季節の栖〜Twenty Five Reasons〜
1999.9.20(月)千葉県東総文化会館
1.唐八景
2.風の篝火
3.案山子
4.木根川橋
5.道化師のソネット
6.無縁坂
7.檸檬
8.主人公
9.夜間飛行
10.本当は泣きたいのに
11.ふるさと(唱歌)
12.佐世保
13.遠い海
14.驛舎
15.桜散る
16.飛梅
17.修二会
18.ひき潮
EC1.聖夜
防人の詩
EC2.夢の夢
PIANO:倉田信雄 PERCUSSION:川瀬 正人 GUITAR:石川鷹彦
MARIMBA:宅間久善 BASS:岡沢 章
「季節の栖」ツアー初日感想(1999/9/20)
開場18:00 開演18:30 開演本ベル18:35 緞帳にタイトル「季節の栖」の文字が映し出されていました。
「唐八景」をオーバーチャーにコンサートが始まりました。まあなんて懐かしい歌!! 25周年記念のWORLDも「多情仏心」なんて、懐かしい曲で始まったし(「Dream」のときは「君のふるさと」でしたね。)最近、ほんとに懐かしい歌を歌ってくださって嬉しいわ。
「風の篝火」この曲はイントロが特徴的で、すぐにわかりますね。詩も1枚の絵を思い起こさせるようで、まさしさんてこういう女性のタイプが好きだったのかな?細い腕、はかない指先(風の篝火)とか、仔鹿のように(指定券)とか歌ってましたねぇ。
幕が上がって、ギターを抱えたニコニコ顔のまさしさん。とってもキレイな浅葱色のスーツ、シャツはスーツより濃い若葉色、フレッシュグリーンといえばいいかしら。ネクタイは黒のレジメンタル(それともチェックかな?) 靴の色はちょっと判らなかったけど、一瞬見えた色は薄いブラウン系(象牙色?)みたいに思えました。
「案山子」今回のツアーは、昔のアルバムをなぞっていくのかしら?WORLDがクレープ時代から「帰去来」「風見鶏」というソロになったばかりの曲だったから、今度は「私花集」「風見鶏」からピックアップしているのかな?
<MC>
「こんばんはー。さだまさしでございます。5年ぶりにご当地にお邪魔させていただきました。今年6月に
25周年記念コンサートをやりまして、毎年6月に行っているまさしんぐWORLDコンサートなんですが、25周年ということでいろんな所でコンサートをやってきました。東京から始まって、広島・・・松本・・・大阪・・・名古屋・・・福岡・・・仙台も行きましたね。普段行かないような所まで、行ってきました。お祝い事っていうのは、数えでやるのが普通なんですが、ほんとは去年忘れてたんです(笑)・・・自分でも25周年にこだわっているわけじゃなかったし、まあいいじゃないか。ささやかに祝おうよって・・・(笑)
今日が、新しいツアー「季節の栖」というツアーの初日なんですが、ほんとは3日めだったんです。どうして、3位だった旭が1位になったのか、じっくりあとで説明させていただきますが(笑) 初日というのは、緊張するんですねー。メンバーも。さださんもすっごく緊張してる(A^^;) 今日初めて皆さんにお見せする衣装・・・一昔前ならこの色は絶対に着なかった。「カマキリ」と言われてましたからね。タバコをやめて5キロ太りまして・・・カマキリから「殿様バッタ」になりました。(会場爆笑) 今日は6時半から始めさせていただいているんですが、僕は「洋行帰りで時差ボケ」なもんで(笑)、9時には眠くなるんで、今日は早めに終わります(笑)」
浅葱色、よく似合ってましたよ!>まさしさん。そうそう、5月にコンサートスケジュールが発表になったときは、三郷が16日で初日だったんですよねぇ。18日の千葉と三郷が10月に回されたのは何故?とすっと気になっていたんです。その理由がやっと明かされるわけですね(笑) 「洋行帰り」をわざと気どって言うところが可笑しかった(笑)
「1曲目は「唐八景」をオーバーチャーして、2曲目に「風の篝火」を歌いました。オープニングは何の曲にしようか、大事な曲だけにいつも迷うんです。ギターを弾く方なら、おわかりなるでしょう。(「風の篝火」のイントロを引きはじめる)このイントロ・・・冒険だったんですよ。シンプルにして簡潔(笑) ところがこれを、音をはずしたりすると(今度は、音をはずして弾く)これ(失敗)が怖い!ところが、1発目にやってしまいました(笑) 緊張しすぎてねぇ(笑) 「芸は身をたすく」と言いますが、「ミスは身をたすく」(笑) というわけで、これで緊張がいっきにほぐれましたね。」
まさしさん、イントロ失敗してたんですね。ぜんぜん気づかなかった(A^^;) 言わなきゃわからなかった??(笑) 今日はちょっと風邪ぎみっぽくないかしら?最後まで喉が続きますように。
「木根川橋」この歌、好き。いきなり台詞から始まるから、よくトチリもあったのよねぇ。ライナーノーツに書かれた「あの日の、あの子に贈ります」って、あの子(ちいちゃん?)今どうしておられるのかしら?羨ましいなぁ。この歌を歌うたびに、まさしさんの胸の中に甦ってくるんですもの。>ちいちゃん
「道化師のソネット」この歌も好きだな。「翔ベイカロスの翼」の時のまさしさん、ほんとの俳優さんみたいだった。泣いたわ。あの映画(A^^;) 石川さんがキーボードを弾いていました。
<MC>
(衣装をほめられたらしくて「え?これ?寝巻きよ!寝巻き!!(笑) ちょっと待って・・・(お約束のタオルパフオーマンスですが、この時点ですごい汗なんです。>まさしさん。)みんな、殿様バッタだと思っているでしょ。ほんとは(上着の裏地をパアッとめくって)玉虫なんだよ〜ん!(爆笑)(あまりに色鮮やかなサテンのブルーに、ビックリ。「わぁっ」という大歓声があがりました。これもネタのひとつ??(笑))木根川橋っていうのは、荒川にかかっていた木造の橋だったんですが、今はもうコンクリートの大きな橋になっちゃいまして・・・僕は中学生のとき、バイオリンの修業のために長崎から東京に出てきました。昭和40年でした。あのころ、長崎の金持ちは、東京じゃなくて上海に遊びに行くのが普通でした。長崎から東京まで1400キロ、上海までは1200キロだったんですよ。そういう時代に、僕は一人で東京にでてきたんです。僕は、子供の頃天才だったんです。誰も言わないから、自分で言うんですが(笑) 葛飾区の四ツ木というところに下宿していました。その頃の仲間とは、いまでも仲がいいんです。この歌に出てくる「のりちゃん」安西範康は、エニーというこのコンサートをプロモートしてくれる会社の代表なんですが、僕がさだ企画を作った当初から10年間一緒にさだ企画で頑張ってくれました。1965年ですから、18年になりますか!?(まさしさんのボケに、川瀬さんが音でつっこみます(笑))そのときの仲間、恩師とはいまでも仲がいいんです。中学生のころ、僕は今よりもずっと話が上手くてね、女の子にも人気があった。京都に修学旅行に行ったとき、クラスの女の子が、「佐田君、何か話してよ」なんていうから(笑)、怖い話をしてやろうと思って「お前ら、京都の通り魔って知ってんか?」「え?何?それ?」「知らねぇの?」「怖いの?」「怖くねぇよ。通りすぎて行くんだよ。人が」「なぁんだ」「窓の外をね、ス―ッと通りすぎて行く人がいるんだよ。旅館の3階の窓の外をね」「キャア〜、やめて〜」(笑) コーラの空き瓶に、みんなの浴衣の紐を結びつけて、下の階の女子の部屋の窓にたらして、窓ををコンコンなんてやってね(笑) 「コンコン」「キャアー」(笑) クラスメートの中に菅原ってヤツがいまして。こいつは、仕事柄、月1回福岡や九州の方に出張するらしいんですが、それが機械修理のために月1回行くらしいんですが(菅原さんの仕事はコンピューター関係らしいです)「おまえ、それって直してないんじゃないかぁ。毎月行ってるんだろ?」「そうかもなぁ」って(笑) その菅原が寝たら起きないヤツで。修学旅行の夜、みんなで悪巧みして(笑) ヤツのパジャマのズボンをそーっとまず膝まで下ろすんです。ここで慌てちゃいけない。慌ててパンツまで下ろしちゃいけない(笑) 急激な温度差は気づかれますから(笑) しばらくほおっておいて、外気温にならすわけです。その間トランプなんかやって。それからパンツを下ろす。ここでまた慌てちゃいけない。またしばらく温度にならしておいて(笑)「あ〜、こんなもんだなぁ」と肌が慣れるまで、またそのままにしてトランプなんかして待つ。そしてここで人肌にあたためておいたマーキュロ。赤チンを(笑) まず袋のほうに塗る(爆笑)それから上のほうにも(笑) 自然乾燥させて、さっきと逆にはかせる。その晩はそれでおしまい(笑) 次の日、佐藤としひろってヤツとバスの中で芝居をするわけです。「京都で性病が流行っているらしいよ」「俺たち、性病なんて関係ないじゃん」「風呂で移るらしいぞ。あそこが赤くなるらしいよ」もう、後に座っていた菅原の鼻息が聞こえるぐらい(笑) 「4日でポロッと取れるらしいよ」(爆笑)夜、旅館にもどって「おい、ブン風呂にいくぞ!」って、菅原文男という名前なんでブンと呼んでいたんです。風呂に誘うと「俺、今夜はいいよ」って(笑) かわいそうなんで教えてあげましたけどね。そんな日も寝るんですね(笑) 今度はね、お土産の紐の片方を電気の紐に結びつけて、もう片方をやつの根元に結び付けて・・・ヤツが寝返りをするたびに電気がついたり消えたり(笑)・・・朝になって「ほどけないじゃないかよー」(笑)」
まさしさんは、すっかり中学生に戻ったみたいでした。ノリノリで話してくれるんですが、もお!「キン○○」なんて言っちゃうし(A^^;)、レポできないじゃないですか〜!(笑)
「東京に来たきっかけっていうのは、東京の有名なバイオリンの先生に「この子は私の手元において、立派なバイオリニストに育てたい。」と言われたんです。父親なんかは「まさし、おまえ行って来い!行って日本の星になれ!」なんて言うんですね。おふくろは「何言ってるんですか。こんな小さい子を一人でやるなんて・・・。うちは公家の出だから、もしも間違って曲がったりしたらどうするんですか!曲がったらかなづちじゃないと、元にもどせない」って、釘じゃねぇよって(笑) まあ、「可愛い子ににはタビを履かせろ」っていうわけで(笑)、出てきたわけです。首都高ができた年、新幹線が開通した年に、ぼくは長崎から出てきたんです。母からよく手紙がきました。筆まめな女です。字が上手かったのを自慢したかったんでしょう(笑) いつも「おまえを信頼しています」って書いてありました。重かったです。でも、この一言が私を曲げなかった。」
喜代子母さんが、手紙の最後にかならず「おまえを信頼しています」と書かれたという話は、以前にも聞いたことがあります。あの頃、佐田家はとても貧乏で「見栄はって、息子にバイオリンを習わせてる」と陰口を言われることもあったそうで、子供のまさしさんにも辛い思いがあったのでしょうね。まず子供のお稽古事の方を縮小したりするのが普通ですが、ご両親がまさしさんに向けられた想いの強さを感じます。だからバイオリニストを諦めたときの、まさしさんの苦悩はいかばかりだったかと想像すると辛くなります。
東京は、東京にいる地方人が悪くしちゃったような気がします。もともとの東京人は、こんな町にしたかっただろうか、そんなことを考えてしまいます。長崎に帰ると「おまえの長崎弁は古い。今はそんな言葉は使わない。まさしのは、おっさん言葉だ。」と言われるんです。それはしかたないですよね。故郷を離れて・・・18年も経ったんですから(笑)(ここでまた、川瀬さんの突っ込み音が(笑))その町に帰ると、その時代の自分がまだいるような気がします。」
「無縁坂」この歌を聴くと、母の一生や自分の越し方行く末を考えちゃいます。「後だけは見ちゃだめ」今を一所懸命生きなくちゃ。
「檸檬」若い頃、この歌の女性が大人っぽくてかっこよく思えたっけ。今から考えると、物分りがよすぎるかなぁ。>この女性。
「主人公」まさしさんが歌うから、この曲が人気投票の1位なるんでしょうね。すごく元気づけられますもん。他の人が歌ったら、クサくなりそう。この歌を歌うときのまさしさんの表情、好きだなぁ。
「今日は大盤振る舞いです(笑) 初日は緊張するのよ。膝はガタガタするし。いや、そりゃね、25年も歌ってきたからね、震えてるのを悟られないようにするコツはあるのよ。こうして皆さんのおかげで、きれいなお洋服を着させていただいて、こうして板の上に載せてもらって歌わせていただいて。ほんとに初日はイヤで、初日だけ来月に回してほしい(笑) そしたら、ほんとに来月になっちゃたんです!(爆笑)
ぼくの歌に「夜間飛行」という歌があるんですけど、これは「ほのぼの」というアルバムでしたっけね?石川さん!(「そうだったかもね」という風にうなづく石川さん(笑))宇宙飛行士の毛利衛さんに捧げた歌だったんです。その毛利さんから電話があったんです。今度の打ち上げには、自分の好きなCDを持っても行ってもいいことになったんで、「ぜひ、さださんのCDを持って行きたいんです。よかったら、さださん、CDをくださいませんか」っていう電話だったのね。ぼくのCDを持って宇宙へ行って、地球に戻ってきたら、またそれをぼくにプレゼントしてくれるって(笑) もう嬉しくってね。「ああ、もう、喜んでプレゼントしますよ」って言ってたんだけど、喜びすぎちゃったのね。それを向こうに悟られてしまった(笑)「さださん、よかったら9/16の打ち上げにいらっしゃいませんか」って誘ってくれたんです!「ええっ!ほんとにいいんですか!」ところがね、もうコンサートが決まってた。チケットも売ってしまってた。ずいぶん、悩みました!でももうこんなことは滅多にない。それで、スタッフに「先に打ち上げをやるぞ!」って(笑) ほんとにお客さんにはご迷惑をおかけして、わがままを通させてもらいました。一生に一度のチャンス!行くぞ!と思ったら・・・日延べになったんです(笑)(シュンとしてみせるまさしさん)でも行けなかったのが幸いしたというか、もし行ってたらデニスに続くフロイド(ハリケーンの名前)に襲われて、250万人の難民のなかにいて、右往左往していたでしょう(笑) (右往左往しているフリがまた笑わせてくれました)次の(打ち上げ)予定は11月の・・・今度はもう行けないよなぁ(笑)
初日だったはずの三郷が先送りされたのは、そういうわけだったんですね。それにしても、とっても残念でしたね。>まさしさん。もし打ち上げがみられたら、その様子を身振り手振りで話してくれたんでしょうね。ん〜惜しかった!
9月4日、5日とロサンゼルスでコンサートをやってきました。盛り上がりましたよ。さださんの歌、日本では人気がないんですね。オーロラファンデーション、オーロラ基金という奨学制度のためのコンサートだったんです。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、「極光」のモデル阿岸明子さん、ぼくが「風見鶏」というアルバムでジミ―・ハスケルさんに参加してもらったとき、プロモートしてくれた阿岸明子さんが設立したんですが。阿岸明子さんは、フルブライトの留学生でUCLAの大学を卒業して、フルブライトの留学生って言うと「コロンビア大学」が話題になってますが(爆笑)阿岸明子さんは、ちゃんとほんとに卒業して、あ、「ほんとに」なんて言うと、また差し障りがあるけど(大爆笑) 有りがたいことに、アメリカで日本語を勉強している人達がいるんですよ。20万人強の人が日本語を勉強しているなかで、3000人弱の先生・・・日本語の言葉の裏にある生活文化を感じ取ってもらいたい。それで、オーロラ基金で、日本語教師達を日本に研修旅行にやろう。短い期間の研修旅行で、日本文化を全部をわかってもらうのは無理だけど、それでもやらないよりはやってみようって、そのチャリティだったんです。行ってよかったよー。吉田弥生が勝手にやって来て(吉田弥生さんは、アメリカ在住らしい)勝手にピアノ弾いて帰るは(笑)、25周年記念コンサートに参加してくれたバンクーバーの交響楽団のコンサートマスター、長井明さんが20時間かけて車で来てくれて。「さださんのために、バイオリン提げて行きますよ」って言って、来てくれた。20時間・・・飛行機だったら、ほんの数時間(笑)・・・本人がドライブ旅行したかっただけ(笑)・・・でも、ぼくのためにわざわざきてくれた。うれしかったですねー。そしてまた、20時間かけて帰っていきました(笑) オーロラファンデーション、たくさんの基金を必要とするんでね、オークションをやってね。阿岸さんが素晴らしいプロデューサーぶりを発揮しまして、スゴイ品物が集まったんですよ。ナオミ・キャンベルがCMで着た服が200万ドルで落とされたり、200万ドルって今2万1400円ぐらいかな。なんとラッセンの原画を、うちの弟が750ドルで落として・・・やるなぁ(笑) 私は、その前にラスベガスへ行ってまして(笑)・・・ラスベガスはいかん! あそこは24時間開いているパチンコ屋と同じだ!(笑) ビルの屋上、276メートルの高さのビルの屋上に、遊園地があったんです。そこにジェットコースターがありましてね、そのジェットコースターのとことから、さらに40メートル垂直に上がる乗り物があったんです。私は臆病者ですから、そんなものには乗りません。廣田が乗りました(笑) 下から観察していたんですが(笑)・・・それがまたすごい乗り物でね、4回ブワーンとバウンドするような感じで・・・廣田は放り出されたと思ったらしい・・・廣田大丈夫か?って訊いたら、「き、気持ち悪い」って、アホかと思いましたね。それで、操作する人が言うんですよ。「夜はもっと素敵だよ!」って(笑)」
「コロンビア大学」に話を持って行くあたり、まだこだわってますねぇ(笑)>サッチー問題。諏訪のトークショーで原田さんが、「サッチーを(無縁坂の歌で)泣かせるなんて、まさし君はすごい!」って言われたとき、ほんとに苦々しい表情でした(笑) ロスのコンサートには、ジミー・ハスケルさんも来て下さったそうで、まさしさんは「桃花源」を歌ったそうです。そうそう、ロスのコンサートメンバーは、石川さんと宅間さん。飛び入りで吉田弥生さん、長井明さんが加わって、あらかじめ配られたプログラムとぜんぜん違っていたそうです。)どうやら、まさしさんはラスベガスでスッちゃったみたいですね(笑)
「夜間飛行」この歌を聴くと、まさしさんが子供の頃見たという「空を飛ぶ」夢を、まるで一緒に見ていたように思ってしまいます。これも元気にしてくれる歌ですね。
<メンバー紹介>
左端から、こちらのお客様見にくいですね。いやっ、あの見にくいっていうのは、そうじゃなくて(笑) わざわざ見せるものでもないですが、今夜の音楽監督・倉田信雄、川瀬正人、マー坊はケニアに行ってたんだよね。いい写真をたくさん撮ってきて・・・ぼくにEーMailで送ってきてくれたんです。ありがとう!ぼくは携帯電話で、17分もかかって受信しました(笑) ロサンゼルスに一緒に行った仲間、巨匠石川さん、石川さんは心配しなかったけど一人心配なやつがいてね(笑)、ずっと前のことですが、ハワイのホテルで部屋の中に鍵をおいたままでドアを閉めちゃって、「開けてくれって頼んでくれ」って言うんですよ。「それぐらい自分で言えよ」って言って、きっと面白いことになるだろうとそのときの一部始終をビデオに撮っておいたんです(笑) ホテルの人に、宅間が一所懸命英語で説明しているんですけど・・・「キー イン ミー アウト ドア ガッチャン」(笑) それでも通じたんですね。ホテルの人が来てくれて開けてくれた・・・そしたら違う部屋だった。そしたら宅間「オー チガウヘヤ」だって(笑) ホテルの人に「オーユー バーカターレ!」って日本語で罵られていました(笑) 次は超巨匠をご紹介しましょう。23年ぶりに付き合っていただます。岡沢章。グレープの「三年坂」以来ですね(>岡沢さんに向かって)
出ました!「ドアガッチャン事件」(笑) このネタは、久しぶりですよね?このビデオでは、最初宅間さんは余裕のレポーター気分だったとか(笑) 違う部屋だと気づいたとき、そうとう慌てたみたいですが、なんか目にうかびますねぇ(A^^;)
打ち上げの前の晩は寝られなかったんですよ。毛利さんから留守電にメッセージが入ってましてね。「もしもし、さださん・・・」(毛利さんの真似)さわやかな弁舌で。ぼくは、毛利さんの話し方好きなんです。スペースシャトルからの実況と同じ口調!(毛利さんから、打ち上げ延期になったという電話を再生してみせるさださん(笑))・・・デニスとフロイドにやられましたよ(T_T)
ロサンゼルスのコンサートの前の晩に、南カリフォルニアの長崎県人会の食事会に招待されましてね。もう人気者(笑) 日系人も、やはり差別を受けて大変苦労されてきたんですね。わずかな賃金を得るために、苦労して働いて。二世ですら、もうほとんどが80歳前後。向こうの日系人向けの新聞のインタビューを受けまして、「三世、四世が日本語を話せないのはどう思うか」って聞かれたんだけど、ぼくは「無理に日本語を話す必要はない」って答えました。母国語だからと言って、必要がないのに話さなくてもいいし、三世、四世が、日本語を話せないことは少しも恥じることではないと。頼まれて、敬老ホームに行ってきました。ギター一本持ってね。あんなに受けなかったのも初めてだったね(笑) たぶんね、歌を歌ってくれる人が、する話を笑っちゃ失礼だと思っているんでしょうね。老人たちの顔を見ていると、柔和な顔、寂しい顔、その人の人生が現れていると思います。女性が多かった。女性は長持ちするんだね(笑) 1時間ぐらいして、お別れの挨拶をして帰ろうとしていたら、こっちの端っこにいた厳しい顔をしたおばあちゃんが、手招きするんです。最初から最後までニコリともしないでぼくの歌を聴いていたおばあちゃん。ぼくはおばあちゃん子で、年寄りに弱いですからね(笑)「はいっ!」(手をすりすりして駆け寄る(笑))そしたらね、「私、あなたの中国の映画見たわよ。あのとき、何かタイムカプセルのようなものを埋めていたでしょう。いったい何を埋めたの?」って聞かれるんです。きれいな日本語で、何か犯しがたい響きすら感じました。「ああ、あれは、ぼくの友人で彫刻家をしていた友人が、ぼくのためにお守りにくれた観音様なんですよ」「まあそうだったの。とても素敵だったわよ。サインしてちょうだい」って、言ってくださったんです。気丈に生きてこられたんでしょうね。故郷を離れて、異国で。何かと戦い、何かを守り、生きてこられたんだなぁと思うと、ぼくは不覚にも涙を流してしまいました。
「本当は泣きたいのに」この歌をライブではじめて聴くはずなのに、なぜか懐かしく感じます。私にも多分にそういうところがあるようで、この歌はまるで自分のことのように思えるんです。
まさしさんが「長江」の撮影のとき、観音像を埋めたのは「蜀の棧道」に到達したときだったですね。諸葛孔明やおじいちゃんの佐田繁治さんがかつて歩いた道なんだと思いながら歩いているうちに、「極度の興奮状態になって、何かぼくのしるしを置きたかった」とおっしゃってましたね。ロサンゼルスで、長江の細かいところまで覚えてくださっている方がいてくれたなんて、それも嬉しかったでしょうね。>まさしさん