Masashi Sada Live Concert 2000 at Royal Albert Hall
<感想・・・ネタバレ注意>
いよいよ、第一部
予定の時間より10分以上遅れて、パイプオルガンの上?に真っ白い装束の唐橋さんが現れ、笙とひちりきを用いての演奏が始まりました。無学のため、唐橋さんが何を演奏されているのかさっぱりわかりませんでしたが、「君が代」のようにも聴こえる部分もあり、日本古来の音楽「雅楽」というものを堪能させていただきました。かなり日本を強調した始まり方にビックリしましたが、これも海外ならではの味わいかも知れません。
真っ白なスーツで現れたまさしさん、白は昔からまさしさんの好きな色ですが、唐橋さんと同じ白で、まるでまさしさんも「神官」になって現れたように感じてしまいました。ストライプの入った白いワイシャツに、まさしさんにしては珍しい(?)紫のネクタイ、そして白い靴でした。
「多情仏心」
「案山子」
皆さん、こんばんはー!ほんとに遠い所から或は近い所から、ほんとにたくさんの方にお集まりいただいて、どうもありがとうございます。生まれて初めて、ロイヤルアルバートホールで聴いていただきます。リハーサルから力が入って、今日は3回ステージをやるようなそんな緊張感の中でやってきました。今日はちょっと凝った演出で、さだ登場しました。最初に、私の友人が雅楽を奏でてくれたんです。あれを『さだ』だと思いこんだ人がおられたんじゃないかと思います(笑)
いつも通りやろうと思っているけれど、やっぱりいつもと少し違ったコンサートになってしまうのかな。6時に始めても9時に終わらないさだまさしコンサート、7時半に始めて今日中に終わるんだろうか(笑)
まさしさんは、午前中にホールに入って2回リハーサルをされたそうですが、2回とも音合わせ程度じゃなく、特に二部の部分(弦が加わる)はしっかりと歌わされたのだそうです。「だから今日は3回目」とおっしゃっていました。(詳しくは、トークショーでレポします)「宅間に言わせると『ロイヤルアルバイトホール』(笑)」は可笑しかった〜(笑)
イギリスは、大変好きですよ。2度目ですけど(笑) クイーンエリザベス2世号でディナーショーをさせていただいたことがあって。司会者が英国人、カッコいいですね。紹介されるまえ緊張して、カーテンの後に隠れていたんです。「レディス & ジェントルマン・・・サダマシタ〜!」いきなり過去完了にされしまいました(笑)
長く日本を離れている人のために、さだまさしの代表曲を5曲、そのうちの1曲はもう終わったんですよ(笑) 短い間、最後まで一生懸命頑張ります!
「まさしさん、頑張って〜!」という黄色い声(笑)に、「頑張っているのよ、これでも。頑張っている人に『頑張れ』って言うのはね、溺れている人に石を抱かせるようなもんよ」と、でも嬉しそうに言葉を返されました。
「関白宣言」
ラストの「ラ〜ラ〜ラ〜、ラ〜ラ、ラ〜ラ」を引張るまさしさん、客席も手拍子で参加。ノリノリで3回ぐらい繰り返したんじゃないかな。だんだんスピードが速くなり、宅間さんのマリンバも注目の的です。客席から指笛や感嘆の声があがり、「宅間さーん」と名前を呼ぶ人も。「20年まえのヒット曲で、なんでこんなに疲れなきゃいけないんだ」(>まさしさん)いや〜、ほんとにお疲れさま!(笑)
憧れの、ほんとに憧れのロイヤルアルバートホールで、まさかさだまさしが歌うことができるなんて。「世界の檜舞台を踏むことになったんですよ。ほんとにヒノキかどうか確かめてきます」って日本のお客さんに約束して来たんですけど、なんか貼ってあるんですよ(笑) せめて偉大な巨匠達の踏んだあたりだけでも踏もうと思ったら、台がおいてある(A^^;) ついているんだか、ついていないんだかわからないさだまさしです(笑)
はじめてロンドンに来たのは、四半世紀近く昔です。ソロになって、ジミーハスケルさんと一緒に「風見鶏」、「私花集」を作った頃ですから、ほんとにずいぶん昔。ロンドンにたった一人で来たんです。ほんとはパリに行ってスイスに行ってギリシャに行ってローマに行って、ロンドンから日本へ帰るつもりだった。パリをひとり旅するには、若すぎた。ヨーロッパの壁にドーンとぶち当たってね。「帰ろう。こんな冷たいとこ、いられない」と思ってロンドンに引きかえしてきて。ロンドンはいい街だなと思ったのは、みんなほっといてくれるんですよ。こんなに幸せなことはない。牛乳が美味しくてね。濃いんです。パンも美味しかった。
1977年、メーデーの頃にちょうどロンドンにいたんです。ハイドパークで、こっちの労働者はすごいね。みんなでシュプレヒコールあげてるんだね。「なんとかー」、たぶん「金よこせ」(笑)って言ってるんでしょう。近くのホテルにいたんですよ。最初、波の音が聞こえてると思った。「ロンドンって、海辺なんだ」(爆) ハイドパークで10万人の人が集まっていて「金くれー!」ってやってたんだな。
その日の晩に、子供の頃の思い出を小説にした。「ふうせんのはか」というタイトルで、昨年の秋に発売になったら、児童書の中ではベストセラーになってしまったんですけど、たわいもない話なんです。長崎の小さな夏祭りの思い出話を書いたんです。
弟は、理想的な子供でした。今の子供さんは、追い詰められて可哀想だなと思う。何かに追われているような。僕達の子供の頃は、親も食うことに一生懸命で子供にまで手がまわらなかったから、これ幸いに自由闊達な子供が多かった。「自由闊達」すごいイイ言い方(笑) でたらめなガキが多かったわけですよ。でもロイヤルですから、言葉を慎もうと思って(笑) 金なんて言って恥ずかしかったんですけど、いきなり「金はあるか」なんて歌っちゃった(笑)
僕にとって、僕の弟は理想的な子供だったんです。理想的な子供っていうのは、1に明るいこと、2にケンカが強い、3に優しい、4に勉強ができない(笑) 4拍子揃ってたんです、弟は。
なぜロンドンで書いたんだろうか。生まれて初めて、ホームシックにかかったんだろうか。子供達のために書き下ろしたのは昨年のことで、9月に書店にならんだころに「ロイヤルアルバートホールで歌わないか」という話になった。不思議なもんだな。若山牧水の歌にありますね「はつとして我に返れば南北の冬草山を我歩みおり」人間っていうのは、孤独にそこらじゅう草が枯れた寂しい野原をたった一人で歩いているような気持ちになる。でもそうじゃないんだってことを、人間同士の繋がりの中で感じることがあります。
ロンドンで書いた物語が書店に並んだ頃に、ロンドンで歌うことが決まった。人間ってこういうふうに繋がっているのかな。たった一人で細い藪を歩いていると思ったのは俺だけで、ほんとみんなが見守ってくれている。そんな気持ちにさせてもらっている。幸せなひとときを、今日だけは自分のために歌っている。
「自分のために歌う」と言ったときのまさしさんの笑顔、晴れ晴れと、そしてとても幸せそうでした。私まで幸せな気分になってしまいました。
「ロンドンヘようこそ!」今度は若い男性の声です。まさしさんは「ロンドンへようこそか、ロンドンへようこそ、あ〜いいなぁ」としみじみと感慨深げにつぶやいていました。
海外に何をしに行くんだろうって思ったことがある。きっと自分の国を見つめに行くんだな。どこへ行っても自分のホームグランド、日本のことを考えているんだな。
「Pineapple hill」
「前夜」
「パイナップルヒル」というのは、マウイ島の西のはずれにあった小さなレストラン、もう廃業しているんです。ここから見る夕陽が世界一美しいと言うので、見に行ったんです。ほんとに世界一か断言できないけど、とっても綺麗な夕陽。窓辺の席はカップルシートだから、僕達みたいな団体はなかなか座ることができない。カップル越しの夕陽を見ていた。スタッフの一人が「まさし、いいね〜ここ。ここを歌にしようよ。ほら、ゆっくり回っている天井の扇風機。洒落た言い方があるんじゃないの?」ウェイター呼んで訊いたら「Fan!」(A^^;) 終わってしまいました(A^^;)
海外に行くたびに、いろんなことを感じる。ロンドンに住み暮らす人は、ご苦労も多かろうと思う。日本に自分のふるさとがあって、そこでずっと生まれて育って生活している人には、なかなかその町の素晴らしさがわからない。外に出てみると、自分の町にはこんなに素晴らしい面があったんだ。こんなにダメなところがあったんだとわかる。
僕と一緒に、なんと400人以上のツアーの方が日本から来てくださった。ぜひ、ロンドンの素晴らしさだけじゃなく、日本の素晴らしさも再認識して帰っていただけるといいな。
今日は、カメラが回っております。カメラが回っているって、カメラがぐるぐる回っているわけじゃない(笑) これできっとどこかでまた見ていただける機会もあるだろうし、インターネットで、今日本は4時半ぐらい?眠い目をこすりながら、一生懸命聴いてくれてる人がたくさんいるんだろうな。こんなに静かな曲が続くと、日本から来たばかりの人は今眠くなる(笑) ぐぉーっとなりかけた人がいたら、クッと蹴ってあげて。ロイヤルですから(笑)、気がつかれないように蹴っていただきたいです。
さ、一部の最後です。早いでしょう。このあと休憩があるんです。休憩のあと、素晴らしいロンドンのストリングスの皆さんにお手伝いをいただいて、二部をお楽しみいただく。一部の最後、チャッチャッと片付けますよ(笑)
一部の最後の2曲、太宰府天満宮を扱いました「飛梅」、そして、僕は中国に撮影に行っていろんなことがあったんですが(笑)、どんなことがあったかはそれぞれの胸にしまっておいていただきましょう。ロンドンを歩いていると、中国の古い町を歩いているようなそんな気持ちにさせられますね。上海の旧市街、武漢、南京の街並みをふっと連想してしまう。一部の最後は「フレディもしくは三教街」
ロンドンは日没が遅くて(9時半ぐらいでした)旅行客にとっては、一日たっぷり遊べて、短い滞在日数でもロンドンの町の素晴らしさを見ることができます。22日、日本は夏至だったんですが、ロンドンは日本よりもずっとずっと昼が長かったです。ホテルに23時前に帰ったことなんてなかったです(A^^;) でも、日の出も早いんですよ。毎日、睡眠時間は3時間ぐらいでした。「日本から400人以上来ている」という言葉に、会場のあちこちから驚きの声があがっていました。
「飛梅」
「フレディもしくは三教街〜ロシア租界にて〜」
第二部
幕がないので、ストリングスの人が入ってきて渡辺俊幸さんがスタンバイするまで全部見えます(笑) 聞きなれた「北の国から」も弦が加わると、音に厚みがでていつも以上に気持ちよく聞こえます。
「北の国から」
「主人公」
二部がスタートしまして、気持ちが切り替わっていいもんですね。僕なんかいろんなことが話したいあまり、日本では休憩もとらず3時間近くずっとやっている悪い癖があります。ロイヤル、改めてみようかな。お色直しも済ませました。だんだん派手になるという趣向です(笑)
歌い出して25年以上が過ぎて、僕ぐらいコンサートをやっているシンガーは少ないと思うんです。1年に100回以上、平均120回近いコンサートを毎年毎年繰り返してきました。ソロになってから、もう2800回。たいへんな数のコンサートをやってきました。
僕は昔、グレープという男2人で歌っていました。男ふたり、懸命な選択だったと思います(笑) 男と女だと、たいがい結婚してしまいます。今日のコンダクター渡辺俊幸も、かつて奥さんとデュエットしていたのをふっと思い出したんです。(うなづく渡辺さん)吉田と結婚しなくてよかったなぁ(A^^;)
僕は、8の字を描くように日本中を歩く。1年間に2周するんです。時々、海外で聴いていただくことがある。こんなにたくさんの人が、集まってくださるってことばかりじゃない。イギリス人のダフ屋がウロウロしているコンサートは、考えもしなかった。このへんに居てくれたらいいな、そんな気持ちだったんだけど、なんだか勇気が湧いてくる。
チケットは完売状態だったんです。翌日のトークショーでまさしさんが話されたのですが、このホールのほとんどの座席は「年間予約席」なので、主催者側で自由に販売ができなかったということでした。打診をして返事がきたところの座席しか売ることができなかったので、席の割り当てもバラバラになってしまったようです。前の方の席が空席だったのは、返事が来なくて手がつけられなかった席なんですというようなことをおっしゃってました。こういうシステムについて勉強不足なのですが「オーナー」に対するマージンみたいなものは発生したのかな。それがちょっと心配になりました。
第二部の衣装は、上着の襟のふちがキラキラがした(ビーズ?ダイヤ?)黒のタキシードスーツでした。
せっかくロンドンに来るんだから、レコーディングしようってね。秋にアルバムが出るんですよ。いや、買えって言ってるんですよ(笑)。「日本架空説」って言うんです。「僕がこんなに好きな日本は、ほんとに存在するんだろうか?いや、存在するんだよ」というアルバムにしようと思って。日本人のここが嫌い、ここが悪いだとか言われてね、日本人やってるの嫌になっちゃうような環境を日本人が作っている。違うと思うの。だから誉めちゃおうと思って(笑)
実は5曲、ロンドンに来てからレコーディングしたんです。エアスタジオと、アビーロードスタジオと一緒に手伝っていただいて。アビーロードスタジオの2スタって言ったら、もろにビートルズがホームスタジオにしていたところなんです。ジョン・レノンが弾いたかもしれないピアノ、弾けないから触ってきましたけど(笑)
皆がそそのかすわけ。せっかくアビーロードでやるんだよ。僕らの世代ってビートルズをさけて通るわけにはいかない。彼らに敬意を表して、歌を書いてみたらどうか。僕は、そんな僭越なことはやめたほうがいいって言ったんだけど、やろうと思って(A^^;) 「イエスタディ」に挑戦してみようって言うんで「明後日」って歌を作った(笑) レコーディングしたのが20日の日だったのね。まだ歌詩ができてなかった。昨日の夜、徹夜して詩を書いた。皆に見せたら「せっかく詩ができたんだったらやれば」って(笑)
リハーサルで一度だけ歌った。「THE DAY AFTER TOMORROW」できたてで、まだ湯気がうゎーっと立ってる。
実は、エアスタジオとアビーロードスタジオを探して行ってきました。アビーロードはビートルズのレコジャケで有名なので、旅行ガイドブックにも載っていますが、エアスタジオは探すのにちょっと手間取りました。エアスタジオは、トークの中でまさしさんがおっしゃった通り、教会だった建物でした。写真を撮ったのですが失敗しました。詳しくは旅日記でレポしますね。
「THE DAY AFTER TOMORROW」
この歌、涙ウルウルで聞きました。とってもいい!「今日は昨日の続きだったけど、明日流れが変わるかもしれないじゃない。明日まで生きてみようよ」というフレーズに励まされました。
ロンドンに捧げた歌と思ってもらえればいいな。とかく、目の前のことでいっぱいになるでしょ。明日のことどころか、今日のことで目一杯。追っかけられるように生きている。明日やろうと思っているけれど、明日が来るのがヤなの(A^^;) 僕は、明後日にしているんです(笑)
携帯電話がブツブツ切れるでしょ。「あ〜もう、明後日捨てよう!」(笑) 明日が、クッションになってくれる。「あの野郎、明日とっちめてやろう!」と思うときにも「明後日とっちめてやろう」と思うことで、そいつを許せたり、自分を許せたりする。明後日っていうのは、僕にとって自分を支える大事な一日になる。「イエスタディ」のパロディみたいに受け取られたかも。けれど、僕にはそんな思いがあります。
去年はロサンゼルス、シドニーでは4年続けてコンサートをやりました。毎回毎回必ず来てくださる方がいる。長野の翌々日にシドニーなんて入っているのも気持ちがいいかな。まだ自家用飛行機買うほど儲けていないけど。先に使っちゃったから私の場合。いいの、いいの。ほっといて、ほっといて(笑)
ロサンゼルスに昨年行ってきた。アメリカで日本語を学んでいるアメリカ人が12万人。アメリカ人の日本語の先生が3,000人。少ないね。アメリカ人の日本語の先生を、日本に留学させるための基金を作ろうってボランティアで行ってきました。
向こうで暮らす日本人が、僕のコンサートを支えてくれた。手売りまでして頑張ってくれた。驚いたのは、南カリフォルニア長崎県人会っていうのがあった。嬉しいね〜。アメリカまで来て、県はいいだろうと言ったんだけど。その人達が券を売ってくれたんだね(笑)
2日目の昼に、日本人のための養護老人ホームに行ったんです。支えていたのは、日本人のボランティアだったんですよ。そこへギター1本持って行ってきた。80代、90代、100歳のおじいちゃん、おばあちゃん、200人ぐらい。さだまさし、いろいろ歌うんだ。「北の国から」、俺が作った歌の中で一番詩がいい(笑)
いろいろ歌ったけど、やっぱりコンサートをやるってことは、今日向かい合っている人に何か届きたい。80代、90代になると、さだまさしご存知の方ばかりじゃない。何か届きたいって思いが、ライブをやっている人間にはある。知っている歌、歌ったらいいのかな。「ふるさと」を歌ったんです。おじいちゃんおばあちゃんが、嬉しそうな顔で一緒に歌うんだよね。涙が出てくる。僕は決して偏ったナショナリストではないし、国粋主義者でもない。なんかキュンとするものがある。3番まで、彼等は歌詩を覚えていたんだよ。どういう意味かっていうとね、何遍も何遍も歌ってきたってこと。どんな思いでどんな時に歌ったんだろうと思ったら、涙がでてきた。だって、戦争を乗り越えてきてるわけでしょ。海外で暮らすってそういうことだよね。日本を背負っちゃうんだもの。好むと好まざるとに関わらず。
たとえば俺が、ここで暮らす人間だとすると、俺が犯罪を犯したら、あの「さだまさしが」とは誰も言わない。「あの日本人が」って言うよね。そんな中で日本を背負ってきた人たちが、戦争のときに自分が生まれた国を怨んだんだろうか。自分が住みくらしている国を憎んだだろうか。
ロサンゼルスの日本人の墓は、みんな海を向いている。日本を見て建っている。あんなに遠く離れたふるさとを思っている日本人が、たくさんいるんだな。きっとこの中にも、そんな人がたくさんいるんだろう。俺は、そういう人のために、世界中を歌って歩かなきゃいけない。
「ふるさと」
「秋桜」
日本中を歩いていると、1ヶ所に住んで1ヶ所しか知らない人と比べると、日本のいろんな風景や表情を見ることができる。いろんな町の四季を取りいれることができるんです。北海道も沖縄も。夏も冬も知っている。日本中がふるさとのような思えてくる。日本はとても懐の深い、恵まれた風土にあるって感じる。海外に出かけてみると、そういう思いが強くなります。
季節感が、日本ははっきりしています。昨日は、日本は夏至でした。でも、昨日の日本の昼より、ロンドンの今日の昼のほうが長いと思います(笑) これが、時差ボケがなおらない原因という説も。まだ明るいや〜って、部屋に帰ると11時半。非常に淋しい思いで暮らしている人もあるかも知れないけど。
どんなにつらい冬でも必ず春が来る。これが日本人を支えてきたんじゃないか。日本人の粘り強さを支えてきたんじゃないか。落ちこんだ奴がいる。「おまえ、今、冬なんだよ。どんなに辛くても必ず春が来るよ」陳腐な慰めだと思うけど、確かに春が来なかった年を覚えていない。もうちょっとだけ頑張ってみるか。もうちょっとだけ頑張ってみるかが、人生を変えていくんだね。パプアニューギニアだと慰めにくい。「そう落ちこむな。あのな・・・明日も暑いから」死ねというようなもんです(笑)
どんなに寒くても必ず春がくる。僕は信州に長く暮らしているとね、春を待ち望んでいるってよくわかる。地面が、一番待ち望んでいるんだ。五月になるといっせいに花が咲く。その力強いこと。美しいこと。梅、桃、桜、こぶし、レンギョウ、雪柳。わーっといっぺんに咲く。
日本の言葉には、美しい言葉がたくさんある。冬の季語で「三寒四温」って言葉。僕の好きな言葉。響きがいいでしょ、フランス語みたいで(笑) サンカンシオン、サンカンシオン(笑)(聞き取れなかった)下品なことを言っちゃいけません。ロイヤルですから(笑)
桜が咲くまえの天候不順を「菜種梅雨」という。素晴らしいじゃないですか。雨に色合いを感じる。桜が咲きおえたら、菜種梅雨とは言いません。今度は「竹の子梅雨」雨に香りを感じる。素晴らしい表現力。すべて私達の祖先が、季節からもらった感受性の中で育ててきた言葉。
5月に入ると「五月晴れ」元来は陰暦ですから、梅雨の晴れ間なんでしょうけど。僕等にとっては、雲ひとつない青空。空を鯉が泳ぐ、変な国です(笑) だいたいこれぐらいで阪神ファンがあきらめる(笑) ごめん(笑)
6月になると「衣替え」すごいと思いません?思わない?ぜんぜん思ってないなぁ。心外だな。だって考えてもごらん。一夜にして日本中のお巡りさんと学生の色(制服)が変わるんだよ。これは奇跡的だと思う。
衣替えが済むと梅雨。梅の実が実る頃の雨だから「梅雨」。ほんとにごもっともだよね。源氏蛍がすーっと舞うんです。蛍のやわらかな光が、日本特有の蛍の光です。フィリピンの蛍は、ついたったきりです。消えたなと思ったら、死んじゃっている(笑) ミシシッピに点いたり消えたりする蛍があるんだって。オン、オフがはっきりしてる。点いた、消えた、点いた、消えた。アメリカ人なんですよ、蛍も(笑) イエス、ノーがははっきりしている。日本人は、蛍も日本人。イエスのような〜、ノーのような〜。
都知事がね、「日本人もノーと言おう」と言ってる。俺、言えない。私は、姑息に計算をするセコイ日本人です(笑)
イエスかノーかを、勘違いした日本人が多い。六四か七三を訊いているんじゃない。イエスかノーかは100か0かってこと。大陸は、そうやってやってきた。勝ったら100、負けたらゼロ。あのジンギスカン、わーっと攻めていって、負けた部族はら根絶やしです。これがイエスかノーかとの基本です。大陸と、私達の島で「おつめあわせください」って育ってきたのと、考え方が違う。「イエスか!ノーか!」って聞かれたら、「六四でどうですか〜」(笑)
戦争に勝った奴が100持っていく、はしたないと教わってきた。負けた奴に残しておく領土が大きければ大きいほど、器量が大きいといわれる。イエスかノーか、決められるわけないと思うね。
梅雨が明けると灼熱の太陽が照りつける。35度を超えると熱帯の気温。これじゃ死ぬなと思うけど、必ず秋風が吹くんです。「秋雨前線」が停滞して、台風が被害をもたらす。これが続いたらどうしよう。続かない。ふっと振りかえると、山々が美しいこと。「錦秋」神々が作った色合い。神の業だね。なんて美しいんだろうと思っていると、これが長く続かない。冬は上からやってくる。山々の頂がグレーから白に変わる。真っ白になったら冬。日本のどこかの町でマイナス30度を超えている町がある。寒帯から熱帯までの気温を持っている日本、決して懐のせまい国じゃない。
「冬来たりなば春遠からじ」寒さの中、春の花は一所懸命、準備を始めている。僕は信州に12年暮らしていると、地面が待っているというのがよくわかってきます。五月になるといっせいに花が咲く。その美しいこと、力強いこと。梅桃桜辛夷連翹雪柳・・・(笑)
日本の四季の話題で「梅桃桜辛夷連翹雪柳・・・」と始まり、同じ話を繰り返そうとするまさしさんを、宅間さんが「言った」と止めてくれました(笑)
昔は、日本人は世界の人達に憧れてもらえたんだけど。「アメリカ人は日本人を皆嫌っている」と思っている日本人が多いけど、大きな間違い。大丈夫、アメリカ人の8割は日本がどこにあるか知らない(笑)
私達には私達の歩幅で歩いていけばいい。胸をはって正々堂々と自分達の真実を貫けば、いつか必ず誰の心の扉を叩く時があるだろうと信じている。
明治の初めの頃ニューオリンズでやった博覧会に日本も出品しているんです。どうやって運んだんだろう。大したものじゃなかったと思う。陶器、磁器、漆器か書画。それを見たラフカディオ・ハーンはこう書いています。「これは人間がこしらえたものではない。妖精がこしらえたもの。日本には妖精が住んでいる。そうでなければ、日本人は妖精の子孫だ」
彼は日本に住み暮らすようになって、日本の女性についてこんなことを書いてます。「日本人の深い歴史の中で、最高の芸術品は日本人の女性だ」(客席からの拍手に)明治の話しです(笑) もちろん芸術品も混じっているだろうけど、まがい物も結構いるんじゃないかな(笑)
彼が明治40年に書いたエッセイ「仏像の微笑み」があります。読んでみたらせつなくて。「日本人は、欧米に追い着け追い越そうとするあまり、長く深い文化・伝統を捨て去って、西洋人の合理的な心まで輸入しようとしている」そういう時代ですよ。文明開花、富国強兵。
「勤勉で優秀な日本人の作った製品は、欧米の製品をはるかに超えるだろう。そうなったとき、日本人は日本人でなくなっているだろう。日本人に良く似た西洋人になってしまうだろう」僕達のことなのか。「そうなってしまったとき、かつて村の辻辻に立っていた仏像のなんともいえないやさしい微笑みに、思い当たる日が必ずやってくるだろう。その仏像の微笑みこそが、かつての彼ら自身の笑顔だからだ」僕の明治うまれのおばあちゃんの笑顔を思い出す。あれは妖精の笑顔だったかもしれないね。僕は、どんな醜い笑顔で歌っているのだろうと思うとせつないね。いい笑顔ができる日本人になりたいですね。
ネットで「ラフカディオ・ハーン」で検索して見つけたHP主催者の方に、問い合わせをしました結果、博覧会は、1894〜95年にかけて行われた万国博覧会ということがわかりました。出品されていたものは、日本の伝統工芸品というのみで、詳細は今のところ不明です。 「仏像の微笑み」というのは、「日本人の微笑」または「地蔵」というエッセだそうです。日本語訳で手に入りやすいものとしては、講談社の学術文庫があります。 「日本人の微笑」は「明治日本の面影」、「地蔵」は「神々の国の首都」という本に収められています。