第三十番 霊桐山 東漸寺(臨済宗建長寺派)〜案内図はこちら

(磯子区杉田1−9−1)



    とうぜんじ だいひのひかり かげたれて
              みなみのかみも ほかならぬかな
 
 第二十九番札所泉蔵院の故地、熊野神社の鳥居を出て、突き当りを左折、
直進後、右折し京急線のガード下を通り杉田小学校を囲む道路にしたがっ
て右回りに進み左折して小道に入り、東漸寺の裏手出入口から境内へ。

 新編武蔵風土記稿の杉田村の条には 

  東漸寺 
   境内、除地、三丁に二丁、小名門前にあり、禅宗臨濟派、関東十刹
   の一なり、霊桐山と號す、惣門を入こと凡十八九間にして、中門を
   立、霊桐山の額を掲ぐ、落款に見園覚峻衡碩書とあり、又五六間に
   して池あり、小橋を架す、又二三十間にして本堂に至る、中門の内
  左右に塔頭ならべり、下に出す、相傳ふ正安三年北条備前守宗長開
  基壇越として、開山宏覚禅師をして當寺を創建せしむと、・・・・
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   觀音堂
     二間四方、中門の内池の傍にあり、十一面觀音なり、立身長四尺
     餘・・・・、
   塔頭 真楽院
     本堂に向て右にあり、六間に四間、本尊正観音を安置す、妙覚禅
     師の起立と云、妙覚は元和四年十一月十八日寂す、
   多i@
     堂に向て左にあり、四間に三間、子安観音を本尊とす、象先文岑
     和尚の草創なり、文岑は康永元年十月八日寂す、  
 とあります。

 かってこの辺りは砂浜の美しい海岸が続き、山々には蒼い樹木が繁る
風光明媚なところで、 東漸寺十境と呼ばれる景勝地でした。
 当時、寺は東に海を臨んで建ち、盛時には境内三千坪、釈迦堂、法堂、
方丈、開山堂、経堂、鐘楼、山門の七堂伽藍を整え、塔頭七院、末寺六
寺を有した大寺で室町時代には五山に次ぐ寺挌である関東十刹七寺の名
刹でした。

琵琶池(東漸寺境内)
東漸寺十鐘の一つで風土記稿には「池濶凡二百坪」
とあり現在よりずっと広かったものと考えられます

十一面観音立像(東漸寺蔵)



 東漸寺の開創は釈迦堂の梁牌銘から正安三年(1301)とされま
す。
 開山宏覚禅師桃渓徳悟(1240〜1306)、開基北条宗長(13
02没)とされます。桃渓徳悟は建長寺を開いた大覚禅師蘭渓道隆の
高弟で、鎌倉時代後期を代表する禅僧であり、北条宗長は貞長とも号
し、父は長頼、北条時政から数えて六代目にあたり、名越北条の
一族として富岡に住んでいました。

 観音堂は明治十一年(1878)の杉田の大火で焼失してしまいま
したが、観音像は救い出されました。現在釈迦堂に安置されている十
一面観音は観音堂の観音で、札所三十番の観音様でした。
 横浜市史の 東漸寺の項には
  “東漸寺は霊桐山と號し・・・・・金澤觀音霊場の第三十番の札所
    である”
  と記され、昭和六年(1931)発行の「金沢三十四カ霊所」には
第丗番東漸寺の札所観音として十一面観世音が記載されています。


 東漸寺の創建について

 風土記稿や釈迦堂の梁牌銘からは東漸寺の開創は正安三年(130
1)とされますが、横浜市史稿には“寺傳に據れば、往昔の當寺は真
言宗の蜜場であったとも云われ…”とあり、寺には胎蔵曼荼羅の中台
八葉院を種子で表している古版木が一枚伝わっています。
 また永仁の鐘として有名な梵鐘は永仁六年(1298)に造られて
おり、鐘の鐘銘に僧宗鑑が禅刹に改めたとあるので鐘が造られる前に
は真言宗の寺院として存在していたと思われます。
 延宝伝灯録には宗艦が弘安四年(1281)に東漸寺に住んだことが
かかれており、また正安三年より20年前の弘安九年(1286)京
都建仁寺十八世の明窓宗鑑が東漸寺に住したという記事が禅宗史によ
り建仁寺文書にあることがわかり、東漸寺の創建は正安三年を相当さ
かのぼると考えられています。
 
東漸寺釈迦堂(磯子区杉田)
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