ながはまの まさごのかずは つきるとも
だいひのじげん かぎりあらじな
称名寺周辺の古地図には、赤門東側に「観音堂」と記されたお寺があり、
これが札所二番でした。今は小高い丘だけ残り、上は空地です。
お堂に祀られた聖観音像はもとは長浜にあった「長浜山慈眼院福聚海寺」
の仏様で、通称長浜観音と呼ばれており身代り観音の伝説が残っています。
身代り観音の伝説
称名寺に伝わる「長浜観世音縁起和讃」によると富岡と柴町の間
にある長浜は、その昔「長浜千軒」といわれ大変栄えた漁村でし
た。ところが応長元年(1311)大津波に襲われ村は大波にの
まれてしまいました。しかしそんな大波にもかかわらず、村人に
は一人の犠牲者も出なかったといわれます。村人たちは日ごろ篤
く信仰している福聚海寺の観音さのお姿が見えなくなったことか
ら“観音様が身代りになって下さったに違いない”と手を合わせ
ました。
その後37年を経た貞和3年(1347)柴村の漁師が海中に
光るものを見つけ、網を入れ引き上げてみるとお姿が見えなくな
っていた観音さまが出てきました。観音さまには長い間海中に沈
んでいたためカキ殻が付着、村人たちは「貝付観音」また「海中
出現の観音」とも呼び、お堂を建て手厚くお祀りしました。
|
新編武蔵風土記稿には、長浜観音がもと長浜山慈眼院福聚海寺にあり、
長浜にあったとことが記されています。
昭和10年、北條実人樹の六五〇忌を記念して大橋新太郎が寄進した
金沢山山頂」の八角堂に観音像は赤門脇の観音堂から移されましたが、
現在、聖観音像は称名寺本堂に安置されています。
 長浜観音
|
新編武蔵風土記稿 巻之七十五 久良岐郡之三 金澤領 観 音 堂
惣門の東に並べり、昔は長浜山慈眼院福聚海寺
と号せし由、今は当寺の境内に属し、堂のみとな
れり、これを長浜観音と唱ふ、其故は群内柴富岡
両村の境に長浜といへる地あり、民戸も千軒程に
て賑へる地なりしが、応長の頃高波の災に罹り、
かの民屋漁家悉く流失して其蹟は海となれり、其
頃まではそこにありし寺なりしと、斯る大災のおり
しも、此観音は万民の身に代て海中に沈しかは、
一人として溺死の者もなかりしと、この後三歳の
程夜は海中に光を放ち、又は鳴動などありしかは、
柴村の民怪しみ、其光をたよりて此観音を網し得
たりなとつたへり、
|
|
|
|
称名寺仁王門前の石碑群の中に札所二番の石碑が二基あります。小さい
方は赤門脇の丘に放置されていた石碑の上の部分にあたり、大きい方は
正面中央に「金沢札所第二番」左側面に「本尊海中出現正観世音」右側面
に「長浜山福聚海寺」台石に「三門前」、そして裏面には次のように刻ま
れています。
裏面 右 宝暦一二午年十月十八日建立
中 央 慈眼院堂守願主西岸蓮入近住
左 文久壬二年十月再建立
(注 宝暦12年=1762年 文久2年=1862年)
また仁王門近くの墓地内に次のような石碑があります
右側面 長浜観音前仏
正 面 西岸蓮入近住
左側面 再興之願主也
この二基の石碑から観音堂の再建願主は西岸蓮入近住(さいがんれんにゅう
きんじゅう) であったことがわかります
 称名寺仁王門前の石碑群 @は正面に「金沢札所第二番」と刻まれており
Aの正面には「金沢札」のみが見える
|
墓地内の石碑 正面には「西岸蓮入近住」が刻まれている |
次 へ
金沢三十四観音札所へ
トップページへ |