Top       山本笑月著 『明治世相百話』     その他(明治以降の浮世絵記事)          (原本『明治世相百話』山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊)          〔底本 中公文庫『明治世相百話』中央公論社・昭和五十八年(1983)刊〕    ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 川柳俳句双六」p154   〝狂歌、川柳、俳句などを加えた双六も種々あるが、最も古いのは明和二年版の英一蝶の俳句入「梅尽(ウ    メヅクシ)吉例双六」で、文晃一門合作の俳句入り「江の島文庫」なんて上品なものもある。「狂歌江戸    花見双六」「寿出世双六」(狂歌)「孝不孝振分双六」(川柳)「名所遊帰宅双六」(狂歌)去来庵選の俳    句入り「江戸名所巽双六」という北斎の画品の高い挿画の逸品がある〟    ☆ うきよえ 浮世絵    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「明治の錦絵界を展望 不遇に終った名匠小林清親」p250   〝江戸名物の随一、東錦絵は明治となっても相当に出てはいるが、今日の浮世絵界ではまだ時代が近いだ    けに幅が利かぬ。その全盛期は明治十五、六年から三十四、五年頃まで、それ以後は写真や絵葉書に押    されて漸次消滅。    維新前後から明治の初年は芳幾の独り舞台。つづいて第一人者の芳年が出る、似顔専門の国周、風俗画    の月耕、少し後れて芳年一門の年英、年方、別派の永濯、永興、永洗、下っては周延、国政以下輩出し    た。    さらに風景画と諷刺画の大家小林清親がある。事実、清親の作品が明治版画中の特級品として歌麿、広    重の塁を摩するまでに騒がれているのは、写生から来た新昧と、時勢に応じた洋画式描写が、従来の版    画にない特長を示したからである〟       ◇「浮び上った古書相場 だが展覧会は凡書ぞろい」p238   〝古書界で幅を利かすのは美術書類で、『国華』の大揃が千四百円、『東洋美術大観』や『真美大観』が    五百円からハ、九百円、そのほか絵巻の複製品など五十円百円の物はザラにあるが、これらはその質に    おいて価格相当ながらたいていは看板に終るらしい。    師宣や鳥居派初期の古板絵入本など、たまたま出れば一枚看板で大したもの、すべて軟派物は草子類、    洒落本、狂歌書、演劇書類など品払底のためたいていは珍本扱い、ことに歌麿、広重、北斎あたりの彩    色入りは百円二百円と驚かされる〟    ☆ えいこう こばやし 小林 永興    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟    ☆ えいせん とみおか 富岡 永洗    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟    ☆ えすごろく 絵双六    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 双六の起り」p152   〝絵双六の古いものは、シナのある種の絵画に粉本があって、「選仏図」から浄土双六、「陞官図」から    官位双六が出来たものと想像されている。    浄土双六というのは、南閻浮洲(ナンエンブシュウ)が振出しで、悪い日が出ると地獄へ堕ち、良い目が出ると    仏に上るという仕組で、一説には天台の名日双六を絵に直したものともいわれ、後には仏法双六と名を    改めたが、鎌倉時代には、仏法の名目を暗記するの具に使われたものだといわれている。    官位双六は前のよりは後に出来たもので、板行で古いのは享保ごろのを最古とする。布衣から太政大臣    までの役々の人物を二百七図あらわし、黒刷に丹(アカ)・緑・黄の手彩色のものであり、文化ごろには、    この双六の極彩色版の改版で「官位昇進双六」と題されて、役名は幕府のものであり、明治初年には新    政府の「官等双六」が出ている。    なおごく初期の双六の賽(サイ)は、一から六までの数字でなくて、貪・瞋・痴・戒・定・恵の六字のが名    目双六用に、南・無・分・身・諸・仏のが浄上双六用に、祚・品・位・階・等・級のが官位双六用にと、    それぞれ専用の賽が使用されており、寛文・貞享のころまで、この古式の賽が使われていたのである〟     ◇「絵双六の話 珍しい双六」p153   〝文政八年の書き物に、ある人のコレクションに古板双六が二十八種のっていて、そのうちの二つ、鶴屋    版の「甘露壺双六」と、鱗形屋版の「かわるが早いおででこ双六」が私の手もとにある。これは「大阪    くだり手つま人形」と肩書があって、傀儡師の手品の絵が十一あって、上りの図は後に書き替えたもの    である。    その他「松の内のんこれ双六」という流行歌を入れた双六などがある〟     ◇「絵双六の話 役者すごろく」p153   〝役者双六は延宝頃から行われ、珍品は明和・安永から寛政ごろのものに多い。また天明ごろのものに    「顔見世ふり分双六」というのがあって名優十八名を描き、その末に無名の人物があって「やうちん」    と記してあるが、これは永沈(ヨウチン)地獄のことで、ここへ行くと、最後まで動くことが出来ぬ。これは    浄上双六にあるもので、その影響が、この双六にもある訳で、同じころの力士双六にも、「えうちん」    がある。    「役者賑双六」は、前の役者双六と大体同一であるが「やうちん」はすでに描いてない。画は丹絵で勝    川春章の筆である。その後、文化・文政度にも役者双六は全盛をきわめ、明治になってもたくさん出版    された〟     ◇「絵双六の話 道中双六」p154   〝道中双六は貞享ごろに作り出したものだちうと柳亭種彦がいっているが、宝永ごろのものを私は見た覚    えがある。    近藤清春(?)の正徳ごろのがまず古い方で、時代が降って、お馴染の北斎には「新板往来双六」とい    う優れたものがあり、広重には「東海道富士見双六」「諸国名勝双六」「東海道木曽振分道中双六」等    がある。    地方板としては「米沢道中双六」という米沢から江戸までの道中双六で、宝暦前後のものがある。また    名古屋板、仙台板があるそうだ〟     ◇「絵双六の話 川柳俳句双六」p154   〝狂歌、川柳、俳句などを加えた双六も種々あるが、最も古いのは明和二年版の英一蝶の俳句入「梅尽(ウ    メヅクシ)吉例双六」で、文晃一門合作の俳句入り「江の島文庫」なんて上品なものもある。「狂歌江戸    花見双六」「寿出世双六」(狂歌)「孝不孝振分双六」(川柳)「名所遊帰宅双六」(狂歌)去来庵選の俳    句入り「江戸名所巽双六」という北斎の画品の高い挿画の逸品がある〟     ◇「絵双六の話 年玉の広告双六」p155   〝お正月に景品として広告に用いた老舗(シニセ)の双六がまたたくさんある。「売物には仕らず」とか、    「禁売買」とか断ってあって、文化・文政ごろから明治に及んでいる。    神田三河町の小問物屋泉屋の「御化粧双六」、三馬の『江戸の水』の広告「賑式亭繁栄双六」、下谷車    坂の桜香本舗の「宝の山松繁栄双六」、浅草の紅勘の浅草名物を集めた「年玉双六」、赤坂表伝馬町の    陶器商西村の「講国陶器山冬双六」、日本橋伊勢屋(佃煮)の「御年玉細見双六」、日本橋通の羊羹屋船    橋屋織江の「名所羊羹双六」、などがあり、明治になってからの面白いのは、銀座上方屋の「かるた出    世双六」で、当時禁制であった花札を、その筋へ願って売り出すまでの苦心を画にした奇抜なものであ    る〟     ◇「絵双六の話 変わった双六」p155   〝双六の画工はたいてい浮世絵師であるが、四条派の祖といわれる松村呉春筆の「京都名所双六」という    肉筆のものがあって、私はその写真を持っているが、お上品なものである。    また具足のつけ方を五十余図に説明した文化ごろの「具足着用順次双六」なんてものがあり、「鎗銃(ケ    ンツキヅツ)点放(ウチカタ)号令双六」「調練双六」なんて幕末の勇ましい双六もある。    豆双六というのは懐中用で、二、三寸に三、四寸という大きさで、これにもいろいちとある。明治十九    年版の「新双六淑女鑑」というのは、小林清親の筆で、署名はしてないが坪内迫遥博士の案で、私がそ    の出版人である。    弘化二年版の「新製がん双六」というのは、オランダ双六といわれていて、雁を描き、四隅に紅毛の男    女が描いてあるが、海外のものの翻案であろうと思われる。    以上、ごく簡単に双六の概念を話したが、双六は微々たる遊戯の具に過ぎないが、時代を反映して風俗、    流行、文芸、娯楽その他の研究資料となり、浮世絵の傍系として、美術品としての価値を具えており、    双六そのものの実質についても十分検討されていいと思っている〟    ☆ えぞうしや 絵双紙屋    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝惜しいのは絵双紙屋、江戸以来の東みやげ、極彩色の武者画や似顔絵、乃至は双六、千代紙、切組画な    どを店頭に掲げ、草双紙、読本類を並べて、表には地本絵双紙類と書いた行灯型の看板を置き、江戸気    分を漂わした店構えが明治時代には市中到るところに見られたが、絵葉書の流行に追われて、明治の中    頃からポッポツ退転。    両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、もっばら役者絵    に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。一鴬斎国周を    筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流の達筆は新板    ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といった顔触れ。新    年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自慢の一名物。    国周、芳年の没後そろそろ下火、今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて一向さわがれ    ず、僅かに日清戦争の際物で気を吐いたが、その後は月耕、年方等一門が踏み止まって相当多教の作品    をだした。それも上品過ぎて却って一般には向かずじまい。日露戦争時代には俗悪な石版画が幅を利か    せて、錦絵は全く型なし。    これよりさき、明治二十一、二年頃、石版摺の裸体画が一時絵双紙屋の店頭に跋扈し、もちろん非美術    的の代物で後には禁止されたが、この時すでに錦絵ももう末だなと感じた。ことに彫工も摺師も老練の    名工が追い追い減少、そのうえ物価騰貴で三枚続き普通十銭、上物十五、六銭で売ったのが倍以上でも    引き合わず、随って仕事もいい加減になり、絵具も安物、せいぜい子供のおもちや絵程度、その中で夏    向きの組立灯籠画などはしゃれたものの一つ、これなどは今あっても面白かろう〟    ☆ えはがき 絵葉書    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵葉書流行の始め 意匠を凝らし合った年賀状」p37   〝新年絵葉書もまず三十六年以来で、その先駆者はやはり画家の方面、渡辺香涯、鏑木清方、鳥居清忠、    久保田米斎、同金僊、つづいて寺崎広業、山岡米華、中村不折、荒木十畝(ジツポ)、池上秀畝、小室翠    雲、荒井寛方の諸画伯いずれも早い方、以来文士、美術家または俳優そのほか芸界の人々まで、それぞ    れ意匠に特色を現わした賀状の全盛、江戸の刷物から脱化した新趣昧として、我党有難く頂戴したもの    だが、近年は時代の影響で大正以来追い追い下火〟    ☆ かしほんや 貸本屋    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「オツな商売貸本屋 草双紙から活版本の誕生時代」p19   〝双子の着物に盲縞の前かけ、己が背よりも高く細長い風呂敷包みを背負い込んで古風な貸本屋が、我々    の家へも回って来たのは明治十五、六年まで。悠々と茶の間へ坐りこんで面白おかしくお家騒動や仇討    物の荒筋を説明、お約束の封切と称する新刊物を始め、相手のお好みを狙って草双紙や読み本を、二、    三種ずつ置いて行く。これが舟板べいの妾宅や花柳界、大店の奥向など当時の有閑マダムを上得意にし    てちよっとオッな商売。    稗史小説も追い迫い明治物が新刊され、幼稚な石版画のボール表紙も目新しく、安物の兎屋本を始め、    大川屋、辻岡、文永閣、共隆社、鶴声堂あたりの出版元から発兌の新板小説がようやく流行、洋紙本の    荷も重く、同時に草双紙や読み本のお好みも減って、背取りの貸本屋はボッボツ引退、代って居付きの    貸本店が殖え、三十年前後まで市中諸所に貸本の看板、まだ大衆娯楽の少なかった時代、退屈凌ぎはこ    れに限ると一時は貸本大当り。    明治になって合巻風の草双紙を初めて活版本にしたのは高畠藍泉の『巷説児手柏』、十二年に京橋弥左    衛門町の文永閣から出版、以来統々活版本の新刊、貸本屋向きは通俗の講談速記や探偵実話などで、五    寸釘寅吉やピストル強盗の類に人気集中、薄汚れた厚紙の上表紙をつけたこれらの貸本は引つ張りだこ    で借りて行く〟    ☆ きょうさい かわなべ 河鍋 暁斎    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「動物画の名人列伝 烏の糞と同居した暁斎」p276   〝猩々暁斎の烏の画は、特に傑作が多いと思っていたら、故条野採菊翁の談に「白分が一時住んだ根岸の    家の二階の壁や床の問にまで白い汚ない斑点があったので家主に聞くと、この家は暁斎先生のいた家で、    二階には烏を放し飼いにして写生していたそうですからその糞の痕ですよ、といわれ、なるほど先生の    しそうなことだと思った」と、名作のある所以(ユエン)〟    〈条野採菊は戯作者名・山々亭有人。「東京日日新聞」「やまと新聞」を創刊。鏑木清方の実父。明治三十五年(1902)     没、七十一歳〉    ☆ きよかた かぶらぎ 鏑木 清方    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵葉書流行の始め 意匠を凝らし合った年賀状」p37   〝新年絵葉書もまず三十六年以来で、その先駆者はやはり画家の方面、渡辺香涯、鏑木清方、鳥居清忠、    久保田米斎、同金僊、つづいて寺崎広業、山岡米華、中村不折、荒木十畝(ジツポ)、池上秀畝、小室翠    雲、荒井寛方の諸画伯いずれも早い方、以来文士、美術家または俳優そのほか芸界の人々まで、それぞ    れ意匠に特色を現わした賀状の全盛、江戸の刷物から脱化した新趣昧として、我党有難く頂戴したもの    だが、近年は時代の影響で大正以来追い追い下火〟    ☆ きよただ とりい 鳥居 清忠    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵葉書流行の始め 意匠を凝らし合った年賀状」p37   〝新年絵葉書もまず三十六年以来で、その先駆者はやはり画家の方面、渡辺香涯、鏑木清方、鳥居清忠、    久保田米斎、同金僊、つづいて寺崎広業、山岡米華、中村不折、荒木十畝(ジツポ)、池上秀畝、小室翠    雲、荒井寛方の諸画伯いずれも早い方、以来文士、美術家または俳優そのほか芸界の人々まで、それぞ    れ意匠に特色を現わした賀状の全盛、江戸の刷物から脱化した新趣昧として、我党有難く頂戴したもの    だが、近年は時代の影響で大正以来追い追い下火〟    ☆ きよちか こばやし 小林 清親    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈浮世絵は〉国周、芳年の没後そろそろ下火、今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて    一向さわがれず、僅かに日清戦争の際物で気を吐いたが、その後は月耕、年方等一門が踏み止まって相    当多教の作品をだした。それも上品過ぎて却って一般には向かずじまい。日露戦争時代には俗悪な石版    画が幅を利かせて、錦絵は全く型なし〟     ◇「絵双六の話 変わった双六」p155   〝豆双六というのは懐中用で、二、三寸に三、四寸という大きさで、これにもいろいちとある。明治十九    年版の「新双六淑女鑑」というのは、小林清親の筆で、署名はしてないが坪内迫遥博士の案で、私〈山    本笑月〉がその出版人である〟        ◇「明治の錦絵界を展望 不遇に終った名匠小林清親」p250   〝江戸名物の随一、東錦絵は明治となっても相当に出てはいるが、今日の浮世絵界ではまだ時代が近いだ    けに幅が利かぬ。その全盛期は明治十五、六年から三十四、五年頃まで、それ以後は写真や絵葉書に押    されて漸次消滅。    維新前後から明治の初年は芳幾の独り舞台。つづいて第一人者の芳年が出る、似顔専門の国周、風俗画    の月耕、少し後れて芳年一門の年英、年方、別派の永濯、永興、永洗、下っては周延、国政以下輩出し    た。    さらに風景画と諷刺画の大家小林清親がある。事実、清親の作品が明治版画中の特級品として歌麿、広    重の塁を摩するまでに騒がれているのは、写生から来た新昧と、時勢に応じた洋画式描写が、従来の版    画にない特長を示したからである。    然るにこの大家が晩年の不遇は実に気の毒であった。向島に住んで、僅かに新聞社の注文で時事漫画を    描くくらいのこと、それでも写生は熱心で、吾妻橋へ往復の一銭蒸気の中から大川の流れを写した水の    写生帳が二冊あって、実に奇抜な波紋ないろいろ描いてあった。    そのほか当時のさびしい生活を紛らすためか、源氏五十四帖の図を一々紙本双幅としてすでに大半描き    あげていたのを見ると、以派な土佐風の着色画であったので、翁が最初土佐を学んだことをその時初め    て知ったのである。    翁没後、大正七、八年の好況時代にその作品がますます歓迎されて、向島堤上雪景大判二枚続きが二千    円、猫が提灯の中の鼠をねらっている横一枚画が今日八百円と聞いては、翁生前の不偶がいよいよもっ    て涙である〟     ◇「明治の錦絵界を展望 不遇に終った名匠小林清親」p250   〝江戸名物の随一、東錦絵は明治となっても相当に出てはいるが、今日の浮世絵界ではまた時代が近いだ    けに幅が利かぬ。その全盛期は明治十五、六年から三十四、五年頃まで、それ以後は写真や絵葉書に押    されて漸次消滅。    維新前後から明治の初年は芳幾の独り舞台、つづいて第一人者の芳年が出る、似顔専門の国周、風俗画    の月耕、少し後れて芳年一門の年英、年方、別派の永濯、永興、永洗、下っては周延、国政以下輩出し    た。    さらに風景画と諷刺画の大家小林清親がある。事実、清親の作品が明治版画中の特級品として歌麿、広    重の塁を摩するまでに騒がれているのは、写生から来た新昧と、時勢に応じた洋画式描写が、従来の版    画にない特長を示したからである。    然るにこの大家が晩年の不遇は実に気の毒であった。向島に住んで、僅かに新聞社の注文で時事漫画を    描くくらいのこと、それでも写生は熱心で、吾妻橋へ往復の一銭蒸気の中から大川の流れを写した水の    写生帳が二冊あって、実に奇抜な波紋ないろいろ描いてあった。    そのほか当時のさびしい生活を紛らすためか、源氏五十四帖の図を一々紙本双幅としてすでに大半描き    あげていたのを見ると、立派な土佐風の着色画であったので、翁が最初土佐を学んだことをその時初め    て知ったのである。    翁没後、大正七、八年の好況時代にその作品がますます歓迎されて、向島堤上雪景大判二枚続きが二千    円、猫が提灯の中の鼠をねらっている横一枚画が今日八百円と聞いては、翁生前の不遇がいよいよもっ    て涙である〟       ◇「小赤壁の風致没落 清親画伯のお茶の水夜話」p195   〝画伯小林清親に聞いたお茶の水夜話、「全くさびしい所でね、僕の青年時代、御一新少し前の話だが、    夜は辻斬りが出るという噂、そのころ僕は下町に用があって遅くなり、夜に入つて帰宅の途中がお茶の    水、宵ながら人足絶えて真の闇、びくびくものでようやく中ほどを過ぎた元町辺、ふと見ると向うに人    影、闇に透かすと屈強の侍姿に、ハッと思ったのは例の噂、血気の僕もいささかぞっとする。しかしこ    っちも武士の卵、小(チイ)さ刀に手なかけてこわごわながら近づくと、先も刀を押えて用心腰、いよいよ    双方すれ違う途端、急に恐ろしくなって僕はパッと逃げ出す。同時に相手も一目散、これで物別れは飛    んだ辻斬りさ」と、話は少々漫画式だが、明治になっても久しい間、この辺一帯、闇の夜道は無気昧で    あった〟    ☆ きよはる こんどう 近藤 清春    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 道中双六」p154   〝道中双六は貞享ごろに作り出したものだちうと柳亭種彦がいっているが、宝永ごろのものを私は見た覚    えがある。    近藤清春(?)の正徳ごろのがまず古い方で、時代が降って、お馴染の北斎には「新板往来双六」とい    う優れたものがあり、広重には「東海道富士見双六」「諸国名勝双六」「東海道木曽振分道中双六」等    がある。    地方板としては「米沢道中双六」という米沢から江戸までの道中双六で、宝暦前後のものがある。また    名古屋板、仙台板があるそうだ〟    ☆ くにしげ うたがわ 歌川 国重 三代    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟    ☆ くにちか とよはら 豊原 国周    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟    ☆ げっこう おがた 尾形 月耕    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「魯文時代の引札類 新世相を語る風俗資料」p44   〝〈明治初期の引札〉添画の方は、芳幾、輝松、玄魚、月耕など初期に属する〟      ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟   ◇「風雅界の新年摺物 宗匠や画伯が得意の試筆」p157   〝〈新年の摺物〉画家方面では柴田是真の一門や浮世絵派の人々が、こうした趣昧に富んで佳作が多い。    中にも尾形月耕翁は干支と勅題とを描いた短冊二枚、あるいは色紙形の一枚摺など念入りの木版極彩色、    さすが版画家としての特色を示して面白い。その後、絵葉書の流行に伴って、大小の画家たいていは木    版石版いろいろ自画の年賀状に凝ったものだ。それさえ近年はずっと減じて普通の恭賀新年になってし    まった〟    〈勅題(天皇の歌御会始の題)は明治二年(1869)から行われている〉       ◇「日本画壇の斎藤別当 尾形月耕翁白髪染めの証人」p277   〝風俗画で一流を成した尾形月耕画伯、諸事恬淡の江戸ツ子気性ながら、その作品に対しては老いてます    ます熟を加えた。日英博覧会へ出品のため、深川の三十三間堂を描いてみたいと、江戸名所図会や浮世    絵などを参照したのでは満足せず、誰か実在当時を知っている人はないかとの相談。    深川数矢町で明治五年に取り払われた三十三間堂を、実地に見ている人はすでに少なかった。私はよう    やく深川の不動の境内、大師堂堂守の老人が知っていると聞ぎ込んで画伯に伝えた。さっそく出かけて    逢ってみたが、これも記憶不十分で失望。今度は慶応の弓術師範が当時通し矢を射たとの話に、またま    たその先生を再三訪問。辛うじて大体の建築もわかり、前後半年がかりで構図に取りかかり、見事に描    きあげた横物の大幅、日英博へ出品して名誉の褒状を得たが、風俗画もこうなると足が半分。    まだ五十四、五歳の頃たいぶ白髪親爺になった。あるとぎ所用の途中、茅場町の鳥屋で昼食、ふと向う    を見るとこれもひとりで食事中の老人、おやおや白分もああなってはと他人の老人振りに悲観、ところ    がよく見ると仕切の衝立(ツイタテ)が姿見になっていて、右の老人と見たのは、ほかならぬ画伯自身偶然の    対面、これはこれはといよいよ悲観、そこで帰途わざわざ拙宅に立ち寄り、一つこの白髪を染めて若返    り、ますます画道に尽したいが、ほかの意昧で染めたと思われては困るから保証人になってくれとの話、    大笑いで即決、当時画壇の斎藤別当と唄われた。    芸事はなんでも好き、「踊百番」なども描いたくらい、能画も暁斎以来この人の得意の題目、門下から    坂巻耕漁の如き能画専門の人も出たが、大正のはじめ、月耕翁ひさしぶりに能楽十二、三番を桐板の額    面へ極彩色に描き、湯島の天神へ奉納、さすがに見事の出来栄え、幸いに震災を免れて今なお同社に保    存のはず〟    ☆ げんぎょ ばいそてい 梅素亭 玄魚    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「魯文時代の引札類 新世相を語る風俗資料」p44   〝〈明治初期の引札〉添画の方は、芳幾、輝松、玄魚、月耕など初期に属する〟    ☆ こままわし 独楽廻し      ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「曲独楽の竹沢藤治 芝居がかりで得意の早業」p167   〝曲独楽で鳴らした竹沢藤治、芝居がかりの大仕掛けで大した人気。初代は両国の定小屋で錦絵にまで出    た大当り、その親譲りの二代目藤治が明治初年に浅草奥山を始め、猿若町の芝居小屋などで華々しく興    行、本芸の独楽のはか、早変り、宙乗り、水芸等のケレソで大受け、十五、六年頃を全盛に満都の絶讃。    当時は四十五、六の男盛り、若太夫の頃から美少年で知られた男前、太い髷に結ってきりっとした顔立    ち、華やかな裃(カミシモ)姿で押出しの立派さ、ちよっと先代片岡我童の面影。舞台はすべて芝居がかりで    粗末ながら大道具は金襖や夜桜などの書割、幕が明くと口上につれて太夫お目通り、お定まりの衣紋流    し、扇子止め、羽子板の曲、大小の独楽の扱いは多年の手練、一尺八寸の大独楽を手先で回し、中から    十数個の独楽を取り出し、舞台に置くとそのまま回る手先の早業、これらは前芸。    一尺の提灯独楽、心棒を引き上げると二尺余りの長提灯になったり、正面に四方開きの花万灯、独楽が    欄干づたいにその中へことりと消える。万灯はパッと開いて真白な鶏に変ったり、まずこの種の華やか    な芸当、その問にちょいちょい得意の早変り、水芸には女の弟子が二人左右に並んで、独楽を使いなが    ら扇子の先や独楽の心棒から盛んに噴水、私は見ないが水中飛込みの早変りも藤治の十八番。    大切りには宙乗り所作事、奴凧や雷公が呼び物、もちろん本衣裳で振りも確か、奴凧の狂いなどはらは    らさせた。それが花道上から舞台上の幕霞へ消えたと思うとたちまち変る裃姿、大独楽を手にして舞台    に立つその速さ、さすがに早変りの名人といわれただけに超高速度、当時の見物は全く堪能した〟    ☆ しゃらく 写楽    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「五厘から一万円に 写楽の役者絵暴騰順序」p243   〝東洲斎写楽の役者絵は、今日こそ芸術的に取り扱われ、かつ品少なのために大した価格に上つているが、    元来特殊の画風で豊国や国貞と異なり、役者にも世間にもこびぬところは変っているが、それだけに不    人気で、浮世絵沈滞時代には誰も手な出さなかった。    古書通の幸堂得知翁の談に、明治の初年出入りの書籍屋が持って来た錦絵の中に写楽が十枚ばかりあっ    た。一枚ただの一銭だったが、私は写楽は嫌いだから五厘ならついでに買っておこうといって、とうと    う五厘で置いて行きましたと、全くうそのような話。    このことを後年内田魯庵氏に話すと、私も先年(二十五年頃)写楽を一枚一円ずつで五、六枚買いまし    たが、友人が売ってくれというので二円ずつで譲ってしまったら、間もなくだんだん高くなったので惜    しいことをしたと思います、との述懐。それでも五厘から思えぱだいぶ出世した。    以上二つの話をさらに、芝の村幸で通った古書店の主人村田幸吉老に語ると、私も写楽では失敗した。    三十五、六年頃のことですが、一外人が来て五十円ずつに買うという、こんなうまい話はないとすぐに    売りましたが、今では一枚三百円以上ですから結局大損をしたわけですと、これは明治四十年頃の話。    その後は鰻上りに上る一方、それがまた大正七、八年の成金相場で一躍数千円乃至一万円という騒ぎ、    昭和の今日では少し下火になったが、ともかくも五厘からここまで漕ぎつけた写楽先生一代の出世物語〟    ☆ しゅんしょう かつかわ 勝川 春章    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 役者すごろく」p153   〝役者双六は延宝頃から行われ、珍品は明和・安永から寛政ごろのものに多い。また天明ごろのものに    「顔見世ふり分双六」というのがあって名優十八名を描き、その末に無名の人物があって「やうちん」    と記してあるが、これは永沈(ヨウチン)地獄のことで、ここへ行くと、最後まで動くことが出来ぬ。これは    浄上双六にあるもので、その影響が、この双六にもある訳で、同じころの力士双六にも、「えうちん」    がある。    「役者賑双六」は、前の役者双六と大体同一であるが「やうちん」はすでに描いてない。画は丹絵で勝    川春章の筆である。その後、文化・文政度にも役者双六は全盛をきわめ、明治になってもたくさん出版    された〟    ☆ しょうえん いけだ 池田 蕉園    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「男優りの女流画家 晴湖女史から蕉園女史まで」p279   〝年方画伯門下の花形榊原蕉園、同門の秀才池田輝方と恋のローマンス、輝方は木挽町の建具屋棟梁の息    子さん、一方は堂々たる元日鉄の重役、話がもつれて師門を飛ぴだした輝方、地方を回って放浪の旅、    師を始め同門諸子も心配して大骨折の結果、ようやく納まって放浪の旅、師を始め同門諸子も心配して    大骨折の結果、ようやく納まって池田夫人となった蕉園女史、恋は遂げたが不幸にも数年ならずして大    正六年歿、明治最後の花は散った〟    ☆ すりもの 摺物    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「風雅界の新年摺物 宗匠や画伯が得意の試筆」p157   〝新年の摺物、例えば俳詣師の三節、謡曲家の勅題小話、画家の試筆、和歌狂歌の祝詠摺物など、近年は    ほとんど葉書の賀状に奪われたが、明治時代はもっばら特別の摺物として知己へ配ったものだ。木版奉    書摺の雅なもので新年気分を漂わせ、後には貼交ぜの材料にも使われて風流趣味の名残りをとどめる。    明治の中頃まで、俳句の宗匠では向島の老鼠堂永機を始め、深川の不白軒梅年、春秋庵幹雄、湯島天神    下の夜雪庵金羅、下谷の稲の舎悟友、根岸の雪中庵雀志など一流の連中、随ってその門下の人々など、    年々自筆の三節摺物を配った。和歌では高崎正風、佐佐木弘綱、今の信綱大人など色紙風の摺物を見受    けた。謡曲界では観世宝生を始め、それぞれめでたい文句の小謡を新作して節付けしたのを門中へ頒(ワ    カ)つ。    画家方面では柴田是真の一門や浮世絵派の人々が、こうした趣昧に富んで佳作が多い。中にも尾形月耕    翁は干支と勅題とを描いた短冊二枚、あるいは色紙形の一枚摺など念入りの木版極彩色、さすが版画家    としての特色を示して面白い。その後、絵葉書の流行に伴って、大小の画家たいていは木版石版いろい    ろ自画の年賀状に凝ったものだ。それさえ近年はずっと減じて普通の恭賀新年になってしまった。    摺物以外だが、これも新年の配り物、陶器の巨匠先代宮川香山翁は年々の干支の盃を作って十二カ年押    通し、この一揃いは今では珍品、猪口(チヨコ)とはいえ翁独得の妙味を示した作品だけに芸術昧の高いも    の。    彫刻の元老高村光雲翁も、同じく十二支の浮彫丸額を年々製作、これを石膏に移して知人へ頒ったが、    複製ながら老巧の技を窺うに足る立派な作品。ともかくも毎年よく続けたもので、名人肌の道楽気がな    くては出来ぬ芸だ〟    ☆ せきへき 赤壁(お茶の水)     ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「小赤壁の風致没落 清親画伯のお茶の水夜話」p195   〝根岸の里に鴬の初音、向島の田圃に初蛙の俳昧、そんな風流がいまどき通用せぬこと申すまでもないが、    明治の中期以後、これらの風致区がどしどし滅却、文化の余勢とはいえいささか惜しい。    なかんずく市内屈指の勝景といわれたお茶の水、これはほとんど最後であったが甲武鉄道が飯田町へ乗    り込んで間もなく、破壊の手がお茶の水へ延びたのは二十八、九年頃。両岸の絶壁は鬱蒼たる老樹の緑、    神田川の間を貫いて、市中とは思われぬ幽邃(ユウスイ)気分、詩人はこぞって「小赤壁」と呼んだくらい。    春は若葉、夏は緑蔭、月にも雪にも申し分なき絶好の眺め、水流も今よりはずっと清く、ゴミ船などは    通らなかったので、折々文人らしい舟遊びの客もあつた。    そのうち工事が始まって惜し気もなく樹木の伐採、絶壁の切崩し、ああ時世なるかなと思ったが、一、    二年後にはお茶の水駅を終点に汽車の開通、小赤壁もこれで形なし。    ついでに画伯小林清親に聞いたお茶の水夜話、「全くさびしい所でね、僕の青年時代、御一新少し前の    話だが、夜は辻斬りが出るという噂、そのころ僕は下町に用があって遅くなり、夜に入つて帰宅の途中    がお茶の水、宵ながら人足絶えて真の闇、びくびくものでようやく中ほどを過ぎた元町辺、ふと見ると    向うに人影、闇に透かすと屈強の侍姿に、ハッと思ったのは例の噂、血気の僕もいささかぞっとする。    しかしこっちも武士の卵、小(チイ)さ刀に手なかけてこわごわながら近づくと、先も刀を押えて用心腰、    いよいよ双方すれ違う途端、急に恐ろしくなって僕はパッと逃げ出す。同時に相手も一目散、これで物    別れは飛んだ辻斬りさ」と、話は少々漫画式だが、明治になっても久しい間、この辺一帯、闇の夜道は    無気昧であった〟    〈幕末から明治初年にかけての物騒な時代、夜更けの疑心暗鬼、頻りに出没する辻斬りかと思って、双方、出遭うや否     や一目散に逃げ出す話である。これと似た話は福沢諭吉にもあるから、福沢のいう「臆病者」の出会いが随分あちこ     ちで起こっていたものとみえる。因みに清親のお茶の水に対して、福沢は新橋。『福翁自伝』「暗殺の心配」〉    ☆ ぜしん しばた 柴田 是真    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「風雅界の新年摺物 宗匠や画伯が得意の試筆」p157   〝〈新年の摺物〉画家方面では柴田是真の一門や浮世絵派の人々が、こうした趣昧に富んで佳作が多い。    中にも尾形月耕翁は干支と勅題とを描いた短冊二枚、あるいは色紙形の一枚摺など念入りの木版極彩色、    さすが版画家としての特色を示して面白い。その後、絵葉書の流行に伴って、大小の画家たいていは木    版石版いろいろ自画の年賀状に凝ったものだ。それさえ近年はずっと減じて普通の恭賀新年になってし    まった〟    ☆ たけざわ とうじ 竹沢 藤治 二代    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「曲独楽の竹沢藤治 芝居がかりで得意の早業」p167   〝曲独楽で鳴らした竹沢藤治、芝居がかりの大仕掛けで大した人気。初代は両国の定小屋で錦絵にまで出    た大当り、その親譲りの二代目藤治が明治初年に浅草奥山を始め、猿若町の芝居小屋などで華々しく興    行、本芸の独楽のはか、早変り、宙乗り、水芸等のケレソで大受け、十五、六年頃を全盛に満都の絶讃。    当時は四十五、六の男盛り、若太夫の頃から美少年で知られた男前、太い髷に結ってきりっとした顔立    ち、華やかな裃(カミシモ)姿で押出しの立派さ、ちよっと先代片岡我童の面影。舞台はすべて芝居がかりで    粗末ながら大道具は金襖や夜桜などの書割、幕が明くと口上につれて太夫お目通り、お定まりの衣紋流    し、扇子止め、羽子板の曲、大小の独楽の扱いは多年の手練、一尺八寸の大独楽を手先で回し、中から    十数個の独楽を取り出し、舞台に置くとそのまま回る手先の早業、これらは前芸。    一尺の提灯独楽、心棒を引き上げると二尺余りの長提灯になったり、正面に四方開きの花万灯、独楽が    欄干づたいにその中へことりと消える。万灯はパッと開いて真白な鶏に変ったり、まずこの種の華やか    な芸当、その問にちょいちょい得意の早変り、水芸には女の弟子が二人左右に並んで、独楽を使いなが    ら扇子の先や独楽の心棒から盛んに噴水、私は見ないが水中飛込みの早変りも藤治の十八番。    大切りには宙乗り所作事、奴凧や雷公が呼び物、もちろん本衣裳で振りも確か、奴凧の狂いなどはらは    らさせた。それが花道上から舞台上の幕霞へ消えたと思うとたちまち変る裃姿、大独楽を手にして舞台    に立つその速さ、さすがに早変りの名人といわれただけに超高速度、当時の見物は全く堪能した〟    ☆ ちかのぶ はしもと 橋本 周延    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟    ☆ ちゃりねさーかす チャリネサーカス     ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「チャリネ曲馬の渡来 菊五郎が当込みの珍浄瑠璃」p172   〝外人サーカスでまず眼を驚かしたのが、伊太利(イタリー)チャリネの曲馬団。明治十九年の夏、神田秋葉の    原で最初の興行。一行は、英、米、仏、伊各国の芸人五十余名、象、虎、獅子、大蛇を始め十余頭の馬    匹、猿犬の類ひととおり揃った動物園そっくり、自己所有の汽船へ飛び込んで世界中おし回るという大    がかり。    数千人を容るる大テントの中央、円形の演芸場、それを取り巻いて雛段(ヒナダン)の観客席、夜は石油の    大カンテラを無数に点じて昼を欺く。黒ん坊の楽師十余名の奏楽で実演。フロック姿のチャリネ氏は体    格偉大の男、堂々たる挨拶振り、演芸は少年二名の目まぐるしい器械体操式軽業(カルワザ)に始まり、妙    齢美人馬上の妙技、小形の馬車へ犬を乗せて大猿の馭者、一本足の大男が美人の肩に乗って危ない逆立    ちなど大愛矯。    呼び物は象の曲芸、ビヤ樽に乗って音楽に合せ前脚の鈴を鳴らし、ぐるぐる回って後脚でチンチンなど    ひやひやさせる。つづいて虎三頭の火焔抜け、毛並の揃った馬四頭がチャリネの揮(フル)う鞭によって緩    急の足取り、左右交互に入り乱れての駆足、最後に後足を揃えて立ち上り、全く調教の妙を示した。そ    のほか人気者の道化師ゴットフリーが滑稽の間に、種々独得の妙技はなかなかの腕前、見物腹を抱えな    がら真に感服。    つぎに築地の海軍原で興行、このとき暴風雨のためテント大破で大痛手、最後は浅草公園六区でこれも    大入り、満都の評判につれ、錦絵や曲馬双六など数種売り出す。そのほか例の際物好きの五代目菊五郎、    さっそく十一月の千歳座で大切りの浄瑠璃に仕込み、みずからチャリネ、一本足、象使い、虎使いの四    役に扮して珍妙な所作事、いかに名人でもいささか恐れをなしたが、この時の名題がいっそう珍妙、曰    く「鳴響茶利音曲馬」〟    ☆ てるかた いけだ 池田 輝方    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「男優りの女流画家 晴湖女史から蕉園女史まで」p279   〝年方画伯門下の花形榊原蕉園、同門の秀才池田輝方と恋のローマンス、輝方は木挽町の建具屋棟梁の息    子さん、一方は堂々たる元日鉄の重役、話がもつれて師門を飛ぴだした輝方、地方を回って放浪の旅、    師を始め同門諸子も心配して大骨折の結果、ようやく納まって放浪の旅、師を始め同門諸子も心配して    大骨折の結果、ようやく納まって池田夫人となった蕉園女史、恋は遂げたが不幸にも数年ならずして大    正六年歿、明治最後の花は散った〟    ☆ てるまつ 輝松    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「魯文時代の引札類 新世相を語る風俗資料」p44   〝〈明治初期の引札〉添画の方は、芳幾、輝松、玄魚、月耕など初期に属する〟    ☆ としかた 水野 年方    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟    ☆ としつね いなの 稲野 年恒    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟    ☆ としひで みぎた 右田 年英    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟     ◇「水浴させた文晃の画 絵具の使い方を知らぬ画」p238   〝絵具も今と昔とは原料や製法の異なるものが多く、従って古製の絵具は貴まれた。故右田年英画伯の厳    父は狩野の塾頭であった人で、古い絵具を大切に保存していた。年英氏が少し分けて下さいというと    「これはお前たちの使う絵具じゃないよ」とはねつける。当時、すでに著名の年英画伯にさえ容易に使    わせぬくらいであった〟    ☆ ひきふだ 引札    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「魯文時代の引札類 新世相を語る風俗資料」p44   〝滑稽酒脱の引札は平賀源内に始まり、京伝三馬に至ってますますメイ文を振った。その遺風で、明治時    代も名家の執筆を乞うた引札が、割烹店や諸商店の手拭に添えて配られた。いずれも木版彩色いりの凝    ったもので、宣伝効果もあったが、今見ても相当趣昧のあるのが沢山、活版刷にしてもその印刷の稚拙    で原始的な味わいが捨て難い。    本文の執筆は仮名垣魯文が第一、ついで山々亭有人の条野さん、三世種彦の高畠藍泉、河竹其水の黙阿    弥など、就中魯文の引札は数知れず、野崎左文翁の蒐集だけでも千枚以上、恐らく五、六千枚は書いた    らしい、が達筆任せで随分の書きなぐり、京伝三馬の妙文とは大分違う。其水のは少しく入念、番付の    カタリ風だが独得の味がある。有人、種彦はまずサラサラと嫌昧がない。三遊亭円朝の自作自筆も数種    あるが、高座でなれた口上そのまま。    伊東橋塘、河竹新七、幸堂得知の諸老も相当書いているが平々凡々。添画の方は、芳幾、輝松、玄魚、    月耕など初期に属する。中期に及んで永井素岳が独り天下、引札以外新曲の摺物まで自作自画の達者振    り、鴬亭金升君も若手の花形で例の自筆を揮った。福地桜痴翁の晩年は種々の引札に名筆を見せていた    が、文章は案外真面目でユーモアに乏しい。に名一名筆を見せていたが、文章は案外真貢面目でユーモ    ワに乏しい。それでもさすがに立派な刷り物が多く、大家だけに堂々と別格の位があった〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 道中双六」p154   〝道中双六は貞享ごろに作り出したものだちうと柳亭種彦がいっているが、宝永ごろのものを私は見た覚    えがある。    近藤清春(?)の正徳ごろのがまず古い方で、時代が降って、お馴染の北斎には「新板往来双六」とい    う優れたものがあり、広重には「東海道富士見双六」「諸国名勝双六」「東海道木曽振分道中双六」等    がある〟    ☆ ひろしげ うたがわ 歌川 広重 三代     ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「仮名垣門下の人々 変った風格の人物揃い」p267   〝三世広重が歌垣和文、狂言作者の竹柴飄蔵が柴垣其文、又の名四方梅彦(中略)狸汁の画工松本芳延も    何垣とか名乗った一人〟    ☆ ぶんちょう たに 谷 文晁    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 川柳俳句双六」p154   〝狂歌、川柳、俳句などを加えた双六も種々あるが、最も古いのは明和二年版の英一蝶の俳句入「梅尽(ウ    メヅクシ)吉例双六」で、文晃一門合作の俳句入り「江の島文庫」なんて上品なものもある。「狂歌江戸    花見双六」「寿出世双六」(狂歌)「孝不孝振分双六」(川柳)「名所遊帰宅双六」(狂歌)去来庵選の俳    句入り「江戸名所巽双六」という北斎の画品の高い挿画の逸品がある〟     ◇「水浴させた文晃の画 絵具の使い方を知らぬ画」p238   〝青緑山水の得意な文晃なども着色は確かなものであった。故田口米作画伯が文見の寿老人の画幅を愛蔵    していたが、あるとき幼い令息が、件の画幅へ赤インキを垂らした。画伯は直ちに物干しへ持ちだし、    画面へざあざあ水をかけた。門人が驚いて先生大丈夫ですかというと、画伯は「文晃の彩色だからこの    くらいのことは平気だ」としきりに如露(ジヨロ)で水をかける。なるほどインキはほとんど消えたが、胡    粉を塗った鶴の姿も寿老人の彩色もなんら異状がなかった。さすがに文晃だが、これを確信して大切の    画幅を水攻めにした米作画伯の度胸もよい〟    ☆ べいさく たぐち 田口 米作    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「水浴させた文晃の画 絵具の使い方を知らぬ画」p238   〝青緑山水の得意な文晃なども着色は確かなものであった。故田口米作画伯が文見の寿老人の画幅を愛蔵    していたが、あるとき幼い令息が、件の画幅へ赤インキを垂らした。画伯は直ちに物干しへ持ちだし、    画面へざあざあ水をかけた。門人が驚いて先生大丈夫ですかというと、画伯は「文晃の彩色だからこの    くらいのことは平気だ」としきりに如露(ジヨロ)で水をかける。なるほどインキはほとんど消えたが、胡    粉を塗った鶴の姿も寿老人の彩色もなんら異状がなかった。さすがに文晃だが、これを確信して大切の    画幅を水攻めにした米作画伯の度胸もよい〟       ◇「旧口米作と永田錦心 不思議な縁で生れた大家」p285   〝清親についで漫画の先駆者「四睡の巻」「長短の巷」など奇想天外の傑作を遺した田口米作画伯は、も    っばら古画によって学んだ人で、その画風は真に瓢逸の点で天下一品、しかし漫画以外は気に向かぬと    描かないので、その作品は至って少ない。    明治三十五年の一月十日、師の清親方へ年始に行って、午後三時ごろ帰宅すると突然脳貧を起し心臓病    を併発して、七日問ぶつ通しに昏睡したまま、ついに永眠。    芝桜川町の家へ通夜に駆けつけた清親翁、落胆しつつ語る、「もう二十五、六年前だ、私が愛宕山へ写    生に毎日出かけたが、いつも傍へ立って熟心に見ている子供があった。いかにも熱心なので絵を教えて    あげようかというと、ぜひ願いますというので一緒に家へ行って両親に話し、こっちからとうとう弟子    にしたのがこの米作君で、その時の様子が今でも思いだされる」と感慨無量。    和漢の古画及び浮世絵にも精通し、ことに色彩の研究にはもっとも熱心で、その遺著『色彩新論』は当    時前人未発の卓見として金子子や末松男から大いに推賞された。一時は茶道にも凝って、ちよっと画筆    を持っても妙な手付きをするので、なんの真似ですというと「これは茶杓の扱い」、要するに趣昧の広    い人であった〟    ☆ ほうさい こうちょうろう 香蝶楼 豊斎    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物。国周、芳年の没後そろそろ下火、今は滅法珍重される清親の風景画も当時は西洋臭いとて    一向さわがれず、僅かに日清戦争の際物で気を吐いたが、その後は月耕、年方等一門が踏み止まって相    当多教の作品をだした。それも上品過ぎて却って一般には向かずじまい。日露戦争時代には俗悪な石版    画が幅を利かせて、錦絵は全く型なし〟       ☆ ほくさい 葛飾 北斎    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双六の話 道中双六」p154   〝道中双六は貞享ごろに作り出したものだちうと柳亭種彦がいっているが、宝永ごろのものを私は見た覚    えがある。    近藤清春(?)の正徳ごろのがまず古い方で、時代が降って、お馴染の北斎には「新板往来双六」とい    う優れたものがあり、広重には「東海道富士見双六」「諸国名勝双六」「東海道木曽振分道中双六」等    がある〟     ◇「絵双六の話 川柳俳句双六」p154   〝狂歌、川柳、俳句などを加えた双六も種々あるが、最も古いのは明和二年版の英一蝶の俳句入「梅尽(ウ    メヅクシ)吉例双六」で、文晃一門合作の俳句入り「江の島文庫」なんて上品なものもある。「狂歌江戸    花見双六」「寿出世双六」(狂歌)「孝不孝振分双六」(川柳)「名所遊帰宅双六」(狂歌)去来庵選の俳    句入り「江戸名所巽双六」という北斎の画品の高い挿画の逸品がある〟    ☆ よしいく あちあい 落合 芳幾    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「魯文時代の引札類 新世相を語る風俗資料」p44   〝〈明治初期の引札〉添画の方は、芳幾、輝松、玄魚、月耕など初期に属する〟     ◇「明治の錦絵界を展望 不遇に終った名匠小林清親」p250   〝江戸名物の随一、東錦絵は明治となっても相当に出てはいるが、今日の浮世絵界ではまだ時代が近いだ    けに幅が利かぬ。その全盛期は明治十五、六年から三十四、五年頃まで、それ以後は写真や絵葉書に押    されて漸次消滅。    維新前後から明治の初年は芳幾の独り舞台。つづいて第一人者の芳年が出る、似顔専門の国周、風俗画    の月耕、少し後れて芳年一門の年英、年方、別派の永濯、永興、永洗、下っては周延、国政以下輩出し    た。    さらに風景画と諷刺画の大家小林清親がある。事実、清親の作品が明治版画中の特級品として歌麿、広    重の塁を摩するまでに騒がれているのは、写生から来た新昧と、時勢に応じた洋画式描写が、従来の版    画にない特長を示したからである〟    ☆ よしとし つきおか 月岡 芳年    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「絵双紙屋の繁昌記 今あってもうれしかろうもの」p128   〝〈明治初期〉両国の大平、人形町の具足屋、室町の秋山、横山町の辻文などその頃のおもなる版元、も    っばら役者絵に人気を集め、団菊左以下新狂言の似顔三枚続きの板下ろしが現われると店頭は人の山。    一鴬斎国周を筆頭に、香蝶楼豊斎、揚洲周延、歌川国重あたり。武者絵や歴史物は例の大蘇芳年、一流    の達筆は新板ごとにあっといわせ、つづいて一門の年英、年恒。風俗は月耕、年方、永洗、永興といっ    た顔触れ。新年用の福笑い、双六、十六むさしまで店一杯にかけ並ぺた風景は、なんといっても東京自    慢の一名物〟    ☆ よしのぶ いっきょうさい 一侠斎 芳延    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「狸じると珍物茶屋 いずれ劣らぬ変人揃い」p222   〝十八、九年頃の話。まだ千束村の田甫時代、公園裏の田甫中へ全くの一軒家、こけら葺きの租末な構え、    くねった九太の門柱へ宗匠流の達筆で「たぬき汁」の一枚看板、玄関前に陶製の大きな狸が徳利を提げ    た立姿で客待ち顔、庭には活きた仲間が一匹遊んでいたようだが、肝腎の狸汁は、つい恐れをなして食    わなかった。評判ではまず眉唾もので、あまり化かされに行くお客もなかったか、二年ぐらいで代が変    り、せっかくの名物いっこう知られず。    この狸汁の主人公は国芳門下の画工一侠斎芳延、本名は松本弥三郎。茶気満々の商売に似ず、師匠の向    うを張って二の腕まで立派な刺青のあった江戸ツ子肌、力はないが平素侠客をもって任じ、往々失敗。    生来、狸を愛して自然と狸の画に妙を得たくらい、狂歌にも手を出して狂名が遊狸庵つづみ、そのほか    水中の虫を集めてアメンボやコガネ虫と仲よく遊んだという変り者、二十三年に名古屋で歿した〟       ◇「仮名垣門下の人々 変った風格の人物揃い」p267   〝三世広重が歌垣和文、狂言作者の竹柴飄蔵が柴垣其文、又の名四方梅彦(中略)狸汁の画工松本芳延も    何垣とか名乗った一人〟                                   以上『明治世相百話』2011.1.14 収録