小泉夜雨と弁財天社(釜利谷・手子神社)


 手子神社の社殿左側の石窟に「小泉山竹生嶋辨財天社」と刻まれた石柱
がある小泉弁財天社の中には「宇賀福神」という人面蛇体の祭神が祀られ
ています。
 金沢八景の一つ「小泉夜雨」には雨にけむる小泉弁財天社が描かれてい
ます。この情景は瀬戸の入海から見たものですが、この弁財天社はもとは
小泉住宅の奥の山ぎわに祀られていました。
 浅草の天龍山玉宗寺第四世安山喜禅が記した「武州金澤瀟湘夜雨弁財天之
縁起」によると金沢の奥まで入海が入っていたころ、入海の汀には琉球嶋
、水晶輪山と呼ばれる小さな岩山があり、そこに弁財天が祀られていまし
た。しかしお堂は荒れ果てていたといいます。
 この地を遊覧のため訪れた江戸浅草の木島又右衛門尉正尚は、琉球嶋を訪
れた後に見た不思議な夢を弁財天のお告げと理解し、小泉弁天庵の鷲山玄
峰和尚に弁天社再興の事を話し、村人の協力を得て弁天社を再興しました。
 弁天社は昭和15年、横須賀海軍工廠金沢支廠を建設のため、山の反対
側にある手子神社の境内に遷されました。
 
小泉弁天社の祭神 宇賀福神
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ー手子神社ー
 手子神社は、もと釜利谷の領主、伊丹佐京亮(北条氏康の家臣)が文明
5年(1472)9月瀬戸神社の御分霊をもらいうけ、釜利谷の総鎮守と
して祀ったのが起源です。
 その後明応年間(1492〜1500)から天正年間(1573〜91)に
かけてたびたび修復されてきましたが、伊丹氏の子孫、三河守政富の子、
当時江戸浅草寺の智楽院忠運僧正が延宝7年(1679)に現在地に再興
して以来、釜利谷一郷の氏子の間で年々の祭祀が続けられてきました。
 祭神は瀬戸神社と同じオオヤマツミの神で山を支配し、人々の生命の基
となる水源地を守り、岩石鉱物やそこに住む鳥獣にいたるまで、一切の生
活資源をお守りいただく国土神です。オオヤマツミの神はまた天孫ニニ
ギノミコトのお妃となった木花咲耶姫の御父神でもあり、皇室の外戚と
して神威顕著な大明神で古来「手子明神」と呼ばれています。
「テコ}とは古語で「幼児・娘」という意味があるので、瀬戸神社に対
する若宮とか姫として、本来オオヤマツの神とともにコナハナサクヤヒメ
の神も一緒に祀られていたものと考えられています。
 また手子神社は最初宮ヶ谷にあったので釜利谷町の宮ヶ谷・神名前など
の地名はそこから生まれたものといわれます。                                  
手子神社(釜利谷)