第二十五番 金剛山正福寺 (廃寺)〜案内図はこちら

(現在福聚山光明寺〈高野山真言宗〉港南区日野7−19−19 )

 
   たずねきて あふげばたかし こうめうじ
              じしょうのつきの かげのさやけき

   安永4年(1775)版金沢札所三十四か所一覧には二十五番
 札所は「吉原 万蔵寺」となっていますが、これは諸史料からも
  誤りで、もとの二十五番札所は正福寺であり、天保十五年(18
  44)に林定次郎が書写した際に誤って書いてしまった(吉原勉
  氏著 金沢三十四か所札所の観音を尋ねて)と考えられます。
   「吉原」万蔵寺はもとの二十四番札所でしたが、昭和のはじ
  め光明寺に合併され廃寺となりました。(その後万蔵寺は横須
  賀に秋葉山万蔵寺として再建されました。) 
 新編武蔵風土記稿の金井村の条には

  正n
   年貢地、是も吉原村境にあり、禪宗曹洞派、町谷村傳心寺の末、金剛山
   と號す、金澤札所の内二十五番なり、本堂六間に四間半、本尊正観音長
   二尺五寸餘、行基の作と相傳ふ、鎌倉由井長者染屋太郎時忠の守本尊
   にて、引手の觀音と云、外に恵心の作なる薬師を安す、立像長一尺五寸、
   開山連恕寂年を傳へず、中興開山生蓮社得譽唯村、元文四年四月十二
   日示寂、按の浄家の法諡に似たり、…

  とあり正福寺が金沢二十五番札所であったことがわかります。
   正福寺は昭和のはじめころ、近隣の光明寺に合併されました。

   二十四番札所徳恩寺を出て右に進むと鎌倉街道につきあたるの
  で、右折して鎌倉街道を進み、野庭団地入口の信号を左折、日野
  橋を渡ってさらに進み、光明寺下の信号手前を左折、道なりに進
  むと、光明寺が見えてきます。

新編武蔵風土記稿の金井村の条には
 光明寺
   免除、三畝、吉原村の境にあり、古義真言宗、石川寶生寺の末、福壽山
   慈眼院と號す、本堂六間に五間半、本尊彌陀長二尺五寸の立像なり、寶
   徳二年の中興と而巳傳へ、其陀のことは更に傳へず、

   と記されています。(寶徳二年=1450)


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聖観音立像( 光明寺蔵)
右手は掌を裏にして垂下しています 通常の形とは逆に甲を表にするので引 手の観音と考えられています
 
金沢札所24番と25番 要約
旧 新 24番 泉流山満蔵寺 日野山徳恩寺 (光明寺に合併、廃寺後秋葉山 万蔵寺として再建) 25番 金剛山正福寺 福聚山光明寺 (光明寺に合併、廃寺)

  

 
    光明寺は永享2年(1430)高野山の高僧、阿闍梨慶秀が本
  尊阿弥陀如来を捧持(捧げ持つ)して、この地に来て一宇を建立
  して密教を広める道場としたのがはじまりと伝えられています。
   光明寺は古くから檀家が少なく、徳恩寺その他の近隣の寺院が兼
  務した時期が多かったようです。
   天明年間(1781〜89)に本堂を、嘉永3年(1850)に
 庫裏を再建していますが、当時は村の鎮守諏訪明神、山王社(両
 社とも今はありません)の別当を兼ねていました。 
   しかしその後荒廃し、明治の中頃からは更に衰退しましたが、大
 正9年(1920)田中建夫が住持となって、入山するとお堂の修
 復に力をそそぎ、寺の隆盛に努力し、金沢二十五番札所の曹洞宗金
 剛山正福寺と明治初年火災にあって廃寺同様になっていた曹洞宗泉
 山流満蔵寺を合併し、新たに金沢二十五番札所となりました。

   昭和6年刊行の『横浜市史』の光明寺の項には次のように記載さ
  れています。
  「当寺は古来寶生寺に隸し、その後増徳院に属し、大正十二年、改
    めて高野山金剛峯寺の直末となった。近年村内の曹洞宗正福寺及
    び満蔵寺を合併したので時運も次第に開くることゝなった。
         宝物 正観世音木立像 一躯 金澤札所第二十五番の本尊」
    光明寺には現在も正福寺、満蔵寺からの多くの客仏が並べて安置
   されています。
光明寺