Top 『浮世絵』(雑誌)大正七年(1918) その他(明治以降の浮世絵記事)
出典:『浮世絵』(酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)六月創刊)(国立国会図書館デジタルコレクション)
◯『浮世絵』第参拾貳(32)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正七年(1918)一月刊)
◇「反古会の摺物」三宅彦次郎(20/26コマ)
(摺物(チラシ)の翻刻)
「明治十八年一月三十日 所ハ呉服丁柳屋ニおきまして 世にめづらしき反古会の◎◎/\ニ評判記・細
見・番附・あふむせき・其外紅ゑ・ほそゑるい 亦ハ赤本・黒表帋・合巻・こんにやく・黄表紙にむか
し咄の桃太郎・さるとかにとのかたきまで うつたかつたのせりものはじめ 其引札に瓦板 拙き反古
と見破り給はず 御不用物ハ 当日ニ御持参あらハ一同の真直の本望 是にしかんや
板元 からく堂 会主 むらかみ」
〈「あふむせき(鸚鵡石)」は役者の台詞集。「こんにやく(本)」は洒落本〉
〝 茲に掲げた瓦版一枚摺のチラシは、本文中にある如く、明治十八年一月の三十日に、日本橋呉服町一
石橋角の柳屋といふ貸席にて開いた古版画持寄りの会の節に配つたものである。
文中にある如く、浅草の鈴木我楽堂、土橋の村上を始め、清水晴風、仮名垣魯文、三久の老人と私、
其外十余名の同好者の申合せで開いたものであつて、各自が持寄つた古版画類を、展観を終はつて後、
其席に於て、入札に附したのである。何にせよ、今から三十余年前のことゝて、古代版画の立派なもの
が数多く見られ、其の価格の如きは、今の人々の考えからは、到底信ぜられない程、安いものであつた。
一例を挙げると、懐月堂派の墨摺絵で、今ならば一枚出ても、好事家が騒ぎするやうな大判のものが十
枚も揃つて出たのである、然かも其の値段はと云へば、一枚僅かに七十五銭と云ふに至つては、何とも
言ひやうのない次第である。
此の外に、菱川派の墨摺絵も、沢山出品され、黄表紙、蒟蒻本の類は、其の数枚挙に遑あらずといふ
有様であつて、縁側などに、山のやうに積んであつた位である、反古会といふ名も其の実を全(まつた)
ふする程、こんな品々が、反古同様といつてもよい位に、沢山持出されたのである、それが今日では一
枚一冊といへども大切に扱はれ、好事家の間に引張り凧となるまでになつたのは、世の変遷のためとは
云へ、それだけ世人の芸術趣味が進んだのであつて、吾々同好の者に取つては、誠に喜ばしい次第であ
る、私も五十二歳になつた今日、当時を追想すると一種の感に打たれる。
此の会は之れを第一回として、其の後種々の階級に亘り、商家の隠居、本屋の拗(すね)者など、暢気
な好事家の集合でなか/\盛んなものであつた。
其の後のことであるが、勝川輝重と落款ある美人画其の他都合八枚の大判細絵の漆絵を、私は一枚二
十五銭の割で買つた、其の頃、浅草の今の花屋敷の裏あたりに、元禄茶屋といふのが設けられた時、好
事家の会があつて、私も此の漆絵を出品したのである、此の会は当時官界に相当に名を知られた町田久
成氏に乞ふて、乾什会といふ名を選んで戴いたことがる、併し此の会はあまり長くは続かなかつたらし
い、因みに、当時、開運橋際のなら屋といふのは、名高い好事家で、立派な古版画が土蔵に充ちて居た
のである。是れは、たしか明治二十年頃の話であるが、酒井好古堂の先代が、京橋区紺屋町に開業して
居つた頃、細絵ばかりを両面に張つて厚さ一寸近くの画帖を七八冊買入れたことがあつた、其の中には、
元文頃の漆絵などが、多く交つてあつて、実じ立派なものであつた、其の中でも、殊によいものを三冊
だけ、土橋の村上が買ひ取つて、其中の一冊を私が叔父に勧めて買はせたことがある、そして其の頃、
価は判然とは記憶せないが、凡そ一冊が拾円位であつたやうに思ふ、尤も此の一冊は、買受けたものゝ、
図様が気に適らないからとて、栄之の六歌仙、和歌三人などゝ取替へて貰つたから、今は唯、記憶を辿
つて話す外はなく、一々の図は覚えて居らない。
反古会の摺物から、話が岐路(わきみち)に外れたが、斯く思ひ続けると、所謂今昔の感に堪えぬ次第
である、尚ほ此の摺物の原物は縦七寸、横九寸五分である〟
◇「錦絵検印考(上)」井上和雄著(21/26コマ)
錦絵検印考(寛政~文化年間)
◯『浮世絵』第参拾弎(33)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正七年(1918)二月刊)
◇「『潮来絶句」の絶板と其の作者」石川巌(15/24コマ)
〝(前略)近頃、儒者藤堂良道【明和七年生、弘化三年没か】の随筆『老婆心話』と題した自筆本十冊許
りある其の中に、「旧作潮来絶句」と題した一章に、明かにその自著なること、その序跋を友人に請ひ、
一時に数百部を売り尽して出版界のレコードを破つたとある。時恰も彩色摺の矢釜しかつた際とて、遂
に絶板を命ぜられ、蔦屋の番頭が呼び出されて本書の作者の誰なるかを詰問せられたが、番頭の才覚で、
著者の名を出さずに済んだのを大に徳とし、夫より断然戯作の筆を絶つたを告白している。今、僕の座
右本には、惜しい哉、前後の序跋や奥付がないので、それを対照することが出来ないのは遺憾である。
又、本書に拠ると、其の後曲亭馬琴が其の後集を撰ぶとあるが、果して世に出てあるか否かは、僕の寡
聞なる曾て聞かないが、その文章だけは、本書の著者が「旧作潮来絶句」の中に録してある。これは江
湖博雅の士に示教を臨む。今左に「老婆心話」中の「旧作潮来絶句」の一章を抄録しやう。
〈『潮来絶句』富士唐麻呂著 画狂人北斎画 耕書堂(蔦屋重三郎)板 享和二年(1802)刊〉
此潮来歌の詩を作りしは 余が至つて若かりし時のことなり。此をもてすれば早廿五六年の昔しなる
べし。或時新吉原仲の町難波屋とかいへる茶屋に於いて、歌妓共多く集め遊べり。其の冠たる妓には
重妓遊妓など頗るみめもよきあり、潮来歌を代る唄ふ。其の時東堤【谷文晁の弟安五郎と云、東江門
人にて書を善くす】席にありて申さく、今歌妓の唄ふ潮来節てふものを、君、詩に作り給へ、やつが
れ筆を執るべし、余も興に入つて作り出だしぬ。はや三十世近く、東堤も六七年前に没しぬるなり。
其の頃、書肆蔦屋重三郞早くも聞きて、北斎といへる画工に美人の姿を其の歌によそへて描せ、其の
新板に売出し、数千(千は百の誤か)部の本を估(う)りひろごりて、利益を多く取りし由、然れども
其の頃は彩色摺、笑ひ絵に似よれるものは禁じられぬる。かく美しき彩色になせる本は如何と御咎め
【蔦屋の番頭忠兵衛】召し出され、誰が此作を成せるとの御答に、私こと作り申候と申上たれば、役
人申さるゝには、その方は本屋の番頭ほどあり、かくまで詩を作りしぞと被申(まをされ)けると也。
余が作と言はぬ故に夫なりにして、忠兵衛手かねにて事済みたれば、余が名包みかくれしなり。夫よ
り断然として戯作を止ぬるなり。
序文【柳川候留守居西原新左衛門撰す 梭江と号す豪放の男なりき】跋は蘭洲【儒者、京伝などの師
と頼みし人なり 長崎侯の文学と云】松亭【鳥海松亭とて医者、酒井侯に仕へ和学をよくすと云】
此書焼失せて稿本絶えたり 竹谷若年時分写し置し本を借り得てとめぬ。【竹谷も盈科とて狩野風の
画なり 後文晁門人となり、名高くなる、碁をよくし、又書をも後にはよくす】文化十三年九月十一
日 夜半灯火に誌す 如蘭亭主人〟
〈『老婆心話』(写本) 〔国書DB〕の書誌は〝梅花のおきな(梅花山人)著 文政十三年(1830)十二月自序〟とある。但
し〔国書DB〕本は「竹清馬越文庫」二冊とあるから三村竹清所蔵本で、石川巌が見た自筆十冊本とは別本である。
参考までに竹清本の『潮来絶句』に関する記事を〔国書DB〕画像から引いておく〉
参考
『老婆心話』(写本) 梅花のおきな(梅花山人)著 文政十三年(1830)十二月自序(国書データベース画像)
「狂詩之話」(96/113コマ)
〝(前略)私 少年の頃 潮来絶句集といへるを戯れに著す 北斎美人を画き 彩色摺物となし 小冊
子となせり 蔦屋重三郎にて印板となし 一春売り出しぬ 序文の梭江【立花侯留守(居)の西原新左
衛門也】書は東堤【文蔵(ママ晁)の弟也】後序を馬琴書けり 蘭洲跋を為す 数百本一時にうれぬ 于
時彩色摺が停止の春なり よつて蔦屋へ御咎めあり絶板す しかし狂詩にはあらず 潮来歌(イタコウタ)
妓がう たふ歌云 うそちやないのに茶にするおまへ ほんにわたしはエヽぢれつたいわいナ 是を
詩に訳て曰(く) 妾が言は是れ真実 歓思是れ薄情と 心中の趣き訴へ難し 鳴(アア)乱絲の縈が如し
(以下『潮来絶句』の歌詞とその絶句へと続くが、省略)〟
〈竹清本には石川巌氏が引用した「旧作潮来絶句」の章は見当たらない〉
◇「香蝶楼の招待状」兼子伴雨(20/26コマ)
〝 天保十五年正月、立川焉馬と伊賀屋の老母が勧めもだし難く、師名を襲ひ、豊国を名乗る十余年間、
古稀の長寿を迎ふべき安政二年乙卯の春に逢着した(以下略)
寿筵 会主 歌川豊国 一世一代
老拙今年七十歳の春を迎候 功恵年来御懇篤を蒙り候 諸君の御愛顧を乞ひ奉り 賀酒さし上度奉存
候へども 草庵は光駕をいるゝに足らず 依之来ル五月十九日 東両国中村屋へ御集会 雨中たりとも
御来駕奉希上候 ◯(ママ)此会一世一代と聞て まだ/\八十も九十も百も祝ひせよ 客は仙人万歳の春
と賀して 五十余年の友京山八十七歳 板下の筆をとりぬ
乙卯五月吉日〟
〈兼子伴雨によれば、国貞が天保十五年(1844)の正月豊国を襲名したのは、立川焉馬(二世)と伊賀屋(板元?)老母の強
い勧めがあってのことらしい。このチラシは、安政二年(1855)五月十九日、両国中村屋において、豊国古稀の祝宴を
催すというもの。この板下は当年八十七歳の山東京山が認めた。国貞が合巻に初めて筆を執ったのは文化五年(1808)
で、この年の京山作二点に作画している、以来両者は多くの作品を世に送り出してきた。「五十余年の友」とあるから
それ以前からの付き合いということになる〉
◯『浮世絵』第参拾五(35)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正七年(1918)四月刊)
◇「絵草紙の包み紙」三宅彦次郎(1/22コマ)
〝(「書物錦絵草紙問屋」鶴屋喜右衛門方の包み紙)客の需めた錦絵を包んで渡した上包み紙である。比
較的値段の高い錦絵を売る際には、クル/\巻いた上を此の上包み紙でくるんで、ユハヒソで軽く結ん
で客に渡すのである。フハヒソといふのは誰も御存知であらうが、錦絵の紙の端を切落した細い紙片で
ある。洋紙風のものとは違い、強い紙質の柾のことゝて、細いながらに巧く結へ得られるのである。
斯んなに大切な衣裳を着けて客の手に渡された品は、其の頃の種類の多い錦絵の中でも、殊に上等品
の部類に属するもので、定めし是等の中には、今では、何千円何百円といふ高い直段を入札会などで附
けられて、人々の度肝を抜いて居るものがあろうと思へば、興味の深いことである〟
◇「錦絵検印考(中)」井上和雄著(18/22コマ)
錦絵検印考(文政~天保~弘化元年)
◯『浮世絵』第参拾七(37)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正七年(1918)六月刊)
◇「錦絵検印考(下)ノ一」井上和雄著(18/22コマ)
錦絵検印考(弘化元年~嘉永六年)