第六番 擲筆山 能見堂(廃寺) 〜案内図はこちら

(現在 知足山 龍華寺 金沢区洲崎9−31)


    めぐりきて ねがいをここに みちしほの
              かへおきわする ふですてのやま

 京浜急行金沢文庫西口を出て、六国峠ハイキングコースを辿ると20分
程で、能見堂跡に着きます。
 跡地には「金沢八景根元地 能見堂」と刻まれた石碑が立っています。
 江戸名所図会の〔能見堂〕によるとこの地には地蔵堂、客殿、庫裡など
が描かれており、当時の賑わいが偲ばれます。
 今はそれらもなく一面の草原となってますが、新編武蔵風土記稿(巻七
十六・久良岐郡之四 金澤領)によると

             “能見堂 正観音 二尺許の立像なり、金澤札所三十三ヶ所の一なり”

                     とあり、能見堂が札所であったことが分かります。
 
 能見堂は江戸時代、非常に繁栄しましたが明治維新以後、廃仏毀釈
などにより次第に衰え、明治2年の出火で建物は焼失していまいました

 風土記稿に記された正観音像については吉原勉氏の「金沢三十三か
所の観音を尋ねて」によると釜利谷の金蔵院住職の老母堂の話として、
金蔵院に安置されている長さ五〜六寸の聖観音像が昔能見堂にあっ
た像だと聞かされてきたと記載されていますが、現在はなく、よそに移
されたか、失われたものと考えられています。

 一方、洲崎町の龍華寺では平成十年、脱活乾漆造菩薩半跏踏み下
げ像が発見されましたが、台座の墨書名から龍華寺の塔頭であった
福寿院に本尊〔聖観音菩薩〕として伝来し、金沢巡礼の札所観音とし
て信仰されていたことがわかりました。この台座墨書名には三十三ヶ
所第六番福寿院本尊也と刻まれていることから能見堂が無くなった現
在の札所第六番は能見堂に代わって、福寿院を合併した龍華寺とさ
れるようになりました。


金沢八景根元地の石碑
能見堂址の一角には、江戸町人の寄進による金沢八景根元地と刻ま れた石碑が立っています

 巡礼歌に詠われている「ふですてのやま」は擲筆松伝説にもとづく
もので奈良時代、巨勢の金岡という絵師が旅の途中、山上から金沢
の風景を見て、潮が満ちた所を見てその景色に感動して描き始めま
したが、いつしか引き潮にかわり、跡は干潟となり、一層景観がす
ぐれたものとなり、刻々と変わる自然の美しさに圧倒され、描くこ
とはあきらめ、ついに松の根本に筆を捨てたと伝えられています。
 この松は枝振りのよい大木でしたが、大正7年の暴風で倒れ、根幹
だけになりました。第二次大戦中には松やにを採るために、この根
幹も掘り出され、今は跡かたもなくなりました。

 また金沢八景根元地とあるのは“八景は総て能見堂よりいづなり”
というように金沢八景はここから眺める八景を起源としたものです。

 能見堂の歴史は古く、平安時代に開かれたとも伝えられていますが
「梅花無尽蔵」には文明18年(1486年)には廃絶して無かっ
たとあります。
 その後、寛文2年(1662)から同9年の間、当時の領主久世大
和守広之が芝増上寺から地蔵院をここに移し堂宇を再興し、江戸時
代には非常に繁栄しました。元禄7年(1694)ころ明の僧心越
禅師がこの地を訪れ、能見堂から見た金沢の景色が故郷中国の瀟湘
八景によく似ていることから武州能見堂八景詩を読みました。
これが金沢八景の由来です。

 新編武蔵風土記稿(巻七十六 久良岐郡之四 金澤領)には

   “能見堂 除地 村北を通ずる街道の傍なる山上にあり、禅宗曹洞派、
    江戸千駄ヶ谷端園寺の末、擲筆山地蔵院と號す、本堂二間半四方
    南向 本尊地蔵、此地は往昔関白道長卿開基せられ由し之傳ふ”

 と記されています。


能見堂擲筆松 江戸名所図会(横浜市歴史博物館蔵)

19世紀前半の能見堂の様子を描いたもの
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