はるばるとたづねてのぼりきてみれば
てらすひかりは ひののむらまつ
新編武蔵風土記稿の宮下村の条には
金仙寺
除地、二畝、小名みのわ田にあり、村松山と號す、浄土宗、鎌倉光明寺の
末なりしが、今は鎌倉郡笠間村法安寺の預りとなれり、堂は三間半に三
間、本尊觀音坐像長一尺餘、爰も金澤札所にて第二十三番、土人は觀音
堂と稱し、却て寺號を唱えず、
と記載され、又安永4年(1775)版金沢札所三十四ヶ所一覧に
“二十三番 宮ノ下 かまくらかうめうし□”とあり(□は末と書かれ
ていたことが上記風土記より判明)、かって村松山金仙寺が金沢
札所二十三番だったことがわかります。
法安寺は栄区笠間町にある浄土宗の寺で、鎌倉三十三札所の
第十五番ですが、昭和6年編纂の『横浜市史稿』には安養寺が
金澤札所観音霊場第二十三番と記されており、又同じく昭和6年
版の『金沢三十四ヶ所霊所』にも第二十三番安養寺となっており、
昭和初期に安養寺が二十三番札所になっていることが分かりま
す。
村松山金仙寺が廃寺となり、法安寺の預かりとなったのち安養寺
が二十三番札所になったこれらの時期等については不明です。
安養寺については新編武蔵風土記稿の宮ヶ谷村の条に
安養寺
除地、八畝、小名中村にあり、古義眞言宗、石川寶生寺の末、東宮山
無量院と號す、本堂五間半に六間半南向、本尊阿彌陀長二尺程、傍
に地蔵を安す、立像一尺許、行基の作、當寺は舊き地にて、鎌倉治世
には大伽藍なりし由、大永元年祝融に罹り、堂舎はさらなり、舊記まで
悉く烏有となり、同き二年光順法印、力を盡して再興の事をなせしかば、
これを中興開山と仰げり、この僧は同年六月二十一日寂、
とあります。
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境内には弘法太師
入唐一千二百年と刻
まれた太師像が建立
されている
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安養寺は宮ノ下村の隣村の宮ヶ谷村にあり、高野山真言宗・石川
宝生寺(横浜市南区)の末でした。大永元年(1521)の火災
ですべて消失し、開山開基は不明ですが、近在では最も古い寺で、
鎌倉時代には大伽藍をもった大寺院であったと伝えられています。
その後大正12年の関東大震災で本堂は倒壊、庫裏は大破しまし
たが、復旧に務め、昭和53年には鉄筋コンクリート造りの立派
な本堂が完成し、無畏城と名づけられました。
ー観音像についてー
風土記稿には、元の二十三番札所金仙寺には本尊として坐像長一
尺餘の観音像が記されていますが、その後、昭和の始め金子隆英師
が巡礼したとき安養寺の十一面観音をお詣りしています。また同じ
く昭和六年編纂の『横浜市史稿』には安養寺の宝物として「十一面
観音像厨子入り一躯」が記載されており安養寺に祀られていたこと
は確かですが、吉原勉氏の『金沢三十四ヶ所札所の観音を尋ねて』
には入谷光宝住職が昭和10年に安養寺に入られたときにはすでに
観音像は失われていたとあり、観音像は昭和6年から9年にかけて
なくなったと考えらており現在では見ることができません。
安養寺(港南区港南台)
(JR根岸線港南台駅下車、駅前の大通りを右方向に進み、
安養寺前の信号を右折)
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