筆捨ての松と能見堂(釜利谷・能見堂址)
京急線金沢文庫駅から六国峠ハイキングコースを15分ほど上った右側 の小高い所に能見堂址がありますが、ここには江戸時代のはじめ頃から 能見堂とよばれる小さなお堂がありました。 当時、東海道の保土ヶ谷宿で、枝道の金沢道へ入り山道をたどって能見 堂に出た旅人が、突然眼下に開けた東京湾から房総の山々まで一望でき るこの景色に思わず息をのんだ様子が伝えられています。 平安時代の宮廷画家 巨勢金岡がこの景色を描こうとしたところ、潮の満 ち干によって千変万化する絶景に筆が進まず、ついに堂前にあった大きな 松の木の根元に筆を捨てたという伝説が残っています。 この松は戦時中に戦闘機の燃料油を採るために切り倒され、今は見るこ とができません。 江戸名所図会には次の様に記載されています。 擲筆松 |
ー能見堂址ー 寛文のころ(1661〜72)地頭久世大和守広之が、堂が荒廃していた ため、江戸増上寺から地蔵院をここに移して擲筆山地蔵院と称し、また 元禄のころ(1688〜1703)水戸祇園寺の開山、心越禅師がここか ら見た景色を故国の瀟湘八景にあてはめ能見堂八景詩を詠んだことがも ととなって、現在よばれている金沢八景が成立したといわれます。 その後は八景見物の観光客や旅人のために茶店などもできて賑わい、多 くの文人墨客がここを訪れ、広重をはじめ多くの浮世絵師たちの絵図によ って能見堂からの景観が描かれました。 江戸名所図会はこの景観を次の様に記しています。 “この地に至りて金沢の勝景を望めば、画くが如く、南より西北に めぐりては皆山にして、東は滄溟(青海原)に連なり千里の風光窮り なく、沖行く船の真帆片帆は雲に入るかとあやしまる。瀬戸の神祠 (瀬戸神社社殿)は水に臨み、称名の仏閣は山に傍ひたり。 漁家民屋は樹間々々にみえかくれし、島嶼は波間々々にあらはる” (江戸名所図絵天璇の部 能見堂) |