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浮世絵の筆禍史(7)弘化四年(1847)筆禍史メニュー
   ※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり) 而已=のみ     ☆ 弘化四年(1847)<二月>       参考史料(役者似顔絵・春画)       △『大日本近世史料』「市中取締類集 二」(市中取締之部 二 第二三件 p4)    (「市中風聞書」)   〝哥舞妓役者共似顔錦絵之儀ハ御制度之品ニ候処、昨年之春頃より役者共之名前は認不申候へ共摺出し、    去年秋之頃より甚敷相成、新狂言之似顔を商ひ候てより、当春抔は通例之絵は三四分ニて、六七分は役    者絵を商ひ候よし、勿論近年紙価貴く候間、其儀可有之候へ共、御改革以前よりも高料之品有之、勿論    色摺之篇数も多く手込ミ候品共ニ有之、且春画之儀草紙ニ綴候分ハ勿論、四ッ切・八ッ切抔と唱、大奉    書を裁候て、早春抔世上ニて交易等いたし候儀之処、春画は御政革以前迚も厳敷御制禁ニ候処、昨年春    頃より次第ニ多く相成、天道干しと唱へ、路傍ニ莚を布、古道具等を並べ置候向ニ多く有之、八ッ切之    方ハ当春抔大分ニ世上ニ相見え、是は錦絵と違ひ、猶又遍数も多く金銀摺も有之候由、其内ニも六哥仙    と唱へ候春画は金銀多く遣ひ有之候由〟    〈町奉行の市中取締掛(カカリ)が作成した市中風聞の報告書である。     役者似顔絵は禁じられているが、弘化三年の春頃から役者名のない役者絵が出始め、秋頃から甚だしくなり、新芝居     の役者似顔絵も売買されるようになった。今春は売買の六~七分が役者絵で、通常の絵は三~四分というありさま。     しかも天保の改革以前より高価な品や摺り数の多い手の込んだ品も出回っている。また春画は草紙仕立てのものは勿     論のこと、四ッ切・八ッ切などと称して大奉書を裁断したものまで売買されている。春画は改革以前から禁止であっ     たが、やはり昨年の春頃から次第に多くなり、天道干しなどと称して、路傍に筵を敷き古道具屋のような体裁で売ら     れている。そのうち八ッ切がこの春多く出回り、摺り数も多く中には金銀摺りのものもある由である。特に「六歌仙」     なる春画は金銀を多く使っているとのことだ。     役者名のない役者似顔絵のことを、町奉行では「踊形容」と呼んでいた。嘉永六年(1853)、国芳の「浮世又平名画奇     特」が問題視され、町奉行の隠密廻りが国芳の身辺を探索したとき作成された報告書の中に、「踊形容と申立候は、     歌舞妓役者共狂言似顔之図二候得共、名前・紋所を不印」とある。(この文書は本HP「浮世絵の筆禍」嘉永六年の     項で引用する)この「踊形容」なるものは、実は、弘化三年十一月、改(アラタメ=検閲)掛の名主たちや町奉行所の市中     取締掛の与力たちが「風俗ニ可拘品ニ無之踊形容之絵姿位之処は改印致し遣し候ハゝ、渡世向も行立ち下潜商ひ等不     仕、却て取締方可然哉」と、つまり許可した方が草双紙・錦絵を生業とするものとっては有り難いから、不正に走る     こともなく、かえって取締りやすいとして、許可するよう要望していたものであった(注)     町奉行はこれに応える形で名主の要望を認めたのだが、その三ヶ月後にこの風聞である。市中取締掛はこの成り行き     に不安を抱いていたのである。これを受けて町奉行の見解が五月に下される。以下、下出<五月>の『大日本近世史     料』(「市中風聞書」「町奉行上申書」)事項に続く。     なお、露店での春画売買については、天保十三年一月の取締り掛りによる報告があり、弘化二年の十二月には町触を     出して取締りを強化したが、徹底しなかったようだ。ところで、この「六歌仙」の春画、国文学研究資料館の「日本     古典籍総合目録」によると、浮世又平(歌川国貞)の『閨中六歌仙』(三冊?)と北渓の『六歌仙』(一帖)とある。     今いずれとも決しがたい。画工の特定は後考に待つ。金銀摺が手がかりとなろうか。     (注)この場合の不正とは、下絵の段階で改を受けたのち、完成見本を提出して再度の改を受ける前に勝手に売り出        すことをいう。『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第八三件)〉     ☆ 弘化四年(1847)<四月>       参考資料「大朝比奈図」(籠細工)     〈弘化四年三月、浅草観音開帳。奧山に籠細工の見せ物、朝比奈の大人形が出現する。ところが、六郷兵庫頭からクレー    ムが出て、籠細工は撤去されてしまった。そのためこれを当て込んで制作された朝比奈の錦絵までもが販売禁止になっ    たという。(下出『きゝのまに/\』記事)しかし、嘉永元年の『藤岡屋日記第三巻』の記事をみると「此絵ハ去年    (弘化四年)三月、浅草観音開帳之節、奥山へ籠細工ニて大朝比奈出来之節、板行出来候処、右籠細工の朝比奈、故障    有之候ニ付、右絵も出板致さず差置候処」とあり、販売禁止ではなく、販売を控えたとも受け取れる。以下参考のため    この朝比奈の大人形関する記事をあげておく〉      △『きゝのまに/\』〔未刊随筆〕⑥158(喜多村信節記・天明元年~嘉永六年記事)   〝(弘化四年)三月十八日より浅草観音卅三年め開帳、奥山に朝比奈人形作り物出る由、先日より一枚絵    に出たり、四月初やう/\出たれども忽差止らる、此ニ付て当開帳中諸みせ物出す、朝比奈大さハ其烟    草入より拍子方子供大勢出る、此ニて知るべし、大造の物ハ其頃も御触有しに、心なき事也〟    〈『藤岡屋日記 第三巻』嘉永元年十一月十日付記事には〝此絵ハ去年三月、浅草観音開帳之節、奥山へ籠細工ニて大     朝比奈出来之節、板行出来候処、右籠細工の朝比奈、故障有之候ニ付、右絵も出板致さず差置候〟とあり、『きゝの     まに/\』の「先日より一枚絵に出たり」と相違する〉      △『事々録』〔未刊随筆〕⑥351(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (弘化四年・1847)   〝浅草寺開帳、初日前々より看板を出し、丈余の朝比奈の人形を作り、是が腰さげの物より人出て、さま    /\の芸をなすは、彼の小人島に比したるなり、然るに其小屋高く広やかに、近世見せ物奉納の分を過    ぎたるを禁せらるが故に止められて、いたづらに其様子、錦絵にのみ残りて、是に費やせし金銀の損失    大かたならず、開帳済べき末にいたり、其半減に作りつゝ、よふ/\ゆるしをうけて人形のいさゝかは    たらきを見せけり〟    〈人形の展示は禁じれたが、「其の様子、錦絵にのみ残りて」とあるばかりで錦絵の販売禁止については言及がない〉      △『藤岡屋日記』第三巻 p135(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   ◇浅草観音開帳・奥山の見世物   〝三月十八日より六十日之間、日延十日、浅草観世音開帳、参詣群集致、所々より奉納もの等多し    (奉納物のリストあり、略)    奥山見世もの     一 力持、二ヶ処在、     一 ギヤマンノ船     一 三国志     長谷川勘兵衛作     一 伊勢音頭     一 朝比奈    浅草田歩六郷兵庫頭、是迄登城之節、馬道ぇ出、雷神門内蕎麦屋横丁ぇ雷神門より並木通り通行せし処、    今度開帳に付、奉納の金龍山と書し銭の額、蕎麦や横丁ぇ道一ぱいに建し故に、六郷氏通行之節、鎗支    へ通る事ならず、右故に少々片寄建呉候様相頼候得共、浅草寺役人申には、片寄候事決て相ならず、右    奉納之額邪魔に相成候はゞ脇道御通行可被成之由申切候に付、無是非是より幸龍寺の前へ出、登城致し    候処、此節六郷兵庫頭、常盤橋御門番故に、早速御老中廻り致し相届候義は、今度浅草寺奥山に広大な    る見世物小屋相懸候に付、出火之節御城之方一向に見へ不申候に付ては、万一御廓内出火之節、見そん    じ候て御番所詰相闕候事も計り難く候間、此段御届申候と、月番ぇ相断候に付、早速右之趣月番より寺    社奉行へ相達候に付、寺社方より奥山朝比奈大細工の小屋取払申付る也、是六郷が往来を止し犬のくそ    のかたき也。      島めぐり田歩めぐりで取払     一 こま廻し 奥山伝司    至て評判あしきに付、落首      奥山にしかと伝じも請もせず       㒵に紅葉をちらす曲ごま〟    〈大人形が撤去された原因に関する記事である。浅草寺に奉納された銭細工の額によって、通行に支障をきたしたうえ     に、浅草寺の役人から迂回するよう命じられた六郷兵庫頭が、その意趣返しに、奥山の広大な見世物小屋が邪魔で江     戸城を見渡せず、万一出火した場合、番所に詰めるのも難しいと老中に訴えた。それが結局大細工・朝比奈の撤去に     つながったというのである〉
    「浅草金龍山境内ニおいて大人形ぜんまい仕掛の図(朝比奈大人形)」 玉蘭斎貞秀画     (「RAKUGO.COM・見世物文化研究所・見世物ギャラリー」)       〈参考までに、国芳画「朝比奈小人嶋遊」をあげておく〉
    「朝比奈小人嶋遊」 一勇斎国芳戯画     (ウィーン大学東アジア研究所・浮世絵木版画の風刺画データベース)      △『増訂武江年表』2p111(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)    (弘化四年・1847)   〝春、浅草寺の奥山へ見世物に出さんとて、朝比奈の人形を造る。頭の大きさ一丈余、煙草入の大きさ二    間なり。後につくりしは惣丈一丈余の物也〟    〈「後につくりしは惣丈一丈余の物也」とあるから、差し止め後、惣丈一丈(3m)余に造り直したようである。撤去     された元の大人形は頭だけで一丈余もある巨大さであった〉     △『藤岡屋日記』第三巻 p246(嘉永元年(1848)十一月十日)   〝当十一月十日配り、大朝比奈三枚一面、最初板元橋本町一丁目板木屋庄三郎也、此度池端仲町上州や金    蔵勢利、同名弁吉、右板を引請、八百通り三枚続二千四百枚摺込て、十一月十日配り候処、七百枚計り    売、跡は一向に売れず、是も大はづれなり。      此絵ハ去年三月、浅草観音開帳之節、奥山へ籠細工ニて大朝比奈出来之節、板行出来候処、右籠細      工の朝比奈、故障有之候ニ付、右絵も出板致さず差置候処、今度弁吉引請、摺出し候処、是も大は      たきなり          島巡り程あるいてもいけぬはた             銭のもふけはさらになか町〟    〈見せ物絵のような時流と連動した作品は、やはり時機を失すると売れないようである〉     ☆ 弘化四年(1847)<五月>       参考史料(役者似顔絵・春画)       △『大日本近世史料』「市中取締類集 二」(市中取締之部 二 第二三件 p22)    (「市中風聞書」「町奉行上申書」)   〝(前文に上出<二月>の「市中風文書」と同じ文あり・省略)    此儀、歌舞伎役者共似顔錦絵ハ前々より御構無之、尤当時之如く巧ニハ有之間敷候得共、東マ(ママ)錦絵    と唱え、東都之名物ニ相成居、国々え之土産等ニもいたし、享保・寛政度も其侭御沙汰無御座候処、去    ル寅三年(天保十三年)、錦絵と唱え哥舞伎役者・遊女・芸者等を一枚摺にいたし候儀、風俗に拘り候    筋ニ付、以来開板は勿論、是迄仕入置候分とも決て売買致間敷旨、町触いたし候後は、右渡世之もの共    差当売ものニ差支、子供踊り之絵組ニて開板売出し候処、是以狂言筋之由ヲ以被差留候間、工風いたし、    趣意弁別致し兼候絵を板行致し、右之内頼光四天王之絵、又は天上人間地獄之絵、其外品々不分り(ママ)    之絵柄など差出、人々之目ニ留り、是は何に当り可申抔、判断を為附候様ニ致成、奇を好候人情ニ付、    新絵出候度毎争て買求、彼是雑説いたし候ニ付、絶板売止申付候後は、猶々難得品之様ニ相心得、探索    いたし相調、残り少ニ相成候所ニ至候ては、纔三枚ツヾキ之絵弐朱壱分位ニも、素人同士売買致し候由    ニ相聞く、右は何となく御政事向御役人え比喩いたし候事ニも相聞、以外之不宜筋ニて、其頃兎角右体    之取計いたし、人ニ為心附候様致し成、専利を求候儀ニて、夫も渡世薄く取続兼候所よりいたし成候儀    ニ有之、当時右体之儀は更ニ無之候得共、似顔絵よりは尤不宜筋ニ有之、併前書之通差留相成候役者似    顔絵を公然と商ひ候は、全触背之義ニ付、早速咎も可申付処、役者名前ヲ不顕は憚居候筋ニ付、此後新    狂言之絵組ニ当り候分は、売出し申間敷旨申渡置候様可仕候、其外春画好色本ハ前々より制禁之品之処、    極密板行いたし候ものも有之哉、顕露ニ売買いたし候義ニは曾て無之、且道路ニ古道具等並べ置候内ニ    稀ニ好色本有之候は、全古ル本ニて紙屑買など買出し来、売渡候儀と相聞申候、春画大小等は、先ッハ    蔵板重もニて交易いたし候儀ニ候得共、本屋共之内新規板行等致し、高価に売捌候ものハ猶探索之上取    調、夫々及沙汰候様可仕と奉存候〟    〈この文書は上記二月の「市中風聞書」を受けて、町奉行が意見の述べたもの。     役者似顔の錦絵は前々より禁止ではなかった。東錦絵と称して江戸の名物土産にもなっていた。享保・寛政の時は別     段の沙汰もなかったが、去る天保十三年六月、役者・遊女・芸者絵は風俗に拘わるとして、開板は勿論、在庫の売買     も禁じられた。その後、これらを生業とするものたちは当面の商品にも差し支え、子供踊りの絵を売り出したが、こ     れも芝居絵とされ禁止になった。そこで工夫して、絵の趣旨が何であるか判断しかねるようなものを売り始めた。そ     のうち「頼光四天王之絵」や「天上人間地獄之絵」など、判読しがたい絵柄のものが出て、人々の目に止まり、これ     は何あれは何などと、解釈に興ずるようになった。奇を好むのが人情だから、新しい絵が出るたびに競って買い求め、     かれこれと雑説を立てる。それで絶版と売買禁止にしたのだが、人々は逆に一層入手が困難とみて探し求めるように     なった。在庫があと少しともなると、僅か三枚続きの絵を、素人の間では二朱一分で取引しているとのことだ。これ     らは、それとなく政治内容や役人を擬えているとも聞くので、甚だ宜しくない。この頃はこうした体裁にして、人の     気を引こうとしたのは、専ら利益を求めてのことで、生活が成り立ちにくいからであった。現在、そうした体裁の絵     はないが、役者似顔絵より宜しくない。禁じられている役者似顔絵を公然と売買するのは違犯であるから、早速処罰     せねばならないところだが、役者の名を顕わにしないなど、お上に遠慮するような姿勢も見えるから、新狂言の絵に     ついては販売禁止と申し渡すことにする。春本好色本については、極内密に発行したものはあろうが、あからさまに     売買したものはない。路上に古道具等と並べ置くものの中には稀に好色本もあるが、これは全くの古本であって、紙     くず買いから買ったものと聞く、春画の大小などは蔵版を主に売買しているようだが、もし新規に板行して高価に売     り捌いた場合は探索して取り調べ、それぞれ裁定を下したい。     町奉行が示した指針は、役者名の入らない役者絵(所謂「踊形容」)については不問に付す。ただし新狂言の絵は販     売禁止にした。また春画好色本に関しては、新規板行に限って吟味の対象とするというものであった〉      ☆ 弘化四年(1847)<四月>      筆禍「内藤新宿太宗寺」(閻魔の目抜き取りの図)貞重改国輝画       処分内容 ◎板元  七人 過料三貫文            ◎競り売り三人 過料三貫文            ◎小売り 六人 過料三貫文(「せり并小売致候絵双紙屋九軒」より)       処分理由 無断出版(改を受けず出版)     ◯『藤岡屋日記 第三巻』③131(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   (閻魔の目玉抜き取られる)   〝三月六日夜     四ッ谷内藤新宿浄土宗大宗寺閻魔大王の目の玉を盗賊抜取候次第    右之一件大評判ニ相成、江戸中絵双紙やへ右の一枚絵出候、其文ニ曰、     四ッ谷新宿大宗寺閻魔大王ハ運慶作也、御丈壱丈六尺、目之玉ハ八寸之水晶也、これを盗ミ取んと、    当三月六日夜、盗賊忍び入、目玉を操(ママ)抜んとせしニ、忽ち御目より光明をはなしける故ニ盗人気絶    なし、片目を操(ママ)抜持候まゝ倒レ伏たり、此者ハ親の目を抜、主人の目をぬき、剰地獄の大王の目を    ぬかんとなせしニ、目前の御罰を蒙りしを、世の人是ニこりて主親の目をぬすむ事を謹しミ玉へと、教    の端ニもなれかしとひろむるにこそ。     亦閻魔と盗人と坊主、三人拳之画出ル。     (歌詞)さても閻魔の目を取ニ、這入る人こそひよこ/\と、夜るそろ/\目抜ニ参りましよ、しや     ん/\かん/\念仏堂、坊さまニどろ坊がしかられた、玉ハ返しましよ、おいてきなせへ人の目を、     抜て閻魔の目をぬひて腰がぬけたで、きもと気がぬけ。        めを二(一)ッ二ッまなこで盗ミとリ          三ッけられたる四ッ谷新宿        五く悪で六で七(ナ)し身の八じ不知          九るしき身となり十分のつミ     右閻魔の目を操抜候一件、種々の虚説有之候、一説ニ同処質屋の通ひ番頭忰、当時勘当の身、閻魔堂    ニ入、左りの目の玉を操抜取、右之方を取んとする時、閻魔の像前ぇ倒レ候ニ付、下ニ成て動く事なら    ずして被捕し共云、亦一説ニハ、同処ニ貧窮人有之、子供二人疱瘡致し候故、閻魔ぇ願懸致し候処、子    供二人共死したり、右故ニ親父乱心致して、地蔵ハかハいゝが閻魔がにくいとて、目の玉を操抜しとぞ、    是ハ昼の事ニて、子供境内ニ遊び居しが、是を見付て寺へ知らせし故ニ、所化来りて捕しともいふなり、    亦一説ニハ、近辺のやしき中間三人ニて閻魔堂ぇ押入、二人は賽銭箱をはたき逃出し、一人は残り、目    玉を抜取し故、被捕し共いふ也。       閻魔の目を抜候錦絵一件    未ノ三月六日夜、四ッ谷新宿大宗寺閻魔の目玉を盗賊抜取候次第、大評判ニて、右之絵を色々出板致し、    名主之改も不致売出し候処、大評判ニ相成売れ候ニ付、懸り名主より手入致し、四月廿五日、同廿六日、    右板元七軒呼出し御吟味有之、同廿七ニ右絵卸候せり并小売致候絵双紙屋九軒御呼出し、御吟味有之、    五月二日、懸り名主村田佐兵衛より右之画書、颯与(察斗)有之。     南御番所御懸りニて口書ニ相成、八月十六日落着。       過料三〆文ヅヽ        板元七人                      世利三人                  絵草紙屋       同断               小売     但し、右之内麹町平川天神絵双紙屋京屋ニてハ、閻魔の画五枚売し計ニて三〆文の過料也。     板行彫ニて橋本町彫元ハ過料三〆文、当人過料三〆文、家主三〆文、組合三〆文、都合九〆文上ル也〟    〈国輝画の一枚絵である。画工への処罰はなかったようだ。この絵は、同時大流行中の三竦みの拳(この場合は閻魔と     盗人と坊主)と新宿太宗寺の閻魔の目抜き取り事件とを組み合わせた戯作戯画。犯人をめぐって、番頭の倅とか貧窮     人などの浮説が生じた。参考までに、「錦絵の諷刺画」の画像を下に引いておくが、『藤岡屋日記』が記録する一枚     絵の文言と下出画像の文言は同一ではない。「錦絵の諷刺画」の方は「おいてきなせへ人の目を」の「おいてきなせ     へ」まで同じだが、「人の目を」以降の文と数尽くしの狂歌がない〉
    「内藤新宿太宗寺」貞重改国輝画     (ウィーン大学東アジア研究所FWFプロジェクト「錦絵の諷刺画1842-1905」)     ☆ 弘化四年(1847)<十一月>       参考史料(春画)        △『藤岡屋日記』第三巻 ③201(藤岡屋由蔵・弘化四年(1847)記)   ◇往来にわらい本を並べし事   〝十一月十二日、永代橋御普請に付、御見分として南御奉行遠山殿新堀通り御通行之処、新堀の往還にわ    らい本ならべ有之、御目に留りて直に御取上げに成、翌十三日、江戸中にならべ有わらい本御取上げ也。    是は遠山殿の仰に、我が通る処にさへ如斯大行に春画ならべ有からは、江戸中の往来にならべ有べしと    て、翌十三日に町方同心名主差添、江戸中にて取上る也、凡百十一人也、本と取上げ名前を留て行也、    柳原土手計にて拾両計の代もの也〟    〈この五月、往来の露店でに春画に関して、比較的穏当な見解を出した町奉行遠山左衛門尉景元、この日はあからさま     に商売をする光景が目に余ったか、いきなりわらい本(春画)を取り上げた。しかしこれでも収まらなかった。自分     が通る往来さえかくのごとし、ならばその他は押して知るべしと、翌日、今度は同心及び名主、武家方町方総勢10     1人を動員して、江戸中の露店から没収した。古道具屋の名所である柳原の土手だけでも十両ほどになったとある。     古本屋や古道具屋が店先に禁制の春画を置くのは客引きのためでもあるという。本HP「浮世絵の筆禍史(3)」天     保十三年一月、「同(6)」弘化二年十二月の項参照〉     ☆ 弘化四年 <十二月>      筆禍「七福神曽我之初夢」国芳画       処分内容 絵草紙屋 釣り売りした絵を没収            板元 三河屋鉄五郎 板木没収・削除 売買禁止       処分理由 釣り売り禁止の錦絵を販売可能として卸売りしたこと     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第九五件 p148)    (絵草紙掛名主の上申書)   〝一 七福神曽我之初夢 錦絵五枚     元大工町 平次郎店 板元 三河屋鉄五郎    右錦絵、当十一月中草稿を以改請此節出板、絵草紙屋共之内見せ釣し売致候者有之候間、取上取調候処、    右鉄五郎儀おろし売致候砌、釣し売致候ても不苦旨相断候由ニ候得共、先達て踊形容ニ紛敷錦絵釣し売    致間鋪旨申渡、証文取置候処、卸売之者申聞候迚釣シ売致候は、絵草紙屋共心得違ニ付、釣売致候分取    上ケ、板元鉄五郎儀は、釣売可致旨絵草紙屋共え申聞候段、以之外心得違ニ付、板木取上ケ削取、右錦    絵売買差留申候、依之取上ケ絵相添、此段申上候、以上     (弘化四年)十二月廿日        絵草紙掛り名主共〟       〈この文書には別紙の添付あり、三河屋に関して、絵双紙掛名主による次のような文書が載っている〉     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 21」(書物錦絵之部 第二八六 p218)   〝                    元大工町 糴売渡世 三河屋鉄五郎    右之もの方え、絵双紙屋共板元より扣絵相渡候得共、相配不申品も多分有之、殊ニ去年(弘化四年)中、    踊形容絵之内釣し売致し候ても宜趣杯申触候義も有之、証文取之其節は相済セ候得共、一体志不宜もの    二御座候間、同人義差出候絵類ハ、御一統改収不申候様仕度、此段及御相談候、右之通、去申(嘉永元    年)九月六日、松之尾二御相談申上候事〟    〈岩切友里子氏によると、この「七福神曽我之初夢」は役者似顔の五枚続で国芳の画、残っている作品の版元は湊屋小     兵衛、三河屋は糴売だろうとする。(『浮世絵芸術』№143「天保改革と浮世絵」)     「踊形容」とは役者名のない役者似顔絵のこと(上記二月の項参照〉。これについて「先達て踊形容ニ紛敷錦絵釣し     売致間鋪旨申渡」とあるから、販売は許可されたものの店頭での釣り売りは禁じられていたようだ。その上徹底する     ため名主たちは業者から証文も取っていた。にも拘わらず、三河屋はこれを破り、釣り売り出来ると偽って卸売りを     した。この三河屋に対して、絵草紙掛名主たちは全く信を置かなかった。「一体志不宜ものニ御座候間、同人義差出     候絵類ハ、御一統改収不申候様仕度、此段及御相談候」として、改を通さないよう申し合わせまでしていた〉    ☆ 弘化年間(1844~1847)       参考資料「奥女中若衆買の図」三代目豊国画    ◯『筆禍史』p165「奥女中若衆買の図」(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝若衆といひ野郎といひ「かげま」といふは、男色を売る美少年のことなるが、単に男子を客として色を    売るのみならず、淫婦の望みによりては、天賦の情交にも応ぜしなり、此かげま茶屋といへるもの江戸    にては芳町、湯島、芝神明前にありて男女いづれの客をも迎へしなるが、天保九年十二月に幕府は之を    禁止し、尚風俗等を絵画として出版する事をも禁止せり、然るに此奥女中若衆を買ふ図は、大錦絵三枚    続として出版せしなり、其図中に題号なく又何等の説明をも加へざりしため、其出版前制規によりて役    人の検閲を受けし際、役人等は普通の女子ども遊興の体ならんと見て、許可の検印を下せしなるが、其    出版後に至りて、かげま茶屋に於て奥女中が若衆を買へる図なること発覚し、直ちに絶版を命ぜられた    りといふ、但し最初役人の方に、許可の印を与へし不注意の廉ありしを以て、版元及び画者には何等の    咎めなかりしといふ     此図の出版は、歌川国貞が天保十四年の夏、三代目豊国と名乗りし後の筆にて、其画風及び欵識等に     よりて察すれば、弘化初年頃のものならんと思へども、其年月不詳なるを以て茲(「出版年代不詳     の図書」)に録する事とせしなり           女かと見れば男のカゲマ茶屋    別印刷として添ふる『奥女中若衆買の図』は往年予が翻刻発行せし大錦絵三枚続を今回縮成せるものな    り     図中の四人の内楊枝を口にせるは奥女中、島田髷にて女装せる三人は皆若衆即ちカゲマ(男)なり      〔頭注〕かげまの歴史    若衆考と題する、男色史の詳細なるものに、浮世絵師の筆に成れる絵図を数多挿入せるものを発行せん    と前年来企画し居れども未だ其機を得ず〟
    「奥女中若衆買の図」 歌川豊国(三代)画〔『筆禍史』所収〕
   以上、弘化四年の「筆禍」終了(2014/01/28)
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