Top            『浮世絵師歌川列伝』         浮世絵文献資料館
   浮世絵師歌川列伝            あ行                ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵    衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古    にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎    のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に    して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟    なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。    これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟   〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれ    を保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に    陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」    があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、    北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉    ☆ いっけい はなぶさ 英 一珪    ◯『浮世絵師歌川列伝』「三世豊国伝」p131   〝天保二三年の頃、国貞英一蝶の画風を慕い、終にその裔*一珪の門に入りて学び、一螮と称し香蝶楼と号    す。香蝶楼は蓋し一蝶の名の信香の香字と、一蝶の蝶字をとりて号とせしものならん。     *天保十三年板江戸現在交益諸家人名録二篇に、一珪名は信重、北窓翁四世の孫、本所柳島、英一珪と      あり。(【此の註「小日本」にはなし】)」     按ずるに、英一珪は、一蝶の後にして、名は信重一川の男なり。画法を父に学び本所柳しまに住す     (後に本所林町辺に住せしともいう)。天保十四年十一月没す、年九十六、辞世の句に、百まではなん     でもないと思ひしに、九十六ではあまり早死     又按ずるに、国貞、一蝶の風を学びたれども、其の風少しも筆に入らざるが如し。されど一珪に就き学     びたる頃の草筆の墨画、頗る見るに足るものあり。恰(アタカモ)別人の筆の如し。豊原氏曰く、余が師英一     珪の門に入りし年月詳ならざれども、田舎源氏の七八篇を画きし頃なる由聞き及べり。七八篇を画きし     は天保二三年の頃也〟    〈豊原氏とは豊原国周〉    ☆ いってい 香蝶楼 一螮(歌川国貞初代参照)    ◯『浮世絵師歌川列伝』「三世豊国伝」p130   〝天保二三年の頃、国貞英一蝶の画風を慕い、終にその裔*一珪の門に入りて学び、一螮と称し香蝶楼と号    す。香蝶楼は蓋し一蝶の名の信香の香字と、一蝶の蝶字をとりて号とせしものならん〟     ☆ うきえ 浮絵    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊春伝」p75   〝按ずるに浮画は訓みて、ウキエ、又ウカシエ、漢名遠視画、芸苑日渉に池北隅談を引きて、「西洋製する    所の玻璃器、奇巧多し」云々、又「楼台宮室を画き、図を壁上に張り、数十歩の外より之を視れば、重門    洞関、層級数うべし」云々、又虞初新誌、黄荘小伝を引きて、「遠視画有り、遠視画、即浮画也」と。も    と西洋油画の伝法にして、其の我国に伝わりしは、いずれの時なるを知らざれども、慶長元和のころ既に    伝えり。あめりかの博物館にある、伊達家の臣支倉六右衛門の肖像は、これ其の伝えて最古きものなるべ    し。この頃国史眼を閲するに、万治年間の條に、明暦災後より江戸に放火行われ、厳命すれども熄(ヤマ)ず。    島原の党与山田右衛門作原免ぜられて江戸にあり、西洋画を能くす。松平信綱命じて放火者の状を描かし    め通衢に掲ぐ。これより犯者稍(ヨウヤク)止むと、これ蓋し油画なるべし。元文延享の頃に至り、浮世絵師奥    村政信、油画の法により、山水人物を画きて上木し、大に世に行わる。これを浮画という。類考政信の條    に、俗に浮画とて、名所或は富士牧狩の図、曾我十番切に遠景を奥深くみゆる図をかき板行せしなり。其    の後大に行わる云々。安永天明年間に至り、歌川豊春浮画を錦画になして、大に行わる(類考豊春の條の    注に、本朝油画の祖というべしとあるは非なり)。この頃より戯場遠景の道具、及び見世物の看板等は、    みなこの画法を用いることとなりたり。享和年間司馬江漢長崎に至り、更に西洋油画の画法を伝えしより、    其の法益(マスマス)世に行わる。かの北斎、広重の山水、またみなこの法によれるなり。    又按ずるに豊春、既に西洋の画法を伝う、よりて後の歌川流を学ぶ者、また皆西洋の画法を慕わざるはな    し。其の授業の方法の如きに至りても、大に西洋法に類する所あり、事は三世豊国の伝に詳(ツマビラカ)にす    べし〟    ☆ うきよえ 浮世絵    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵    衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古    にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎    のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に    して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟    なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。    これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりては、其の本をす    ててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て土佐狩野の門に出    入せしを聞かざるなり。一世豊国の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師と称し、殆ど土佐狩    野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて末に走り、骨法筆意を    旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の情なく、甚だしきは尊卑    老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜしむ。これ豈浮世絵の本色    ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざるものは、蓋し豊広、広重、国    芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門をうかがい、英氏のあとをしたい、    終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画世に行われずして止む。もし豊広の    画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰うること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しき    に至らざるべし。噫〟     ◇「歌川国芳伝」p209   〝無名氏曰く、画は真を写すを要とすといえども、筆意を添えざれば、唯これ真を写すのみにて画に非ざる    也。画は筆意を要すといえ共、真を写さざれば、唯これ筆意を示すのみにして、画に非ざる也。写真と筆    意と二つながら、其宜敷を得て始めて、画と称すべし。〈中略〉歌川家の画法における、元祖豊春以来西    洋の画法により、写真を主とし刻出し、寸法を専とせしが、其弊終(ツイ)に筆意を顧ざるに至り、かの人物    の骨相、衣服の模様、及び彩色の配合等の如きは、頗る精巧の域に至るといえ共、筆軟弱にして生気甚乏    しき所あるが如し。嘗歌川家画く所の板下画を見るに、屡(シバシバ)削り屡補いて恰(アタカモ)笊底の反古の如    し。筆意のある所を知らざる也。又嘗人物を絹本に画くを見るに、屡塗抹して屡これを補理す。恰かの油    画を画きし者の屡塗て屡改め画くと一般にして、常に筆意を顧ざるものの如し。是豈(アニ)絵画の本色なら    んや〟     〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれ    を保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に    陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」    があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、    北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉    ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「一世歌川豊国伝」p98   〝按ずるに、太閤記には徳川氏に関係せる事共を載せてあり。よりて幕府嘗て此の書中の事を画くを禁ぜし    なり。一話一言に曰く、文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元へ被仰渡、江戸にて    右太閤記の中より抜き出し、錦画に出候分も不残御取上、右錦画かき候喜多川歌麿、歌川豊国など手鎖五    十日、板元は十五貫文過料のよし、絵双紙屋への申渡書付も有之云々〟    〈「一話一言」ではなく『半日閑話』。『大田南畝全集』十一巻p245〉      ◇「歌川豊広伝」p109   〝按ずるに豊広が俳優似貌画は、未だ嘗て見ざるなり。一説に豊広は生涯似貌画をかかざりしと、蓋し然ら    ん。されどかの鈴木春信、喜多川歌麿のごとく、一見識を立て、俳優を卑しみて画かざりしにあらざるが    ごとし。蓋し同門豊国が、似顔絵をよくするを以て、彼に譲りて画かざりしものか。又風俗美人画は、喜    多川歌麿におとるといえども、細田栄之にまさりて、頗(スコブル)艶麗なる所あり。されど其の風古体にし    て豊国のごとく行われざりし〟    〈歌麿には「一見識を立て、俳優を卑しみて(役者似顔絵を)画かざりし」といった印象がつきまとっていたようである〉     ◇「歌川豊広伝」p117   〝従来張交画は、肉筆にあらざれば興なきことなれども、僻遠の地は名手の筆跡を請うの便よろしからず。    且肉筆の価甚だ貴ければ、この板刻の画を購いて、はりまぜとなす者多かりし也。これを画きしは、豊広    のみにあらず。堤等琳、勝川春亭、喜多川歌麿なども画きたり。一時大に行われたるものなるべし〟     ◇「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵    衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古    にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎    のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に    して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟    なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。    これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり〟   〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれ    を保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に    陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」    があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、    北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉    ☆ うたがわは 歌川派    ◯『浮世絵師歌川列伝』   ◇「歌川豊広伝」p122   〝無名氏曰く、古えの浮世絵を善くするものは、土佐、狩野、雪舟の諸流を本としてこれを画く。岩佐又兵    衛の土佐における、長谷川等伯の雪舟における、英一蝶の狩野における、みな其の本あらざるなし。中古    にいたりても、鳥山石燕のごとき、堤等琳のごとき、泉守一、鳥居清長のごとき、喜多川歌麿、葛飾北斎    のごとき、亦みな其の本とするところありて、画き出だせるなり。故に其の画くところは、当時の風俗に    して、もとより俗気あるに似たりといえども、其の骨法筆意の所にいたりては、依然たる土佐なり、雪舟    なり、狩野なり。俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず。艶麗の中卓然として、おのずから力あり。    これ即ち浮世絵の妙所にして、具眼者のふかく賞誉するところなり。惟歌川家にいたりては、其の本をす    ててかえりみざるもののとごし。元祖豊春、鳥山石燕に就き学ぶといえども、末だ嘗て土佐狩野の門に出    入せしを聞かざるなり。一世豊国の盛なるに及びては、みずから純然独立の浮世絵師と称し、殆ど土佐狩    野を排斥するの勢いあり。これよりして後の浮世絵を画くもの、また皆本をすてて末に走り、骨法筆意を    旨とせず、模様彩色の末に汲々たり。故に其の画くところの人物は、喜怒哀楽の情なく、甚だしきは尊卑    老幼の別なきにいたり、人をしてかの模様画師匠が画く所と、一般の感を生ぜしむ。これ豈浮世絵の本色    ならんや。歌川の門流おなじといえども、よく其の本を知りて末に走らざるものは、蓋し豊広、広重、国    芳の三人あるのみ。豊広は豊春にまなぶといえども、つねに狩野家の門をうかがい、英氏のあとをしたい、    終に草筆の墨画を刊行し、其の本色を顕わしたり。惜しむべし其の画世に行われずして止む。もし豊広の    画をして、豊国のごとくさかんに世に行われしめば、浮世絵の衰うること、蓋(ケダシ)今日のごとく甚しき    に至らざるべし。噫〟     ◇「歌川国芳伝」p209   〝無名氏曰く、画は真を写すを要とすといえども、筆意を添えざれば、唯これ真を写すのみにて画に非ざる    也。画は筆意を要すといえ共、真を写さざれば、唯これ筆意を示すのみにして、画に非ざる也。写真と筆    意と二つながら、其宜敷を得て始めて、画と称すべし。〈中略〉歌川家の画法における、元祖豊春以来西    洋の画法により、写真を主とし刻出し、寸法を専とせしが、其弊終(ツイ)に筆意を顧ざるに至り、かの人物    の骨相、衣服の模様、及び彩色の配合等の如きは、頗る精巧の域に至るといえ共、筆軟弱にして生気甚乏    しき所あるが如し。嘗歌川家画く所の板下画を見るに、屡(シバシバ)削り屡補いて恰(アタカモ)笊底の反古の如    し。筆意のある所を知らざる也。又嘗人物を絹本に画くを見るに、屡塗抹して屡これを補理す。恰かの油    画を画きし者の屡塗て屡改め画くと一般にして、常に筆意を顧ざるものの如し。是豈(アニ)絵画の本色なら    んや〟   〈この無名氏の浮世絵観は明快である。浮世絵の妙所は「俗にして俗に入らず、雅にして雅に失せず」にあり、そしてそれ    を保証するのが土佐・狩野等の伝統的「本画」の世界。かくして「当時の風俗」の「真を写す」浮世絵が、その題材故に    陥りがちな「俗」にも堕ちず、また「雅」を有してなお偏することがないのは、「本画」に就いて身につけた「骨法筆意」    があるからだとするのである。無名氏によれば、岩佐又兵衛、長谷川等伯、一蝶、石燕、堤等琳、泉守一、清長、歌麿、    北斎、そして歌川派では豊広、広重、国芳が、この妙所に達しているという〉       ◇「浮世絵師歌川雑記」p212   〝絵画叢誌に、歌川流は豊春に出で、豊春は一能斎と号す。文化年中の人にして、歌麿と名を斉(ヒトシ)うせ    り。其門人を歌川豊国という。本姓は倉橋、一陽斎と号す。一の新意を出して時世様を画き、小説の挿画    は北斎と並び行わる。錦画は墨と紫の二色をもて、彩するの画法をはじめ、俳優の肖像に妙なり。豊国出    しより、錦絵は鳥居流の流行を一変せり。其門人に国政、国重、国貞、国丸、国直あり。歌川豊広は、豊    春門人にして、一柳斎と号す。巧に細筆画を作り、一生俳優を画かず。一立斎広重は、豊広の門に出で、    山水を好みて諸国に周遊し、其奇を探り、之を写すに新意を以てし、遂に風景画の一流をなせり。其の門    人広重もよく、師風を学べり、同書に豊原国周が浮世絵原姿を引きて曰く、享和文化のころ、歌川豊春は    歌麿に比すべき誉れを得、ことに彩色に巧みなり。歌川豊国は其門生なれども、師法に反して英一蝶の画    風を慕い、狩野家の骨法に則り、時世の風俗一として尽さざるなく、深く世の賞愛をうく。国貞は豊国の    門下より出すれども、歌麿の画格を尚び、且つ一蝶の筆意をしたい、別に一家をなし、二世豊国と号すれ    ども、声誉は却て初代豊国の上に出でたり云々〟    〈『絵画叢誌』は明治二十年(1887)二月の創刊〉     ◇「浮世絵師歌川雑記」p215   〝一対男時花歌川の稗史は、式亭三馬、歌川豊国が喧嘩和解の媒として出板せしものなり。前篇を初日とし、    後篇を後日とし、初日は豊国画にして、後日は豊広画なり。画様細密にして彫刻甚だ美なり。当時大に行    われしこと、戯作者略伝に詳らかなり。    初日【井屋茨城全盛合巻】一対男時花歌川、文化七年庚午孟春の発市にして、伊賀屋勘左衛門板なり。序    の代りに、豊国、豊広、および三馬の門人等の像をかかげて俳優貌見世の体に倣う。三馬門人は馬笑、三    孝、三鳥、三友、等を載せ、豊広、豊国、の門人は、金蔵、国貞、国安、国政、国長、国満、国丸、国久、    国房、等を載す。三馬の口上あり。    (前略)此所にてわけて申上まするは御ひいき御思召あつき、豊広、豊国、おのおのさま方へ、御礼の口     上、めいめいに申上とうはぞんじますれども、こみあいましてかき入の所もござりませねば、しばらく     御用捨を希い奉りまする。またこれにひかえましたる小倅は、豊広せがれ歌川金蔵、次にひかえまする     は豊国門人文治改歌川国丸、安次郎改歌川国安、これにひかえしあいらしいふり袖は、私門人益亭三友、     いずれも若輩のもの共にござりますれば、御取立をもって、末々大だてものとなりまするよう、豊広、     豊国、私にいたるまで、偏に偏に希い奉ります。まずは此所二日がわりのしん板、はやり歌川両人が、     つれぶしの御評判、おそれ多くも大日本国中の、すみからすみまでずいと、こいねがい奉ります。まず     はそのため口上さよう。     豊国豊広口上     御礼のため式亭、歌川の総連中、御目見いたさせまする。御ひいき御取立御礼の口上は、私共両人にな     りかわりまして、式亭三馬口上をもって申上奉ります。何とぞ仰合され御しんひょうに御聞の程願い奉     ります〟    ☆ えい かつしか 葛飾 栄    ◯『浮世絵師歌川列伝』「浮世絵師歌川雑記」p225   〝諸国富士の横画三枚(【尾州富士見原の図は大桶の中より遙に富士を見たる意匠甚だ妙なり】)前北斎為    一筆の落款ありて、地名の文字は樋口逸斎の筆也。此画北斎にあらずとて排斥するもの多し。熟視するに    意匠筆力は絶妙なれども、少しく筆勢の柔なる所あり、よりて考うるにこれは北斎が死後娘阿栄の手にな    りて出板せしものか、紙の年代にては嘉永四五年頃のものとおもわる〟    ☆ えいし ちょうぶんさい 鳥文斎 栄之    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p109   〝按ずるに豊広が俳優似貌画は、未だ嘗て見ざるなり。一説に豊広は生涯似貌画をかかざりしと、蓋し然ら    ん。されどかの鈴木春信、喜多川歌麿のごとく、一見識を立て、俳優を卑しみて画かざりしにあらざるが    ごとし。蓋し同門豊国が、似顔絵をよくするを以て、彼に譲りて画かざりしものか。又風俗美人画は、喜    多川歌麿におとるといえども、細田栄之にまさりて、頗(スコブル)艶麗なる所あり。されど其の風古体にし    て豊国のごとく行われざりし〟    ☆ おにたけ かんわてい 感和亭 鬼武    ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川豊広伝」p113   〝鬼武は前野氏、感和亭と号す。略伝に感和亭と号す(初号曼亭)、通称前野曼助といい、或る藩士なりと    ぞ。算術に通じ撃剣に達す。後任を辞して市井に隠れ、戯作をもて業とす。画は写山楼に学ぶと。自語ら    る云々。部類に寛政中まで御代官の手代にて、飯田町万年樹坂の辺に居れり。(中略)後に一橋のみたち    の御家人某甲の名跡をつぎて、御勘定を勤め、浅草寺の裏手に卜居し、後また家督を婿養子某に渡して、    おさおさ戯作を旨としたり。(中略)此の人の戯作多かりしがそが中に、自来也物語という読本のみ、頗    る時好に称(カナ)いたり云々。一渓菴市井は、何人を詳にせず。著述目録に一渓庵、文政時代人、敵討奇談    七里ヶ浜二とのみあり。略伝、部類に其の名漏れたり。蓋し小説専門の人に非ざるべし〟