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浮世絵師歌川列伝 さ行
☆ 歌川国貞門人 さだかげ 歌川貞景 さだかめ 歌川貞歌女 さだたか 歌川貞考 さだつな 歌川貞綱 さだとら 歌川貞虎 さだのぶ 歌川貞信 さだひさ 歌川貞久 さだひで 歌川貞秀 さだひろ 歌川貞広 さだふさ 歌川貞房 さだゆき 歌川貞幸 ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「一世歌川豊国伝」p101 (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり) 〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、 国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、 国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。 二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広 国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰 国丸社中、重丸、年丸、輝人。 国信社中、信清、信一、信房、信与喜 国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟☆ さだひで うたがわ 歌川 貞秀 ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「歌川広重伝」p180 〝広重は席上画に長じ、よく画きたるが頗る妙所あるがごとし。他の浮世絵師は多く、席上にて画くことを 嫌うなり。其の浮世絵師にして席画をかきたるは、広重と玉蘭斎貞秀 の二人のみなりしと〟 ☆ さんしょう ふくてい 福亭 三笑 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p115 〝三笑は式亭三馬の門人にして、福亭と号す。略伝に日本橋辺の人と云えり。詳ならずとあり。著述目録に 通称森貞雄、江戸人、文政時代、画、春亭、豊広等とあり〟☆ しげのぶ うたがわ 歌川 重宣 (歌川広重二代参照) ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川広重伝」p182 〝広重の先妻の名詳ならず。早く死す。後妻其の名また詳ならず。一女を設く。広重の没するや、門人重宣 をこの女にあわせて家を継がしむ。これを二世広重 とす。立祥といい、喜斎と号す。山水花鳥を画くおな し。よく一世の筆意を守りて失わず。その落款一世と異なることなし。ゆえに人おおくは一世二世を弁ず る能わざるなり。落合氏(芳幾)いわく、二世広重は好人物なり。予は屢(シバシバ)彼に出逢いしが、性正 直にして事に処する甚だ謹慎なりし。或は世事にうとき所なきにあらざれども、画道におきては頗る妙所 あるがごとし。惜しむべしと。後に故あり家を出で横浜に赴き、再び重宣と号し、絵画を業とせしが、幾 ならずして没せしという。二世の家を出ずるや、同門重政代りて家を継ぐ。これを三世広重とす〟☆ しげまさ うたがわ 歌川 重政 (歌川広重三代参照) ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川広重伝」p182 〝二世(広重)の家を出ずるや、同門重政 代りて家を継ぐ。これを三世広重 とす。又よく山水を画く。嘗て 伊勢、大和、大阪、京都を廻り、また常陸、下総に遊び、行々山水をうつし、其の志し一世の工に出でん を欲せしが、不幸にして病に罹り、明治廿七年三月廿八日没す。惜むべし。友人清水氏後事をおさむ。 三世広重、辞世の歌、うかうかと五十三とせの春を迎へしことのおもてふでとれば、汽車よりも早い 道中双六は月の前を飛に五十三次。俳諧師夜雪庵金羅、代りて此歌を帛紗にしるし、三十五日にこれ を旧友より配布せり。今は(明治廿七年十月三日)金羅も病にかかりて没せり。(此の註、「小日本」 にはなし) 按ずるに、三世広重、自二世と称す。何の故を知らず蓋理由ありしならん。過ぐる日これを聞かんとて、 広重のもとに至りしに、既に病にかかり言語不通、きくによしなく、止むを得ずして帰る。遺憾なり〟☆ しげまさ きたお 北尾 重政 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」p185 〝按ずるに北尾重政は、北畠氏、幼名太郎吉、後に久五郎、又佐吉と改む。花藍と号し、又紅翠斎と号し、 酔放逸人をも号せり。初め横山町二丁目に住し、大伝馬町三丁目に移り、後に根岸金杉の大塚に住す。文 政三年二月二十四日歿す。年八十三。浅岡氏が古画備考に、彫工江川八右衛門が一話をあげて、重政が事 を詳かにせり。いわく重政の父は、横山町二丁目書肆須はらや三郎兵衛とて、紀州の人、通町須原屋二男 の家なり。本姓は北畠氏なるを、貴姓と等しきをはばかりて、今の氏に改む。若年より書画を好み、別に 師とせしものもなく、板本にて書画とも学べり。隣町に鱗形や三右衛門といえる書林あり。これ往年おお く草双紙を板行せし、鱗形屋孫兵衛の本店なり。暦問屋の株をもちて、三右衛門自らよく暦をかきたり。 重政十八歳の頃鱗形屋と親しみ、試に暦をかきしが固より三右衛門の年功に及ばざりし。其後打続きて画 きしかば、後々は上手になりて、これに次ぐ者なく、いずれの暦も皆かくことになりたり。既に八十三歳 の時の暦も其前年にかきしなり。重政画をかき始めしは、暦より後のことにて、頃の草双紙の画あまりに 拙しとて、上方の何某が画きたる絵、当地に下るごとに賞美して、其の画風を慕う。(中略)性商売を好 まず其志すところは居を閑地に卜して終日書画に耽るにあり。両親存生の中なりしが、家業を弟にゆずり て、大伝馬町三丁目井筒屋といえる扇屋の家へ居をかりて退きける。私其所へ尋ね候処、至て手狭き長屋 にて、畳は一畳ばかりあるのみにて、其余は筵をしき、書籍とりちらし、一畳の所に机によりて物かき居 候。竈は一つ竈にて、塗も全く調わざるに、上より縄をさげて土瓶をつり、食事は母が本宅より自ら運ぶ といえり。板下の書画次第に行われ、後には書林より手代下男など遣し、平常の雑用をなさしめ、争いて 請い需(モト)むるに至れり。遂に賑かなる所に転居し、家屋も美麗にして、日夜酒肴をつらね、かの閑居書 画に耽るの志しを忘れたるがごとし。(中略)私当所金杉へ引込候とて、深く羨み其後鵬斎の隣家へ引越 候。是年来の志なり。妻と二人にて候いし。近来妻歿して後は、独居なりしが病中にも、弟子同様の人介 抱に参り候。なが患いも不致果られ候云々〟〈鵬斎は儒学者・書家の亀田鵬斎。谷文晁、酒井抱一らとともに「下谷の三幅対」と呼ばれた雅人である〉 ☆ しげまる うたがわ 歌川 重丸 ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p101 (文政十一年八月、初代歌川豊国追悼の筆塚を建立。表に狂歌堂真顔の撰文、背面に当時の門人名あり) 〝碑の背面に、地本問屋仲間中、団扇屋仲間中、歌川総社中、碑営連名とありて、国政、国長、国満、国貞、 国安、国丸、国次、国照、国直、国芳、国信、国忠、国種、国勝、国虎、国兼、国武、国宗、国彦、国幸、 国綱、国花、国為、国宅、国英、国景、国近。 二代目豊国社中、国富、国朝、国久女、国春、国弘、国重、国盛、国鶴、国道、国一、国興。 国貞社中、貞虎、貞房、貞景、貞秀、貞綱、貞幸、貞考、貞歌女、貞久、貞信、貞広。 国安社中、安信、安秀、安重、安春、安常、安清、安峰。国丸 社中、重丸 、年丸、輝人。 国信社中、信清、信一、信房、信与喜。 国芳社中、芳春、芳信、芳房、芳清、芳影、芳勝、芳忠、芳富(以下略す)等の名を刻してあり〟☆ しゃらく とうしゅうさい 東洲斎 写楽 ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p86 〝昔時東洲斎写楽 、俳優の似貌を画くに巧にして、よく五代目白猿、幸四郎、半四郎、菊之丞、富三郎等を 画き、廻りに雲母をすり込み発行せり。これを雲母画という。一時大に行われしが、後にあまり真に過ぎ たりとて大に廃れたり〟☆ しゃらくさい 写楽斎 ◯『浮世絵師歌川列伝』「一世歌川豊国伝」p105 〝(歌川国直記事) 案ずるに天保十三年板広益諸家人名録二編、国直名は国直、写楽斎 、両国米沢町、吉川四郎兵衛とあり。 何人なるを知らず蓋し二世国直なるべし〟☆ しゅんえい かつかわ 勝川 春英 ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「一世歌川豊国伝」p83 〝春英 は江戸の人、磯田氏、九徳斎と号す、勝川春章も門人狂画に名あり。これを九徳風という。文政二年 没、年五十八、類考春英の條に、初代豊国も此風を学びたりといえり〟 ◇「歌川国芳伝」p194 〝勝川春英 は九徳斎と号す。磯田氏、俗称久次郎、勝川春章の門人なり。武者絵に長じ、又一家の筆意をも て、狂画を画く。これを九徳風という。山東京伝曰く、板刻の絵は当時春英の右に出ずるものなしと。文 政二年七月歿す。年五十八〟☆ しゅんてい かつかわ 勝川 春亭 ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「歌川豊広伝」p117 〝従来張交画は、肉筆にあらざれば興なきことなれども、僻遠の地は名手の筆跡を請うの便よろしからず。 且肉筆の価甚だ貴ければ、この板刻の画を購いて、はりまぜとなす者多かりし也。これを画きしは、豊広 のみにあらず。堤等琳、勝川春亭 、喜多川歌麿なども画きたり。一時大に行われたるものなるべし〟 ◇「歌川国芳伝」p187 〝一説に国芳 初年は、勝川春亭 の門人なりといえり。されば其の画風大に春亭に似たるところあるがごとし。 按ずるに、勝川春亭 は山口氏、俗称長十郎、一に中川氏、勝川春英の門人なり。松高斎、又勝汲壺と号 す。類考に和泉町に住す。武者画草双紙おおく画けり。後に歌川風の役者画を画きしなり。壮年にして 病の為めに筆を廃して、其居を知らず。惜しむべしといえり。式亭三馬が雑記に、阿竹大日、およびお さかべ姫の艸紙の事より、三馬、春亭の交不破となるを山本長兵衛が仲裁人となりて、和睦せし由載せ てあり。春亭は京伝三馬等の双紙を画くおおし。又風俗美人画、武者画等も多く画きたり。筆力生動尋 常の腕にあらざるなり。世人もって国芳の師という亦宜ならずや。豊原氏(国周)いわく、国芳ははじ め春亭の門人なりしことは疑うべからずと〟〈三馬作・春亭画の合巻「おさかべ姫」(「日本古典籍総合目録」『【長壁姫】明石物語』)は文化六年刊。また『於竹 大日忠孝鏡』は文化七年の刊行。三馬作・春亭画の作品は文化七年まで、それ以降はない〉 ☆ せきえん とりやま 鳥山 石燕 ◯『浮世絵師歌川列伝』 ◇「歌川豊春伝」p73 〝按ずるに鳥山石燕 は、名は豊房、俗称詳ならず、狩野法眼周信の門人にして、よく画く、後に一機軸を出 だし、終に浮世絵の大手となる。天明三年鳥山彦といえる絵本を画き、始めてふきぼかし摺の工夫をなし (ふきぼかしは一に渲摺という。板木に色料を施しおき、軽くこれを拭い、紙をあてて強く摺るをいう。 かくすれば天水の暈光、衣裳の染分の所など、その分界*藹然として、あるかなきかに見えて、頗る艶彩 をあらわすものなり)、大に行われ、翌年又画図百鬼徒然袋を画き、ふきぼかし摺にして発行せり。その 他通俗画図勢勇談、絵本百鬼夜行、絵事比絹、水滸画伝潜覧、石燕画譜等の、絵本読本の類を画く多し。 類考に塵塚談を引きて、宝暦のころ浅草観音堂の中、定香炉の脇なる柱に、歌舞伎女形中村喜代太郎の狂 言似顔を、長さ二尺四五寸、幅八九寸の額に画きて奉納せしが、諸人珍敷事に沙汰せしなりと。又東都社 寺額面略記(斎藤月岑著)を閲するに、雑司ヶ谷の條に大森彦七(石燕豊房)、小石川氷川社に樊噲(ハンカ イ)門破り(石燕)、湯島天神社に草摺引(石燕)とあり。その没年詳ならず。天明六年刊春興の発句集の さし画に、七十六翁石燕筆とあり。一説に此の年石燕没せり、追悼の狂歌集ありとぞ。かの有名なる喜多 川歌麿豊章は、この石燕の一子なり。 *藹然は髣髴に作る佳也〟 ◇『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p122 〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵 衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古 にいたりても、鳥山石燕 のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎 のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟 なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。 これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれ を保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に 陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」 があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、 北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉 ☆ せきじょう じゅげ 樹下 石上 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p111 〝石上は樹下石上と称す。略伝に市中山人と号す。羽州山形の藩士にして、梶原五郎兵衛と云。作風は楚満 人に似たり。後年目出度ことのみ著述す。子孫梶平左衛門という。部類には古き作者にて、寛政中より其 名聞えたり。鍛冶橋御門のほとりなる、武家の臣なりしとぞ。実名を知らず。其作風楚満人に似て、多く 敵討物を著わしたれどもあたり作はなし。今は古人になりしと歟、詳かなること聞かざりき。猶尋ぬべし と。石上嘗て浮世絵を画き、発行せしことあり。画風鳥山石燕に似たり。石燕の門人なるべし。(余が嘗 て所蔵せし石上が白雉に柳の一枚絵に、とまるらん柳の枝に雪をれは、なしてふことをなきやしらきじ、 とありこれ石上が自詠なるべし)〟 ☆ そまひと なんせんしょう 南仙笑 楚満人 ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p110 〝楚満人は戯作者略伝に、南仙笑と号す。楠彦太郎といい、芝宇田川町の書肆なり。敵討の双紙を中興して、 其名を発す。文化丁卯年三月九日没すとあり。又作者部類に南仙笑と号す。芝に住して鞘師なりと聞えき。 実名を知らず。滑稽の才なしといえども古き作者にて、安永中より文化に至れり。初よりおさおさ若き中 の作のみに、世の評判も果敢果敢しからざりしに、文化に至りて敵討の艸双紙の流行により、時好に称(カ ナ)いて折々あたり作あり云々。中根氏の小説家著述目録に、南仙笑楚満人、一作杣人、別名待名斎今也。 又有門人、(中略)江戸人、文化四年没とあり。楚満人は書肆なりといい、又鞘師なりという詳ならず。 式亭三馬が雑記に、吾友楚満人として、註に芝浜松町に住す。業は板木師にして、仙というとあり。三馬 が吾友といえば、三馬の友人なり。友人の事を記するに、蓋しあやまりあるべからず。板木師なるべし。 又俗名は仙、住所は浜松町なるべし。略伝に宇田川町の書肆といい、部類に鞘師なりと云、共に非なり〟