き坊のノート 目次



実利じつかが行者立像」の「讃」解読


(改訂)   最終更新 10/9-2013



目次
【1】 はじめに
【2】 資料と予備知識など
2.1 実利行者立像
2.2 A.M.ブッシイ 『実利の修験道』
2.3 松浦武四郎 の『大台紀行』
2.4 明治18年の『大臺原紀行』
2.5 山伏の大峰修行のこと
【3】 2つの読解試案
3.1 私案
3.2 郷土史家案
【4】 行ごとの議論  ⇒ ⇒ 右欄へ
【5】 総合と付論
総合 行ごとの議論の総合
付論 この掛軸の作者について
追記 邦元と署名のある実利行者座像
【4】 行ごとの議論 の内訳

01】行目 行人、ももくきね
02】行目 美濃の国、坂本むら
03】行目 二十有五
4,5】行目 家に妻子を残して
06】行目 富士山にて立行
07】行目 天拝山、笙の窟
08】行目 深山
09】行目 男山鳩の峯
10,11】行目 和勢紀三州に跨る
11,12】行目 大嶺臺ヶ原
12】行目 牛石の傍らに
13】行目 すること日あり
14】行目 那智の瀑布に入定す
15】行目 明治十七甲申年
16】行目 此人と倶に
17】行目 邦元こと
18】行目 禿児是白
19】行目 霊雲洞清岳


【本論とリンクしている補論】   ◆ をクリックして下さい。
「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原82.5kB
国絵図で見る「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原16.8kB
『和州吉野郡群山記』の「正木はげ」73.7kB
大台山中の道9.0kB
実利行者の生年問題と初期活動24.5kB
「擲身」という語48.0kB
百茎根 ももくきね50.7kB
千日計算9.9kB
南方熊楠の日記にみえる捨身行者・実利15.3kB
田並・圓光寺の『紀伊続風土記』33.8kB
kB で示している数値は、画像を含まないファイルの大きさです。
なお、本論「実利行者立像の讃解読」は 189kBです。


笹谷良造「天保五年の大臺登山記」53.2kB
仁井田長群「登大台山記」48.1kB
木下文三郎ら3名「大臺原紀行」55.5kB




【 1 】 はじめに





「実利行者立像」じつかがぎょうじゃ りつぞう]は、奈良県下北山村の北栄蔵が所有し、現在はその子孫に伝えられている掛軸である。北栄蔵は、実利行者の験力によって重い病から救われたことを終生変わらず深く感謝し、その報恩の気持から実利行者の活動を支え続け、行者からの信頼も厚かった。

この「立像」の作者は不明であるが、作品に署名があり「邦元」「霊雲洞清岳」などの名前が判明している。制作年も不明であるが、実利行者が那智の滝に捨身入定[しゃしんにゅうじょう]した明治17年(1884)4月21日以降であることはもちろんである。
北栄蔵がどういう経緯でこの作品を所有することになったのかは分かっていない。後に論議するが、北栄蔵が作者に作品制作を依頼した可能性があるとわたしは考えている。

この掛軸の画像は、この作品に注目して撮影許可を得、撮影した安藤氏のサイト実利行者の足跡めぐりに公開してある。原画のサイズその他のデータは、そこにある。なお、そのサイトに示してあることだが、氏は実利行者の遠縁にあたる方である。
わたしは氏から画像ファイルをいただき、この作品の文字部分(以下「讃」という)を切りだして解読の原資料とした。

小論は、この種の解読などについてはまったく素人であるわたしがこの興味深い画像の「讃」の解読に挑戦した苦心を述べるものであるが、あわせて、一般には知る人の少ない実利行者理解の一助となることも意図している。
わたしは若い頃に万葉仮名を読む練習を、古今集の定家本のテキストなどで独習したことがあるが、その程度のことでしかない。書道などとは無縁であり字を書くことはまったくの苦手で、金釘流の幼稚な字しか書くことができない。わたしの唯一の取り柄(強み)としては、《幕末から明治前半にかけて山岳修験者として生きた実利行者に深い興味と敬愛の念を持ちつづけている》ということだけである。だが、わたしは解読作業では対象に対する持続的な探求心がなによりも重要であると考えている。つまり、わたしはその限りで「実利行者立像」の「讃」解読については、よい武器を持っていると自認している。


次ぎに示すのが軸装された「実利行者立像」の全体図である(この写真画像の著作権は安藤氏にある)。
模式的に描かれた那智の滝を背景に、実利行者が立っている。その右に、「讃」が上下2段に書かれている。



下図は、「讃」の部分を2枚に拡大表示したものである。右側が「讃」の上半分、左側が「讃」の下半分である。参照の便のために、緑色で行番号( 01~19 )を振った。

 


なお、本稿ではブラウザ上で読みやすいことを考えて、本文を黒字、註釈的な挿入を茶色、引用は青字としている。また、原則として、明治五年十二月三日=明治6年1月1日以前の和暦の年月日には漢数字を用い、以後の太陽暦の表示は算用数字を用いた。年齢の数え歳には漢数字、満年齢は算用数字を用いることを原則とするが、どちらか判定できないことも多い。



【 2 】 資料と予備知識など






◆ 2.1: 実利行者立像 

4月20日(2010)過ぎに、サイト実利行者の足跡めぐりに「実利行者尊像」という掛軸の画像が置いてあることに気付いた。

その掛軸は、見たところ素人っぽい画風で実利行者とおぼしき長髪で草鞋履きの男が、葉の付いた小木を杖のように支え持ち、小木には八葉の鏡と経文が結びつけられている。行者の後ろにはかなり図案化された那智の滝が流れ落ち、松もあるが広葉樹らしい樹林が広がっている。熊野の山林の表現だと思える。

「実利さんの唇へ、あかく紅を差してあるのですね」とわたしがメールを送ったのに対して、安藤氏は次のように詳細に、この掛軸には薄く色彩が使用されていることを教えて下さった。
写真には鮮明に記録されていませんが、実物には赤、青、緑の三色が使用されています。色は褪せていて微妙ですが、行者が上に羽織っている衣と行者の目、滝の水は部分的に青がかかっています。同じく、山の木の部分部分と草にも緑がかかっています。さらに同じく、行者の唇、軸物、八葉の鏡の周り、山や雲の稜線あたり等には赤が使用されています。
紫色などもそうですが、写真に記録するのが難しい色は結構存在するように思います。
(4/24メール)
この掛軸「実利行者尊像」は、プロの画家が宗教団体や信者の注文で描いた宗教者画像にありがちの理想化や神秘化がなく、むしろ親近感をおぼえる「実利さん」が表されていて、わたしはとても共感した。その実利さんは難行苦行をなし遂げる峻厳な人格というより、なんだか山中での生活を楽しみにしているような風情がある。かつて那智の墓地を訪れたときに土地の人は実利行者を「じっかんさん」と呼んでいたことを思い出した。

なお、実利行者を描いた図像は、この「実利行者尊像」以外に2点知られている。「四十一歳像」(上北山村の岩本家、サイト実利行者の足跡めぐりのトップ図像)、「三十三歳像」(恵那市足立家、アンヌ・マリ ブッシイ『捨身行者 実利の修験道』角川書店1977の口絵写真)。
「四十一歳像」も「三十三歳像」も岩に腰をおろし、右肩に錫杖をおき、左手に数珠ないし輪宝を持っている。いずれも笑みをたたえた立派な相好で、威厳があり、神秘的な験力の持ち主にふさわしい図像である。特に鮮明な写真を見ることができる「四十一歳像」には、畏怖の対象にもなりうる力感を覚える。
それに対して「実利行者立像」以下、小論ではこの呼び名に統一する)は、理想化・神秘化されておらず、そこに立つのは親しみのある「じっかんさん」である。しかも、「四十一歳像」、「三十三歳像」にない文章「讃」がついている。つまり、前2者と「実利行者立像」は際立った対比ができるような、違う趣の作品であると言ってよい。
「三十三歳像」には、「實利大行者尊三十三歳生像」と書かれ、「金峯謹寫」と作者名と落款がある。「四十一歳像」には、上半分に10字の梵字が書かれ、下半分に「實利四十一歳生像」とあり「天龍画」と落款がある。
なおブッシイ前掲書p91では、これら実利行者を描いた肖像作品3点が存在すると紹介しているが、「四十一歳像」、「三十三歳像」の説明をして、それがそのまま「実利行者立像」の説明にもなるような誤解を生みやすい書き方になっている。また「讃」については触れていない。
ブッシイ「実利行者と大峯山」(『近畿霊山と修験道』1978所収)に「現存する五幅の実利肖像」とある(p245)。これは誤記ないし誤植であろう。



◆ 2.2: アンヌ・マリ ブッシイ 『捨身行者 実利の修験道』 

ここで、アンヌ・マリ ブッシイ『捨身行者 実利の修験道』角川書店1977)を紹介しておく。小論は、この労作に全面的に依拠しており、これから度々引用することになるからである(特に必要ない限り「ブッシイ前掲書」と表記する)。

アンヌ・マリ ブッシイ(Anne-Marie Bouchy)は1947年にパリ郊外ニュイリイに生まれ、修士論文はブルターニュの民俗信仰の研究。1972年に初めて来日し、日本語習得の合間に多くの学者を訪ね、結局、五来重(大谷大学)の研究室で修験道と日本の庶民信仰を研究することになる。
その後、実利行者の研究を始めて岐阜県坂下町の実利教会、奈良県上北山・下北山村、和歌山県の那智山などを足繁く訪れ、信者からの聞き書きや文書の探索・碑文の解読などを精力的に行った。1975年には聖護院山伏といっしょに大峰山の入峰修行も行っている。「女人禁制の山上ヶ岳以外、前鬼までの靡々の勤行に参加」したと「まえがき」に書いている(p13)。
本書は全280頁のうち本文108頁で、残りが「資料編」となっている。ブッシイ氏の努力によって初めて紹介された資料ばかりであり、本書の価値を特に高くしている。
なお、氏の本書以外の著作は、わたしが知っているのは、『近畿霊山と修験道』(山岳宗教史研究叢書11 名著出版1978)に「愛宕山の山岳信仰」、「実利行者と大峯山」の2編。『仏教民俗学大系1』(名著出版1993)に「お伽草子『役行者物語絵巻』の役行者伝」の1編。、『アイデンティティ・周縁・媒介 〈日本社会〉日仏共同研究プロジェクト』(吉川弘文館2000)の脇田晴子と共編(最後の共編はわたしは未見)。


実利行者は美濃国の農民として御嶽講の熱心な信者であったが、二十五歳のころ修験行者として生きる道に目覚めて妻子をおいて家を出て、主として大峰山系に入り猛然と修行にうちこんだ。
時は幕末~明治初にかかり、彼は衰退していた大峰修験の再興を目指した。奈良時代からの伝統のある有名な修行場、笙の巌窟しょうのいわや]や深仙じんせん]で千日行などの荒行をなしとげつつ、奥駆け道の修復や新たな道作りに努力した。実利行者が大台ヶ原の牛石ちかくに小屋をつくりそこを拠点として修行に励んだのは明治3~7年(1870~74)と言われる。明治7年に、修験道禁止の新政府方針にしたがった官憲によって小屋が焼かれたという。その小屋の焼け跡については、その後に大台ヶ原に入った人が何人か証言を残している。明治11~12年(1878~79)にかけて、実利行者は中部・関東・東北の有名な霊場を訪れたことが、日誌が残っていて分かっている(これらの年譜的事実は、主としてブッシイ前掲書第1章による)。


◆ 2.3: 松浦武四郎 の『大台紀行』 

すでに述べたように、実利行者が那智の滝で捨身入定をしたのは、明治17年(1884)4月21日のことであった。われわれにとって幸運なことに、蝦夷地探検で有名な松浦武四郎が実利行者や大台ヶ原について同時代の証言を豊富に残してくれている。というのは、松浦武四郎は伊勢の出身でもともと大台ヶ原に関心を持っていたが、晩年になってから大台ヶ原踏査を実行する。そして、明治18~20年に渡る3年連続で大台ヶ原踏査を果たし(いずれの年も4~5月頃)、筆まめな松浦はその年毎に墨絵スケッチ入りの詳細な紀行文を残した。
彼は修験道に同情的であって、明治20年最後となった大台踏査で、自ら牛石の地で護摩修行をしている。それに合わせて周辺の山村から老若男女が牛石へ上ってきており、この時の紀行文「丁亥前記」(ていがいぜんき)には村毎に分類した57名の氏名が記録されている。そのうち10名は10代の若者たちである。山民たちの名簿を残し、年齢が分かればそれも記しておく、そういうところに松浦の思想がよく現れていると思う。また、彼は筆によるスケッチを多数残したことも独特である。この護摩修行のとき松浦武四郎はじつに七十歳であり、その健脚と旺盛な好奇心に驚く。翌年死没する。

松浦武四郎の大台踏査では、現地から道案内人を何人か雇っているのであるが、そのほとんどが山伏修行の経験者であり実利行者の弟子たちであった。松浦自身は実利行者と会ってはいないが、那智の滝捨身入定の直後のことであり、現地での行者への尊崇の念は熱いものがあったと思われる。
「乙酉紀行」(いつゆうきこう、最初の踏査の記録、1886)で、真田八十八という有力な案内人と天ヶ瀬で出会ったときのことを、松浦は次のように書きとめている(明治18年5月15日)。
しばし有りて真田八十八なる者、一二人の村人を召連れて来り、一応挨拶の末、今度我が大台行を大いにめで、都合により[都合が良ければ]自らも登山せんと語らはれけるに、此者、実利行者とて生国美濃国にして元来御岳行者なりしに、慶応三年峯中ぶちゅう笙の窟に籠もりて行を始め一千日籠居し、明治三年九月大台山牛石に移りて自ら草庵を結て修行、同七年冬まで一千日修行有。其後城州八幡山に到り、其より処々千日の修行畢て、去る年紀州那智の滝より捨身したまゐし荒行の行者の弟子にて至て信者のよし。依て我一面をして此人可頼人[この人頼むべき人]と決心してけるが、先其座[まずその座]はそれにて相分れたり。外三人程同道の人何れ実利の門人のよしなり。(『松浦武四郎大台紀行集』松浦武四郎記念館2003、p28)
去る年紀州那智の滝より捨身したまゐし」というのは、わずか1年前の4月のことを指しているのである。

『松浦武四郎大台紀行集』に「弥一」などとして頻出する、有力な案内人であった岩本弥市郎の珍しい肖像写真が「実利行者の足跡めぐり」の天ヶ瀬 岩本家に掲げてある。山伏姿であることも一見に値するが、なんといっても弥市郎さんが骨太の体躯で実に立派なお顔をしておられることに感動した。修験の人たちというのはこういう人たちだったのだなと強く印象された。


◆ 2.4: 明治18年の「大臺原紀行」 

松浦武四郎が最初に大台ヶ原を踏査した5ヶ月後に、大阪府の官吏3名(木下文三郎、小野戒三、天野皎)が大台ヶ原の調査のために吉野側から熊野へ、柏木・天ヶ瀬・開拓跡・牛石・船津と歩いた際の記録。下命に対する「復命書」という公文書である(拙サイトに置いてある大臺原紀行参照)。
この資料はいままであまり知られていないものなので、ここで「大臺原紀行」から数ヵ所引用しておくが、引用の句読点・用字・強調は引用者(き坊)の私意によるところがある。

まず、「牛石」が明治18年当時、ほとんど世間に知られていなかったことを示している個所。この引用部の語り手(予)は、松浦武四郎の道案内をした岩本弥一郎(弥市郎)氏である。
(松浦)武四郎の山をるや、其牛石に至り(牛石は地名、後に詳かなり)、其風景の美、地味の肥なるを見て、此に方丈の室を造らん事を求む。予今爲めに斡旋し、事相成る。(「十二日」より、強調は引用者)
明治18年に府吏が府に提出する復命書に「牛石は地名」であると断る必要があったことは、当時、牛石が山民などを除けばほとんど知る人がいなかったことを示している。
その牛石に対して無礼な振る舞いがあると、天候急変などの祟りがあるという言い伝えがあったというが、それを知らない府吏・戒三が牛石の上に座ってしまい、急に霧に鎖される。
其牛石に至るや天晴れて風なく、正に熊浦を一眸の中に集むと。磁石を出し双鏡を開き、以て觀望の備をなす。戒三牛石に踞してやすらふ。役夫曰く「爲る勿れ、山靈祟あり。輕けれは則ち雲霧、重けれは卽ち雷霆神らいていしんの怒に觸れん」頭を振て大に恐る。須臾しゅゆにして、雲霧四塞、茫々として見る可らす。乃ち諸器を収む。衆皆戒三をめてます。(「十六日」より)
牛石に無礼があれば祟りがある、という伝説は仁井田長群「登大台山記」(天保五年1834)に既に記録されている。
大禿(牛石ヶ原)に牛石といふあり。或はオシ石といふ。相伝ふ、昔役行者牛鬼を押たる所なり。そのふせ残りを理源大師この牛石に封じ込しといふ。この石に障る者あれば白日瞑闇になり、咫尺しせきを弁へざるに至るとて猟師など恐れて近よらず。 「登大台山記」より)
「登大台山記」は大著『紀伊續風土記』の資料として使われたものであるが、明治18年の「役夫」たちには50年前そのままの“恐れ”が生きていることが分かる。それに対して、この伝説は府吏のような新時代のインテリにはまったく伝わっていなかった。だが、彼らはそのことを「復命書」に書き留めるセンスをもっていた。

次は実利行者に言及しているところである。信者達が継続的に登ってきていたので、その踏み跡が「路經」をなすほどになっていたという証言である。また、現在も牛石の傍に存在する「碑」について、詳細な証言を残してくれたことも、貴重である。
総じて、府吏らは実利行者を迫害した側に属するわけであるが、実利に同情的な口吻とも受け取れる書き方をしていることも、注意したい。
明治六、七年の間、此の地に道士あり。實利ジツカガと云ふ。能く秘法を修し、山靈の祟を鎭すと。乃ちいほりを此の地に結ひ、行法を修す。山麓の民、相信して、日々燒香するもの數人、是に於て大臺ヶ辻及東の川より信徒の登るもの、大都おほよそ一月に二三十人なりしを以て、路經僅に存すと雖ども、今や廢絕十年過くるを以て、榛荊しんけい再ひ閉ちて又認む可らす。然れとも、斷續(とぎれとぎれに)、其形跡を存す。

此の實利ジツカガなるもの牛石の南東邊に一碑を建つおもて正面)に孔雀明王、左に陰陽和合、右に諸魔降伏の字あり。脊(背面)に實利及丞の花押あり。左側(左側面)に明治七年戊三月と記す。後、奈良縣官、其民を惑すを疑ひ、道士を逐ひ、其廬に火す。其殘礎今猶存せり。民今に至るまて之をうらみとす。
(「十六日」より ルビ「ジツカガ」のみは底本のもの、他の茶色の字はすべて引用者による)
資料「大臺原紀行」には上に引用したように「實利」が2回登場するが、これですべてである。したがって、明治18年当時盛んに話題になっていたと思われる実利行者の“那智の瀧での捨身入定”に関しては、まったく触れていない。

松浦武四郎に関しては『明治史要 第1巻』から明治三年三月二十九日条の記事を引いて、北海道開拓の功績を認めて「十五口俸」の「終身東京府士族ト為ス」という栄誉を与えられていることを示している(「十二日」)(『明治史要』はGoogle ブックスのなかに収録されているので、少なくとも、第1巻はPDFとしてダウンロードできる。ここ)。
3名の府吏たちは、終始、松浦武四郎がどの道を通ったかを強く意識しており、武四郎が通っていない道を選ぼうなどと論議している。


◆ 2.5: 山伏の大峰修行のこと 

山伏が山岳修行で山にはいることを入峰にゅうぶ、「峰入り」とも]といい、所定の修行を果たして山から出ることを出峰しゅっぷ]という。入峰と出峰の間に行われる山中での修行をすべて峰中とよぶ。
解読のために有用であるので、「大峰」の説明をここで引いておく。
大峰の春の峰入は二月はじめに熊野から入峰にゅうぶして、百日をかけて五月半ばに吉野で出峰しゅつぶした。(五来重『修験道入門』角川書店1980、p167)

熊野から吉野へ向かうこれを順峰じゅんぷ(順の峰入)というのは、南である熊野を表とし、北にある吉野を裏としたからであろう。ちなみに大峰山というのは大峰山脈全体を指すのであって、熊野本宮から玉置たまき山をへて、笠捨山・行仙ぎょうせん山・涅槃ねはん山・地蔵岳・大日岳・釈迦嶽・孔雀岳・仏生岳・明星岳・八経岳(仏経ヶ岳)・弥山みせん・行者還岳・七曜岳・国見岳・大普賢岳・龍ヶ嶽・山上ヶ嶽・大天井ヶ岳・四寸岩岳・青根ヶ峰をへて吉野に至る、南北約百八十キロの山脈である。これを踏破することを大峰奥駆修行といったが、いまは山上ヶ嶽までは容易に行けるので、山上ヶ嶽から南を奥駆道おくがけみちといっている。(同前、p166)
「熊野本宮」はいうまでもなく紀伊国(和歌山県)であり、大峰奥駆の道は、玉置山から北はすべて大和国(奈良県)である。

大台ヶ原は大峰奥駆のコースから直線距離で20kmほど東に離れている。そこは、台地と急峻な谷を持つ複雑な地形の場所で、大峰修験の修行場にはなっていない。雨量が多く、深い森林と笹の覆う開けた地とが組み合わさっていて、近寄りがたい岩峰[“くら”と呼ばれ「嵓」が宛てられることがある]や、見事ないくつもの滝が存在する。あまり人が入らず、岩茸取り・鳥もち[]作りなどの山人が入るだけで、「人跡稀れ」と称される奥地であった。前掲のように山民たち婦人・子供も含めて60余人が牛石に入って護摩修行に参加しているのであり、人が入るのは不可能な秘境というのではなかったことはいうまでもない(山に慣れている山民たちだから入っているので、けして入るのが容易だというわけではない)。
上図(MapFanWebから原図をいただきました)では、奈良県と三重県の県境が大台ヶ原を通っているが、江戸時代には、大台ヶ原の堂倉山までが紀伊国であったので、“大台ヶ原は大和国・伊勢国・紀伊国の3ヶ国の国境[くにざかい]”と言われていた。この問題については、後に、より詳しく取りあげる。



【 3 】 2つの読解試案






◆ 3.1: 私案 

ともかくわたしは「実利行者立像」の「讃」を読んでみることにした。ざっとやってみて、何とか読めるようだったら、安藤氏に報告して本格的に取り組んでみよう、自分の手に負えないようなら諦めようと思っていた。

ざっと見ただけで、「讃」の前半には実利行者が修行した場所が列挙してあるらしいことはすぐ分かった、御嶽山・富士山・大和の大峰・笙の巌窟などである(幸い「笙の巌窟 しょうのいわや」の地名をわたしは知っていた)。後半は「那智の瀑布」で「入定」したというのはすぐ読み取れたが、それ以外はなかなか難しそうに思えた。

まず始めに、じつに困ったことは、冒頭の第1行が分からないことであった。墨太くしっかり書いてあるので、読めるのだが意味が分からない。
実利行者は生国もヽくき根
冒頭の第1行からして意味が分からない、というのなら、この「讃」はわたしの手の届かない高いレベル(あるいは特殊な世界)にあるんだろうな、とすっかり悲観的になってしまった。
数日あきらめて放置してあったが、わたしは次のように考えていった。次の行とのつながりをみるべきだと考えたのである。
実利行者は生国もヽくき根
美濃のくに恵那郡
この1,2行目は実利行者の生国(これが美濃国恵那郡坂下村であることは知っていた)を述べようとしていて、「生国」と「美濃のくに」の間に入っている語が問題の「もヽくき根」なのである。実質的意味としては「生国は美濃の国恵那郡」で十分に完了しているのだから、「もヽくき根」は、「生国」と「美濃」の間に挿入されて、それらを結ぶ役を果たしている、・・・・らしい。
わたしは、ここで、手元の辞書(『大辞林』三省堂)を引いてみる気になった(“不明な語にぶつかったら辞書を引け”と国語の先生はいうが、実際には、辞書を引きたくなる必然性にぶつからないと、なかなか辞書を引かないものだ)。なにか「美濃」に関連した語ではないか、という予想である。だが、「ももくきね」という語は辞書に出ていなかった。しかし、幸いに「ももきね」という語がすぐ目に入った。
ももきね[枕詞] 国名「美濃」にかかる。語義・かかり方未詳。「― 美濃の国の高北のくくりの宮に/万3243」
「ももきね」が美濃にかかる枕詞なら、「ももくきね」だってそうだろう、とわたしは簡単に納得した。わたしは「ももきね 百木根」と「ももくきね 百茎根」と勝手に漢字を宛て、いずれも樹木繁茂のイメージを喚起しようとしている、と考えたのである。
辞書が「語義・かかり方未詳」と言っているのだから、そう簡単ではないのだろうが、わたしにとっては大いなる前進であった。つまり、これで冒頭一行の難解語のハードルがなんとか越えられた。それなら、「讃」解読に挑戦してみてもいいのじゃなかろうか。そう考える力が湧いてきたのである。

その段階でともかく「讃」を読んでみて、読めないものは不明のままにしておいて、一応の自分のベストの解読と思われる試案を作成し「私案4/27」とした。

【私案 4/27-2010】




01  實利行人は生国もヽくきね
02  美濃ヽくに恵那郡坂下むら
03  農家にて二十有といふとし
04  家に妻子を残して発し諸霊山を
05  巡り就中信濃の御嶽山ヘハ数度登り
06  駿河なる富士山にてハ()行を修しまた筑紫の
07  天拝山又あるときは大和の大峯笙の巌窟

08  仝深山
09  山城なる男山鳩乃峯
10  一時ハ和勢紀三州に跨る
11  大嶺(臺)ヶ原ニ篭り ・・・
12  ( ・ けら)牛石乃傍らに(身修行)
13  する事日あり(末禮に)紀伊国牟婁郡
14  那智の瀑布に入定(須案 ・ なかれ
15  明治十七甲申年四月廿三日行年四十(有  )
16   人と倶に山篭 ・・
17   知邦元 
18  ・・ 禿児是白
19  画号霊雲洞清岳(印)  誌



( )は不確かだがとりあえず読んでみたところ、「・」はわたしには読めない不明字


下で説明するが、赤字個所は私案が「郷土史家案」と相違していたところ。また、郷土史家案は、私案の不明字「・」をすべて読んであった。緑字数字は、説明のために付けた行番号。(先の図版では【01~07行目】が右側図版、【08~19行目】が左側図版で、右側と左側とで、番号を振る方向が逆になっていることに注意。

解読を一応終わってから、改めて万葉集の「ももきね」や「ももくきね」を調べて、「百茎根 ももくきね」として、別ファイルを作った(9/25-2010)。
わたしとしては、万葉学の一端に触れることができて、有意義であったと思っている。



◆ 3.2: 郷土史家案 

紀州にお住まいの寺嶋経人氏はわたしの旧稿「南方熊楠の日記にみえる捨身行者・実利」(1989)に登場する方で、氏には那智の滝から遠からぬところにある実利行者の墓を案内していただいた。安藤氏はその旧稿をネット上で目にしてわたしに連絡を下さって、それ以来の知り合いである。わたしが「讃」解読に挑戦することについても、寺嶋氏には深い因縁があるわけである。

それで寺嶋経人氏には事情が説明しやすいし、「ももくきね」のあと目立った進展がみられないわたしの解読作業に新たな展望を見つけるために、上掲の画像と「私案4/27」を氏に送って、助力をお願いした。
寺嶋氏の周辺に書道家や古文献に慣れた郷土史家などがおられることは知っていたので、わたしの試案を見ていただいて、初歩的な誤読などを指摘していただけたらありがたい、という依頼をした。

すると、長年地元の郷土資料の研究をなさっている方が解読を試みてくださることになり、拙い「私案4/27」についても目を通して下さることになった。当初わたしが考えていたよりずっと踏み込んでくださることになったのである。その方の解読文がわたしの手元に届いたのは6月13日だった。以下、その解読文を「郷土史家案」と呼ぶことにする(日付は仮に6/12としておく)。

ただその方は、実利行者について事前の知識も特別の関心もお持ちではない方であった。そういう方が敢えて読んで下さったのである(それだけでなく、後々まで拙論に関心を持って下さって、不明字の読解案を示して下さった。その一端を「『擲身』という語」にまとめた。深く感謝いたします。
実際にわたしはいくつか誤読をしており、それらについて重要で貴重な指摘をしていただいた。それなら、「私案4/27」に「郷土史家案」を継ぎ足せばそれが正解となるのか、という疑問が生じるであろうが、そうならないところが面白い。その議論は、後段をみて欲しい。

【郷土史家案 6/12-2010】




01  実利行人は生国ももくき根
02  美濃のくに恵那郡坂本村の
03  農家にて二十有といふとし
04  家に妻子を残して発し、諸霊山を
05  巡り、就中信濃の御嶽山へ 数度登り
06  駿河なる富士山にて 行を修し、また筑紫の
07  天拝山又あるときは、大和の大峰、笙の巌窟

08  同深山
09  山城なる男山鳩の峰
10  一時 和勢紀三州に跨る
11  大嶺おおみね、臺ヶ原(大台ヶ原) 籠り、まさ)死
12  のぞみ牛石のかたわらにて身修行とうしんしゅうぎょう
13  すること日あり、未往いまだゆかざるに紀伊国牟婁郡
14  那智の瀑布に入定す、実 これ
15  明治十七甲申年四月廿三日行年四十有
16  此人とともに山籠致し
17  知邦元こと
18  金兜禿児是白
19  画号霊雲洞清岳 あわせてしるす






これが頂いた「郷土史家案」である。
上の赤字部分は、「私案4/27」と相違している個所、あるいは私案の不明字を読んであった個所を示す。

「郷土史家案」について必要と思われる注記や、わたしの気づいたところを示しておく。
(1) いただいた郷土史家案は縦書きで、[ ***** ](青字)は振り仮名がほどこされていたもの。
(2) 「、」読点は、郷土史家案にほどこされていたもの。原文には句読点はないので、意味の切れ目を示して、より解読を明瞭にするためにお付けになったのだろう。
(3) 【11行目】には、読点「、」と(大台ヶ原)さらに(ニ)が挿入してある。
(4) 「霊」と「金兜」には傍線とともに疑問符「?」が付けてある。“原文は墨のにじみで読むのは困難だが、参考になるかも知れない”と考えてあえて案を示して下さった、ということだろう。
(5) 最後の行の「 」は、押印。


【 4 】 行ごとの議論





以下、この「実利行者立像」の解読の不明点や問題点などを、各行ごとに書いていく。その個所を示すために、上から【01行目】~【19行目】などと記すことにする。

また、各行ごとに、わたしが最良と考える解読案を示していく。




01行目】
實利行人は生国もヽくきね(私案)
実利行人は生国ももくき根(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

「行人」
「行人 ぎょうにん」という語は「行者」と同義と考えてよいだろうが、2点指摘しておきたい。

  1. 「行人」という語は、中世以来高野山系で「学侶方、行人方」といわれて、高野聖などの労働・勧進などに携わる者に使用された。したがって、修験道系では「行人」という呼称が普通に用いられる。

  2. 実利の位牌のうち上北山村西原の岩本家に保存されているものには「空 行人實利霊位」とあって、まさに、「行人」が使われている。これは、サイト「実利行者の足跡めぐり」の天ヶ瀬 岩本家に写真が掲げてあるが、ブッシイ前掲書にも紹介されている(p272)。
    したがって、この「讃」の作者が「行人」という語の使用される範囲にいた可能性があり、また、岩本家に保存されている位牌を見ている可能性がある。

「ももくきね」
辞書によれば「ももきね」は美濃にかかる枕詞(万葉集)で、おそらくそのバリエーションとして「ももくきね」も同義なのだろう、そう考えて「讃」の解読にかかったことは、前述の通り。「百木根」と「百茎根」が同義だろうというのはわたしの思いつきの推理である。

万葉集にあたってみたところ、じつは「ももきね」は万葉集に1回しか登場せず、しかも「ももきね」から始まる長歌1首は有名な“難解歌”だという。「巻第十三」の3242番、
ももきね、美濃の国、高北の、八十一隣[ククリ]の宮に、日向尓、行靡闕矣(以下略 9×9=81を使って、クク
「岩波古典体系本」の『万葉集 三』の頭注は、「ももきね」について、「枕詞。美濃にかかる。かかり方未詳。首肯すべき説を見ない」云々とある。
わたしは「ももきね」ないし「ももくきね」一語に限って、万葉学を調べてみた。すると3242番で「ももきね」と表記されているのはすべて大正時代以降の『万葉集』であり、古い『万葉集』はことごとく「ももくきね」としていたのである。つまり、万葉集の伝統的な読みは「ももくきね」だったのであり、「ももきね」は昭和になって現代の万葉学が認めた新しい説であるということだったのである。(詳しくは別にまとめた「百茎根 ももくきね」を参照していただきたい。

わたしは「実利行者立像」が制作されたのは明治時代後半であろうと考えているが、その「讃」が万葉集の伝統的な読みに従って「ももくきね」としたのは当然だったのである。さらに、わが「讃」の作者は美濃の枕詞として「ももくきね」を使えるような教養ある文人であった、と言ってよいであろう。

実利行人は生国もゝくきね





02行目】
美濃ヽくに恵那郡坂下むら(私案)
美濃のくに恵那郡坂本村の(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

「坂本」は、郷土史家案に従う。
わたしは林喜代八・実利行者が「濃州阿弥郡坂下村産人」であることを知っているので(【01行目】で紹介した位牌の裏面)、むりやりに「坂下」としたのだが、郷土史家のコメントで「どうしても坂下とは読めません」と指摘された。
「坂下 さかした」を「坂本」と誤記することはないだろうから、「讃」の作者は「坂下 さかもと」と読んで、「坂本」と書いた可能性がある。郷土史家は「大阪の橋下知事の例もありますから」と誤記の可能性を述べておられる。実利行者の生家跡には現在「実利教会」があるが、岐阜県恵那郡坂下町[さかしたちょう](近頃、中津川市となっている)である。

もし、この推理が合っているのなら、作者は実利行者と同郷の人ではなく「坂下」を文字だけで知っていた人の可能性が大きい。

「村の」 ここも、郷土史家案に従う。私案ではここを「むら」と読んでいた。
下の写真版から切り抜いたところを見て欲しい。原文は万葉仮名を復元させて書くと「坂本村能」であるのだが、わたしはそれを「村⇒武⇒む」、「能⇒羅⇒ら」と誤ったのである。初歩的な誤読といってよいと思う(特にわたしは「村」の草書体が読めていなかった)。いずれも草書体の万葉仮名を比較すると、訓練できていない素人には似て見えるのである。

後に【12行目】で述べるが、「ら⇒の」の訂正を郷土史家から指摘していただいたことは非常に重大な内容を含んでいた

この行の仕上がりについて、「私案」と「郷土史家案」を並べてみる。
美濃ヽくに恵那郡坂下むら(私案)

美濃ヽくに恵那郡坂本村の(郷土史家案)
ご覧のように文章の意味としてはそれほど違ってきているわけではないのは(「坂本」と「坂下」の違いは大きいとしても)、わたしも「郷土史家」氏も、基本的には手探りでそれらしい“意味のアタリ”をつけながら、解読を進めているからである。わたしと「郷土史家」氏の違いは、万葉仮名の草書体を解読するのに習熟しているかいないかの違いであるが、ベテランの「郷土史家」氏においても草書体を完璧に読み解いているわけではなく、与えられたテキストにおける或る読み幅の中で、“意味のアタリ”を探って行きつつ、解読文を確定して行っているのである。その点はわたしの方法とそれほど異なるわけではない。そういうことを、今度、学ぶことが出来た。

繰り返しになるが、事実は実利行者の生地は「坂下さかした村」であった。したがって、ここの「讃」の記述は事実と異なることになる。

美濃ヽくに恵那郡坂本村の





03行目】
農家にて二十有にといふとし(私案)
農家にて二十有五といふとし(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

「二十有五」 これには、次に述べるようないきさつがあるが、郷土史家案に従う。

じつは、私案ははじめは「二十有五」にしていた。原文を見てもらいたいが、数字のつもりで見れば「五」に読めるのである。だが、次ぎに説明する理由により、私案では「二十有二」とした。下はその説明用の図である。



郷土史家案を基準にして説明すると、「農家て」の「に」と「二十有」の「五」が原文ではよく似ているのである。それゆえ「私案4/27」では「二十有」と読み、それは「二十有」を意味している、と考えたのである。
じつは、それを脇で支える理由が2つあった。

(1) 草書体の勉強をまったくしたことのないわたしが草書体の文を読む際に頼りにするのは、「東京大学史料編纂所」が公開している「電子くずし字字典DB」[データ・ベース]である。(このサイトは、個人で日本古典・日本歴史を勉強する時に利用できるきわめて強力・有用な資料室となるので、紹介しておく。古文献の全文検索など多数の有用な資料群が存在し、「電子くずし字字典DB」はそのうちのひとつ。
まず東京大学史料編纂所の「データベース検索」へ入る。 画面中央やや下にある「データベース選択画面」をクリックすると、利用できる幾つものDBが並んでいるが、右下の方の「電子くずし字字典データベース」をクリックする。自分が草書体を知りたい文字を入力する窓がでるので、そこへ、いまの場合「五」を書き込む。その時出てくるのが五の画面である。


この「五の画面」を眺めていて、“五と読んだけれど、どうも違うなあ”と思案していた。そのとき、すぐ上にとてもよく似た「而 に」があったのである。それで“なんだ、二十二じゃないか”となったわけである。

(2) もうひとつの理由は、実利行者が妻子をおいて出奔したのが「二十二歳」の時であると、あからさまに書いている有力な文書が存在することである。それは、ほかでもない、この掛軸「実利行者立像」の所有者・北栄蔵が述べた「実利行者尊御事跡」である(聞き取りは寺垣内の正法寺住僧・定円泰恵)。
長ズルニ及ンデ、益々天地神明ヲ崇拝ス、一夜神夢ニ感ジ、飄然トシテ故郷ヲ辞ス。
時ニ歳二十二歳、之レ即チ行者ガ霊光人ヲ感ゼシムルノ端緒、又救済ノ一路乎。
(ブッシイ前掲書p274)
ここで北栄蔵について述べておく。この「御事跡」に「付記」があり、定円泰恵の言葉で「北栄蔵ハ死ニ垂ン垂ンタル病苦、不思議ニモ行者ノ術ニ依ッテ助命セラレタル幸福ハ千秋一隅ニシテ」云々とのべている。本稿の冒頭で述べたように、北栄蔵は、死病から救出してくれた実利行者に終生変わらぬ深い感謝の気持ちを持ち続けた。
実利行者は、前年秋から那智に入り、冬籠りの行をおこなっており、それの最後に瀧入定を予定し、その数日前に遺書を何通か書き残した。そのうちもっとも一般的な挨拶に相当する遺書は「北山三名方」宛てに書かれているが、そのひとりが北栄蔵である。(遺書は、那智の滝に捨身する2日前の日付であるが、捨身の計画も、その意図や目的についても触れていない。「無常の煙となること因縁なれば」と言うばかりである。
しかし、言うまでもないことだが、実利が周到に遺言などを用意しておいたことは、那智の滝入定が十分考え抜かれた必然性のある宗教行為であったことを示している。
長々御世話ニ相成大峰山も
大法道路出来仕久々の
御厚をんをいただき今爰ニ
無常のけむりとなる事
いんゑんなれば此段御断
り申置候諸種せ()主方江
宜敷頼上候
  恐々謹言

明治十七年四月十九日

北山三名方
  新し
  和田            林実利
  北

                       
(ブッシイ前掲書p149)
実利行者の方からみて、この3人がもっとも頼りにしていた有力者であることは、郷里の肉親へ書面で自分の死を知らせてやって欲しいという遺言状を別に残しているが、その名宛が「新子伊平次殿、北栄蔵殿、和田喜平殿」となっていることからも分かる。

「讃」を解読する作業で、なぜ、こういう事が重要かというと、この掛軸「実利行者立像」を北栄蔵が手に入れ所蔵し子孫へ伝えているからである。この掛軸は、実利行者ともっとも近しく交流していた信者であり援助者でもあった北栄蔵の目を通っているのである。「讃」を読んだ北栄蔵たち行者をよく知る者たちが、納得し追慕の念を新たにするような内容であったであろう。さらに想像すれば、この掛軸の作者は北栄蔵と面識があり、北栄蔵の要請があってこの掛軸作品を描いた可能性さえある。

だが、「二十有五」と解読する説を、わたしは最終的に採ることにしたのだが、理由は2つある。
(3) そこに数字があると思って読むと、無理なく二十有「五」と読めてしまう。たしかに「電子くずし字字典DB」からすると少し苦しいのだが、二十有「二」と書くところを二十有「に」と書いたというのも苦しいのじゃないか。それに、実利行者の出奔時の年齢などまったく情報のない郷土史家が二十有「五」とお読みになったというのも、かなり有力な理由になろう。

(4) もうひとつ、二十五歳の方が都合のよい強烈な事実がある。実利行者自身が「二十五歳の秋に、発心した」と述べているのである。実利行者自作の勤行書『実法・行者講私記』(坂下町の実利教会発行)に所収の「導師和讃」の初めの数行を引用してみる。実利行者自作の和讃である。
    導師和讃どうしのわさん

我身民家出生至がしんみんかにしゅうしょうし 時能表裏ときのひょうりに於任身みをまかせ

六親他外恩愛ろくしんたがいのおんあいに 空敷送留年月むなしくおくるとしつきは

二十五歳秋過にじゅうごさいのあきをすぎ 天神地祇理不尽てんじんちぎのりもつきず

先世植足種恵ぜんせうえたるたねをえて 発心祖師大道ほっしんそうしのだいどうへ
(以下略 振り仮名は原文)(ブッシイ前掲書p163)
明治35年(1902)4月21日に実利教会境内に建てられた「石碑」にも「年廿有五飄然出家」とある(同p157)。A.M. ブッシイ自身が坂下町において行った教会信者とのインタビュー調査によっても、「行者二十五歳」のとき坂下の御嶽講信者12人と一緒に御嶽山に登り、行者に神秘体験があったらしく口をきかず急に出家したという証言を得ている(同p31~32)。

(1)、(2)(3)、(4)を勘案して、わたしは後者の方にやや分があると判断した。年次の問題はどちらが史実であるかということが重要だが、「解読」は、掛軸「立像」の作者が「二十有五」と書いたか「二十有二」と書いたかを問題にしているのであり、史実とは一応独立の別の問題である。
わたしは、解読の問題としては「讃」には「二十有五」と書かれているとするが、史実の問題としては、あるいは「二十有二」の方が正しい可能性は残っている、と考えている。


農家にて二十有五といふとし





04、05行目】
家に妻子を残して発し諸霊山を
巡り就中信濃の御嶽山ヘハ数度登り
(私案)
家に妻子を残して発し、諸霊山を
巡り、就中信濃の御嶽山へハ数度登り
(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

この2行には解読上の問題となるところはなかった。
林喜代八・実利は十八、九歳ごろに結婚し、子をもうけている。彼はそれまでに御嶽講の熱心な信者として経験を積んでおり、御嶽修験の行者となるつもりで修験道の勉強を始めていたのだろう。

あるときの御嶽教の「お座立て」(託宣)で、御嶽山の頂上の三の池の竜王が出て、「夜中に自分は姿を現すから、会いたいと思う者は池までやって来い」とお告げがあった。みな、恐ろしがって尻込みしていたところ、喜代八が行くと申し出た。彼は夜中に独り三の池まで上っていった。明方に降りてきたが、何をきいても一言もしゃべらず、そのまま出家したという。(「実利行者の足跡めぐり」の三の池に画像がある。)(このいきさつなどについて実利行者の生年問題と初期活動の《2》でより詳しく扱っている。

なお、わたしは実利行者の発心だけでなく、その後の修行においても竜神信仰が重要だったのではないかと考えている。ことに最後の那智の滝への捨身入定は、竜神信仰抜きにはありえなかったのではないかと思う。


家に妻子を残して発し諸霊山を
   巡り就中信濃の御嶽山へハ数度登り





06行目】
駿河なる富士山にてハ苦行を修しまた筑紫の(私案)
駿河なる富士山にてハ立行を修し、また筑紫の(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

「立行」 これは、なんの保留条件もなく「郷土史家案」に完全に従う。
わたしは「立」の草書体を読むことができず、「私案4/27」では一般的な推理で「苦行」という常識的な解を置いておいただけである。郷土史家に特に感謝したい。

富士講の始祖といわれる角行(書行とも)は、長崎の産で天文十年(1541)~正保三年(1646)の百六歳の長命。十八歳のとき、富士の人穴(富士宮市)に入り修行していると、「天童」が現れ、「角」の上でつま先立ちの行をすることを指示する。
しからば大行仕可申事伝へ可申もうすべしまず此処ここかくを立て、もっとも四寸五分[約13.5㎝]角也。此上に両足つまだち、日に三度夜に三度、昼夜に六度水こりを取可申とりもうすべし。(中略)内心六根ろっこんを清め一千日のうち大行可仕つかまつるべし(日本思想体系67『民衆宗教の思想』(岩波1971)所収「角行藤仏くう[人偏に杓]記」p455)
富士講は江戸期後半に江戸から関東一円で非常に盛んになった。天保(1830~44)のころには「江戸八百八講」と言われるほどであったという(江戸の各町にひとつずつ講ができるほどだった、の意)。

美濃の坂下を出奔した実利行者はまず伝統ある大峰へ入ったとされるが、先に紹介した北栄蔵「実利行者尊御事跡」によると、実利はまず富士山へ行き三年間山頂に留まったという。
思ヲ白雪、紛々タル富士登山ニ致ス、嶮岸ヲ攀ジ、峻坂ヲ辿リ、遂ニ頂上ニ達シ而モ、止マル事、三霜苦行徳ヲ積ミ、功ヲ累ネ、二十六歳ノ春下山ス。(ブッシイ前掲書p274)
この伝説的な「三霜苦行」という表現は、千日行を意味しているのであろう。
「実利行者立像の讃」の作者は、直接北栄蔵から富士山修行の事跡を聞いた可能性もある。あるいは、実利行者が富士山で実際に立行を修行したという言い伝えが信者の間に存在していたのかも知れない。「讃」の作者は、富士山修行といえばすぐに富士講始祖・角行の立行を連想して、ここに用いたのであろう。(一般論だが、地理的に近いので、富士講と御嶽講との交流や、相互の影響関係も考えられる。

駿河なる富士山にてハ立行を修しまた筑紫の



実利行者の生年がいつであったかに2説ある。出奔の年齢にも2説あり、初期の実利が大峰に入った時期がいつになるのか、そういう基本的なことについて論点を整理しておきたいと思い、本編から分離して「生年問題と初期活動」という文書を作った。

07行目】
天拝山又あるときは大和の大峯笙の巌窟(私案)
天拝山又あるときは、大和の大峰、笙の巌窟(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

「筑紫の天拝山」
ここに解読上の問題はないのだが、実利行者が九州に足をのばしたことがあったのかどうか、追及すべき課題のひとつである。ブッシイ前掲書が示している限りでは、行者の活動は西日本に及んでいない(中国へも四国へも及んでいない)。
しかし、明治三年(1870)十二月の年次のある「転法輪」の奥書に「中山伯一位猶子」と自ら書いているのは、明治天皇の母方の祖父にあたる中山忠能[ただやす]が実利行者の信者となり、行者を「猶子」(養子)としたことを意味する。つまり、この段階で実利行者は京都(や東京)の上流階層の一部にも名の知られる有名な修行者となっていたのである。ブッシイ前掲書は、次のように指摘している。
なお、行者が厳しい修行をして有名になったので、(中山)伯爵の外、有栖川宮、聖護院、財閥鴻池家などと信仰上の関係ができた。そのころ、有栖川宮家のために御殿普請の鎮宅祈祷をした時、「大峰山二代行者実利師」(原文は傍点)という号を有栖川宮から直々授けられた。これは役行者に次ぐすぐれた山伏という意味であった。(同p38)
実利行者の活動は年譜的には空白だらけであり、なにかの機会に九州まで出かけたという事実が出てこないとは言えない。この「立像」の作者は「筑紫の天拝山」で行者が修行したことを知っていてここに書いた、と考えておくのが解読作業のフェアーな態度だと思う。
松浦武四郎の最後の旅行「丁亥前記」(明治20年1887)では、松浦が東京を出たのは3月22日であり、関西、四国、九州まで足をのばし、彼がふたたび関西に戻り、竹之内峠を越えて吉野に向かうのが5月5日である。それから彼は大台に入り、5月12日に大台で護摩修行をしている。郷里の伊勢を経て帰京したのが5月27日。松浦は当時もっとも行動的な探検家・旅行家であったわけだが、七十歳である。その彼にして2ヵ月余でこれだけ動いている。人力車・汽車・船と徒歩の旅行・探検である。もし、招請があれば、せいぜい四十台そこそこの実利行者が九州まで出向くのは容易なことであった。

この【07行目】の後半部に解読上の問題点はないのだが、後の議論に関係するので、指摘しておく。それは、後半部「又あるときは大和の大峯笙の巌窟」のところである。ここに明瞭に大和国の大峰山系と、中でも有名な修行場である「笙の巌窟 しょうのいわや」を述べている。また、次の第8行では「深山 じんせん」を述べている。
これらは日本の修験道の発祥の地といってよい、役行者以来のもっとも伝統ある山岳修験の中心地帯に分布する有名修行場である。そこにおいて実利行者は幕末から明治初年にかけて激しい優れた修行を重ね、注目されるようになっていたのである。

天拝山またあるときは大和の大峯笙の巌窟





08行目】
仝深山(私案)
同深山(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

」は「同」と同字。
深山 じんせん」は普通名詞ではなくて、有名な靡[なびき 修行の場所]、深仙、神仙とも書かれる。ここは大峰全75靡のうち38番目で、ちょうど中央になり、大峰全体を曼荼羅とみなす立場から「大峰両部中台の深山宿」と呼ばれる。ここで修行完了を確認して、山伏が潅頂を受けるところとして有名であった。この修行場・深山を支えたのが山伏村・前鬼であった。

実利行者は幕末に美濃国坂下から出奔し、明治7年(1874)までに、笙の窟と深山の2つの由緒ある修行場で千日行を行った、と伝えられる。彼は御嶽講の信者としての経験はあったが、本格的な修験修行や思想的基礎の訓練などは前鬼において、五鬼熊義真の教えを受けた。ブッシイは次のように述べている(彼女は二十五歳出奔説である)。
故郷を出た二十五歳の実利は、すでに御嶽講を媒介にして宗教活動・精進行を実践していたが、思想的な基礎、あるいは山伏としての苦行の体験をまだもっていなかった。その両方とも大峯山ではじめて徹底的に学び、また行うことになった。
大峯の最上の山籠行場である笙の窟と両部中台の深仙をえらんで、彼は明治元年から七年の間に二度の千日行を満行した。その第一回の笙の窟籠りの時、古い時代からつづいて来た山籠行者に対する天ヶ瀬村の援助を受けた。それを記念して建てられた明治四年の碑伝ひでは、天ヶ瀬村に下ろされて現存する。(中略)しかし、後に移動して千日籠りを満行した深仙へは、すでに明治二年と三年に足をはこんでいる。それから以後、四年から七年までに深仙に籠って千日行をおこなったので、両部大先達の称号をえた。
(A.M.ブッシイ「実利行者と大峰山」『近畿霊山と修験道』山岳宗教史研究叢書11 p226)
この重要な修行場で、実利行者が修行したことは、地元の山村の有力者によって伝えられていることをA.M.ブッシイは自分の発見した資料も交えて述べている。
福山周平氏によれば、実利行者は笙の窟の千日行の後、深仙の宿にも千日行をした事(資料編二二)が書かれている。彼はまた笙の窟から釈迦ヶ嶽と寺垣内に回ったことも、北栄蔵氏によって伝えられている(資料編二三)。このように彼は山籠中もしばしば麓の村に出て、勉学したり修法したりして人々の帰依を集めていた。(ブッシイ前掲書p38)
ここには、とても大事なことが述べられている。
修験道再興の大望をもつ、実利行者のような傑出した山伏の山中修行は、けして山中に籠居修行に徹して一歩も外に出ないというようなものではなかった。千日行はそれをサポートする麓の村人の組織的な活動があってのうえのことであり、千日行中であっても、祈祷・修法を求められれば山を下りることもあった。
ブッシイが述べている「資料編二二」というのは、次のようなものである。読みやすく漢字を宛てて引用する(原文は漢字カナ交じり文)。明治16年(1883)10月1日に福山周平は実利行者から「不動明王」像を授けられた。その由来を書いて厨子の中に入れて置いたのが昭和50年(1975)調査の際に発見されたのである。
右本尊様の儀は、岐阜県美濃国恵那郡坂下村十一番、林生実利大行者尊、大日本国中御修業あそばされ、それより大峰山笙の窟にて千日の御行、又は深仙の宿にて千日、それより大台ヶ原にて千日、それより江州八幡八幡にて千日御行、それより紀伊国那智山にて千日、それより大峰山怒田[ぬた]の宿千日、都合弐拾年余り御修行あそばされ、
旧山伏道十ヶ余年も相すたり[廃り]人通り出来申さず候様に相すたり候所を相開きなられ候節、大峰山怒田宿場建立御普請取り掛かり節より、道切り開き出来迄三ヶ年の間周旋方仕り、行者様の弟子となり、法道加持御さずけ下され、又はご本尊不動明王尊御さずけ給ご本尊なり。
(同 p273)
この辺りの筆致が、「讃」とある程度似かよっていることも注目される。それに、実利行者は、「山伏道」が廃れて通行できなくなっていたのを修復したり、怒田宿の建立をしたり、そういう山中での普請工事の中心となって活動していたのである。

深仙から南の奥駆道が荒廃していて、熊野本宮まで出るのに不便であったことを、具体的に述べているブッシイの上掲論文を示しておく。
山伏が信者に依頼して、山中の事業に参加させることもある。実利は大峯七十五靡修行の修験道場の価値をみとめたが、深仙から南への山路が数年前からこわれて、通れなくなっていた。そのために熊野へ行くには下北山へ下って、谷筋の道を行くよりほかはなかった。あるいは前鬼から一旦下って谷筋を通って、浦向からもう一度佐田辻へ登り、笠捨山から玉置山・本宮という不便な道程を通っていた。深仙と佐田辻の間の道が一番悪かったこと、宿泊のできる小屋がなかったことが、その原因であった。
したがって、実利は北山の信者の協力をもとめて、明治十五年に怒田宿の再建を果し、その冬籠りをここですごした。また翌十六年に、怒田宿から南への山路の修繕ができた。その詳細な人足帳・日記帳・寄付帳が今も北山の信者のもとにのこされている。
(ブッシイ「実利行者と大峰山」同p238)


仝深山





09行目】
山城なる男山鳩乃峯(私案)
山城なる男山鳩の峰(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

男山鳩の峰」は平安文学などでおなじみの石清水八幡宮のあるところ。いまは京都府八幡市の商店街や宅地に囲まれた1km四方余ほどの孤立した山になっているが、森林はうっそうとしている。その最高峰(標高143m)を鳩ヶ峯という。
【08行目】で引いた福山周平「不動明王」由来書に「江州八幡八幡にて千日御行」とあり、北栄蔵「実利行者尊御事跡」には「再ビ西下三十七歳山城国八幡八幡ニ、同三寒ヲ行ジ」とある。北栄蔵は天保十四年生まれ説であり、三十七歳は明治12年に相当する。【11行目】で引くが、松浦武四郎「乙酉紀行」にも「城州の男山に籠り」と言及されている。都市に近い男山での実利行者山籠がよく知られていたらしい。
大峰山中での修行と異なり、下界に降りて世人にアッピールする意味もあったと思われる。あるいは鴻池家など関西の有力者の依頼があったのかも知れない(【7行目】で、鴻池家との関係を示した)。

山城なる男山鳩の峯





10行目】【11行目前半】
一時ハ和勢紀三州に跨る
大嶺臺ヶ原ニ篭り・・・
(私案)
一時 和勢紀三州に跨る
大嶺、臺ヶ原(大台ヶ原) 籠り、まさ()死
(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

和勢紀三州」というのは、いうまでもなく大和国・伊勢国・紀伊国の3ヶ国のことを言っている。
この3ヶ国は現在の奈良県・三重県・和歌山県と対比できるが、三重-和歌山は幕藩時代と現代で相当食い違っているので、幕藩時代の地図を掲げる。(原図は、鈴木昭英「修験道当山派の教団組織と入峯」の「当山派正大先達寺院分布図」『吉野・熊野の修験道』p86からいただきました。

現代の三重-和歌山の県境は、ほぼ新宮を通る熊野川である。
したがって、幕藩時代に「和勢紀三州に跨る」といわれた地点と、現在の奈良-三重-和歌山三県に跨る地点とは大きく違っている。現在の地点は熊野本宮の近くの熊野川の或る地点になるが(ここでは和歌山県の飛び地を考慮していない)、「和勢紀三州に跨る」と言われた地点はほぼ大台ヶ原付近である。

「和勢紀三州」が接しているということは、「3重点」がどこかにあったということになる。当時は“国民国家”成立以前であって、国境の山を、国境を接するそれぞれの国で異なる名前で呼ぶことは普通のことであったから、「和勢紀」の3重点ではどんなふうであったろうか。話があちこちに広がりすぎるのを恐れ、国絵図を参照した国絵図で見る「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原は、別ファイルにした。

また、大台ヶ原について「和勢紀三州に跨る」という特徴ある面白い表現をしていることが注目される。
この表現は、「讃」の作者のオリジナルではなく、江戸時代中期から、大台ヶ原について「和勢紀三国(三州)に跨る」という定型表現があったのだという。わたしがそのことを最初に知ったのは『松浦武四郎大台紀行集』の佐藤貞夫「解題」によってである。それによると『紀伊続風土記』(天保十年1839)にすでにあるという。いま、わたしはそれを繙くことができないので、同じ定型表現を松浦武四郎から引いてみる。(後に『紀伊續風土記』でこの定型表現を確認したことは、別稿「「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原」にまとめた。

松浦武四郎の大台踏査の紀行文は、一般読者にとっては現在2つの版で読むことが可能である。ひとつは、上にいう冨山房の分厚い3巻本の中巻に所収の「乙酉掌記」である。もうひとつは、小論ですでに何度か引用した松浦武四郎記念館発行の『松浦武四郎大台紀行集』に含まれている「乙酉紀行」である(この2つの篇名は「掌記」と「紀行」と相違している)。いずれも松浦の明治18年の大台探査についての紀行文であるが、ほとんど、別ものといってもいいほど内容やニュアンスが異なっている。「掌記」はコンパクトによくまとまっているが、面白みは少ない。「紀行」は饒舌でまとまりがないが面白い(なお、松浦は明治18,19,20年の3回大台登山をしており、大台紀行記を3篇作っている。冨山房版も記念館版も3篇とも収めている。冨山房版は、松浦武四郎自身の私家版を底本としている。記念館版は、昭和になってから武四郎の甥の松浦孫太が、残された「野帳」を読み直して稿を作成したもの。その作業は昭和8年(1933)に行われているという(記念館版「解題」に詳しい)。(なお、松浦孫太が武四郎の「甥」であるというのは、川端一弘「大正時代の大台ヶ原登山」に引いてある「大阪毎日新聞」大正6年7月31日に依ったもの)。記念館版「紀行」を入手するには、松浦武四郎記念館ここの「お問い合わせ」のメール・フォームで注文すればよい)。

「乙酉掌記」の冒頭はつぎのような漢文から始まる。
大臺山跨紀勢和三國人跡未通地也。役小角、行基、空海も不入錫域にて審之者なし。(冨山房版中巻1975)

大臺山は紀勢和三國に跨る人跡未通の地也。役小角、行基、空海も錫を入れざる域にて之を審らかにする者なし。
「丙戌前記」(明治19年、2回目の大台踏査)の中に、大阪府知事あての「大台小堂建設之義御聞置おききおき願書」というものがある。松浦武四郎は明治維新時に五十一歳であった。二十七歳のとき蝦夷地探検を志し、三十八歳で幕府の「蝦夷御用御雇」となっている。維新後「開拓判官」となり、蝦夷地に北海道の名を与えたのは有名。明治三年(1870)に「開拓使」を批判して職を辞し、その後は全国歴遊しつつ著述に専念した。つまり、彼は単なる探検家ではなく、幕府の役人としてのキャリアも持っていた。
彼は自費で大台ヶ原に小屋を建て山中に道標を立てる計画を持っていたが、その計画のために大阪府知事に「願書」を出して官僚サイドに筋を通しておくことに抜かりはなかった(大阪府知事に願書提出についても、直接ではなく、山口県令の従弟という知人を通している。なお、なぜ大阪府知事宛であるかは、下に述べる)。
さて、その「願書」の冒頭は次のようになっている。
大台山は和勢紀之三州に跨り其七分和州に特立東南之三分紀勢之二州に漫其広袤測記する物無し従和州吉野郡吉野川水源到勢州多気郡大杉谷分距離凡十里余之間人跡未通杣猟人等是を審する者無御座候(は欠字 以下略 強調は引用者

大台山は和勢紀の3州に跨り、その7分は和州に特立し、東南の3分は紀勢の2州にあり。はてなきその広袤を測記するものなし。和州吉野郡の吉野川水源より勢州多気郡の大杉谷分に到る距離およそ十里余の間、人跡未通、そま猟人等これを審らかにする者御座なく候
(前掲書p58)
「紀勢和」と「和勢紀」の違いはあるが、「讃」が同一の定型文を下敷きにしていることは明か。和州7分、紀勢3分という指摘はなにか拠り所があるのだろうが、目下不明(のちに仁井田長群「登大台山記」に出ていることを知った。前掲「「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原」の改訂版に述べた)。「人跡未通、杣猟人等これを審らかにする者御座なく候」は願書などにありがちの誇張した文飾である。

和歌山県も三重県も廃藩置県(明治4年1871)ないしその直後に設置されており、大略そのまま現状に引き継がれている。しかし、奈良県には大きく変遷があった。奈良県の設置そのものは明治初年だが、その後、境県に合併され、さらに明治14年に大阪府に合併され「大阪府の大和地域」となった。それが明治20年まで続いているので、明治19年の松浦武四郎の「願書」は大阪府知事宛に出願されているわけである。明治20年に奈良県の復活となった。
ともかく、松浦武四郎は新しい郡県制を使わず、旧幕藩時代の藩国名を使用しつつ「願書」を書いた。大台山のような辺境の地について、書く方も読む方も「和勢紀之三州に跨り」というほうが頭に入りやすかったのであろう。

まず【11行目】の前半の「大嶺臺ヶ原」という部分の読み方に問題はないが、その表現について考えておく必要がある。すでに「大和の大峯」と【07行目】で述べているのであるから「大嶺」が「大和の大峯」を示そうとしているということはありえない。「三州に跨る」という句からしても、この表現は大台ヶ原を指しているとしか考えられない。「大臺ヶ原」という熟した表現が古くからあるのに、なぜ、「大嶺臺ヶ原」と「嶺」を入れたのであろうか。
「大臺ヶ原」の使用例の古いものに、謡春庵周可『吉野山独案内』(寛文十一年1671)がある。
吉野川の水上を大台ヶ原といふ。此の所にともゑが淵とてあり。よしの川熊野川伊勢宮川三つの水上なり、あたりに藤おびおひしげり、西風吹は藤ヶ枝にて水を東へなびけ、宮川へ出水、東風吹はよしの川又北の風吹は熊野川へ水出るとかや(『奈良の地名』日本歴史地名体系30 p885)
大台ヶ原が吉野川・熊野川・宮川の3河川の水源であることを伝説風に、巴が淵の藤と風向きを絡めて表している。江戸期前半の「大台ヶ原」の文献には必ずこの伝説が上がっているが、“三国の境”という話題はあまり取り上げられない。巴が淵の伝説がはっきりと否定されるのは18世紀後半からだが、そういう問題は別ファイル「「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原」で詳しく扱った。
しかし、わたしは「大嶺臺ヶ原」の例を他に見いだすことができていない。「讃」の作者がなぜこういう表現をしたのか、特別な理由を知り得ていない。この表現はつまるところ「大臺ヶ原」の意であるが、それが「大嶺」であることを強調しようとしたのであろうという常識的な解を述べておく。いいかえれば、「大臺ヶ原」という表現が安定して存在していることを前提として、それが、「大嶺」であることを重ねて表現したのであろう。
     一時和勢紀三州に跨る
大嶺臺ヶ原篭り





11行目】、【12行目前半】
大嶺臺ヶ原ニ篭り・・・
 ・ けら牛石乃傍らに摂身修行
(私案)
大嶺、臺ヶ原(大台ヶ原) 籠り、まさ()死
を希、此牛石の傍らにて
撓身修行
(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

【11行目】から【12行目】にかけては、難しい問題がある。わたしの考えと郷土史家案とは大きく異なっており、しかも、単なるわたしの誤読ということではない。
そこで、【11行目】は前半部の「大嶺臺ヶ原ニ篭り」と、後半部の3文字「・・・」の部分の2つに分けて扱うことにする。

松浦武四郎「乙酉紀行」[明治18年の最初の大台入り紀行]で、松浦一行5名が大台ヶ原の「正木兀」(「兀」を「はげ」と読むことは下で取り上げる)から「牛石」に達し、実利行者の千日修行の跡を見たときの感動を表している個所を紹介しておく。
日出岳の南西に回る。此辺りまた和州領[大和国]なり。しばし過て山白竹[クマザサ]の平原に出、此処より大峰、国見、弥山、楊枝、釈迦、大日、玉置の山々見ゆ。是を、正木兀と云。ここに水松(アララギ)の一枝の五六分ヅツ地をすりて延たるもの有。頗る見ものなり。此あたりより南海よく見ゆ。実に仙境と云べき地なり。(前掲書p36)
これが、5月19日の記事。この日は「巴が淵」の近くで「檜皮剥て仮屋作りて一宿」する。その翌朝、思い思いの信仰する神仏を唱えて「朝餉して出立」。
しばしにて、ほうそ兀。此処もまさき兀同様の処にして、また一等見はらしよろし。粉本沖、尾鷲沖より新宮川まで見ゆ。山白竹のわづか三五寸のもの青氈を敷つめたる如き処なり。ここに小家ばかりの岩二ヶ所、其間一丁を隔てゝ有。其西なるを、牛石と云、東の方は何といへるか名しられず、こヽにまた二十畳斗敷る小池の深きもの有。水清冷、巴が淵にもますかと思ふ。其より二丁を隔てヽ西の角力場、東の角力場とて二ツの低き地有。是も古しえは池にても有りしかと思はる。また水松の下枝長く生たるもの、五六株有て頗る風趣有るなり。
此牛石の南にて濃州[美濃国]の産なる実利行者といへる人、明治三年八月登山して爰に庵して同七年四月迄修行、一度も村方に下らずして行すまさせられしなり。其後城州の男山に籠り、後紀州熊野那智の滝にて捨身有し行者なり。此奥山にて我等五人にて一宿さへ明し兼るに一千日の修行、実に世に目出度行者にてぞおはせしなり。今其跡に庵を毀ちし木材、家財等も其まヽ朽腐れて有しぞ忝く覚ける。其傍に行者自ら掘しと云井戸有て水よく湧出たり。
南の方を望むに沖行船一目に見え、こヽぞ普陀落世界かと思はる。また是より大蛇ぐら[大蛇嵓]の方に下らんとせしに、小池の水気なくして逆巻様にみえしが、亀市のいへらく此池度々如此事有[たびたびこのごときことあり]。是竜神の御喜なりと行者はいひ玉ひしと。
(前掲書p38)
難行苦行の孤独の場所が同時に普陀落世界と接する楽天地であること、そういう視点がさすが松浦武四郎だと思う。もちろん「普陀落世界かと思はる」は、平安時代以来盛んであった新宮沖の普陀落渡海の入定を背景においている。松浦も知らなかっただろうが「竜神のお喜び」といった行者の心中には、自分の出奔のきっかけを作った御嶽山三の池の竜神があったのであろう。ここにも実利の竜神信仰を見ることができる。

話があちこちに発展しすぎるのを恐れ、国絵図を参照した国絵図で見る「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原は、別ファイルにした。

和勢紀三州に跨る」という定型句がすでに仁井田好古『紀伊続風土記』に登場していることを追及してみた。 「「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原


重要なことは、この掛軸「立像」の作者も大台ヶ原について「和勢紀三州に跨る」という定型を使っている、と考えてよいであろうことである。この作者はそういう伝統的な知識の流れの中にあった人物なのである。





いよいよ、小論の中でもっとも解読が困難で、また、解読の面白みもあった個所にかかる。

「大嶺臺ヶ原に篭り」のあとの「・・・」である。

「私案4/27」では「・・・」にしているが、もちろん、まったく読めない個所ではない。読んでも意味をなさないので、「・・・」にしているのである。

まず、ここは3字からできていることは疑問の余地がない。初めの2字は、なぜか金釘流の「まさ」のようである。3字目は漢字であり、わたしのような書道の素養がまったくない者が解読に挑戦する場合の重要な方法だと思うが、同じ図形(同型)の字が同じ文書の中に出てきていないかを探す。そして、容易に、【07行目】の
又あるとは大和の大峯
の「き」と同型であることに気づいていた。

したがって、この不明3字は「まさき」ないし「まさ紀」であろうと考えていたが、意味の流れがまったく掴めないのである。
そこで、前後の行も含めて、取りあげてみることになる。(これは必然的にそうなるのであって、解読作業しているときは、対象文書には“意味の流れが存在するであろう”ことを想定して、前後の語句、前後の行に絶えず目をやりながら、当該の文字の読みの幅の中で最適解を探そうとしているのである。読みの幅は狭いほど有利だし、対象に対する知識が多いほど最適解を選ぶのに有利である。こういう条件は、わたしのような無手勝流であろうと、ベテランの郷土史家であろうと変わりはない。

11  大嶺(臺)ヶ原ニ篭り ・・・
12  ( ・ けら)牛石乃傍らに(身修行)

ここでわたしは、次のように (1)(3) 考えて、《仮説-1》を立てた。

(1)
「大嶺(臺)ヶ原」は、大台ヶ原を指しているとする。ところで、「牛石」は大台ヶ原(東大台)の地名(地点)であることも確実(実際に巨石がひとつ転がっている)。したがってここでは、この2行にわたって大台ヶ原に関して述べていると考えられる。

(2)
他の改行を調べてみると、“改行で意味が途切れていない”ことがいくらでもある。したがって(1)のように考えても、なんら不合理ではない。たとえば、最初の改行
實利行人は生国もヽくきね
美濃ヽくに恵那郡坂下むら
はまさしく、「もヽくきね美濃」という意味のまとまりを、わざと切断した形にしている。改行によって、緊張がとぎれずに、先に続くような工夫をしている、とも考えられる。

この掛軸「立像」の「讃」の大きな特徴に、“斜め下がりの配置”がある。しかも、はじめは左下がり、途中で折り返して右下がり、最後に作者・署名のところを右上がり、という著しいデザイン的意図のもとで書かれている。つまり、「讃」が3つの平行四辺形の組み合わせに配置されている。こういう配置のためには図形的な意図での改行が必要となる。(意味の流れとは独立に、字数で改行を入れるということ。40字で改行する原稿用紙に書いているのと同じことだが、「讃」のような場合、分かち書きで意味の途切れで改行するのが自然であるように感じる。さらにこの「讃」の著しい特徴は、初め左進行であったのが、途中で折り返して右進行へ切り替わるという点にある。

(3)
問題の2行についても、「まさ紀」「・ けら」という読みを仮定して、字数のために改行があったとしてみる。すなわち
大嶺(臺)ヶ原ニ篭り(まさ紀)
(・ けら)牛石乃傍らに(摂身修行)
として、「(まさ紀)(・ けら)牛石」は、意味が途切れていないと考えたらどうか。つまり、同じ意味の流れの中にあると考えたらどうか。

すると、これら3語句は実は、“大台ヶ原の地名が3つ並んでいる”のじゃないかという《仮説》に達する。
これを《仮説-1》とする。

大台ヶ原に詳しい方は、何を持って回った言い方をしているのか、と思われるかも知れないが、わたしは、大台ヶ原の周辺地名はまったく知らないまま、「実利行者立像」の解読作業に入った。
それで、上の《仮説》をもとに、大台ヶ原の地図をネット上で出してみた。そしたら、驚いたことに捜すまでもなく牛石の隣に「正木」という地名が数ヵ所出ていた。正木ケ原、正木峠、など。それらは、現代の地図なので、できたら、明治時代の地図で確かめたいものだと考えていたら、「実利行者の足跡めぐり」の安藤氏が松浦武四郎「乙酉紀行」付属の地図をメールで送って下さった(その時点で、わたしはまだ『松浦武四郎大台紀行集』を入手していなかった)。それには、「マサキ岳」「マサキ兀」が「牛石」と共に明記してあった。

「マサキ兀」の「兀」は冨山房の『松浦武四郎紀行集 中』が使用している活字で(記念館発行『松浦武四郎大台紀行集』も同じであることを後に知った)、松浦の手書き地図には「瓦」の点がないのに近い字が記してある。同じ字で近くに「ホウソ兀」ともあり、これらの「兀」は「ハゲ」と読むのだろうと考えている。江戸時代から大台ヶ原には森林がとぎれ笹原となっている場所が所々広がっており、「マサキハゲ」「ホウソハゲ」などと言っていたようだ。「兀」は「突兀 とっこつ」などの「コツ」であるが、「禿」の意味もある。(わたしが「ほうそはげ」などの読みを最初に知ったのは、「大台ケ原・大峰の自然を守る会」のサイトに置かれている、田村義彦「大台ヶ原の現状から先人の踏み跡を顧みる」(2004)というかなり長文の論文の(4)の中である。そこには「翌日一行は、牛石ヶ原(ほうそはげ)から白崩谷の源流部(南大台)に出て」という語句がある。なお「白崩谷」は「しろくえだに」であり、大和国絵図に出ている。
この田村義彦の論文は、「大台ケ原・大峰の自然を守る会」の会長であった米田信雄の追悼の文章であって、奈良山岳会の会誌「山上」の昭和初年の号などをひもといて紹介・論評するというものである。奈良山岳会が吉野・熊野の山岳自然だけでなく、修験道をも含む宗教文化に造詣の深い人々の集まりであったことを思わせる内容になっている。


このようにして不明3文字「・・・」は、一挙に「まさき 正木」である可能性が大きくなった。わたしは《仮説-1》をたてて、地図の上で「正木」を発見した驚きがあるので、「正木」にはかなり強い確信がある。もし《仮説-1》が正しければ、「・ けら」ないしこれに近い語句の地名が牛石-正木の周辺にあるはずである。もし、何かしら類似の地名が発見できれば、この《仮説-1》は、仮説の段階を脱却して「事実」になる。

そこで、われわれは【12行目】の「・ けら」の解読に、手を着けることにする。

わたしが第1字目を不明としているのは、「を」と読むのか「は」と読むのかよく分からなかったからである。
「を」は【04行目】「家に妻子残して発し諸霊山」で2度使っているが、いずれも「越」の万葉仮名である。「は」は【01、07行目】で2回使っているが、いずれも「者」の万葉仮名であるが上図に示した原文の字とは崩し方が異なっている。
「を」にも「は」にもどちらにも読めるが、金釘流「を」(普段、わたしなどが書いている「を」)に似ているので、つい、心の中では“を”と読んでしまっている。(ただし、「を」を仮に“3画で書く”と表現したときの3画目は、2画目の終端部分をはっきりとまたいで書かれるのが普通だが、「讃」ではそこが屈折点にはなっているが続いていて、「を」としては不自然さがある。

上に述べたところを、もう一度述べよう。もし《仮説-1》が正しければ、「・ けら」ないしこれに近い語句の地名が牛石-正木の周辺にあるはずである。
そこで、わたしは、大台ヶ原関連の文献を読んでみるつもりになった。それほど読みやすいとは言えない松浦武四郎の大台紀行を読んだのも、この目的があってである。「をけら」は植物の「朮」や「おけら祭」などを連想するので有望だと考えていた。
だが残念ながら、「をけら」も「はけら」も見つけることができない。わたしは、「立像」解読の進展をあとで振り返ってみられるように、主要な進展があったときには日付を入れて保存している。一月近く大台関連の文献をみてきて、結局なんの成果もなかったことを(5/31-2010)に記録している。

この後わたしは、《仮説-2》、《仮説-3》で、《仮説-1》の考え方をいくらか修正した。
わたしは「をけら」が有望だと思っていて、当時のノートでは「をけら」で書いているので、修正せず、そのまま、当時のノートをここに引いておく。

11  大嶺臺ヶ原ニ篭り(まさき)
12  (をけら)牛石の傍らに

この難読個所についてわたしの《仮説-1》は、「(まさき)(をけら)牛石」について、いずれも大台ヶ原に関連する地名が三つ連続しているのではないか、というものであり、そうだとすると(まさき)は「正木」であることは動かせない。すでに、こういう進展があったこと自体が《仮説-1》の成果である。
ところが、この《仮説-1》を前提として色々と文献に当たってみているが、「をけら」ないしそれに類似の地名は出てこない。そこでわたしは更に次のように考えてみた。

11  大嶺臺ヶ原ニ篭り正木
12  (をけら)牛石の傍らに

これまで見つけた地名の「正木」は、現代の地図に「正木ケ原」、「正木峠」、松浦武四郎に「正木兀」という使い方であり、すべて「正木+某々」の形を取っている。つまり、同じく並んでいる「牛石」の場合は牛石という実体が存在しているので、「牛石」と単独で使えるし「牛石ケ原」という表現も可能である。それに対して「正木」は正木という実体が存在しないのではなかろうか。実際に存在するのは正木ケ原であったり正木峠であったりする。そう考えてくると、

《仮説-2》 「正木をけら」という実体が存在し、「立像」ではその実体を指す語として使われている

のではないか。つまり、「正木をけら」の牛石の傍らで摂身修行した、という風に。この《仮説-2》は、「をけら」を「正木をけら」と、行をまたいで正木に付属させる、という仮定を含んでいる。言い換えると「をけら牛石」と牛石に付ける読み方を否定しているとも言える。実はわたしは、最初はこの読み方、すなわち「をけら」を牛石の修飾語とみる読み方をとっていた。
とすると、ズバリ

《仮説-3》 松浦武四郎の「正木兀」は「正木をけら」のことである。

という推論がありうる。「兀」には意味として禿(ハゲ)があるから、「正木兀」を「正木はげ」と読むことは可能である。「兀」を「をけら」と読む例があればよいが、そういう例は分かっていない。また、山の関係者では、開けた草原状の場所を「をけら」と呼ぶことがあるのか。そういう方面の探索が次の課題となる。(実際、わたしは図書館で地誌を開いたり、今西錦司の「雪崩学」関連の論文をひっくり返したりしてみた。
つまり、《仮説-2,3》の主旨は、《仮説-1》では“地名が3つ並んでいる”としていたが、必ずしも地名ではなく、「付属物」ないし「地名をかぶせて言われる物」逆に「地名にかぶせて言う語」などに条件をゆるめても良いのではないか、ということである。

この《仮説-2,3》に達したのは、(5/31-2010)の直後だと思うが、日付を記入していない。この段階で十日以上停滞していたところに、すでに述べたように寺嶋経人氏を介して「郷土史家案」が手に入った(6/13)。そのことによって、思いもよらない方角からブレイク・スルーが訪れることになった

そのブレイク・スルーは、【02行目】で私案が「坂下むら」と読んでいたのが、誤りであることがわかったところから始まる。
すでに【02行目】で述べたように、わたしは「坂本村の」が正解であるところを「坂下むら」と読んでいた。なぜそのような誤読が生じたかというと、万葉仮名の「能」()と「羅」()を読みまちがっていたからであった。それが【12行目】に関連しているのである。

なぜ【12行目】で「をけら」という読みが出てくるかというと、2字目の「希 け」は非常に明瞭な書体で書いてあり、誤読の可能性はない。上図の私案A、私案Bのいずれにしても問題は、「羅」の字なのである。
わたしがなぜこの個所で「羅」と読んでいるかというと、例の初心者原則、同型の文字は同じ読みにする、を適用しているからである。【02行目】と【12行目】に同型の文字があるのである。
上で述べているように、【02行目】でわたしは「坂下むら」という意味の流れに引きずられて「ら」という読みを用い、そのために【12行目】で「をけら」の「ら」が出てきた、のである。

すなわち、【02行目】で私案に「羅」⇒「能」の変更があったのであれば、その瞬間に、【12行目】でも同じ変更が生じていなければいけない。

ということは、私案A「をけら」という語句はそもそも存在しなかったのであり、「をけの」だったことになる。わたしは存在しない問題を追及していたことになる。
「ら」と「の」の違いは非常に大きい。というのは、「朮」のような名詞以外では複数を表す「某々+等」で「桶等」などとなるが、人間以外に「等」を使うのは落ちつかない。それに対して「の」は、とても繋がりが良くひろく使われる助詞である。「の」が入れば自然な言葉の流れになる。そこで、すぐさま「桶の牛石」が成立するかどうか、調べ始めた。が、どうもピンとこない。
私案Bも事情は同じで「はけら」という語句はそもそも存在しなかったのである。それなら「はけの牛石」、・・・・ここまで来て、わたしは自分がすでに正解に達していることに気づいた。

正木はげの牛石

という、この上ない自然な繋がりのなかにすでにわたしはあったのである。この「讃」の作者は「正木はげ」の中に改行を入れて切り分けて、平行四辺形デザインを作っているのであった。(濁点は省略されていて、「はけの」は「はげの」でもある、と考えている。

これがわたしのブレーク・スルーであった。
《仮説-3》などは、まさしく正解そのものに皮一重まで肉迫していたのである。
《仮説-1,2,3》を立てることによって、地図上に「正木」を発見し、郷土史家の指摘によって松浦武四郎の「正木兀 まさきはげ」に到り、実利行者が明治初年に山籠した牛石について、作者はごく自然な口調で語っていることを知ったのである。これは感動的な出来事だった。

また、このことによって、《仮説》が正しかったことが実証されたと言って良いと思う。(なお、正解がわかった後では《仮説》はあたかもヤラセのように読めるかも知れないが、もちろん、わたしはそのような虚しいことに筆を費やすことはない。《仮説》と推論だけで進むうちに、自然に結論に到着していたのである。わたしは解読の方法論として、このような《仮説》を立てていくやり方があることを主張しておきたい。
もうひとつ重要な点は、この「讃」の作者は「正木はげ」というような、よほど大台ヶ原に親しんでいないと出てこないような固有語を使っていること、この掛軸の所有者であった北栄蔵らと同じ視点で大台ヶ原を見ているらしいことがわかってくることなどを指摘しておきたい。第三者ないし一般人にとっては「正木はげ」は難解語になってしまうことを意に介さずに「讃」に使用しているところに、この作者の姿勢、また、この「実利行者立像」の制作意図がうかがわれると思う。

資料紹介の(2.4)で述べたように、明治18年(1885)9月に大阪府の公務として大台ヶ原踏査を行った木下文三郎ら府吏3名は「大臺原紀行」という復命書を残した。その文書の中で「牛石」を最初に記すときに、次のように述べている。
松浦)武四郎の山をるや、其牛石に至り(牛石は地名、後に詳かなり大臺原紀行参照、下線は引用者)
つまり、木下文三郎らは大阪府への報告文書に、牛石は地名であると断り書きを入れているのである。大阪府(当時)の官吏の間では、この時点で牛石について知られていなかったことを示している。これは、貴重な資料である。
実利と同郷といってよい木曽御嶽行者篠原源岳は、明治36年(1903)に大峰と大台ヶ原に登っており、そのときのノートをブッシイ『実利行者の修験道』は引いている。
大台ヶ原に登り此山内を廻る内、諸魔除伏陰陽和合、度々孔雀明尊、明治七年建立、実利印。こんな石柱が牛石という所に建ててあった(前掲書p39、強調は原文傍点、下線は引用者)
これは、実利行者が明治7年に牛石で山籠していたことの証言でもあるが、篠原源岳が「牛石という所に建ててあった」と自分のノートに書き付けていることが重要である。「牛石」という地名が明治36年の時点でさえ決してよく知られてはいなかったことを示している。印象深い牛石にしてそうなのだから、「正木はげ」はさらに知る人は少なかったと思われる(なお、「大臺原紀行」には「はげ」は出ていない)。

この作品「実利行者立像」は一般鑑賞者や一般信者むけに制作されたものではなく、「牛石」、「正木はげ」という語を承知しているような特別な人たちを頭において作成されたといえる。その特別な人たちとは、北栄蔵のような地元の有力な信者・支援者、また実利の弟子であったという真田八十八や岩本弥市郎などとその周辺の人々など、それ以外では松浦武四郎の周辺の人またその著書で大台ヶ原を知っている者に限られよう。

ここまでで解読した【11行目】と【12行目前半】をまとめておこう。
  大嶺臺ヶ原 篭りまさき
はけの牛石の傍らに


正木はけ」および「ほうそはげ」という語が畔田翠山によってすでに使われていたことを追及したのが、拙論「『和州吉野郡群山記』の「正木はげ」」である。
また、「「和勢紀三州に跨る」大台ヶ原」においては、仁井田長群「登大台山記」で、牛石ヶ原を「大禿」と記していることに気づいたことを示した。

これらは、大台ヶ原においては昔から、森林がなくて草原状になっている山頂部を「はげ」と呼んでいたことを推測させる有力な資料である。

12行目後半】
 ・ けら牛石乃傍らに摂身修行(私案)
を希、此牛石の傍らにて撓身修行(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

「(摂)身修行」、ここは、字そのものを読み取れない難しさである。郷土史家案は「撓 とう、たわむ」という字を宛てている。「撓身」という熟語があるのかどうか(手元の辞書にはない)。だが、「身を苦しめ痛めつけて」修行するという主旨は了解できる。私案の「摂身」は「摂心」[仏教用語で、精神を統一して乱さないこと]という語があるのでそれに近い語で思いついただけで、それ以上の根拠はない。原文の字形からすると「撓」の方がより近いようだ。(『逆引き広辞苑』などで「某+身」という熟語を探してみたが、適当なものに行き当たらない。

室町時代の往来物の一条兼良『尺素往来』[せきそおうらい 「群書類従」正篇の消息部にあるが、今はネット上のPDFファイルで原文を読むことができる。「尺素往来」で、下の引用箇所は23/38]で、修験の修行を代表的な四つを数え上げて、大峰抖そう[手偏に數]・葛城修行・那智千日籠・笙の窟冬籠と言っているところに、「捨身苦行」という語が出てくる(五来重『修験道入門』p206で知った)。
大峰抖そう、葛城修行、那智千日籠、笙岩窟冬籠等は山伏の先途。捨身苦行の専一也。
したがって、この個所も「身修行」の可能性を捨てきれない。

実利行者に直接かかわる資料として、森毅「修験道資料自光坊文書」(岩手大の「紀要 第34号」1984)という文献の存在を「実利行者の足跡めぐり」のトップページで知った。このPDFファイルは2段組25頁あり、その20/25に「三七 大峰・葛城山籠願い」と題された文書がある。
この文書は、盛岡出身の自光坊快孝という修験者が、すでに大峰の「法務大先達」という高い地位にあるにもかかわらず、大峰・葛城での「山籠願い」を「御本寺 御役所」へ届け出たものである。日付は「庚午 閏十月」としているので「明治三年閏十月」であることが分かる。
自光坊快孝は「遠国鄙邑の野生」の身でありながら「大先達」や「法務司監」などの「重職」に任ぜられた「仕合わせ」を述べる。しかし、「大政御一新以来有名無実に廃せられ」、「広く万国御交際に付き」「勉励」すべく度々布告があった、と修験道全体が未曾有の激動と困難な状況にある認識を示す。「山籠願い」の核心を次のように述べる。
不省(肖)ながら、遠く神変菩薩の遺風を慕ひ、大峯葛城両峯へ山籠捨身苦修の実行相勤め、弥、天下泰平・国体御安穏・万民豊楽・宗道興隆の実験を顕したく云々
ここに「捨身苦修」が出て来ているのである。神仏分離令が出されたのは慶応四年(1868)三月であり、天皇を神格化し神道国教化を目指す「大教宣布」は明治三年一月に出された。これらに伴って廃仏毀釈運動が猛威を振るった(明治四年ごろに終熄したとされる)。これらの状況に修験道側が危機意識を抱くのは当然であった。政府が「修験宗(道)廃止」を打ち出したのは明治五年九月、修験道は仏教であるとして天台宗か真言宗のいずれかに「帰入」せしめるというのであった。
修験宗の儀自今廃止され、本山・当山・羽黒派共従来の本寺所轄の儘、天台・真言両本宗へ帰入仰付られ候(太政官布告273号)
当局の目からは「蔵王権現」や「熊野権現」は“仏”であって、“僧形”である「山伏」が神社で“権現”を祭祀するのは厳禁である。山伏たちは僧侶となって仏像を拝むなら許すが、神道にかかわることは禁ずるということだ。こういう状況下で千日行を遂行しようとする自光坊快孝や実利行者が、いかに先鋭的な修験者たちであったかが分かるであろう。

自光坊快孝は天保十年(1839)生れで、実利行者の四歳年長。自光坊は南部藩の伝統ある修験であり、快孝は大峰において「法務大先達」という地位に達していた。大峯山籠を開始して間もなく前鬼で修行中の実利と会い、経験を積んだ高位の修験として実利に「垢離大事」(ブッシイ前掲書p218)を授けた。その日付は「明治三庚午年十一月十三日」であるから、「山籠願い」の一月足らず後である。
快孝は明治6年(1873)に大峰の深仙で満行法要を営み、翌7年吉野山で死亡した(病没かどうか不明、三六歳)。実利行者は同7年に大台ヶ原牛石の小屋を奈良県官吏に焼かれ追放された。
残念ながら、自光坊快孝と実利との関係がこれ以上あったのかどうかは、分からない。

ついでに記しておくが、自光坊快孝は幕末に活発に政治活動していた公家・高松保実(「安政勤皇88廷臣」の一人)の猶子(養子)となっている(前記「自光坊文書」の「二八 猶子約誓状」)。 本論【07行目】で述べたが、実利は中山忠能の猶子となっている。これは、高松保実の存在が関係しているのかも知れない。(中山忠能は「安政勤皇88廷臣」の筆頭で、明治天皇の外祖父。娘の慶子が孝明天皇の子・明治天皇を生んだ
宮家準「近現代の山岳宗教と修験道」(2006 PDF ファイル20頁)がネット上に公開されていることに近頃気がついた。これには自光坊快孝と実利行者のことが出てくるし、明治前期に快孝や実利が行った過激とも言える“捨身修行”が修験道全体の活性化をもたらしたという近代の修験道史が述べられている。神仏分離令や修験道排斥などの問題も見通しよく述べてあるのでありがたい。

しかし、「讃」本文において「捨身修行」という語をここで使うことは、まず無いだろうと思う。なぜなら2行先の「那智の瀑布に入定」から連想される実態としての捨身と語のイメージがぶつかるからである。「捨身修行」と言うときの抽象的な「捨身」の意味あいが、実利の那智の滝入定によって実際行動としての「捨身」に転じてしまっている。「2.3 松浦武四郎の『大台紀行』」で引用したように、松浦は翌18年にすでに「那智の滝より捨身したまゐし」と書いている。つまり、実利の明治17年の那智の滝入定は「捨身入定」という語と強く連想して記憶されたと考えられる。したがって、「讃」本文で「入定」の数行前に「捨身修行」という語は避けるだろう、と思う。

修験道関係の文書に適当な「某+身」という語が見つかるような気もするので、しばらく、不明としておきたい。
・ 身修行


ここの不明字を「てき身」と読めるのではないかと「郷土史家」氏が資料を添えてご指摘下さった。わたしはそれを受けて、その一点に絞って考究した小論を別稿にまとめた。「『擲身』という語」をご覧になっていただきたい。

上に述べた「捨身」を避けることもでき、これまで出ている案の中では「擲身」がもっとも良いとわたしは考えているが、いましばらく不明のままにしておく。



13行目】
する事日あり末禮に紀伊国牟婁郡(私案)
すること日あり、未往に紀伊国牟婁郡(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

ここの前半の「すること日あり」は、「私案」では、ずいぶん頼りないようなつもりで読んだのであるが、「郷土史家案」と一致していて、一安心だった。
問題は次の2字、私案の「(末禮)」である。解読としては「末」は極めて明瞭に書いてあって、上の横棒をびっくりするほど太くしてあるので、誤読のしようがない(「郷土史家案」は、これを「未」の誤記とみて「未往 いまだいかざる」と読んでいるが、賛成できない)。「末」のつぎの1字が読めない。
「末+某」という熟語を辞書で探してみたが、意味的には「大漢和」にある「末後」がいいかなと思ったが、東大史料編纂所DBで「崩し字チェック」をしてみると、“諸手を挙げて賛成”というほどではない。

この部分は“最後に”とか“終局に”とかの意味で、実利行者が那智の滝に捨身入定したことを導く語であるだろうと考えている。「末禮」と「末程」の例をあげてみる。


困ったことに、いずれも決定打とならないと判断する。ここも、今後の検討に委ねることにしたい。
すること日あり末 ・ に紀伊国牟婁郡





14行目】
那智の瀑布に入定須案 ・ なかれ(私案)
那智の瀑布に入定す、実 これ(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

この行は、「郷土史家案」に全面的に従う。ただ、わたしは「私案」にこだわったりしたので、その経緯を少し書き残しておく。

前半の「那智の瀑布に入定す」については、「私案4/27」はここの「須」を読むことはできていたが、「郷土史家案」のように「入定す」と「入定」の活用語尾であるとする読みに気づいていなかった。ここは「入定す」で、ずっとすっきりした。

後半の4,5字が難しい。それを「郷土史家案」は「 これ」と読んでいる。
わたしがそのように読まなかった最大の理由は、「須」の下の字(「実」)には「ウ冠」と「木」が含まれていることは明瞭であるから、それに該当するのは「案」しか考えられない、と判断したためである。
ところが、拙論を読んでいただいた「郷土史家」氏が手紙をくださって、『異体字辞典』には「実」の異体字のひとつに「」があることをご教示下さった。(上の下線部で使っているのは「」(Unicode 05BB2)である。この字は、下図に示したように『康煕字典』に「實の古文」として明瞭に出ている文字であった。)無知ほど恐ろしいことはない。ご教示くださったことに対し「郷土史家」氏に深く感謝いたします。

しかし、「讃」に書かれている「實」の異字体は「」(Unicode 05BB2)および康煕辞書とは少し形が違うようなので、GlyphWiki というフリーの「漢字グリフ」共有サイトのなかを探し、より良く似ていると思える字体を採用して、下図を作った。


「古」と「れ」の間にもう1字ありそうな、意味ありげな続き具合になっている。そのため、この部分の正しい読みを求めて、“ああでもない、こうでもない”とずいぶん時間を費やした。
だが、「實」の異字体「」が使われていることを知れば、「実にこれ」となることは自然に納得されてくる。意味の流れを考えてみても、次の第15行は実利行者の入定の年月日と行年のみであるから、旧「私案」の「案ずるにこれ」よりも、「実にこれ」の方がはるかに自然である。(確定している実利行者の入定の年月日と行年をいうのに、なにを「案ずる」必要があるのか。「実にこれ」と嘆じるのが自然である)。
那智の瀑布に入定す実 これ





15行目】
明治十七甲申年四月廿三日行年四十有 ・(私案)
明治十七甲申年四月廿三日行年四十有六(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

この行を「明治十七甲申年四月廿三日行年四十有六」と読むこと自体にはそれほど困難はない。強いて言えば「廿」が壊れた「井」のような字でおかしいこと、おそらく単独にその部分のみ示されたら「廿」とは読めないだろう。同じことは「日」についても言える。もうひとつ、最後の「六」が掛軸の汚れで半分しか見えていないことなど。更に言えば、「明治」の「明」も「日」の代わりに点が2つ打ってある。これは個人用のメモ書きなどの書きぶりを思わせる。「甲申」も「年」も「月」も、金釘流の、殴り書きとまでは言わないが、ラフな書き方である。全体として行がやや左右に揺らいでいるし、緊張感を欠いている印象である。この行は、いわば、命日と行年という決まり切ったことを書くだけなのに、なぜ、こういう字体になっているのだろう。それが、ひとつのナゾである。

この行のもっと大きなナゾは、日付と行年が流布しているものと異なる、という点である。
まず、捨身入定の日は明治17年の「四月廿一日」であることは、信者たちによく知られていたはずである。墓碑銘や位牌などすべて「廿一日」である。ところが「讃」は、それを「廿三日」と書いている(【10行目】に「三州」という字があるが、「廿三日」の「三」と比較してみると、まちがいなく同型の「三」であり、他の解読はできないだろう)。
ここで2つの判断があり得る。ひとつは、「廿三は廿一の誤記」と考えること。もうひとつは、「入定の日は廿三日」であると考えること。

《「誤記」説》はこの行がやや緊張感を欠いた印象であることと合っており、「讃」も終わりの方になって決まったことを書くのに作者はついうっかりしたのだろう、と考えることはできる。
しかし、この説にはつぎのような重大な疑問も生じる。一般的に「実利行者立像」のような宗教的な偉人を描き、偉人を尊崇する信者がそれを大事に保存することが想定される場合、その命日を書き損じることは考えにくい。しかも実利行者の場合は病没などの一般的命日ではなく、捨身入定という特別な宗教的な決意のこもった究極の行が決行された日である。その意志的な行の成就を信者たちは強い衝撃を持って受けとめたのである。したがって、実利行者がなしとげた究極の行の日は、「実利行者立像」の作者にとっても重要な日として意識されていたであろう。それを「誤記」だったのだろうで済ませることはできないのではないか。
下で論じるが、この行にはもうひとつ「四十有六」という通常とは異なる「行年」が書いてある。これもまた「誤記」であるというのは御都合主義が過ぎるのではないか。

《「廿三日」説》がありうるかどうか。
この「廿三日」説に立てば、「四月廿三日」は誤記ではなく、「廿三日」こそが実利行者の命日として受けとめるべき日であると考えられていたことになる。那智の瀧の上から飛び降りるという行為の行われた4月21日は客観的事実であるから、捨身のあった「廿一日」ではなく2日後の「廿三日」こそが信心されるべき日であると考えられていた、ということになる。そんなことがありうるのか。

こういう発想で資料を見直していて、「廿三日」に注目する根拠となりうる資料として、わたしは次のものに気づいた。サイト「実利行者の足跡めぐり」の浦向分骨碑に「実利行者尊の御足跡」という説明板の写真が掲げられている。その一部。
梅楼館実利行者尊は天保九年八月二日(西暦一八三八年)岐阜県恵那郡坂下村に生れ二十五才の時出家(中略)、
衆生済度の熱願成就と男女諸人の罪障をすべて一身に負われその極限に結願の意中を遺書に残し那智大滝瀑中岩上に座禅三昧遂に身を深淵に投じて入定せられる時に明治十七年四月二十一日(西暦一八八四年)御歳四十六才三日目に再び浮上されられた時尚も座禅のお姿であった(後略 強調は引用者
「梅楼館」は実利が坂下町で修験勉学していた頃からの号である。奈良県吉野郡下北山村の浦向というところは、地図を見ただけでもたいそう山深いところであることが分かるが、実利行者が那智の瀧で入定した翌年、明治18年(1885)8月にこの地へ那智から分骨し、大和・紀州・大阪の講中により、碑が建立された。おそらく、明治18年8月に那智の瀧の下の墓地から共同墓地へ移葬した際に、分骨したのであろう。

「浦向分骨碑」の説明板は通常のように「二十一日」に入定したとしているが、そのつづきの「三日目に再び浮上されられた時尚も座禅のお姿であった」というところに注目して欲しい。行者は21日に那智の滝へ飛び込み、そのまま滝壺に沈んだままの状態で座禅の姿を崩さず、「三日目」に引きあげられたというのである。とすると、引き上げられたのは23日のことだったという“数え”での数え方がある。行者は“水中座禅”をしていて、水底から引き上げられた日に入定が完成したと考えることはありえよう。
「讃」の作者がこの考え方を取っている可能性がある。あるいは、そういう信者たちの考え方に従って「讃」を書いた、と考えうる。そのように「廿三日」入定説をとる信者の一群がもしあったとすれば、「讃」の作者はその信者グループとの交流の中でこの作品を制作したのかも知れない。「三日目」に引きあげられたという記録は、わたしは浦向分骨碑の説明板しか知らないが、「讃」の作者は浦向の「実利行者講」などと関係があった可能性がある。

「実利行者伝聞書」という実利行者の伝記がある(ブッシイ前掲書p276)。尾鷲の旧家の娘が九頭竜王神に取り憑かれ行者に助けを求め、行者と九頭竜王の法力比べとなる。最終的に行者は娘の身代わりとなって滝に「投身」する。
姫の身替わりとなりて、夜中滝に投身して、滝中底深くにて座禅しあり。前鬼行者坊五鬼童大阿闍梨の来って、滝水に九字十字の極秘を以て切り、東側にある水落にて、竹いかだを組み、行者を之に引上げ、是を行者屋敷に埋めたり。(p277)
この伝記は前鬼行者であった大沢円覚行者(実利と同郷人)の話を那智大社宮司の篠原四郎が筆記したもので、神懸かり的な内容はともかく資料としては信頼性のあるものであるとブッシイはいう。実利行者を滝から引き上げるまでの日数は不明であるが、前鬼から大沢行者が駆けつけ、筏を組んで引き上げたなど、幾つかの手順があったことが分かる。実利行者を引き上げたのが「三日目」となって不合理ではないようにわたしは思う。(実利行者の発心に御嶽山の「青竜王」が関係していたという。そのことと「実利行者伝聞書」の「九頭竜王」との法力くらべの伝えとは、関連があるように感じられる。
ところで、この説明板は天保九年生誕説を掲げ、「四十六才」を示している。この説明板は新しいものなので満年齢を使うことはあり得るが(西暦を並記していることも満年齢の傍証となる)、「実利行者立像の讃」が「行年四十有六」としたのはそれと同一としてよいのだろうか。わたしには判定がつかない。
実利の生年を天保十四年(1843)とすると、明治17年(1884)は数えで四十二歳である。これを「四十六歳」に誤るということは考えにくい。あるいは「四十有」の「弐」の左半分が汚れで消えている可能性はないか。「私案4/27」では、そういうことを勘案して「(有 ・ )」とした。
生年のもうひとつの説、天保九年をとると明治17年は数えで「四十七歳」となる。満年齢なら四十六歳である。「讃」の作者は、天保九年説で満年齢を用いているという可能性が出てきた。
他所でも述べておいたが実利行者の生年問題をまとめて実利行者の生年問題と初期活動を作ったので、読んでいただきたい。

「実利行者の足跡めぐり」の安藤氏に、浦向分骨碑の説明板について情報を求めたところ、この説明板の天保九年説は、実利教会の石碑の「碑文」がもとになっている、とご教示くださった。昭和15年に実利教会が印刷・作成した勤行書『実法・行者講私記』に「碑文」が収載されているが、その勤行書が戦後に浦向の講にも渡り、「碑文」が知られるようになったのだろうという。(この勤行書はブッシイ『実利行者の修験道』(p157)に収録されている。既述したが、この実利教会の石碑は明治35年4月21日に建立され、入定の年を「明治十八年」と誤っているものであるが、これは分骨の18年8月と紛れた可能性がある)

「讃」のこの行は、メモ書きのような特徴ある書体とともに、行者の命日と行年について大きなナゾをふくむ。「誤記」の可能性はあるが、そうだとすると1行に2個所の誤記、しかも、命日と行年という重大なふたつについてである。まずもって“誤記ではないだろう”と考えて「讃」作者がどのような立場にあったのかを考究するというのが、解読する者のフェアな態度であろう。解読者が「誤記」を持ち出すのは最後の最後であるべきだ。わたしはそのように考えて、色々と試案を述べてみた。
明治十七甲申年四月廿三日行年四十有六





16行目】
・ 人と倶に山篭 ・・(私案)
此人と倶に山籠致し(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

ここから4行は右上がりになっており、4行全体で作者の自己紹介・署名という意味あいを持たせている。この【16行目】はその最初の行であり、作者の自己表白である。(わたしは、最初の段階ではここに俳句が置いてあるのじゃないか、と考えたこともあった。
「私案4/27」では読めていなかったが初めが「此人」であることには、「郷土史家案」を見る前に気づいており、「郷土史家案」と一致していて安心した。

実利行者を呼ぶのに、「此人」という平らかな呼び方であるところに、この作者の面目があらわれていると思う。敬愛の念がこもっているが、同時にとても近しい関係を表そうとしている。「此人と倶に山籠」は、「この人とともに山ごもり」と読むのがいいのではないか。もちろん「山籠 さんろう」もあり得る。
そして、問題は最後の「 ・ し」に絞られる。

この不思議な字は、「実利行者立像」を最初に見たときから、目についていた。点が4つ打ってあって、2つずつを縦線で分けている。こういうタイプの漢字を色々と思いついては、東大史料編纂所DBで草書体を調べてみた。たとえば、“水、求、逃、悲、霊、両、與、・・・・”

よく見ると、この不思議な字には、下に横線が強くあり、右に点が打ってある。上のサンプルの中では「逃」「與」には下に横線がある、というような具合。

最終的にわたしがピンときたのは、「幾」だった。東大史料編纂所DBの草書体字形を見ていただきたい()。わたしは「庶幾 しょき こいねがうこと」という熟語をすぐ連想した。「幾し」は「ねがひし」と読むのであろう。

「此人と倶に山篭幾し」(このひとともに やまごもり ねがひし)が正解のようだと確信を持ったのは、わたしが初めから“ここには俳句がおいてあるんじゃないか”と思ったりした予測とピッタリ合った一行になったからである。“この人となら、いっしょに山篭りしてみたいもんだなあ、と思った”という意味だと思う。わたしの「幾」の発見は、明らかに字形からの追求であった。しかし、「幾」の発見の後、その意味がこの「讃」の末尾の一行としてすばらしくマッチしていたのである。

この作者の目からすると、実利行者は峻厳な苦行者であっても、たんに苦行を苦しんでいるだけの人ではない。その苦行に浸っていることを幸せに感じている人である。山岳修行を楽しみのうちに実践している「此人」である。そういう「此人」とともに山ごもりしてみたかったなあ、と。これ以上の、実利行者讃美があるだろうか。
此人と倶に山篭幾し





17行目】
・ 知邦元 ・(私案)
霊知邦元こと(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

「 ・ (知)邦元」 ここの不明字は、「堂」などと同じ冠をもつ字らしいが、墨のにじみがひどくて、確定するのは困難。郷土史家案は「霊」。
ただ、「邦元」という名ははっきりしているので、たとえば「(堂知)邦元」というような姓名であるのではないか。つまり、ここに作者の実名が書かれている(?)。
前行といっしょに読めば「この人とともに山ごもりねがひし(堂知)邦元こと」となるのである。

・ (知)邦元こと





18行目】
・・ 禿児是白(私案)
金兜禿児是白(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

この行も墨のにじみで読みにくい。寺嶋経人氏の「無想」という案がある。郷土史家案は「金兜」であり、違いすぎて決めるのは無理だろう。
次の「禿兒」とくじ]は、「禿のみすぼらしい男」の諧謔を交えた謙遜表現で、邦元氏が頭の禿げた老人であることを示している。
「是白」は、「是を白す」で、本当の漢文なら「白是」となるところである[この場合「白」は「申す」の意味]。もちろん、「是 これ」というのは、「讃」全体のことで、この文章を書いたのは「 ・・ 禿兒」であるという証言。
・・ 禿兒是白





19行目】
画号霊雲洞清岳(印)・ 誌(私案)
画号霊雲洞清岳(印)併誌(郷土史家案)
原文  私案4/27  郷土史家案

最後は、「実利行者立像」の絵を描いた画家の自己紹介である。幸いにここは楽に読めて「画号」を「霊雲洞清岳」という、と述べて、画家としての落款を押し、最後に「併誌」と説明を付けたのである。「併せて誌す」とよむのだろう、「併せて」は絵画のあとで「讃」を誌したという意味になるだろう。

ネット上に福岡県の桜の名所のひとつとして「霊雲洞」が出てくる。場所は北九州市小倉南区で、JR日田彦山線の石原駅の北1kmほどのところのようだ。
この符合は単なる偶然かも知れないが、[07行目]で議論したように、実利行者と関連した情報として他では見られない「筑紫の天拝山」が出てくるので、あるいは、この作者は九州出身者であるのかも知れない。
画号霊雲洞清岳[]併誌





【 5 】 総合と付論





ここまでの結果を総合すると、次のようになる。

【解読 7/18-2010, 改訂 7/17-2011】

ピンク色は、史実ないし通例と異なることを示す。
( )は不確定であるが、可能性はある、
 は読み未詳の個所を示す。

行あけは、「左下がり」、「右下がり」、「右上がり」の
切り換え個所を示す。




01  實利行人は生国もヽくきね
02  美濃ヽくに恵那郡坂村の
03  農家にて二十有五といふとし
04  家に妻子を残して発し諸霊山を
05  巡り就中信濃の御嶽山ヘ 数度登り
06  駿河なる富士山にて 立行を修しまた筑紫の
07  天拝山又あるときは大和の大峯笙の巌窟

08  仝深山
09  山城なる男山鳩の峯
10  一時 和勢紀三州に跨る
11  大嶺臺ヶ原篭りまさき
12  はけの牛石の傍らに(擲)身修行
13  すること日あり末に紀伊国牟婁郡
14  那智の瀑布に入定す実 これ
15  明治十七甲申年四月廿日行年四十有

16  此人と倶に山篭幾し
17  (知)邦元こと
18  ・・ 禿兒是白
19  画号霊雲洞清岳[]併誌






念のために、振り仮名つきを作ってみた。本文は通例の文字遣いにしている。(もちろん、訓みは一通りとは限らないので、一例と考えて欲しい。

【解読】ふりがなつき




01  實利じつかが行人ぎゃうにん生国しゃうごくもヽくきね

02  美濃みのくに恵那郡えなぐんさかもとむら

03  農家のうかにて二十いう五といふとし

04  いえ妻子さいしのこしてはっ諸霊山しょれいざん

05  めぐ就中なかんずく信濃しなの御嶽山おんたけさんヘは数度すうどのぼ

06  駿河するがなる富士山ふじさんにては立行りつぎゃうしうしまた筑紫ちくし

07  天拝山てんぱいざんまたあるときは大和やまと大峯おおみねしゃう巌窟いわや

08  おなじく深山じんせん

09  山城やましろなる男山おとこやまはとみね

10  一時いっとき和勢紀わせいき三州さんしうまたが

11  大嶺おおみね臺ヶ原だいがはらこも正木まさき

12  はげの牛石うしいしかたわらに(てきしん修行しゅぎゃう

13  することあり末紀伊国きいのくに牟婁郡むろぐん

14  那智なち瀑布ばくふ入定にふぢゃうじつ これ

15  明治めいじ十七甲申年きのえさるのとしがつ廿にじふさんにち行年ぎゃうねん四十いう

16  此人このひととも山篭やまごもりねがひ

17  (知)邦元くにもとこと

18  ・・ 禿兒とくじ是白これをはくす

19  画号がごう霊雲洞れいうんどう清岳せいがく併誌あわせてしるす








付論    ―― この掛軸の作者について  ――



ここまでの解読で明らかになってきた掛軸「実利行者立像」の作者について、解読の各所でいくらかずつ述べておいたことを、まとめておく。

(1):本名は「某々邦元」、画号は「霊雲洞清岳」。万葉集の「ももくきね美濃」を使い、「和勢紀三州に跨る」という語句を使用していることなどから、明治中~後期の作品か?

(2):実利行者に対して「此人」と呼びかけていることからも、行者を敬愛しているが信者や弟子というより、松浦武四郎がそうであったように、行者を敬愛・尊崇している自由な立場の文人ないし知識人であろう。

(3):専門画家というより文人画などの系列と考えたい。実利行者を神格化したり偉人化したりすることなく、普通の身の丈の人間として親近感と愛情をこめて描いている。そのことが、この作品の最大の魅力である。
和勢紀三州に跨る」大台ヶ原」の《6》で述べたが、この作者は紀州の山岳に深く交わる画業の流れ、野呂介石、畔田翠山、松浦武四郎の延長上にいる人物である可能性がある。ことに松浦武四郎の知人や弟子筋を探してみる価値はある。

(4):文字はけして能筆ないし達筆ではなく、気どらずに書いている。特に、折り返して右下がりになってからは、草書・行書を混用し、ザックバランな字体で押し通している。いわば“ヘタウマ”系の字といえるが、嫌みがなく見飽きない。

(5):「正木はげの牛石」というような固有語をかまわず使用しているのは、驚くべき特徴である。明治中~後期に「正木はげの牛石」の意味がわかる人は極く少数であったはずである(現在でも難解語である)。この作者は、松浦武四郎周辺や大台教会なども含めて、明治中期~後期の大台ヶ原の事情に親しんでいる人物であったことはまちがいない。この方面の文献に「邦元」氏がひょっと登場しているかもしれない。
「実利行者立像」は、そういう少数者のために、あるいは、そういう少数者の要請があって作成された作品と考えられる。

(6):富士山での「立行」修行という実利行者についての表現は、この「讃」独自のものである。「筑紫の天拝山」で修行したというのも、他では見られない。この作者は、このような特異な情報を持つ人物であった。

(7):冒頭の「ももくきね」という語は、昭和初年以降現代の万葉学によって「ももきね」に統一されている。補論「百茎根」で述べたように、「ももくきね」は頼山陽によって生きた和歌の言葉として使われている。わが「讃」の作者はどのような伝統につらなって「ももくきね」を使ったのであろうか。

(8):【02行目】の「坂本村」のナゾ。【15行目】では、入定の日付と行年が「廿三日」と「四十有六」となっている。該当個所でそれぞれわたしの考えを述べておいたが、なぜこのようになっているのか、この疑問を追及することで作者を限定することが可能であるかもしれない。



【追記 10/9-2013】
「邦元と署名のある実利行者座像」


《1》

五来重『葬と供養』(東方出版1992)という厚い本(全部で1092頁もある)を見ていたら、その初めのところに頭注があって、小さな白黒の写真が載っていた(4・4×3・1cm,下の右図)。それには図のように「実利行者像(岐阜県、足立家蔵)」と出所が示してあり、本文では3行ほど実利行者に触れている。
また山伏行者のなかには、このけがれた、不自由な肉体をみずから捨てて、神通力を得て衆生済度しゅじょうさいどをしたい、と捨身した実利行者のような人もあった。(同書「はじめに」p7)
サイト「実利行者の足跡めぐり」の「坂下 実利教会」に、ほとんど同じ図柄の実利行者座像が掲げてある(下の左図)。それで、すぐにわたしはサイトの主・安藤氏にメールを送った。

   

安藤氏は詳細に両画像を比較して、それらは「異なる絵である」ことをはっきり指摘され、さらに、驚いたことに『葬と供養』の画像には邦元と署名があることを指摘されたのである。(上の右図右下隅)(なお、上の2写真はほぼ同じ大きさになるように調整しているが、わたしの手に入った原写真は大きさも精度もまるで違うものである。サイト「実利行者の足跡めぐり」から頂戴した左の〈金峯〉は絹布に描かれ軸装された作品を安藤氏が撮影したもの、〈邦元〉は上述のようにオフセット印刷の白黒小画面を書籍からわたしが撮影したもの。以下この二種を、〈金峯〉と〈邦元〉と略記する。

うかつなことにわたしは『葬と供養』の白黒写真は「坂下 実利教会」の実利行者座像と同じものだと頭から決めてかかっていて、きちんと比較さえしていなかった。上述のように『葬と供養』の画像は頭注に使われている小さい白黒写真であるが、それでも「坂下 実利教会」の実利行者座像と比較すれば明らかな相違が見てとれる。安藤氏のご指摘をもとに再構成すると次のようになる。 白黒の小さい写真で余り踏み込んだ議論をするのは控えるべきだが、どうも、〈邦元〉のヒゲは髪よりも白髪混じりに見える。それに対して、〈金峯〉のヒゲは黒々としている。(蛇足であるが、〈邦元〉と〈金峯〉の題字の違いを書き出しておく。〈邦元〉の方が幅細く、右上がりの書き癖が強い。〈邦元〉は「実利大行者尊」までを大き目にし「三十三歳」を小さく詰めて書いている。ほぼ等間隔に書いている〈金峯〉との字配りの差は歴然。両者の旁やハネの細部までみれば更に差は明らか。

このように観察してきて、わたしは「三十三歳座像」に異なる二種あることは間違いないと考えた。改めて記しておくが、「邦元」署名のものを〈邦元〉とし「金峯謹冩」とあるものを〈金峯〉と略記する。

わたしは〈邦元〉の出現までは、「金峯謹冩」とある意味は、画家金峯が“三十三歳の実利行者尊と直に対面して「生像」を謹写いたしました”ということだと思い込んでいた。“謹んで写した”というのはモデルとなった実利行者尊へのへりくだった気持ちを表していると考えていた。しかし、〈邦元〉が出現したことによって、「金峯謹冩」とは、画家金峯が作品〈邦元〉を謹写したことを表しているという可能性がでてきた。その謹写の結果生まれたのが〈金峯〉である。
こう考えれば、〈金峯〉の固い字体の「實利大行者尊三十三歳生像」や、整った画像であることが了解しやすい。またこの「謹写」は模写(臨模、レプリカをつくること)を目的としたのではなく、〈邦元〉に対してある程度形を整えたり威厳のある表情を工夫したりしていると考えられる。既述のように、安藤氏からのメールによると〈金峯〉は紙ではなく絹本に描いているそうだが、それも意図あってのことであろう。

逆に〈金峯〉を画家邦元が模写して〈邦元〉を制作した可能性はほとんどないと思う。小さい画像しか見ていないが、〈邦元〉には実利行者にのびやかな個性が現れており、〈金峯〉の実利行者は柔和な表情だが厳謹さを漂わせている。後者から模写によって前者に表れているオリジナリティを創り出すのは難しいと思う。なによりも、もし邦元が模写をしたのであるなら「金峯謹写」という文字も模写すべきである。(この場合、それは単なる署名ではなく、金峯が実利行者尊へ向かうへりくだった気持ちを表していることになるからである。

実は、アンヌ・マリ ブッシイ『捨身行者 実利の修験道』(角川書店1977)の口絵(白黒写真)は〈金峯〉が掲げてあるのだが、ブッシイ氏の注として「実利行者肖像(三十三歳)(恵那市足立家蔵)」と記してある。サイト「実利行者の足跡めぐり」に明記してあるように〈金峯〉は現在実利教会の所蔵となり、安藤氏はそれを新たに撮影したのである。


《2》

本稿を閉じて一年余、思わざる足元から「邦元」が飛び立ったことを喜びたい。

新たに出現した「邦元」と署名のある「實利大行者尊三十三歳生像」(この作品を前節のように〈邦元〉と略記する)の作者邦元は、本稿の主題としてきた「実利行者立像」の作者である邦元と同一人物だろうと考え、以下、どのような新たな展望が見えるか、とりあえず現時点でのメモを残しておきたい。

まず、「實利大行者尊三十三歳生像」という題についてだが、もう一つ存在する実利行者座像は「實利四十一歳生像」と題されていて、「天(?)龍寫」と画家の署名がある(「実利行者の足跡めぐり」の「天ヶ瀬 岩本家」 、天保十四年生まれとすれば四十一歳は捨身入定の前年である。この岩本家の「座像」に関しては、下の《3》で別に論じた)。
ここにくり返されている「生像」という語についてだが、わたしは「生像」というのは「リアルな像」の意味で、「写生」の「生」と同じ使い方(リアルを写す)であろうと思っている。想像画ではなく対面して写生した、という意味である。しかし、なにせ明治初年に画家が使用した語例なので、今の語感で推し量ると誤る可能性がある(ただし「写生」は江戸時代以前からの用例があり、『文明本節用集』(文明六年1474頃成立)に「写生 シャセイ 絵書に云う也」とある。『日本国語大辞典』による)。

画家・邦元は「實利大行者尊三十三歳生像」を描いたのであるから、間違いなく次の2つのことは成り立つ。
  1. 画家・邦元は実利行者と会っていた。
  2. 画家・邦元は明治8年(1875)(もしくは、明治三年(1870))に画家として活動していた。
実利の生年に2説あり、その三十三歳の年が2つ生じるので、上のように書いておく。ともかく、邦元は明治十年以前にすでに画家として活動していたことが分かった。これは、とても重要な情報である。たとえば、松浦武四郎と面識があった可能性が大きい。(従来わたしは邦元として明治中ほど以降の文人・画家を想定していたので、明治21年1888に没した松浦武四郎とどの程度交渉がありえたか、危ぶんでいた。

実利が明治三年(1870)には中央(皇室方面や京都)にも知られるようになっていたことを【第07行】で述べておいた。明治初年に邦元がどこでどのような活動をしていた人物であるのか(画家として知られていたのかどうかも含め)分かっていないが、何かのきっかけがあって、実利行者の「三十三歳生像」を描く機会が生まれたのであろう、そういうことは十分に考えられることである。

これまでわたしは「実利行者立像の讃」を読むのに、漠然と、実利行者を尊敬・思慕する文人画家・邦元がその気持ちを表現している「讃」と考えてきた。ところが〈邦元〉が出現することで「讃」の持つ意味あいも違ってきて、語句によっては俄然リアリティを持つ場合が出てきた。というのは、邦元は明治初年から実利行者の知遇を得ており、「實利大行者尊三十三歳生像」を描いている。その実利行者が明治17年(1884)4月21日に熊野那智の滝で捨身入定した。邦元はその衝撃を受けとめた上で「讃」を書いていることになるからである。
とすると、「実利行者立像」の制作時期は、実利の捨身入定からそれほど年数を置かないうちではなかろうか。また、必ずしも注文によって制作した作品ではなく、邦元自身の思い出のために描き、賛を書いたことも十分考えられる。(自分のために興のおもむくにしたがって賛を書いたのだとすれば、いくつかの誤記やメモ書きのような字体となる個所も理解しやすい。)そういう新たな可能性が出てきた。

【第16行】でわたしは、「此の人と倶に山籠りねがひし」と邦元が述べていることを発見したときの自分の感動を記しておいた。
この作者(邦元)の目からすると、実利行者は峻厳な苦行者であっても、たんに苦行を苦しんでいるだけの人ではない。その苦行に浸っていることを幸せに感じている人である。山岳修行を楽しみのうちに実践している「此人」である。そういう「此人」とともに山ごもりしてみたかったなあ、と。これ以上の、実利行者讃美があるだろうか。
邦元は那智の滝で捨身入定した伝説的行者を遠くから尊崇しているというのではなく、その生身の風情や人柄を知っていたのである。その上で「此の人と倶に山籠り幾し」と述べたのには、熱い真実味(リアリティ)がこめられていたのである。
邦元は抽象的な実利行者の記憶を尊崇しているのではなく、具体的な「此の人」を敬慕し親愛していたことが重要だ。具象的な実利行者の記憶の上に「讃」を書いたこと、〈邦元〉出現によってそういうことが確かめられたことは大きな意味を持つ。この観点をもって、再度「讃」を読み直さないといけない。

前掲図〈邦元〉右下隅を見ると、「邦元」署名の下にさらになにか大書してあるように見える。いったい何が書いてあるのか、それを知りたいものだ。(なお足立家と連絡が取れた安藤氏によると、残念ながら足立家には〈邦元〉に関して情報がなく不明だそうだ。


《3》

奈良県上北山村天ヶ瀬の岩本家所蔵の「實利四十一歳生像」という実利行者座像について、ここで気づいたことをまとめて述べておく(「実利行者の足跡めぐり」の「天ヶ瀬 岩本家」 )。この絵画作品は、直接〈邦元〉と関係はないのだが、〈邦元〉と比較しながらあらためてこの座像をも調べることになって、初めて気づいたことが幾つかあった。

左に「実利行者の足跡めぐり」からいただいた「實利四十一歳生像」を掲げるが、縦長なので上下を少し切っています。表装部分も切ってあります。読者はぜひ上のリンクを参照して、より優れた画像をご覧になって下さい。

まず、この絵の全体的な印象は、堂々としていて威圧感さえ覚える、そういう実利像である。そして「實利四十一歳生像」という題字も堂々と大書してある。それは絵とよく釣り合っていると思う。この字はけして手慣れた達筆というのではなく、真面目で力感にあふれている。「四十一歳」の所などには、何かためらいか緊張かが表れていて、身近さを感じる。

さらに、梵字10字が上方にあるが、これは迫力がこもり充実感がある。十分修練した字で迷いがない。だが、題字とおなじ手であるように感じる。(梵字の右5字は、胎蔵界大日如来の真言「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」。左は上から3つの「種字しゅじ」がならび、それぞれが1字でひとつの如来を象徴している。上から、胎蔵界大日如来・金剛界大日如来・阿しゅく如来を表す。最後にすこし小さく2字あるが、決めの言葉で「ソワ・カ(成就せよ!)」

この絵の題字は「實利四十一歳」となっていて、「行者尊」などの尊号がないことが際立った特徴である。「三十三歳生像」では「大行者尊」とはっきり尊敬を表す言葉になっていた。(下で扱うが、実利の遺書の表紙は実利の自筆で「実利行者尊遺書」と書かれ、「行者尊」という語が改まった場合の自称としても使われることがわかる。
この座像は実利行者が捨身入定する一年前の「生像」であって、行者は並々でない存在感を漲らせていたことであろう。この絵にはそういう気韻が現れている。その実利行者の像に対して「實利四十一歳」と呼び捨ての題字を与えて、しかも、このようなつよい字が書けるのは、師匠筋の誰かか、実利本人しかない。いわば肩書ぬきで「實利四十一歳」と題したのは、すくなくとも画家ではないことは確かであろう。

そう考えて、左図の落款部分を拡大して調べた(右図)。右に角印がふたつあり、左に丸印がひとつある。
ふたつの角印は「實利四十一歳生像」という題字の真下に捺されており、しかも画家の署名「文(?)龍」の高さに並べてある。このふたつの角印の位置が重要である。その位置から、これらの角印は画家の落款ではなく、「實利四十一歳生像」と書いた人物の印であると考えるべきだ。

上の角印には3文字あり「(?)楼館」(これの検討は下で別に行う)。下は2文字で「實利」。殊に、この「實利」は鮮明で篆字も読みやすく、まちがいない。

3文字の角印をわたしは「梅楼館」と読んだのだが、それは、実利が出家前の若い頃から「梅楼館」という雅号を用いていたことをブッシイ前掲書によって知っていたからである。
慶応二年の『般若心経』という習字帳とおもわれる自筆の帳面がある。その中に、『般若心経』以外にお守りの書き方と立願の書き方をしめす数頁がふくまれている。(中略)実利という行者号を書き、「梅楼館ばいろうかん実利」なる雅号も書いている。(ブッシイ前掲書p27)
3文字のうちの下2文字「楼館」は確かであるが、第1字目の字形がだいぶ崩れている。木偏はちゃんと見えているが、旁が崩れている。捺印の際の汚れなどなのか、それとも印自身が破損しているのか。そのどちらとも決めがたく、・・・・わたしは当惑して立ち止まっていた。
この問題について、次のようにして少し前進することができた。

ブッシイ前掲書の資料編に実利行者の遺書6通が紹介してあるが、その表紙として「実利行者尊遺書」と書かれた和紙一葉が使われており、それに「梅楼館」の角印が捺されていることが示されている(p140)。(ブッシイは、「梅楼館」に(花押)と添え書きしている。この「花押」の意味は分からない。

左はそれの実物写真で、安藤氏が下北山村福山家に赴いて撮影したものである(2013年6月)。“かんじより”で綴じられた和紙の表紙で、中央に「実利行者尊遺書」と書かれ、右肩に朱の角印が見える。この「梅楼館」印によっても書体からしても実利自筆であることがわかる。薄く透けて文字が見えているのは、2葉目の「北山三名方」宛ての遺言で6通ある遺書のうちの第一のものである。ご覧のように驚くほど良い保存状態である。(なお、実利行者の遺書6通は、実利自身によって2部作られ、下北山村の福山家と正法寺にそれぞれ保存されてきた。この2部の内容はまったく同文であるという。しかし、表紙は異なり、福山家のものは既述のように「実利行者尊遺書」と題されている。正法寺のものは「実利行者尊御仙化際遺書、明治十ママ七歳、申、四月十九日」と書かれている。ブッシイ前掲書口絵およびp149による。)(2部の両方に目を通したブッシイ氏は前掲書口絵に「自筆」と明記している。わたしは写真版を見るまでは「行者尊」や「御仙化」と実利が自分で書くとは信じられなかったが、誤記があること「梅楼館」押印があることなどから、表紙も自筆にまちがいないと考えるようになった。遺書本文には自分の名前は単に「林実利」と書いている。

左写真で分かるように、遺書綴りの表紙の薄い和紙に捺された角印はやや薄く見えているが、実際には、その押印の状態は良く、左写真から切り出して輪郭を強調するなどの加工を施したのが右図の右半分の映像である。篆書の「梅楼館」が明瞭に見えている。「梅」も「楼」も「館」も小篆の普通の書体で、やや縦長の印材に左右に広く空地を作って彫ってある。 参考までに、右に篆字の「梅」の一例を『朝陽字鑑精萃』(西東書房1929)から紹介しておく。遺書表紙の角印の第一字とよく一致していることが分かる。
左半分は、先に示した「実利四十一歳生像」の落款部から切り出した3文字の角印で、遺書から切り出した「梅楼館」と大きさを揃えるように調整している。なお、この「生像」の画材は紙であるが(麻紙などにドーサ引きをしたものが日本画の標準)、当然のことながら、押印の際にはシワもゴミもなかったと考えられる。

上の左半分、「四十一歳生像の3字角印」の検討に戻る。
右半分に並んでいる「梅楼館」と比較すると、3字目は問題なく「館」に一致している(字として「館」に一致しているという意味で、細部は異なるところがある)。2字目は旁に少し崩れた個所があるが、なんとか「楼」と読むことはできるという程度である。1字目は木偏はよいが、旁の方は壊れていて「梅」と読むことは難しい。しかし、詳しく見ると梅の旁の左半分は原型を残していて、元の字が「梅」の篆書であったことを納得することは可能である。

「四十一歳生像の3字角印」は、(1) 「實利四十一歳生像」と題する実利行者座像に捺されていること、(2) この角印の下に「實利」角印がおされていること、(3) 実利が若い頃から「梅楼館」角印を使用してきたことなどの状況証拠を考え合わせて、「梅楼館」という角印であると断定できよう。
そうすると、新たな問題が生じる。それは、「梅楼館」角印がふたつ存在しているのか、それともひとつだけなのか、ということである。

真相は分からないが、次のことは確かである。 わたしの気持ちでは、「梅楼館」角印がふたつある、としたい。長年持ち歩いていたために破損した角印を「四十一歳生像」に捺したと考えることはできるが、上の写真のように汚れやゴミがひどく付いた状態で使用したというのは考えにくい。(比較的鮮明に出ている「館」の細部を比較して、両者に相違が存在することを示す試みを行っているが、ここではそこまで踏み込まない。

「真相」がいずれであっても、「実利四十一歳生像」の真下にふたつ捺してある角印は「梅楼館」と「実利」であり、実利行者自身が捺したと考えられる。このことによって、梵字と題字がともに実利行者のものであることがはっきりした
そのことによって、実利自身がこの実利座像が「生像」であることを自ら保証しているともいえる。

画家の署名の方は従来「天龍」としていたが、どうも、違うように思う。「文龍」のように見える。落款の丸印の方は2文字で「文龍」と読めるのではないか(「天龍」とは読みにくい)。ここでは「文龍寫」と画家によって署名された、と考えておく。

この岩本家所蔵の「實利四十一歳生像」は、ブッシイ前掲書が記載し、サイト「実利行者の足跡めぐり」が写真を掲げている。しかし、この絵画作品について論じられたことはいまだなかったと思う。小論はともかく「實利四十一歳生像」をとりあげ、わずかであるが初めて論じてみたことになる。

この「實利四十一歳生像」は、遺言を別にすれば、那智の滝に捨身入定する前の実利行者が到達していた最終の実存に触れることが出来る絵画作品である。その「生像」によってだけでなく、行者自身の書によって。


◇ 以上 ◇


サイト「実利行者の足跡めぐり」の安藤氏には、多数の貴重な写真をご提供いただき、その使用を快諾していただきました。深く感謝いたします。
最終更新10/13-2013




「実利行者立像」の「讃」解読   おわり


大江希望 8/6-2010,       最終更新 10/13-2013


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