皮を食べて生き延びている。展望台からは東は山、南は塘路湖、西は線路を隔てて湿原が広がっていた。もと来た道を帰ると8時を過ぎていた。朝食も自然酵母の手作りパンが用意されていた。ソーセージ、卵焼き、地元の山菜とみそ汁もおいしかった。

9時前にとうろの宿を出た。釧路方面に向かいしばらく行くと釧路川がすぐ側を流れ、3人乗りのカヌーが漕ぎ出していた。釧路川は蛇行しながらゆっくりと流れていた。そこからしばらく昇った所に細岡展望台があった。湿原の広い範囲が見渡せた。一面に人家はなく、釧路川の蛇行のずっと向こうに岬がいくつか見えた。湿原が海だったころの名残で、小高い丘が突き出た先端は岬と呼ばれている。細岡展望台を後にして砂利道の山道を行った。ここでも4WDは有り難かった。釧路市では幣舞橋(むさまいばし)の近くに車を止めて橋を渡った。幸い天気も晴れて、セイコーの花時計が綺麗に輝いていた。橋の両側に四季の彫刻があり、4人の女性像がそれぞれ天に向かって立っていた。テレビでもよく映る橋だが、テレビではたいていモノトーンの薄暗い北国を感じさせるときが多いが、今日は川沿いに広がるフィッシャーマンズワーフやビルを含めて原色の美しさに近かった。釧路駅に続く北大通りなど道路も広く綺麗な街だった。

釧路を出て一路襟裳岬を目指した。白糠町でしらぬか恋問という道の駅に寄った。北太平洋が広がっていた。快適に浦幌町、大樹町などを過ぎた。ナウマン国道と言って、一部は高速道路のように整備されていた。広尾町市街を抜けてフンベの港辺りから状況は一変した。黄金道路と言われ、日高山脈が迫り、開鑿には相当の苦労があったことが偲ばれる。今は覆道とトンネルで整備されているが、所々で工事は続けられている。

襟裳岬に近づくと急に霧が濃くなった。到着して岬の先端から下を見下ろしても崖下に波しぶきが白く見えるだけだった。灯台の説明板によるとこの辺りでは暖流と寒流がぶつかってよく霧が発生するのだという。埼玉県毛呂山町から車で青森まで来て、フェリーで北海道に渡り、ほぼ一周したという男性と一緒になった。崖の上の食堂でえりもラーメンを食べた。つぶ貝と海草が豊富に入っていた。襟裳岬から新冠までは2時間足らずだった。様似から先は鉄道が来ていて、浦河、静内と続き、新冠はすぐだった。襟裳岬の東側は町もそんなになかったが、西側に来て人家も多くなった。様似から西はほとんど途切れることなく家が続いていた。鉄道が先か町ができたのが先かはよく分からないが、岬の東側が浦幌までしか鉄道がないのと対照的だった。浦河からはサラブレッドのオブジェがやたら目立つようになる。浦河の市街は道路も広く両側におしゃれな新しい店が並んでいた。軽井沢のような趣きだった。これもサラブレッドのお蔭なのだろう。新冠レコードの湯ホテルヒルズは丘を登ったところにできた新しい公共の温泉施設に併設されていた。露天風呂もあり、すぐ前は牧場だった。風呂から上がるとちょうど向こうの丘に夕日が沈むのが見えた。夕食はヴァンヴェールというレストランでフランス料理風の和食だった。白ワインが似合った。

 
 

平成2266 日曜日 曇後晴

6時過ぎからレコードの湯に入った。今日は洋風の風呂だった。露天風呂に入ると外が寒いくらいの霧の中で、気持がよかった。7時からのバイキングの朝食では真っ先に牛乳とアップルジュースを飲んだ。風呂上がりでとてもおいしかった。デザートとコーヒー、紅茶も飲めた。

午前8時過ぎに出発した。新冠から先もサラブレッドの牧場が続いていた。高速道路が日高まで来ているので、ほとんどの車が高速入口に入った。急に交通量が少なくなった。苫小牧が近付くと石油備蓄基地や工業団地が現われた。通りも広くなり、片側3車線も4車線もあった。苫小牧を過ぎるとまた漁村が続いた。室蘭は日本製紙や日本製鋼所などの大きな工場があった。町中から逸れて地球岬に向かった。元は「親である断崖」を意味するポロ・チケップがチケウエからチキウと転化して地球岬になったと説明板にあった。崖の上に灯台と鐘があり、鳴らしてみた。帰りに少し下った所にあるトッカリショに寄った。岩がいくつも切り立った絶景で、オーストラリアで見たスリーシスターズにも劣らねいほどだった。この知名度の差はPRの差なのか。室蘭港に架かる白鳥大橋を渡った。これも東京港のレインボーブリッジよりも大きいように思えた。室蘭を出て有珠山と昭和新山を見ながら進んだ。裾野を行くと有珠山の東に尖って見えるのが昭和新山だ。峠まで登り、少し下った所に昭和新山の駐車場があった。すぐ目の前が昭和新山で、今でも煙が上がっていた。昭和19年から20年にかけて畑だった所に突如できたという。473メートルもあり、自然が生きていることを実感した。駐車場から下ると洞爺湖畔に着いた。中島を囲むように湖が静かに水を湛え、その周りには新緑の山があった。後方に雪を残した羊蹄山が見えた。左を見ると山の平らな頂きに2年前にサミットが行われたウィンザーホテルがあった。火山遺構公園には昭和52年の火山活動で倒壊した病院がそのまま残されていた。

洞爺湖を出て大沼を目指した。海沿いの平坦な道が続いた。長万部を過ぎて、道の駅YOU・遊・もりでホタテとイクラとウニの三色丼を食べた。やっと北海道らしい食材にありついた。ここの展望台からは駒ケ岳が綺麗に全貌を見せていた。大沼と小沼もすぐだった。その両方の沼が合わさる所はわずか10メートルほどの狭さで繋がっていて、鉄道と道路の橋が架かっていた。静かな沼で水鳥がゆっくりと羽を休めていた。残すは恵山岬だ。再び内浦湾に出て海沿いの道を走った。漁村が点在し、山側はなだらかな山がいくつも続いていた。湾曲した内側は良い漁港なのだろう。恵山岬は国道から入って、しばらく細い道を登った所にあった。灯台の先に海原が続いていた。ここから函館空港までは津軽海峡に沿って走った。だんだん函館山が迫って来る頃、最終目的地の函館空港に着いた。

トッカリショ 
トッカリショ

洞爺湖畔から羊蹄山を望む

洞爺湖畔から羊蹄山を望む

駒ケ岳遠望

駒ケ岳遠望
 

稚内から北海道の東と南の海岸線に沿って、函館まで来た。北海道の海岸線の3分の2ほどを走った。一通り北海道を通読した。精読するには住んでみなければわからない。とうろの宿の御夫妻はそうした。茅野さんは根っからの道人で塘路の歴史を体験してきた。北海道には方言がない。東京から行っても何の違和感もない。とても身近だ。いわゆる北海道らしさを味わえたのは稚内から様似までと言ってよい。様似から西、室蘭辺りまではサラブレッドを通じて本州と密接に繋がっている。また恵山岬の辺りはこの季節は房総半島を彷彿とさせる。茅野さんが話していたことが印象に残る。冬の寒さはマイナス20度、30度にもなるが、慣れてしまえば何のことはない。夏は涼しくて過ごしやすい。確かに東京と比べても年間を通すと住みやすい日が多いのかもしれない。それにどこかヨーロッパの田舎の風景に似ている。

平成22年6月8日

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