Top 浮世絵文献資料館 その他(明治以降の浮世絵記事)
『浮世絵の諸派』上下(原栄 弘学館書店 大正五年(1916)二月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇菱川派(上21/110コマ)
〝自ら大和絵師と名宣りを挙げて、旗幟堂々安房から江戸に打つて出た菱川師宣こそ、真に浮世絵の開祖
というてよからう。師宣は土佐・狩野・両派の画風を学び、先達又兵衛の手法にも傚つたものと見えて、
山水・花鳥など純狩野派の筆意あるものがある。又人物の面貌形態が素朴で、腮の長い処などは、又兵
衛の趣きがあり、賦色の豊麗な処は、土佐派の彩法と家業の経験とから来たものだらう。師宣の子師房
は世に著はれず、漸く門人古山師重によつて、師宣の画系を継紹して来たのであるが、師重の門人師政
となると、菱川の画風は全くなくなつて、鳥居風となつてしまつた〟
◇菱川派(上51/110コマ)
〝師宣の子に師房・師永・師喜などある中に、師房はよく父の筆意を受けて居るが、運筆繊弱の謗りがあ
る。然し構図彩色の技は優つて、肉筆の遺品は比較的多いのに、絵本の版画は極めて少いのは、利を得
るに敏なる商人等が、師房の画を父師宣の作として出版したから、師房署名のものは少いのであると
『板画考』に見えて居る。それから『師宣画譜』の編者は、師房は始め吉左衛門と称したが、後ち吉兵
衛と改めたから、父師宣の俗称と同じになつて、菱川吉兵衛とのみ署名したものは、父子混同する基と
なつたのであらうといひ、又従来師宣筆といはれて居つた次の版本どもの挿画を師房と断言して居る。
身延鑑 福ざつ書 光広卿道の記 浮世絵尽 絵本大和墨 姿見百人一首
津保のいし文 和国百女
他の二人の師永・師喜は、世に著はれる程の絵師ではなかつたし、子孫には画工がなかつたから、師宣
の画系は門人古山師重・友房などあつて、漸く続いたやうなものであるが、師重の門人師政となると、
当時一新機軸を出して、盛んに世にもてはやされて居た鳥居清信の感化を受けて、菱川風の画風は全く
見ることが出来なくなつてしまつた〟
(菱川派系図省略)
◇英派(上21/110コマ)
〝英一蝶は狩野安信の門人で、後ち一種の写実風狂画派の泰斗として仰がれた人であるが、子孫には余り
聞こえた人はなく、門人佐脇嵩之が少しく著はれたのみである〟
◇英派(上58/110)
〝一蝶の子は二人あつたが、あらはれたものがなく、門人にも一蜂・一蝉などがあつたが、一特色あつて
子孫も今日まで伝はつて居るものは、佐脇嵩之である。嵩之の門から嵩谷が出た。彼の浅草観音堂の頼
政の額は名高いものである。その外は書き立てる程のものがなり〟
(英派系図省略)
◇懐月堂派(上21/110コマ)
〝系伝不明の懐月堂安度といふ画家がある。門人も数名あるが皆同じ様な画風で、紙中一ぱいに肥痩甚だ
しき描線で、美人一人立などをかいてある。飯島虚心氏はこれを額面画法といはれて居る。鳥居清信・
宮川長春・奥村政信等は、皆この懐月堂の感化を受けた人と思はれる〟
◇懐月堂派(上61/110コマ)
〝懐月堂の画法が、美人の立姿を紙中一パイに画いて、上下を明けず、衣紋の描線極めて太いのは、額面
画の画法と思はれる。随て当時販途需要の広大な絵馬類を業として、世々浅草に住し、観音堂や駒形堂
奉納の絵馬を売つた人ではあるまいか、『府内備考』には古くより浅草に絵馬屋があつて、梶原景時の
画いた割板の絵馬画を蔵せる由記してあるが、懐月堂は或はその絵馬屋ではあるないかというて居られ
る〟〈梶原の絵馬画の件は『府内備考』巻16浅草4「並木町」絵馬屋清七の記事。浅草には〉
◇懐月堂派(上62/110コマ)
〝始祖安度から以下、自ら末葉と名のる人々、及び私淑した人々が、多く一人立美人を画いたのであるが、
始祖安度の筆には、『浮世絵派画集』に載つて居る貴人治髪図、男女看書図の如き一人立の美人画でな
いものもあるし、髪髪の生際の線描きになつて居る辺から考へても、師宣よりは少し後れ、一蝶とは同
時代で鳥居清信、西川祐信等より少し先輩であつたと思ふ。彼の鳥居派一派の画法は、この懐月堂に負
ふところ多く、其の他宮川長春、羽川珍重、奥村政信等は皆懐月堂の影響感化を受けたものであらう。
懐月堂一派の人々で懐月堂末葉と落款に記すものは度秀・度繁・度辰・度種及び長陽堂安知である。い
づれも伝統は解らないが画風から推しても、正徳享保頃の人で、多分懐月堂の始祖安度の門人であるだ
らう。この外懐月堂の流を汲んだであらうと思はるゝ人は、空明堂信之、東川堂里風、梅祐軒勝信、梅
翁軒永春、西川照信、松野親信などである〟
〈『浮世絵派画集』とは、明治44年(1911)開催「徳川時代婦人風俗」展の目録〉
(懐月堂-鳥居派系図省略)
◇鳥居派(上21/110コマ)
〝鳥居派の初代清信は、始め懐月堂の手法を模し、後ち鳥居家独得の芝居看板画を描き創めた。それから
清倍・清満を経て、清長となると画風は一変して、春章、湖龍斎を折衷し、それに狩野風を加味したも
のゝ如く、豊麗艶美の中に、優雅高尚の情到あるものとなつた、実に鳥居中興の祖である。そしてこの
清長に私淑した人々は、細田栄之・勝川春潮を始めとして菊川英山・窪田俊満・喜多川歌麿・北尾政演
・初代豊国等である〟
鳥居派(上97/110)
〝従来の伝記書類には二代清信と清倍とは異名同人であると考えたものらしい。けれども『【木版】浮世
絵大家画集』所蔵の寛延四年(花売若衆図に明記せる年号)は清倍の没前十二年で、此頃まで二代清信
が居つたのであるから異名同人とは受けとれない。彼のStrang氏の『Japanese Colour Prints』や『The
Art Institute of Chicago. Catalogue of Loan Exhibition of Japanese Colour Prints〟などでは、
二代清信を清倍の兄と見傚し、兄清信の死後、清信倍が清信の号を襲ふたのであらうと記してあるが、
これは二代清信の作品が稀であるから、同人の兄で早世した人であると断定したものと思ふ〟
◇鳥居清峰(下90/110コマ)
〝文化十二年、師清長の没後は二代清満と改め、青龍軒と号し、版画に筆らず、専ら芝居の看板及び番付
などをかいて居つた。画風は雑司ヶ谷鬼子母神祠の板面着色の大小舞図を見ても解るが、清信清倍の強
い筆意に倣つたもので、この清峰に至つて、鳥居派の画風が復古したというてよからう。この外堀之内
学堂に日蓮上人図、柴又帝釈天祠に助六の図、西新井大師堂に由良之助図、押上春慶寺に同図、深川八
幡社に朝比奈時政図等があるとのことである〟
(懐月堂-鳥居派系図省略)
◇西川派(上81/110コマ)
〝祐信の門人十数名ある中で、男祐尹を始めとして、下河辺拾水・川枝豊信・長谷川光信(「祐信画譜」に
拠る)などの外は、あまり知られて居るものはない〟
(西川-月岡派系図省略)
◇長谷川光信(下37/110コマ)
〝大阪に住し、西川祐信の門人と『祐信画譜』にはある。絵本を多くかいた。(絵本名省略)号は松翠軒、
作画期は前期末から明和 〈前期末とは(享保から寛延)の末をいう〉
◇西村派(上89/110コマ)
〝(『木版浮世絵大家画集』に)重長の作品には木版で模擬した石摺画や支那版画に傚つて墨線を用ひず
に藍線となし、これに色版を以て淡彩を施した水絵と称するものを描いたことを記して居る(中略)
門人に鈴木春信・磯田湖龍斎・石川豊信などが居つて、感化影響を浮世絵各派の後進い及ぼしたことが
多大であるから、以上の画家を一括して西村派と名付(云々)〟
〈『木版浮世絵大家画集』藤懸静也著 浮世絵研究会 大正四年刊〉
(宮川-勝川-西村派系図省略)
◇羽川珍重(上90/110コマ)
〝門人には羽川藤水、羽川元信、羽川和元などがある〟
◇奥村政信(上95/110コマ)
〝政信の後は利信・政房の二人ある位であつた。光月堂・万月堂などいふ画家もあるが、奥村の流を汲ん
だ人々であらう〟
◇近藤清春(上101/110コマ)
〝江戸の人、俗称助五郎。文才ある人で金平本・赤本・吉原細見・芝居狂言本等を自ら作つて自ら画いた
ものがある(自画作の版本名あり 中略)「類考」には清春を鳥居清信の門人としてあるが「増補類考」
では非難して西村重長・奥村政信などゝ同じくこの清春を独立画家というて居る。作画期は正徳享保頃〟
◇宮川派(上22/110コマ)
〝宮川長春は初め土佐派の門に入り、後ち師宣を慕ひ、中頃懐月堂に傚ひ、終に描線雄健容姿高雅な一家
の画風宮川派を形つくつた。長春の門人には春水・長亀・正幸・一笑等があるが、春水からは憚ること
があつて勝宮川と唱へて居つた。この春水の門人春章は役者絵が上手で、且つ嬌態の美人を描くことが
巧みであるから、大の名声を博して、春章以下を特に勝川派といふやうになつた〟
(宮川-勝川-西村派系図省略)
◇勝川派(上22/110コマ)
〝宮川春水の門人春章は役者絵が上手で、且つ嬌態の美人を描くことが巧みであるから、大の名声を博し
て、春章以下を特に勝川派といふやうになつた。春章の門人から春潮・春英・春朗(後に北斎)などが出
で、春英の門人には春亭・春扇等居たけれども、余り世に著はれないで勝川の流は枯れた〟
◇勝川春章(下20/110コマ)
〝門人では春英・春好・春潮・春朗(後に北斎)などいづれも世に著はれて居る〟
〝春英の弟子には春亭・春山・春扇・春常・春鶴・春泉など聞えて居る〟
◇勝川春潮(下75/110コマ)
〝春潮 号は中林舎、東紫園などいふ。作画期は安永・天明・寛政頃。文化頃から尚左堂窪俊満の門人と
なり、吉左堂俊満と改め、浮世絵をやめて、狂歌、狂文などの戯作に転じたやうである〟
(宮川-勝川-西村派系図省略)
◇鈴木春信(下13/110コマ)
〝春信の門人に駒井美信といふが居る、時折その遺品を見ることがあるが、落款がなければ師の春信と区
別が出来ない程よく似てゐる。伝記は一向解らない人である。この外、益信・息延・貫車・藤信・春次
などいふ浮世絵師の作品に接したことがあるが、これらは皆この春信の弟子か、或は流を汲んだ人々で
あらう。彼の同時代の勝川春章でも、鳥居清経でも、北尾重政でも、歌川豊春でも、一筆斎文調でも皆
春信の影響を受けて居る〟
◇北尾派(上22/110コマ)
〝北尾派の祖重政は、各種の絵本によつて独習した人で、画風も色々に変化して居る、即ち鈴木春信や奥
村政信の画風を描き、終には自分より弱輩だけれども、当時流行した歌川や喜多川にかぶれたこともあ
る。この重政には政演・政美・俊満などゝいふ門人がある。政演は即ち小説家京伝のことである。政美
は晩年略画式を創めて世に行はれた。浮世絵師でこの略画式の三幅対は一蝶と政美と北斎とであろう〟
◇北尾重政(下31/110)
〝文化の末頃は、当時の碩儒で書をもよく書いた亀田鵬斎の隣に住んで、根岸石稲荷の幟をかき、鵬斎の
向ふを張つたといふ話もある〟※出典は『古画備考』
〝実子も養子もなかつたから、門人政美の世話で、文政の始めの頃、歌川美丸が二代目北尾重政を名のつ
た。門人としては政演・政美・窪田俊満などが有名である〟
◇北尾政美(下65/110コマ)
〝門人には美丸・美国といふのがあるが、いづれも余り世に知られない〟
◇北尾蕙林(下66/110コマ)
〝(鍬形紹真)子は赤子、紹意と号し、紹意の長子蕙弥は死し、次男金次郎は病身であつたから、蕙林入
つて鍬形氏を継ぎ、津山藩の絵師となつた。この蕙林は松平越中守藩士岡善次郎二男としてあるが、実
は武蔵国榛沢郡永田村農福沢卯八の子で狩野雅信に就いて学んだ人である〟
(歌川-北尾派系図省略)
◇喜多川派(上22/110コマ)
〝喜多川歌麿は鳥居清長の画風を慕ひ、又重政に私淑して、艶美繊麗の美人を描くこと、古今無比である。
門人には藤麿・菊麿・晩器などいふ連中が居て、善く師の画風を継承した〟
◇喜多川歌麿(下53/110コマ)
〝門下には二代歌麿・菊麿・式麿・藤麿・行麿・秀麿・道麿など居るが、中で菊麿・藤麿が上手である〟
(喜多川-菊川派系図省略)
◇細田(鳥文斎)派(下69/110コマ)
〝英深・栄昌・栄水・栄晁・栄月・栄尚・栄里・栄亀・栄文・栄笑・栄波・栄雅・栄京・栄節・栄樹・栄
甫・栄暉・栄綾・栄山・栄島・栄興・遊女篠女の二十二人の名が挙げて居るが、『浮世絵派画集』第五
冊には、この中栄昌・栄水・栄里・栄尚・栄玉・五人の小図を載せ、『浮世絵画集』第一輯には栄深・
栄玉・栄文、『同』第二輯には栄里、『同』三輯には栄里・栄京・栄江・栄尚・栄晁の画を載せてある。
これらの門人は号も皆栄の字を付け、画風も師の栄之風を受けことが著しく解るが、栄昌・栄水・栄尚
・栄文・栄晁の美人などは歌麿風のものがある〟
(葛飾(北斎)-鳥文斎(細田)派系図省略)
◇葛飾派(上22/110コマ)
〝葛飾北斎は歌麿同時の人であるが、初め勝川春章の門に学び、後ち菱川師宣・俵屋宗理・北尾重政・及
び支那の山水画などに則り、西洋画法さへ参酌して、終に一家の画風を開き盛に健筆を揮つた。特に北
斎は浮世絵師中での長寿者で、九十歳の高齢に達し、且つ身体壮健で、終生筆硯に親んで居たから、各
種の作品が今猶存在して、大に珍重されて居る。門人には北渓・北馬・北寿・辰斎・柳川重信などが居
る〟
◇葛飾北斎(下60/110コマ)
〝門人の重なるものは・柳川重信・蹄斎北馬・魚屋北渓・柳々居辰斎・盈斎北岱などで其の外門人五十人
もあるが、北斎の画風を慕ひ歌麿を加味して、菊川派をなしたものは英山で、英山門から出て北斎に傚
つたものは渓斎英泉である〟
(葛飾(北斎)-鳥文斎(細田)派系図省略)
◇歌川派(上23/110コマ)
〝歌川派の先祖豊春は北尾重政と同時代の人である。初め狩野派の鶴沢探鯨に学び、後ち鳥山石燕の門人
となり、又石川豊信・鈴木春信などの画風を慕つて美人画も描いたが、余り上手でなく、寧ろ浮画式を
東錦絵に応用した方が世に行はれた。豊国・豊広はこの人の門人である。そして豊国の門人中最も有名
なのが国貞・国芳で、豊広の門からは彼の風景画で名高い広重が出て居る。豊国は特に役者似顔画に得
意であつたけれども、美人画は豊広に及ばない。然し草双紙の挿画などは大層かいた人である。国貞に
なると美人画でも一種の型にはまり、一風の癖はあるが、田舎源氏の挿画などは有名なものである。広」
重が西洋透視画を応用して風景画をかき始め、浮世絵中新に一異彩を放つてのは、人のよく知つて居る
ところである〟
(歌川-北尾派系図省略)
◇歌川豊春(下24/110コマ)
〝文化二年豊春は押上春慶寺の普賢堂の額を画く、其図は日蓮上人龍の口遭難の所なり〟
(『読売』紙上局外閑人記事)
◇歌川国芳(下103/110コマ)
〝自分より少し後輩の柴田是真の門に入つて仙真と号し、狂歌などに付ての嗜味もあつて、号和風亭国吉
といひ、儒生東條琴台、狂歌師梅の屋鶴寿などとは交情特に深かつた。『狂歌英雄集』に「山姥の木の
葉衣や染めぬらん山又山をめぐる時雨は」「今朝見れば神の御前の榊葉に白紙むすぶ霜の夜神楽」など
いふのが載つて居る(中略)
門人には芳宗・芳幾・芳虎・芳艶などを始め皆芳の字を付けてあるが、六十人ほども居る。又彼の猩々
暁斎や洋画家五姓田芳柳なども門人であつた。殊に門人芳年の如きは、洋画の描法に容斎の画風を交へ
て明治の浮世絵を形造つたのであるから、浮世絵界の一功労者として国芳を挙げねばなるまい〟
◇梅蝶楼国政(下107/110コマ)
〝国貞の門人で、後ち師の長女の婿となり、二世国貞と改め、国貞没後三世豊国(実は四世)と称した。梅
堂・梅蝶楼・一寿斎などの号がある。明治十三年享年五十八で没した。門人に梅堂国政が居る〟
◇歌川貞升(下107/110コマ)
〝国貞の門弟で、大坂船場の素封家である。後ち国升と改め、門人も多く、大坂浮世絵界に重きをなし、
特に役者似顔絵は得意であつたから、後の大坂の似顔絵は皆この貞升の画風に傚つたものである。門人
中聞えたものは貞信・貞芳・貞広・芳信などで、芳信の門から芳国・蘆国などが出た〟
◇月岡派(下4/110コマ)
〝月岡雪鼎は元来狩野永敬の弟子の高田敬甫の門人で、法眼に叙せられた人あるが、後ち画風を変じて、
婉柔妖艶な邦俗の美人をかき、設色緻密に魚類戯画なども巧みであつたから、応挙も一時は彼の構図に
傚つて画いたといふ位である。
門人で風俗画をかいたものは桂宗信、蔀関月などであるが、特に『絵本太閤記』『唐土名所図会』の如
き近世板刻の密画をかいて一家風をなした岡田玉山を出し、又彼の大蘇芳年の如きは、雪鼎の子の雪斎
の養子である〟
(西川-月岡派系図省略)
◇鳥山石燕(下6/110コマ)
〝石燕は殆んど世の知られない程の画家であるけれども、門人から有名な喜多川歌麿と恋川春町・玉川子
興などを出して居る(中略)
肉筆には雑司ヶ谷鬼子母神祠に「大森彦七図」額、小石川氷川神社に「燓噲破門図」額、湯島天神社に
「時致義秀草摺引図」額があるとのことである〟
(喜多川(石燕系)-菊川派系図省略)
◇菊川派(下89/110コマ)
〝英山の門人は英泉・英章・英里・英信・英蝶・英秀・英柳・英賀・英子・英重などあるが、世によく知
られたものは英泉ばかりである〟
◇池田英泉(下94/110コマ)
〝門人には泉晁・泉寿・泉橘・泉隣・泉里など居るけれども、いづれも余り世に知られたものはない〟
(喜多川(石燕系)-菊川派系図省略)
◇小川破笠(上70/110コマ)
〝名は観、号は夢中庵、卯観子などいうた。専門は蒔絵であるけれども、浮世美人画もかいた。江戸の人
で後ち津軽侯へ仕へた人である。『名人忌辰録』には一蝶の門人で一蝉といふたとあるが、『浮世画人
伝』には一蝶、其角、嵐雪などとは親しい友達であるとかいてある。兎に角画風は一蝶と違ふやうだ。
普通伝記書には延享四年六月三日八十七歳で没したことゝなつて居るが、『浮世絵師略伝』には享年八
十四とある〟
◇宮崎友禅(上70/110コマ)
〝京都の人で、衣服に墨絵や彩色絵をかくが、水に浸して洗うても落ちぬから、大に世にもてはやされ、
後にはこれを染出して、友禅染めと名づけたといふことである。(『扶桑画人伝』か『浮世絵編年史』
摘録)又友禅は京都某院の僧で、姓氏不明の人であるが、光琳の画風を学び、設色に妙を得て一格を
出した。彼の友禅染はこの人の工夫したものとか、或は衣服の上絵をかいたとか世にいうて居るけれ
ども、友禅の画が設色美麗で意匠巧妙であるから、それをまねて衣服の上絵にかき、友禅模様と名付
けたのではあるまいか。兎に角一種の画風を案出して浮世絵師伝記中一種の花を添へたものである。
(『浮世画人伝』抄録)
又『此花』第四枝には「友禅ひいながた」の巻末に「夕尽斎日置清親図之」とある日置清親は宮崎友
禅の異名で『都絵馬鑑』所載京都祇園社掛額「村山座狂言図」に「月直清親筆」とあるも同人であら
う。そして友禅は扇工で染工をも兼ねて居たらしいなどゝ論じてある〟
◇石田玉峯(下79/110コマ)
〝初代玉山の男とも高弟ともいふ。大坂の人で蓼華斎と号し、作画期は文化文政頃である〟
◇流派(上23/110コマ)
〝浮世絵の源は菱川に起り、流れて鳥居・宮川の二大流となり、鳥居は西村・奥村の二流に分れ、それよ
り更に石川・鈴木・磯田の小支流と変じ、これらの支流又合して、歌川の一大流派となつたのである。
宮川も亦勝川・葛飾の二流と分れて、浮世絵界に一新流派を形つくつた。この外諸流を合してなつたは
北尾・喜多川・菊川・細田一派と京摂地方に西川・月岡の流の蜿蜒たるものがあるのを見るばかりであ
る〟
◇大津絵(上36/110コマ)
〝(大津絵節歌詞)
外法梯子剃り、雷錨で太鼓を釣上る、お若衆が鷹を据え、ぬり笠お山は藤娘、座頭の褌を犬わん/\吠
へてびつくり仰天し、遽てゝ杖をふり上る、荒気の鬼も発起して鉦撞木、瓢箪鯰をおさへましよ、奴の
槍持、鐘弁慶、矢の根の五郎〟
◇浮絵(上103/110コマ)
〝浮絵は、何時誰が画き初めたかといふに、石野遠江守広道朝臣著の『絵そらごと』に「浮絵といふもの
江戸に見えたるは、享保の末よりのことにて、七十年には足らぬものなり、其頃はこれは浮きはせずし
て、向ふへ見ゆればくぼみ絵といふべしといへる人も侍りき、殊の外に繁昌して、何もかも浮絵かきて
今にあれば云々」とあり、又「新吉原二階座敷土手見通し大浮絵」と題する一枚大版物や堺町の町木戸
から片側には中村座、片側には人形芝居辰松座の櫓を見せ、両側の茶屋、香具店の前には男女の往来せ
るさまを描いたのもあるさうだから、浮世絵師では奥村政信が始めであらう〟
〈国文学研究資料館の〔目録DB〕によると『絵そらごと』は寛政九年(1797)頃成立〉
◇丹絵(上72/110コマ)
〝丹絵とて、墨摺版画の上を丹・緑・青・黄汁などで筆彩したものであるが、中で丹色が最も目立つて見
えるからかく名付けたものである。(中略)享保の始め頃、この丹絵の丹を用ひる代りに、紅で筆彩し
たのを紅絵(臙脂絵とも書いた、後の紅摺絵と混同してはならぬ)というた〟
(画工 鳥居清信・懐月堂度繁・奥村政信・清倍等)
◇漆絵(上72/110コマ)
〝本来は漆を画面に塗つたから、この名称が起つたのであるけれども、後には手数を源じ費用を省くため
に、墨摺版画の上を紅・黄・墨などに膠を混じたもので筆彩を施すに至つたのである。画中で墨が特に
漆の如く光つて目につくからその頃の前句付にも「ひかりかゞやく/\、浮世絵にこの頃着せた黒小袖」
といふのがあるが、漆絵をよんだものである〟
(画工 鳥居清信・懐月堂度繁・奥村政信・清倍等)
◇赤小本(上73/110コマ)
〝一般民衆の玩物で、縦四寸横三寸位の、表紙は丹色で、上に外題紙を貼付け『たゞとる山のほとゝぎす』
とか『兎の手柄』とか書き付け、紙数五枚位で、画は菱川風、上に単純な御伽噺を仮名で書いたもので、
絵が主で文は従である。延宝頃から宝永頃まで行はれて居つたさうだ〟
◇赤本・黒本(上73/110コマ)
〝この二書の内容も体裁も大体赤小本と同じであるが、縦六寸横四寸五分位の大さで、赤本は丹表紙を用
ひ、黒本は黒表紙である。
◇紅摺絵(上105/110コマ)
〝紅摺絵というても紅ばかり用ひたものでなく、藍・黄などもつかつて居る。画工は鳥居派・奥村派を始
め石川豊信・鈴木春信等に至る迄かいた。大判紅絵とて竪一尺三寸横九寸五分程のものもあり、大判長
紅絵とて竪二尺二寸横五寸位のものもある〟
紅摺絵(下39/110コマ)
(「自建武至慶應風俗画及板画」京都博物館 明治39年(1906)刊)
〝寛延三年頃の奥村利信の版物には、紅と代赭とを混用し、宝暦四年頃の鳥居清満の版物には、四色を
巧みに配置し、色に色を重ねて、濃淡の変化を極めたり(中略)同宝暦九年鳥居清満の版物には、従
前の紅緑二板の外に黄色の一板を加へたり。又鳥居清重の版物には、緑色に代ふるに代赭を用ゐたる
ものあり。同十年鳥居清満の版物には、緑色を用ゐず、故意に青色を用ゐ、一層黄色を調和せしめた
り。古代画家、三原色即ち赤・青・黄を巧みに用ゐ、鳥居清里の版には、青色は温雅なる鼠色となり、
黄色は青茶色殆ど褐色に類する程濃k、赤色は稍々紅を減じ、青色の上に摺り合せたる黄色は青茶色
の如く見ゆ。石川豊信版物には、青色を始めて重畳して紫色を出せり。明和元年頃、鳥居清満の版物
には、三原色赤・青・黄の色版を用ゐ、赤青を重版して紫色を出し、青黄の重版より緑色を得たり〟
〈著者・原栄はこの部分は 『国華』に掲載された自建武至慶應風俗画及板画」の「孫引」という〉
◇細絵(上105/110コマ)
〝柱隠(長絵とも)細絵といふものがある。前者は竪二尺三寸横四寸位。後者は竪九寸五分乃至一尺横四
寸五分乃至五寸の紙に摺つた版画をいふ〟
◇草絵(上105/110コマ)
〝これは草、紅の二色摺版画であるけれども、やはり草色が人の目を引くから、この名が出来たらしい。
画工は殆んど鳥居一家に限られて居るあが、偶には奥村派のものもあるとのことである。『此花』誌上
島居二代清倍筆で市村亀蔵が猪早太に扮した図を載せて居る〟
◇雲母絵(キラエ)(上105/110コマ)
〝これは絵の余白に雲母を摺つたもので、銀摺ともいうた。画工には喜多川歌麿・細田栄之・菊川英山・
葛飾北斎なども居るが、特に東洲斎写楽の一種の表情ある役者似顔の雲母絵は西洋人の眼には、非常に
異様に映じたと見えて、大に歓迎されたもので、写楽研究の本も出来て居る〟
藍絵(上105/110コマ)
〝濃淡藍三四遍摺のもの、又は藍摺の遊女絵に帯の織切のところ一小部分だけ赤を用ひたものなどがある。
これは天保十三年徳川幕府が、浮世絵彩色禁止令の結果である。つまり浮世絵が愈華美に流れて、風俗
を害する恐があるからである。画家は葛飾北斎・歌川国貞・同広重・同国芳などである〟