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浮世絵の筆禍史(6)弘化二~三年(1845-46)筆禍史メニュー
   ※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり) 而已=のみ     ☆ 弘化二年(1845)<十一月>      筆禍 好色本五冊・折本一冊・たとう入の絵三品       処分内容 ◎板元・小売り業者 本綴職・岩松、糴本渡世(行商)・三次郎・半次郎、                      古道具屋・八兵衛             商品没収、裁断、板木は削除       処分理由 禁制の好色本出版     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十八」(書物錦絵之部 第七〇件 p335)    (十一月二十七日付、絵草紙掛(カカリ)名主の好色本類取締りに関する伺書)    〝壱枚摺錦絵・絵本類取締方、組々市中取締懸名主え心付之儀被仰渡度段、先月中奉伺候所、右は兼て     懸り之儀ニ付、私共限り精々心付、其上ニも増長致候ハゝ可相伺旨、被仰渡奉畏候、壱枚絵・草双紙     之類板下ニて相改、絵柄子細無之分は改印致し遣候得は、衣服模様等は、色板無之下絵ニては密細(マ     マ)相分不申、摺立候上紋所其外禁忌有之は、其時々為相直候得共、自然相弛ミ、色摺遍数も相増候様     ニも相見え候間、此上心得違無之様、猶又其筋渡世之ものえ申諭、請印取置申候、     一 市中古本屋又は往還莚敷等ニて見受候無改禁忌之品は取上ケ、元方取調板木削取、証文取置候仕      来ニ御座候、然処、私共限り取扱仕候儀と見居、追々増長仕、別て好色本・右絵類之義は、前々御      制禁之品ニ有之処相弛ミ、私共差当り見請候好色本五冊、折本壱冊、たとふ入絵三品取上、元方取      調候所、左之名前之もの共彫刻売買仕候旨相分候得共、今般之儀は、右絵類は裁切、板木削取、証      文取之相渡遣、此上及再度ニ候者共は、被為遂御吟味候様仕度、差向御仁恵之程難有可奉存、尤可      相成御儀ニ御座候ハゝ、此節改好色本・絵類前々より御制禁之品ニ付、一切売買不仕様市中一統被      仰渡御座候様仕度、左候ハゝ、猶以跡取締方相附可申奉存候     〈以下、没収品の表題と販売業者〉     一 表題 文のはやし   全一冊    板数十四枚     一 同  水かゝみ    折本一冊   同 拾八枚     一 同  花結      小本一冊   同 拾五枚        右 浅草福井町壱丁目宇右衛門店 本綴職 岩松     一 同  閨中覗からくり 全一冊    同 六枚     一 同  黄素妙論    全一冊    同 拾枚        右 飯倉方町 七兵衛店    糴本渡世 三次郎     一 同  和合珍開   拾弐枚たとふ入 同 弐拾五枚 但、色板とも        右 浅草西仲町 勝蔵店    糴本渡世 半次郎     一 同  宮弁慶    拾弐枚たとふ入      一 同  風流玉手箱  同       右板数合三拾枚 但、両面        右 小嶋町定八店       古道具屋 八兵衛     右之通、取計方奉伺候、以上       巳(弘化二年)十一月廿七日   絵双紙懸 名主共〟      〈古本屋や往来の露店で好色本等の禁制品を発見した場合、品物は没収し、板木は削り取り、証文を取る仕来りになっ     ているが、最近、改掛(アラタメカカリ)名主のみの検閲と見透かしてか、増長する輩が出てきた。特に好色本・右絵類(春     画)での弛みが目立つ。差し当たって見かけた好色本五冊、折本一冊、たとう入りの絵三品を没収した。これらにつ     いては、版本は裁断、板木は削り取り、証文を取り置く。さらに今後、再犯したものについては吟味に回したい。以     上が絵双紙掛たちの伺書の内容。これに対して、市中取締掛の与力たちは次のような評議を行っていた〉       〝町年寄申上候趣一覧仕候処、絵草紙掛名主共差当り見請候旨ニは候得共、於見世先売買致し候儀とも     不相聞候間、此度之儀は御宥免を以、別段不被及沙汰方ニも可有御座哉       巳十二月            市中取締懸〟    〈今回は店先での売買ではないから大目に見てもよいのではないかという見解もあった。しかし決着は次の通り〉       (十二月六日付、町年寄宛書面)    〝書面之絵本其外は仕来之通取計、以後等閑之儀有之候ハゝ、急度沙汰可有之旨、絵草紙掛名主共限申     諭候様可申渡候〟    〈絵双紙掛名主の伺書の通りになった。これを受けてか、次のような町触れが早速出ている〉      ☆ 弘化二年(1846)<十二月>       参考史料(春画一件)       △『江戸町触集成』第十五巻 p189(触書番号14397)   〝市中古本屋又は往還莚敷干見世等ニて、御制禁之好色本類相見え候ニ付、此度拙者共見受相伺候品も御    座候得は、今般之義格別之御宥免を以拙者共手限取扱、此上心得違之者有之、本屋共見世先ニて有之候    分は勿論、往還莚敷等ニても右躰之絵本類見留次第取調可申上候、急度可被仰付旨御沙汰付、向後心得    違不仕様、其筋渡世之もの共え、御組合限り不洩様御通達可被成候、尤御同役御支配限り精々御心付、    以後御見留之分は御取調、拙者共之内え日仰聞候様仕度、此段御達申候、以上      十二月廿二日         絵本類改懸り〟    〈古本屋や往来の露店が地本問屋とは関係のないところで好色本や春画を自ら制作・販売していたようだ。露店で春画     を並べ置くことについては、天保十三年一月の町奉行・市中取締掛の書き付けにも「干見世と唱、往還ぇ莚を敷、古     本・古道具類並べ商ひ候もの、往来人立止候様可致為メ、俗ニ枕双紙と唱候男女乱行之図を画候古本を並べ置、右は     御法度之品ニ有之処、近来相弛、大行ニ商ひ候もの有之候」とあり、以前からの懸案事項であった。しかし、この町     触の後も取締りが徹底しなかったらしく、翌四年二月の町奉行・市中取締掛の「市中風聞書」にもその様子が出てい     る。本HP「浮世絵の筆禍史(7)参照〉     ☆ 弘化三年(1846)<二月>      参考史料『一勇画譜』孫三郎(一勇斎国芳)画     △『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第七一件 p2)    (弘化三年二月、町年寄・館市右衛門の町奉行宛「書物画譜等売弘願奉候書付」)   〝一 一勇画譜 壱冊                通弐町目多吉店 書物屋(須原屋)      江戸新和泉町 絵師 孫三郎(一勇斎国芳)        願人 新兵衛    右画譜、大坂心済橋博労町書物屋(河内屋)茂兵衛方ニて出板仕、御当地売弘之儀、私引受売買仕度旨、    則板本差出御差図奉伺候、     此品、大坂表出板物ニは候得共、古代勇者画譜之義ニ付、御手限ニても可然哉、但、兼て表紙・上包     等え彩色無用之義被仰渡候間、右画本之内、色取無之候て相分り候処は、成丈彩色相除候様可申渡候     哉〟    〈『一勇画譜』初編の刊記は「江戸 孫三郎画/弘化三年丙午歳四月/江戸書林 日本橋通弍丁目 須原屋新兵衛/大     阪書林 心齋橋筋博労町 河内屋茂兵衛」。書肆・須原屋新兵衛が江戸での販売許可を求めた。それを受けて、町年     寄・館市右衛門は、この件は絵双紙係り名主の「手限(テギリ)=上の裁断を仰がず、自己の責任で判断すること」の改     (アラタメ=検閲)でよいのではないか、ただし、かねてから表紙や上包には彩色無用としてきたのだから、色彩が無く     ても分かるところはなるべく色を取り除くように条件をつけてはどうかと、町奉行に提案した。この館の提案は下出     のように認められた。須原屋は、二月に申請許可を受け、四月の刊記で売り出したのである〉  
   (同年二月、南町奉行所市中取締掛与力の評議)   〝一勇画譜并永代江戸絵図は、町年寄伺之通御手限ニて開板御聞済(中略)相成可然哉と奉存候〟
   『一勇画譜』江戸 孫三郎画(一勇斎国芳画)(絵手本DB- 金沢美術工芸大学)     ☆ 弘化三年(1846)<四月>       筆禍「呼子鳥若三町」三枚続の絵図(「呼子鳥和歌三町」か)       処分内容 ◎制作者 英泉・露助 残品没収、板木削除、再犯しない旨の承諾書の提出       処分理由 禁制違犯(役者の紋所・名前を入れたこと。無断出版・売買)       処分内容 ◎制作者 半兵衛・忠蔵 上に同じ       処分理由 禁制違犯(英泉・露助制作の絵図の重板(無断複製)制作・売買)       処分内容 ◎制作者 喜三郎・上州屋重蔵 上に同じ       処分理由 禁制違犯(英泉・露助制作の絵図から狂歌を抜いた類板を制作・売買)     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第七二件 p4)   (弘化三年四月、絵草紙掛名主の町年寄・館市右衛門宛伺書)   〝錦絵と唱、歌舞伎役者・遊女・女芸者等を壱枚摺ニ致候義、風俗ニ拘候筋ニ付、以来決て売買致間敷旨、    去ル寅年(天保十三年)六月中、被仰渡有之、猶又、去々卯年(天保十四年)五月中、総て商ひ物其外    何品ニよらず、歌舞伎役者名前・紋所ヲ付候義不相成旨被仰渡候、然ル処、猿若町役者共名前書顕シ候    絵図、内分ニて摺立売買致候趣承り候間、密々為買取候処、人呼子鳥若三町と申標題ニて、役者共名前    ・住所等巨細ニ書顕彩色入ニ摺立、帙上包え役者紋所是又彩色入ニ有之候間、元方取調候処、左之名前    者共彫刻・売買仕候趣相分り候間、板木・摺溜取上ヶ置申候、今般之儀は、仕来り之通り私共立合板木    削取、以来右体無改之品彫刻・売買致間敷旨申渡、証文取置候様可仕哉                     坂本町壱丁目  太左衞門店 善次郎事 浮世画 英泉                     浅草茅町弐丁目 平八店       狂言作者 露助     右之者共儀、懇意之者え当正月年玉ニ相配り候心得ニて彫刻致候趣申立候得共、絵草紙屋其外之者共     え売捌候趣ニ御座候                     小石川富坂町代地 利八店      古本糴売 半兵衛                     鎗屋町      勇蔵店      古本糴売 忠蔵     右半兵衛儀は、右絵図買取重板彫刻致、忠蔵儀、絵草紙屋其外え売捌候趣ニ御座候                     堺町家主              板摺   喜三郎                     元大坂町代地  彦右衛門店 絵草紙屋(上州屋)重蔵     右喜三郎儀は、前書露助より被相頼摺立候節、下之方狂歌ヲ抜キ自分摺致シ、重蔵其外之者え売捌候     趣ニ御座候    右は、市中絵草紙屋其外素人え手広ニ売捌候趣ニ相聞申候、無改之品と乍存重板致、又は抜摺等致候は、    全私共手限取扱候儀と見居、此上外品迄も追々増長可仕哉奉存候、依之右摺立絵図三枚相添、此段法伺    候、以上     (弘化三年)午四月         絵草紙掛名主共〟    〈禁じられている歌舞伎役者の紋所・名前を露わにした「人呼子鳥若三町」なる錦絵が、改(アラタメ=検閲)を受けない     で出版され、摘発を受けた。画工は英泉、作者は露助。当初、これを正月の年玉として配るつもりで制作したと、英     泉たちは弁解したのだが、調べてみると、実際には絵草紙屋等に売り捌いていた。それを古本糴売りの半兵衛が買い     取って重板(無断複製)を作り、他の糴売りや絵草紙屋に、これまた売り捌いた。一方、板摺の喜三郎なるものは、     作者の露助に摺りを頼まれた時に、狂歌を抜いた類板を摺って上州屋重蔵ほかに売った。絵双紙掛の名主はとりあえ     ず残品と板木を差し押さえた上で、この絵図は禁制違反だから、慣例通り、名主立ち合いのもとに、板木は削り取り、     今後改印のないものは彫刻および売買しない旨の証文を取りたいと、町年寄に伺いを出した〉      〈この伺いを受けて、町年寄・館市右衛門は次のような「ヒレ(添え書き)」を付けて、町奉行所の判断を仰いだ〉   〝書面之通絵双紙掛(カカリ)名主共申立候、去ル寅年(天保十三年)八月、猿若町割絵図売板相願候者有之    候節、役者共名前書顕シ、番附之類とは差別有之難成旨可申渡段、北御役所ニて被仰渡、下絵相下ケ候、    此度之品、兎の角も其筋掛之者改も不受彫刻・売買仕候段、不束ニ付、名主共申立候通取計候様可申渡    哉ニ奉伺候      午四月              館市右衛門〟    〈この手の出版には前例があるとし、天保十三年(1842)の八月、「猿若町割絵図」なるものの出版許可願いが出された     が、役者の名前を明記するのは、これは役者番付とは違うのだから認められないとして、北町奉行が却下したことが     ある。今回の絵図については、その上に改(アラタメ)無視の出版販売であるから、名主たちの提案通りにしてはどうか、     との伺いを立てた。これは奉行所の市中取締り掛も受け入れたから、確定したのであろう。     さて、上記「人呼子鳥若三町」とはどのようなものか、町年寄・館市右衛門が天保八年の「猿若町割絵図」の例をあ     げているところからみると、三座のある猿若町を絵図面にしたものと考えられる。ネット上を探したら「呼子鳥和歌     三町全図」という絵図が出ていた。英泉が制作した紋所・名前入りの錦絵「人呼子鳥若三町」と同じものとも思えな     いが、参考のため下に引いておく。     また、天保十三年、出版不可になったという「猿若町割絵図」についても、いかなる絵図か詮索しておこう。同年の     出版に「猿若町芝居之略図」なるものがある。面白いことにこの略図を画いていたのがやはり英泉。曲亭馬琴に記事     によると、この絵図は同年九月中旬、改を通って出版された。当然、役者の紋所や名前はない。(『馬琴書翰集成』     ⑥50 天保十三年(1842)九月二十三日 殿村篠斎宛(第六巻・書翰番号-10)本HP、英泉の天保十三年の項目参     照)同年八月、館市右衛門が伺いをたてたとき、前例としてあげた「猿若町割絵図」とは、画工がおなじ英泉だから、     あるいは「猿若町芝居之略図」と同様の図柄であった可能性が高い。推測になるが、八月に、紋所と名前を入れて却     下されたから、九月にはそれを削除して出版したのかもしれない。ところで、この名主の伺書には次のような「下ケ     札(付箋)」がついていた〉      〝本文英泉義、去十二月類焼後、当時千住小塚原町旅籠町ニて、若竹屋と申者方ニ罷在候趣ニ御座候〟    〈この「十二月類焼」とは、『武江年表』によれば、弘化二年「十二月十一日夜、坂本町より出火、茅場町表裏薬師境     内焼亡」とある火事であろう。斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年成立)に英泉の〝居住・坂本一丁目〟と     あり、曲亭馬琴の日記、嘉永元年八月三日付に英泉の死亡記事中に〝居宅、茅場町ニあり〟とある。してみると、焼     け出されて一時的に避難した先が千住小塚原の「若竹屋」ということなのだろう。この若竹屋、関根黙庵の『浮世絵     画人伝』によれば、英泉はかつて若竹屋理助の名で根津の妓楼の主人をしていたというから、寄宿先の若竹屋は縁者     なのである〉
   「呼子鳥和歌三町全図」無款(東京大学総合図書館「南葵文庫」)
   「猿若町芝居之略図」渓斎英泉画(東京都立中央図書館東京資料文庫所蔵)     ☆ 弘化三年(1846)<四月>       参考史料(役者襲名披露の摺物)     △『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部」第七十三件 p8)    (弘化三年四月、猿若町一丁目名主の町年寄・館市右衛門宛伺書)   〝今般歌舞妓役者菊五郎并弟子共改名致候ニ付、別紙摺物彫刻致度旨申立候間、得と取調べ候処、右は売    買は勿論、外々え相配候儀ニは無御座、御当地并上方面同家業之者ニ限相配り度段申立候、併、右絵柄    似顔とは相見え不申候得共、歌舞妓狂言様之絵柄ニ付、其段利解申聞候得共、何卒一応相伺呉候様強て    申立候間、不得止事右之趣申上候、右絵柄は為相除、句集のみニ相直候様為仕候ハゝ、如何可有御座哉、    奉恐入候得共、別紙草稿相添、此段奉伺候、以上、      午(弘化三年)四月      猿若町壱丁目 名主(濱)弥兵衛                            同 (吉村)源太郎〟   〈役者側から、尾上菊五郞とその弟子たちの改名披露の摺物を制作して、江戸と上方の芝居仲間うちで配りたいという申    し出が、草稿を添えて猿若町の名主に出された。名主は、絵柄は禁制の似顔絵でないものの、芝居のような絵柄だから    通らないだろうと説得したのだが、役者たちはどうしても伺いを立ててほしいと粘ったらしい。そこで浜弥兵衛と吉村    源太郎は連名で、絵柄を取り除いて、句集だけであればどうだろうかと、町年寄を通して町奉行の判断を仰いだのであ    る。町年寄の館市右衛門は、絵を削り同業者に配るということであれば構わないのではないか、という判断を添えて、    南町奉行所に上げた。市中取締懸りはこれをそのまま受け入れた〉     ☆ 弘化三年(1846)<五月>       参考史料(役者似顔の猫絵 歌川国芳画)     △『大日本近世史料』「市中取締類集 一」(市中取締之部 第二二件 p486)    (弘化三年五月十六日付町奉行、隠密廻りの「市中風聞書」)   〝浮世絵之儀、絵之具色取偏数多き品、又ハ三芝居役者似顔等厳敷御察斗有之、一ト先不目立絵も相見候    得共、浮世絵師(歌川)国芳と申者、種々出板之内、其頃猫之絵を書候而も矢張役者似顔ニ認、其外之    出板役者誰々と申名前ハ無之候得共、何れも役者似顔ニ仕立差出し、同職之内ニも、国貞事当時(歌川、    三世)豊国と申者儀ハ、一体極尊大ニ相構、麁末成絵ハ書ざる抔と申趣ニも相聞候得共、右等之儀ハ差    置、先御改革之頃ハ勿論、去秋頃迄ハ相慎候哉、格別目立候絵も相見不申、然処当時ニ至り候而ハ、悉    く色取偏数多く掛り候絵而己相見、前書国芳儀ハ厳敷御察斗をも恐怖不致体ニ相聞、且浮世絵之儀ハ既    懸名主ニも出板之節、右絵之内調印も致し候由之処、其侭出板為差出候儀ハ如何之訳柄ニ有之候哉、厚    く世話方等も被仰渡候上ハ、名主共ぇ御察斗有之候歟、多くも無之絵師共ニ而、国芳儀是迄恐怖不致次    第、同人ぇ御察斗有之候而も可然儀と沙汰仕候〟    〈色数の多い手間がかかったものや役者似顔絵仕立ての浮世絵は、天保の改革において厳禁にされて以来、「去秋頃」     とあるから、弘化二年の秋頃までは、市中で見かけることもなかったが、弘化三年五月現在では、国芳の猫の絵など     は役者似顔になっているし、色数の多いものも出回っている。これらには改掛の名主の調印(極印=キワメイン)が入って     いる。お上も恐れない国芳や、粗末な絵など画かないとなどと尊大な態度の国貞、このまま放置する訳にはいかない。     これらを通してきた改掛の名主やお上を恐れない国芳は咎めがあって然るべきではないかと。これに対して、市中取     締掛の意見の次のようなものだった〉     〝此儀、前々より之御触面ニハ何れも相背、武者絵等風俗ニ不拘分も、彩色ハ手を込候続絵有之、当時ハ    歌舞妓役者之名前ハ顕シ不申候得共、似顔ニ致し、此節三芝居狂言之姿を二枚続等ニ致し、追々出板致    し候様子ニ付、超過不致様、掛り名主共より程能相制可申旨、被仰渡候方ニ可有之候哉、且国芳・豊国    と申絵師、多分之絵工代等受取候趣ニも相聞候得共、誂候もの無之候得ハ、自然相止候儀ニ付、別段御    沙汰不被及候共可然哉ニ奉存候〟    〈今回は改掛の名主が、絵師を行き過ぎないよう程よく押さえ込むようにという指示。国芳・豊国関しては高い作画料     をとっているが、注文するものが居なくなれば、自然と止むのだから、今回は咎めだて必要はあるまいというもので     あった〉     ☆ 弘化三年(1846)<閏五月>     参考史料「里すゞめねぐらの仮宿」一勇斎国芳戯画      △『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第七五件 p12)    (弘化三年閏五月、南町奉行所、隠密廻り同心の風聞書)   〝錦絵改方之儀ニ付申上候書付       隠密廻    錦絵・草双紙之儀ハ、禁忌之絵柄・文段等無之為メ、名主共之内御用立候もの相撰、絵双紙懸被仰付、    銘々申合月番相立置、板元等下絵持参候得は、見改候上禁忌之儀無之候得は改印いたし、彫刻為致候仕    来ニて、御改革ニ付歌舞妓役者似顔絵は御差留有之候処、近来男伊達抔と名付多分似顔絵有之、其上流    行之儀は認申間鋪処、当時流行之事のみ錦絵ニ差出、絵草紙懸之詮も無之、右故自ラ風聞等受候次第ニ    も成行、改方等等閑之儀ニ付密々取調候処、右懸名主共之内高砂町渡辺庄右衛門儀は、両三年以来より    中風之様子ニて、役用之儀若年之悴え任せ置候間、禁忌之改之無之、下絵持参候得は望之場所え改印致    遣候間、板元共多分庄右衛門月番を相待下絵差出、既里雀ねくら之仮宅より申絵ニは、衣類之紋所ニ改    印相用、戯レ同様之儀ニて御取締ニ相成不申、右等を其侭被差置候ハゝ、外名主共えも押移、都て役用    向杜撰ニ可相成奉存候、依之、庄右衛門改印有之歌舞妓役者似顔ニ紛敷品并流行之絵類相添、此段申上    候、以上〟    〈最近、禁忌の役者似顔に紛らわしいものや、現在流行のものを題材にした錦絵が出回ってる。検閲が等閑になってい     るせいである。特に高砂町の渡辺庄右衛門の改には問題がある。当人中風を患っているため伜に改を代行させている     が、禁忌のものを検閲する様子はない。また改印も下絵の望む箇所に押してくれるので、たくさんの板元連中が渡辺     の月番を待っているくらいだ。「里雀ねくらの仮宅」なる錦絵では改印を衣類の紋所にするなど戯れて一向に取り締     まらない。この報告書を受けた町奉行は早速渡辺庄右衛門を更迭した〉
   「里すゞめねぐらの仮宿」一勇斎国芳戯画(ネット上の画像集)
   「里すゞめねぐらの仮宿」一勇斎国芳戯画(大英博物館・右図のみ・右端の衣装紋に「○に「渡」の印」)     ☆ 弘化三年(1846)<六月>       筆禍「唐船(徐福浮海ノ図)」三枚続 絵師不明       処分内容 ◎板元 細田屋千之助 残品没収、板木削除       処分理由 浮説流布     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十九」(書物錦絵之部 第七六件 p15)    (弘化三年六月、町年寄・館市右衛門の「唐船」三枚続に関する町奉行所宛上申書)   〝此節売買仕候唐船三枚継絵之儀相調申上候書付    館市右衛門    此節売買いたし候唐船三枚継絵、名主改印も有之風評如何ニ付、早々取調可申上旨申上旨被仰渡、右絵    三枚御下ヶ被成候、    一 依之、絵双紙掛り名主共え申渡、右絵摺立并売先相知候分取調候処、売捌人ハ宇田川町文次郎店絵     双紙屋(丸屋)清次郎より申者ニ有之、同人相糺候処、凡三千枚程摺立候内、九百枚余ハ売散ニ相候     恐入候旨申之、残弐千四拾四枚差出し、此内【弐千拾七枚 墨摺/弐拾七枚 彩色摺】    一 右は、絵草紙掛り之内小石川白山前町(衣笠)房次郎改小印ニ付、心得方相尋候処、右唐船絵之儀     は、四ヶ年以前卯年(天保十四年)十月、同人月番之節、通四町目絵双紙屋細田千之助と申者より、     彩色八遍入改ニ差出候処、故事認候錦絵ニ付改印いたし遣候旨申立、其後板木譲引仕候由は、当人共     相対之儀ニ有之候段、房次郎申之候、    一 右ニ付、宇田川町清次郎再応呼出し、右絵板元印【細千】と有之、然処此節清次郎売捌候段、板元     粉敷旨察斗仕候処、全く右絵開板之儀は、先ン持主細田屋千之助、去ル卯年掛り名主改済彫刻仕候処、     去巳年(弘化二年)十二月、同人絵双紙渡世相止候節、右板木清次郎方え買取候旨、則別紙受取書差     出し申候、右品此節売先宜、何心付も無之多分墨摺ニ仕売捌候段相答候間、左候ハゝ、板木ハ去十二     月買取候共、板元印も不相直差置、畢竟時之雑説を見込、俄ニ摺出し候儀ニ可有之、心底ニおゐてハ     新刻いたし候も同様、且元来彩色摺錦絵ニ候処、多分墨摺売買いたし、元改方ニも相触レ、彼是不束     之段察斗仕候処、重々奉恐入偏御憐愍之御沙汰奉願候旨、清次郎并家主文次郎差添申立之候、    右相調候処、書面之通御座候、掛り名主房次郎改印之儀は、四ヶ年以前卯年、開板主千之助より差出、    故事認候錦絵ニ付、無子細改印いたし遣候旨申之、同人不調法之儀は相聞付申候、此節売捌人宇田川町    清次郎儀、新規板刻候品ニは無之、兼て買取候板木ニは無相違相聞候得共、絵柄時之雑説ニ紛敷を見込、    俄摺出し売買仕候心底不宜奉存候、乍去、今般新規板刻仕候品ニ無之ニ付、此上御吟味之儀ハ御宥恕被    成下、右差出候摺立絵・板木共御取上ヶ申渡、時之雑説見込売捌候ハ、新刻いたし候ニ等敷不束ニ付、    以後日数百日之間、清次郎儀絵類・絵双紙共新規開板物不相成段申付候ハゝ恐縮仕、自然同渡世之もの    えも相響キ、惣躰之取締方可相成哉と奉存候、依之、御下ヶ被成候絵三枚返上仕、差出候板木拾八枚・    摺立絵弐千四拾五枚相添、此段申上候、以上、     但、糺ニ付差出候先板元千之助板木売渡請取書壱通、奉入御覧候、      午(弘化三年)六月    館市右衛門〟
  (北町奉行所・市中取締掛与力の評議)   〝書面主房次郎改印之儀は、四ヶ年以前卯年開板主千之助より差出改印いたし候上ハ。房次郎ニおゐて不    調法之筋無之、清次郎儀兼て買取候板木ニ候共、絵柄時之雑説ニ紛敷を見込俄ニ売出、且板木元印も不    相直、元来彩色摺錦絵ニ候処、墨摺売買いたし候段、元改方ニも相振、彼是不束之始末も有之候得共、    徐福浮海之図ニて、雑説等無之砌ニ候得ば子細も無之、畢竟心底ニ拘り候筋ニ付、市右衛門申上候通、    別段御吟味之御沙汰不及、差出候摺立絵・板木共御取上ケ申渡、且日数を限新規開板のもの不相成段申    付候義は、御咎之筋ニ相当候間、其儀ニは不及旨被仰渡、其外此度之儀ハ。房次郎不調法之筋は無之候    得共、時之雑説又は絵柄不分様相認、人々ニ為考買人を為競候様之類間々有之、右は絵草紙懸名主共ニ    て心附候得は、不取締之儀も無之筋ニ付、猶市右衛門より右名主共え沙汰及ひ置候様被仰渡、可然奉存    候      午 六月    北 市中取締掛〟       〈細田屋千之助の板木代金請取書〉   〝 覚       一 金壱両也 【唐船三枚続/色板共十八枚】    右は、我等所持板木、前書代金ニて慥売渡申候、以上、    細田千之助     巳(弘化二年)ノ十二月      丸屋清次郎殿〟    〈弘化三年六月、「唐船」三枚続(市中取締掛の評議文書では「徐福浮海之図」)に浮説が生じているので、町年寄・     館市右衛門は、その売り弘め所であった絵双紙屋の丸屋清次郎を召還した。その際、丸屋は摺りあがった3000枚のう     ちまだ売れていなかった2044枚(彩色27枚・墨摺2017枚)を提出した。改印を見ると、絵草紙改掛の名主・衣笠房次     郎の印があったので、衣笠に問い合わせてみると、これは四年前の天保十四年十月、絵草紙屋細田屋千之助から出版     許可申請があったもので、彩色八遍摺りで題材も故事に採っていたから、特に問題なしとして押印したとのことであ     った。その後、弘化二年十二月、細田屋は廃業するに当たって、その板木を丸屋へ金一両で譲渡した。そして弘化三     年になって、丸屋はこの絵柄が時の雑説に紛らわしいことに目を付けて、しかも板元印も直さず【細千】の印のまま     売り出した。館市右衛門はこれを問題とした。そこで、新規出版物ではないので吟味に回すには及ばないとしながら     も、提出の残部と板木は没収、百日間新規の開板禁止にしてはどうかと、町奉行に提案した。これを受けて南北の両     奉行所の市中取締掛が評議を行った。その評議の結果は館市右衛門の提案とは違っていた。すなわち、この「徐福浮     海之図(唐船)」は浮説等がない時節であれば差し支えない図柄であるから、吟味には及ばない、従って、新規開板     の禁止というのも、お咎めなら当然だか、本件はお咎めに当たらないのだから適当ではないとして、結局、品物や板     木の没収に留めるということになった。ところでこの「徐福浮海之図(唐船)」にどのような浮説が生じたのか、興     味深いところだが、憚ってか、これらの文書には具体的な記述がない。なお、この三枚続の版元印が【細千】である     ことは分かるが、その画題、画工名については分かりかねている。2014/01/15追記〉    ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二六七件 p135)    (七月十九日付、町年寄・館市右衛門より絵草紙屋及び絵双紙掛り名主に申渡した達し書)   〝一 唐船三枚継絵  墨摺弐千拾七枚/彩色摺弐拾七枚    一 同板木拾八枚     右は時之雑説ニ紛敷を見込俄ニ売出、板元印も不相直、且、元来彩色摺錦絵ニ候処、多分墨摺売買致     し、元改方ニも相振彼是不束ニ付、右摺立絵・板木共御取上申渡之、    右、北御奉行所御差図以申渡之      午七月    右之通被仰渡、奉畏候、以上、      弘化三午年七月十九日      宇田川町文治郎店 絵双紙屋(丸屋)清次郎                               煩ニ付代 庄次郎                               家主   文次郎                      絵草紙懸 銀座町名主(村田)佐兵衛      口達              絵双紙懸 名主    絵類之内、時之雑説又は絵柄不分様相認、人々ニ為考、買人を為競候様之類、間々有之、右は懸名主共    心附候得は、不取締之儀は無之訳ニ付、下絵改方等弥入念、弁別紛敷分は此方え可申聞候     右、北御奉行所御沙汰以申達〟    〈六月、時の雑説を見込んで出版された「唐船」三枚続、版権の移動があったにも拘わらず、板元印を直さないなどけ     しからぬとして、板木・商品の没収ということになった。また町奉行は、町年寄経由で絵双紙掛の名主たちに、一層     入念なる改(アラタメ=検閲)を求めるとともに、紛らわしきものについては町年寄に伺を立てるよう命じたのである〉    以上、弘化二年~三年の「筆禍」終了(2013/12/28稿・2014/06/13追記)
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