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浮世絵の筆禍史(5)弘化元年(天保十五年・1844)筆禍史メニュー
  ※ 者=は 与=と 江=え 而=て メ=貫 〆=締(〆そのまま使うこともあり) 而已=のみ     天保から弘化への改元は1844年12月3日     ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)<正月>       筆禍 春画「源頼光土蜘蛛図(仮題)」小判十二枚・歌川芳虎画       処分内容 追放・手鎖・過料            ◎板元  松平阿波守家中(板摺内職)高橋喜三郎、阿波藩屋敷門前払(追放)            ◎卸売り 糴(セリ)売問屋  直吉    江戸御構(追放)            ◎小売り 絵双紙問屋   辻屋安兵衛 手鎖十ヶ月            ◎絵師  芳虎 過料(罰金)三貫(3000)文       処分理由 好色本出版     ◯『藤岡屋日記』第二巻 ②413(藤岡屋由蔵・天保十五年正月十日記)    〝(一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」・歌川貞秀画(仮題)「四天王直宿頼光公御脳(ノウ)の図」    の出版後)    其後又々小形十二板の四ッ切の大小に致し、芳虎の画ニて、たとふ入ニ致し、外ニ替絵にて頼光土蜘    蛛のわらいを添て、壱組ニて三匁宛ニ売出せし也。     板元松平阿波守家中  板摺内職にて、                              高橋喜三郎     右之品引請、卸売致し候絵双紙屋、せりの問屋、                        呉服町      直吉     右直吉方よりせりニ出候売手三人、右品を小売致候南伝馬町二丁目、                        絵双紙問屋 辻屋安兵衛 〟     今十日夜、右之者共召捕、小売の者、八ヶ月手鎖、五十日の咎、手鎖にて十月十日に十ヶ月目にて落     着也。    絵双紙や辻屋安兵衛外売手三人也。板元高橋喜三郎、阿波屋敷門前払、卸売直吉は召捕候節、土蔵之内    にめくり札五十両分計、京都より仕入有之、右に付、江戸御構也。画師芳虎は三貫文之過料也〟     ◯『藤岡屋日記』第二巻 ②449(藤岡屋由蔵・弘化元年十月十日記)    〝南伝馬町二丁目辻屋安兵衛、笑ひ本一件にて正月十二(ママ)日より戸〆の処、今日御免也〟    〈「戸〆」押し込め=外出禁止〉
   「源頼光館土蜘作妖怪図」 一勇斎国芳画(早稲田大学・古典籍総合データベース)
   一勇斎国芳画「源頼光館土蜘作妖怪図」・玉蘭斎貞秀画「土蜘蛛妖怪図」     (『浮世絵と囲碁』「頼光と土蜘蛛」ウィリアム・ピンカード著)      〈「わらいを添て」とあるから「土蜘蛛」の春画版である。春画はもちろん非合法。板元は阿波藩の家臣高橋喜三郎。     武家屋敷内は町奉行の管轄外、そこで春画が密かに作られていた。芳虎は三貫文(一両の3/4)の罰金。板元高橋は     阿波屋敷から追放。絵を糴売り(セリウリ=行商)や絵草紙屋に卸した呉服町の直吉は、逮捕の際、土蔵から賭博用の     めくりカルタ五十両分発覚したこともあって、江戸追放。そして小売りの辻屋安兵衛外の三人が八ヶ月~十ヶ月の手     鎖り。辻屋は十月十日に押し込め解除とあるから、辻屋が十ヶ月、その外の小売りが八ヶ月に処せられたのであろう。     小売り価格は小型十二枚一組で三匁。銀三匁は当時の相場(1両=銭6500文=銀約65匁)で換算すると、三百文に相     当する。なお「八ヶ月手鎖、五十日の咎」の「五十日の咎」の意味がよく分からない。ところで、武家屋敷の非合法     出版には絵草紙担当の名主たちも相当注目していたようで、次のような文書が残されている〉    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)<正月>       参考史料(改(アラタメ)方に関する提案)     △『大日本近世史料』「市中取締類集 十八」(書物錦絵之部 第三九件 p174)   〝書物・絵草紙・小冊物之内、書物之分ハ一々館市右衛門(町年寄)え申立、御伺済之上同所ニて願之通    被申渡候、草双紙・一枚絵・手遊替絵・双六之類は、私共手限ニて見改、如何之儀無之分ハ摺立売買為    致候処、私共えも不申立勝手儘ニ摺立候絵本、又は双六之類、并武家方等ニて内職卸売致歩行候族も有    之、何れも改受不申品、此節市中本屋・絵草紙屋等ニて見世売致罷在、尤差向何之絵柄も相見え不申候    得共、此儘売買為致候ハゝ、追々勝手儘ニ売方売徳のみを心掛、人情本・笑絵等ニ紛敷分も出来致可申    候間、前書手続通り御伺済、又は私共手限ニ候共、改方無之品は勿論、前々より売来候古板之内ニも、    絵柄其外不宜分は板木削取、以来売買不為致、其上私共申合寄々見廻り、不取締之宜無之懸かり様仕度、    此段奉伺候、以上     辰正月             書物・絵草紙改掛り 名主共〟    〈書物は町年寄・館市右衛門に出版伺いを立て、草双紙・一枚絵等については、絵草紙改掛(アラタメカカリ)の名主が「手     限(テギリ)=上の裁断を仰がず、自己の責任で判断すること」によって許可を与えることになっているのだが、最近、     検閲を受けない絵本や双六、あるいは武家の内職によって仕立てたものが、市中の本屋・絵草紙屋に出回っている。     現在のところいかがわしいもの見当たらないが、このまま放置しておけば、利得に惑わされて、人情本や笑絵等に紛     らわしいものも出てこよう。従って、改印のない品はもちろん、以前から売ってきた古板であっても、絵柄の宜しか     らざる品はすべて板木を削り取り、売買を禁じてはどうかという、改を担当する名主たちの提案である。しかしこれ     がなかなか徹底しなかったようで、次のような報告書も出ていた〉    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)<三月>      参考史料(類版に関する記事)     △「流行錦絵の聞書」(『開版指針』国立国会図書館蔵)   〝春頃或屋敷方ニて内証板ニ同様の一枚摺拵、夫々手筋を以て売々致候由に候得共一見不致候〟    〈これは国芳の「源頼光館土蜘作妖怪図」に関する聞書であるから、「内証板」とはその類版をいうのであろう。「夫     々手筋を以て売々致候」とあるから、売り捌くルートまであるらしい。上掲の春画版「土蜘蛛」を武家から買い取っ     て卸す直吉のような問屋、そしてそれを小売りする辻屋安兵衛のような絵草紙屋や糴売りたち、恐らく彼らの間には、     武家方制作の春画や類版を市中に流通させる経路が出来ていたのであろう。そういえば辻屋安兵衛は、一年前の天保     十四年七月、やはり武家方の類板「将棋合戦」を売り捌いた廉で摘発されている。その時は、今後は武家内職の品は     取り扱わない、次に違犯した場合には商売禁止処分、開板する場合は必ず改を受ける、以上三点誓約させられただけ     で済んだが、今回は実刑で十ヶ月間の戸閉め(手鎖ともある)に処せられている。さてこの武家方の非合法出版、神     経質になっていたのは絵草紙担当の名主にとどまらない。嘉永三年(1848)正月、町奉行の隠密も次のような報告を     上げていた〉       参考史料(嘉永三年(1850)正月、春画に関する記事)       △『大日本近世史料』「市中取締類集 二」(市中取締之部二 第三三件 p199)   〝当春春画之義出来致し候風聞ハ有之候得共、重ニ山之手軽キ御家人又ハ藩中もの抔、板元摺立とも内職    ニ致し候義ニ付、何分板元突留り不申〟    〈当春、春画が出回ったとの噂があったが、主に山の手の身分の軽い御家人あるいは藩中の家臣などが、板元や摺りを     内職としているので、板元を突き止めることができないとの報告である。上掲『藤岡屋日記』の伝える高橋喜三郎は     阿波藩の家臣であった。どうやら武家屋敷が非合法出版の隠れ蓑になっていたような気がする〉     ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)<七月-十月>       筆禍「川中島合戦」三枚続・一勇斎国芳画 佐野屋喜兵衛板       処分内容 ◎版元 売買禁止(絵双紙改掛名主の裁量)            ◎画工 記載なし       〈改掛の名主は出版が是か非か見極めることができなかったので、町奉行の判断が下るまで、取り敢えず売買を        禁じたのである〉     ◯『大日本近世史料』「市中取締類集 十八」(書物錦絵之部 第五四件 p238)   (町年寄・館市右衛門の町奉行宛伺書)    〝川中嶋合戦三枚継絵之儀ニ付奉伺候書付    一 川中島合戦 三枚継絵      右品、当五月中、芝三島町長兵衛店、絵双紙屋(佐野屋)喜兵衛より、其節絵双紙掛月番名主加賀町     (田中)平四郎え差出改之上、彩色八編摺、其外猥ヶ間敷儀も無之ニ付、一旦為売出候処、先年川中     島合戦絵柄ニ付、御調等有之候由、此節及承侯ニ付、先つ不取敢右品売買差留置、如何可仕哉之段、     名主平四郎伺出申候    右依之相調候処、先年川中島合戦絵御調御座候程は、御番所御直調ニ有之候哉、私共書留相知不申候得    共、文化元子年五月、絵双紙問屋並組々年番名主え取締申渡候内、一枚絵、草紙類、天正之頃以来之武    者等名前を顕画候儀は勿論、紋所・合印・名前等紛敷儀も、決て致間敷旨有之、然は、此度差出候川中    島合戦絵出板可為致品ニは無之、早々絶板申付、摺立侯品は不残取上ヶ可焼捨旨、申渡候様可仕候哉、    則差出候三枚継并文化度申渡写相添、此段奉伺候、以上     辰七月              館市右衛門〟    〈この五月、板元の佐野屋喜兵衛から「川中島合戦」(三枚続・一勇斎国芳画)の出版申請があった。当時、絵双紙の     改掛だった名主・田中平四郎は、彩色・絵柄等特に問題なしとして許可。そして一旦売りに出された。ところが川中     島合戦の絵柄には先頃当局の取り調べが入っていたことが分かったので、担当名主の田中平四郎は取り敢えず販売を     差し止めにして、町年寄・館市右衛門に伺いを立てた。七月、館はそれを受けて町奉行の判断を仰いだ。文化元年、     天正年間以降の武者絵を禁じる触書が出ており、川中島合戦はこれに抵触する、従って板木は絶板、錦絵は残らず焼     却すべきではないかと。それに対して、南町奉行鳥居甲斐守(耀蔵)がこう答えた〉      〝川中嶋合戦錦絵之義ニ付、被遣候書面一覧致シ候処、永禄時代之武者絵ニ付、売買苦かるまじく、勿論    天正後の武者絵名前を顕し候を被禁候は、畢竟 御当家え拘り候儀有之故と相聞候〟    〈鳥居耀蔵は川中島合戦は天正以前の永禄年間だから問題なしとした〉      〝当五月中出板、其後心付売留為致伺出候川中嶋合戦三枚継絵之儀、別段不被及御沙汰候〟    〈十月「川中島合戦」の件は正式に落着。結局問題なしとされた。それにしても、町年寄・館市右衛門、川中島が天正     以前であることは当然承知の上であろうに、なおかつ絶板・焼却すべきとしたのはなぜであろうか。然るべき理由が     あってのことと思われるがよく分からない。ただ十月の上申書にこうある〉      〝永禄と天正纔之違ひ、下々之者細蜜ニ弁え兼、右絵柄に泥ミ、若此末時代紛敷武者絵等出板仕候ては、    恐入候儀ニ罷成、私より取極候儀は申上兼、御賢慮を以被仰付被下候ハゝ、難有仕合可奉存候〟   〝以来天正以前ニ候とも、其頃の絵柄ニて弁別紛敷分は、縦令壱枚絵之類ニ候共、名主共限ニ不改、私方    え差出改受候様可申渡段、被仰渡奉畏候〟    〈永禄年間(1558~1570)と天正年間(1573~1592)とのわずか違いを、下々の者が識別出来かねて、「川中島合戦」     のような絵柄に拘ってしまうと、今後とも紛らわしい武者絵が出版されるようになるかもしれない。それでは申し訳     ないし、私の方でも判断しにくいので、賢明な検閲指針を示して頂きたい。また今後は天正以前のものでも、絵柄を     識別し難いものは、名主任せの改(アラタメ)をとせず、町年寄に提出して検閲を受けるようにしてほしいという提案で     ある。どうやら、館市右衛門は「川中島合戦三枚継絵」をことさら問題視することによって、名主たちの検閲基準を     明確にしたかったのかもしれない。また際見極めが難しいものについては、これをきっかけとしてその判断を町奉行     に預けたかったのかもしれない〉     ◯『天保撰要類集』『未刊史料による日本出版文化』第三巻「史料編」p381    〈「川中島合戦」一件、町奉行から正式に下された裁定は以下の通り〉   〝天保十五辰年十月 川中島合戦継絵、館市右衛門取調書差出候ニ付、絵柄、御当家え拘り候筋無之ニ付、    不及沙汰、以来天正以前ニ候共、其頃之絵柄ニて、弁別紛敷分は館市右衛門方え差出、改受候様、可申    渡旨同人え申渡之事〟    〈徳川家に拘わるような絵柄もないから取り上げるまでもないとした。また天正以前の紛らわしき絵柄のものについて     も上出館市右衛門の提案が受け入れられている〉
   「川中嶋大合戦」一勇斎国芳画 佐野屋喜兵衛板 (C's Ukiyo-e Museum)      〈ところで、上掲「川中嶋合戦三枚継絵之儀ニ付奉伺候書付」に出てくる先年取り調べが行われた「川中島合戦」とは何    であろうか。おそらく天保十三年刊、一猛斎芳虎画「信州川中嶋大合戦」五枚続をさすものと思われる。改掛の名主や    町年寄館市右衛門は、その時の記憶があって、検閲に慎重を期したのかもしれない。この芳虎画に関する文書を参考史    料として引いておく〉      参考史料(天保十三年刊「信州川中嶋大合戦」一件)        △『大日本近世史料』「市中取締類集 二十一」(書物錦絵之部 第二八六件 p214)    (板元・万屋、上総屋、販売元・三河屋鉄五郎、絵師・芳虎の絵草紙掛名主宛請証文)    〝一 川中嶋合戦大錦絵三枚続 山下町 茂兵衛店 板元 万屋 十兵衛       画師(歌川)芳虎     一 右同断二枚続            通四町目 専吉店 板元 上総屋常次郎     右錦絵、下絵を以当七月中改印申請、摺立売出し仕候処、絵双紙屋見世にて五枚続ニ致し売買仕候ニ     付、右始末御調ニ御座候、此儀、右川中嶋合戦錦絵之義は、元大工町三河屋鉄五郎より被相頼、十兵     衞・常次郎両人は、板元名前ニ願候迄ニ有之、芳虎儀も御調御座候処、是又鉄五郎より相頼候ニ無相     違旨相訳(ママ)候得共、三枚続・二枚続両人名前ニて改印申請、五枚続ニ仕立紛敷売捌方仕候段御察斗     受、可申立様無御座奉恐入候、以来右体紛敷取計方仕間敷旨、且又、前書川中鴫合戦絵五枚続ニ不相     成様、別々ニ売捌可申旨被仰聞、難有奉畏候、為後日仍如件                         山下町 茂兵衛店 板元 万屋十兵衛                                  家主 茂兵衛                        通四町目 忠兵衛  板元 上総屋常次郎                                  家主 忠兵衛                        元大工町 十兵衛店 三河屋鉄五郎                                  家主 十兵衛                         具足町 亀五郎店 亀次郎悴 芳虎事                                   画師 辰五郎                                   家主 亀五郎〟    〈この文書は嘉永二年五月の三枚続錦絵「仙台萩」一件に関する文書の中にあるもの。年次日付はないが、以下の点か     ら、天保十三年のものであることが分かる。国会図書館所蔵の一猛斎芳虎画に「信州川中嶋大合戦」という五枚続が     ある。(下出画像参照)それを見ると、三図に万屋の板元印、二図に上総屋の板元印がある。画題と板元の一致から、     この証文の言う「川中嶋合戦」が国会図書館蔵の「信州川中嶋大合戦」と同じ物であることが分かる。改(アラタメ)印を     みると「極」の単印、この形式は天保十三年までで、翌十四年から名主の単印に移るから、この「川中嶋合戦」は天     保十三年以前の出版と考えられる。また天保十三年の十一月晦日には、一枚絵は三枚続まで四枚以上は無用とする町     触が出ているから、それを考慮すると、五枚続ゆえに察斗(咎め)を受けたというこの「信州川中嶋大合戦」は、こ     の年の出版と見てよいであろう。同年七月、三河屋は万屋と上総屋を使って、それぞれ三枚続・二枚続の作品として、     下絵改に差し出し、出版許可を貰った。しかし実際には両方を一括して五枚続として売り捌いた。並べてみれば一目     瞭然、紛れもなく一つの作品である。その五枚続が問題視され、版元及び画工連名の詫び証文を書く羽目に陥った。     ただよく分からないのは、この三河屋、七月の時点でどうして三枚と二枚に分けて改を受けたのかという点である。     2013/11/12追記〉
   「信州川中嶋大合戦」一猛斎芳虎画 万屋十兵衛・上総屋常郎板 (国立国会図書館デジタル化資料)     ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)<十月以降>       筆禍「岩戸神楽乃起顕」大判三枚続・国貞改二代豊国画 高野屋友右衛門板      「教訓三界図絵」 大判三枚続・歌川貞重画 上州屋金蔵板      「化物忠臣蔵」  中判十二枚揃 一勇斎国芳戯画 上州屋金蔵板       処分内容 町年寄の裁量により売買差し止め(禁止)            「教訓三界図会」には絶板の噂あり(『浮世の有様』下出参照)       処分理由 不明(浮説の流布か)       〈実際に売買禁止になったかどうか確認できていない〉     ◯『事々録』〔未刊随筆〕③307(大御番某記・天保二年(1841)~嘉永二年(1849)記事)   (記事は天保十五年冬。下記国芳の「土蜘蛛」の絵が出板されたのは天保十四年八月)   〝去年は頼光が病床、四天王宿直、土蜘蛛霊の形は権家のもよふ、矢部等が霊にかたどるをもて厳しく絶    板せられしにも、こりずまに此冬は天地人の三ツをわけたる天道と人道地獄の絵、又は岩戸神楽及び化    物忠臣蔵等、其もよふ其形様を知る者に問ば、是も又前の四天王に習へる物也、【是は其物好キにて初    ははゞからず町老の禁より隠し売るをあたへを増して(文字空白)にはしる也】〟    〈今年の冬もまた昨年の「土蜘蛛」(一勇斎国芳画「源頼光公館土蜘作妖怪図」の絶板にも懲りず四天王ものが出版に     なった。(国芳の「土蜘蛛」は処分されなかったが、その後に出た玉蘭斎貞秀の「土蜘蛛」は処分された)ここに言     う「天道と人道地獄の絵」は歌川貞重画の「教訓三界図絵」。「岩戸神楽」とは「国貞改二代豊国画」の署名のある     「岩戸神楽乃起顕」。つまり天保十五年四月、改名したばかりの三代豊国画。そして「化物忠臣蔵」とは十二枚続き     の一勇斎国芳画。これらは始めは憚ることなく売られ、町老(町年寄か)の差し止め(禁止)で出てからは、隠して     高値で売られたようである。2011/03/25記〉    〈この天照大神の出現を、天保十四年(1843)閏九月の老中交代劇、水野越前守忠邦の老中罷免、阿部伊勢守正弘の老     中就任を戯画化したものと、捉えていたが、一方で、如何に痛快な出来事とはいえ、時流に敏感な江戸の出版界が、     一年以上も前のものを、わざわざ出版するであろうかという疑問もある。ところが『浮世の有様』の弘化二年(1845)     正月の記事に「水野越前守殿にも再勤後、種々の取沙汰なりしが、又御登城御差留に旧冬相成し由、慥に江戸表より     申来りしと云」とある。(下出参考史料参照)水野越前守の老中再辞職は、正式には弘化二年の二月二十二日だが、     前年の天保十五年(1844)冬の江戸では辞任の噂が流れていた。そうすると「岩戸神楽乃起顕」を水野再辞職の判じも     のだと考える輩も出てこよう。2013/11/12追記〉
   「教訓三界図絵」 歌川貞重画 上州屋金蔵板 (早稲田大学・古典籍総合データベース)
   「岩戸神楽乃起顕」 国貞改二代豊国画 高野屋友右衛門板 (月刊京都史跡散策会・第22号)
   「化物忠臣蔵」 一勇斎国芳戯画 上州屋金蔵板 (東京国立博物館蔵)    ◯『浮世の有様』著者不詳・弘化二年(1845)正月記(『日本庶民生活史料集成』第十一巻「世相」p962)   (「教訓三界図絵」)    〝昨年江戸に於て、歌川貞重といへる者、判事物の錦絵を画きてこれを板行になして売出せしが、直に御    差留にて絶板をなりしと云、其絵の珍かなりとて、旧蝋(昨年十二月)中瑞といへる蘭学医が方へ江戸よ    り贈りくれしにぞ。諸人打集ひ首をかたむけ、種々様々にこれを考れども其訳知れがたしとて、或人予    に噂せし故、其絵を借り得てこれを見るに、教訓三界図絵といへることを絵の始に書記しぬ。其図は、    三枚の紙続にて天上、人間、地獄の有様にして、先天上には日中央に座して膝の上に左右の手にて剣を    持、其左右には衆星座を列(ママ)らね、其中にも筆を口にくはへて帳面を扣へし星有り、こは定て北斗星    にて彼仏家にいへる妙見なるものなるべし。其次には青き色にて角有て、かの鬼といへる者に書なせし    恣(ママ)の者、遠眼鏡にて雲間よりして下界を見ている所の図也。其次には大成火打鉄を画き大石を縄に    て釣り下げしを、三疋の鬼形なる者共大に精力をはげましてこれを打合す姿にして、火打鉄と稲と書記    有、これ天上の眼目と思はる。其次には大成壺に水を盛り、鳥兎等寄集ひて其水を杓に汲み簾に漉しぬ    る様を画く。こは雨を降らせぬる有様也。其次に雷すつくと立、手に碇を持、口を明て下を詠めぬる有    様也。こは太鼓を取落せし姿なるべし。又其次には風神と見へて、大成袋の中へ団扇にて風をあをぎ込    みぬる姿也。されどもこれも又勢ひなし。其中段は人間界にして、桜花盛んに開き、諸人大浮れに浮れ    つゝ余念なき有様也。其風景をみるに、隅田川の景色ならんかと思はる。其下は総て地獄の有様也。始    めに地獄の釜損じ、青赤の二鬼これを鋳かけし、其側に雌鬼子を背おひ前だれかけにて何か咄しせる様    子にして、青鬼のかたへには車団扇等有て建札ありて、其札に、釜そんじ候に付当分の内相休候牛頭、    と書記ぬ。其次には閻魔大王無詮方徒然なるゆへに、眠れるやうすにて倶生神と唱へぬる番頭役の二疋    も、一は筆紙を以て立て欠伸をし、一は眠りてたはひなく、見る目嚊鼻も獄門に掛りし姿ながらにつま    らぬ顔をなしぬる姿にて、其側に鬼の青きが常張の鏡曇りしを研ける姿を画て、其次に建札有、放生会    無用と書記しぬ。其次に三途川の姿の側らに脱衣をかけて虎皮のふんどしにしきしをなせる姿(二字虫    喰)青き鬼とつれ/\なる儘につまらぬ咄しなせるやうす也。鉄棒を引ずれる鬼の面をしかめて口を開    きしも、定て同し様の事なるべし。其側に剣山有りて建札有、じごくとが人の外登るべからずと書記せ    る有て、三枚の紙続なるに一枚毎に(長方形に「上金」の印)歌川貞重画と書記せり。たはむれにこれ    を判じ見るに、     天上の役の夫々の事を勤め居る中にて、稲妻の役別て血汗を流し神力を尽して大に働ける有様也。こ     は御改革につひて稲妻の如き厳令数々仰出されしが、多くは稲妻其勢ひ始めは至て烈しけれども、消     へて跡形もなくなれるが如くに、厳令も却て益なく跡戻りと成、又やめになりしなど有て、見苦しく、     聞も至ておかしくて御気の毒なりし事多かりしにぞ。後には下方にてもこれになれて、またか/\こ     れも大方跡戻りか左もなくば稲妻の如く消て形ちもなかるべしと、平気にして頓着なく、下方の者共     の居ぬること也と云有様を、花見に浮れし姿に画しものなるべし。左れども御趣意を守れる様に見せ     んとて、只男計にて女は六部一人の外にあらず。これらと教訓の文字と人々ゆだんすべからずくらひ     なる事にてちやらつかせしものなるべし。又雷も勢を大に振ひ放まま(恣?)に鳴り廻りしか、秘蔵     せし太鼓を取落し、これも口をあひてしみだれし姿にして、碇を持て大後悔せし姿と見ゆ、こは越州     がしくじりしためなるべし。かやうのことなるゆへ、人間の少々金銀に富みぬるもの共は、又稲妻か     かみなりか何れも光りなれども跡形なし、躍れ/\おどらにやそんじやおどらぬものはあほうなり、     チヤウ/\/\などいひてたはむれ遊びぬる姿なるべし。されども中人以上は如此なれども、下賤に     して其日暮しの働きをなして妻子を養へるもの共は、雇人少くして銭もうけする事なりがたきうへに、     諸色高直なるゆへ一統に暮しかねて飢渇に及びぬる有様を、地獄に比して画たるものにして、頼光の     土蜘蛛になやまされぬる絵よりも又々少しく心を用ひしものなるべし。されども一勇斎が腹を居へて     始て其図を板行せしと同日の論に非ず。其節の御戴(ママ)許を知りて心を安んじ、かゝる事をなせしも     のなれば、遙におとりぬるものと云べし。何にもせよ恐れ入りし浮世の有様とはいふべきことならん     か。アヽ/\/\。孔丘の後世恐るべしと云ひしもかやうなることをいひ置しものならんか。アヽ/\     /\/\。(長方形に「上金」の印)【これにも定て子細有事なるべし】〟      〝〔頭書〕子供両人ありて一人は立ゑぼしに蛇の目紋を付たるを着す。此紋は加藤清正が紋にして上方と     違ひ、江戸にてはすかざる所の紋なり。今一人の小児は兜を着し、土居のかげより首計出して多くの     人々のうかれたはむれをなし余念なくばか/\しきを、密にうかがひ居る姿也。人々ゆだんすべから     ずと云へる有様をこれにもたせしものなるべし。又唐人の姿にてたばこをすいながら、ゆう/\とあ     ゆみぬるやうすに画しは、これにも定て心有て書入しものなるべし〟    〈この貞重画の売り出しは、前項『事々録』によれば、天保十五(1844)年冬である。この時点までの政局は次のように     動いた。天保十四年閏九月十二日、老中水野越前守忠邦罷免。翌天保十五年(弘化元年)六月二十一日、水野忠邦老     中再任。同年九月六日、南町奉行鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)罷免。この記者はこの動向を踏まえながら次のように判ず     る。     天上 雨あられの如く出された改革の厳令を稲妻に見立てて、なるほど当初は苛酷であったが、今は消えて跡形もな        いとする。     人間 花見に浮かれる市中の様子を画いて、歓迎の気分を表現している。すっかり文化文政の大御所時代に復したよ        うな気持になった者もいるのだろう。おそらく妖怪こと鳥居耀蔵罷免の報は町人を小躍りさせたに違いないの        である。しかし立て札には「人々油断すべからず」ある、なお警戒を解くわけにはいかないとする。(このあ        たり、水野の老中再任を踏まえているのかもしれない)     地獄 人間界の浮かれ気分は「少々金銀に富」んだ者たちの世界だとし、なお多くの者は「諸色高直」ゆえに暮らし        が立ちゆかず、飢渇に苦しんで、生き地獄のような有様だとする。     ところで、この記者は貞重の「教訓三界図絵」を「一勇斎が腹を居へて始て其図を板行せしと同日の論に非ず」とし、     前年天保十四年八月に出された国芳の「源頼光館土蜘作妖怪図」とは同列に論じられないとする。その理由は、貞重     画が「其節の御戴(ママ)許を知りて心を安んじ、かゝる事をなせしものなれば」という。この「其節の御戴(ママ)許(御     裁許の誤記か)」とは、老中水野忠邦や町奉行鳥居耀蔵の罷免を指しているような気もするが、はっきりとは分から     ない。ともあれ、国芳の腹を据えた覚悟の上の出版と、一部に浮かれ気分の漂う中での出版では比較にならないとす     るのである。なお(長方形に「上金」の印)はこの「教訓三界図絵」の板元・上州屋金蔵の印である。2013/11/12追     記〉     以上、弘化元年(天保十五年・1844)の「筆禍」終了(2013/11/24)
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