Top            浮世絵文献資料館         その他(明治以降の浮世絵記事)      『日本版画史』美術叢書(ザイドリッツ著 蘇武緑郎訳 向陵社 大正五年(1916)刊)               (国立国会図書館デジタルコレクション)    (原本『Geschichte des japanischen Farbenholzschnitts』Woldemar von Seidlitz 1897年(明治30)刊)   ※半角( )は本HPの補注。西暦の漢数字は算用数字に直し和暦を補った。また送り仮名を適宜補った。    「けれ共」「能きる」「恁した」「所が」「許り」は「けれども」「できる」「こうした」「ところが」「ばかり」と直した。   〈半角( )の人名表記は永井荷風の「欧米人の浮世絵研究」大正三年稿(『江戸芸術論』所収)を参照した。なお「欧米    人の浮世絵研究」は1910年の再刊本『A History of Japanese Colour-Prints(日本彩色板画史)』の総論を訳述したもの   (ジャポニズム)(91/171コマ)   〝日本の版画は、1862年(文久2)の倫敦(ロンドン)大博覧会に於いて、一般的に初めて其の美術的価値を紹介    した。同年亦た日本の版画は巴里(パリ)へ輸出された。当時巴里にゐたスラヴェンス(Stevens)、ウイス    トラー(Whistler) 、チアツ(Diaz)、ホーツニー(Fortuny)、レグロ(Legros)など云ふ美術家は、日本の    版画を非常な興味を以てみたのであつた。瀕て(ママ)マネー(Manet)や、チッソ(Tissot)やファンタン(Fa    ntin)、ラトール(Latour)やドガ(Degas)、カロル(Carolus)、ドウラン(Duran)やモネー(Monet)などい    ふ美術家は勿論のこと、一般の人々に到るまで版画の蒐集を始めるようになつた。銅版家のブラックモ    ン(Bracquemond)やヂヤツクモン(Jacquemart)やセーヴレ(Sèvres)陶器の展覧会は、美術界に於ける最    新式な、そして最も熱心な代表者となつた。(注) セルニューシ(Cernuschi)、デュレ(Duret)、ギーメ    (Guimet)、レガメ(Regamey)などいふ旅行家は日本から帰朝すると速ぐ日本の美と其の美術を讃美し始    めた。ゴンクール(Goncourt)、シヤンブルー(Champfleury)、バーテー(Burty)、ゾラ(Zola)のやうな名    高い美術家及びシヤーベンチーエ(Charqentier)のやうな出版者やバルベデイン(Barbedienne)、クリス    トフ(Christofle)、ハリツェ(Falize)などいふ工芸家は何れも日本を極力謳歌したのであつた。前ルー    ブル美術館長たるヴイロー(Villot)氏の如きも日本版画の蒐集に熱中した一人であつた。    (注)永井荷風は「セエヴル陶器組合の工芸家はこの新しき美術界の発見に対して最も熱中せり」とする    1867年(慶応3)の巴里博覧会は日本美術にとつては決戦的勝利の舞台となつた。其の後間もなく巴里に    於ける日本贔屓の人々が種々と協議して Société du Jinglar (ジャングラールの会)をつくり、月に一度相    会して、セーヴレで食事して日本美術を熱心に研究することゝなつた。       (中略)   (西欧のコレクション)(92/171コマ)    欧州に在る最も注目すべき蒐集品に就いて、参考の為めに少し述べて置かうと想ふ。当時シュボルド氏    (Siebold)は八百幅の軸物を携へて帰朝した。是等の将来品は今でもレードン(ライデン国立民族学博物    館)に保存されてゐる筈た。サア・ラザーホールド・アルコック(Sir Rutherford Alcock)氏は、1862年    (文久2)の倫敦(ロンドン)博覧会に際しその蒐集した版画を展覧に供し頗る好評を博した。次にジヨンライ    トン(John Leighton)氏は1863年(文久3)の五月、市の公会堂に於いて日本版画に就いて大講演会をやつ    た。けれどもこの講演は版画全体に渉つたものではなかつた。講演は主として十九世紀の版画に就いて    であつたのだ。    〈シーボルト:長崎の出島のオランダ商館医。オールコック:英国の初代駐日総領事。ジョン・ライトン:画家〉    1882年(明治15)には、ブレスラウ大学の教授ギールケ氏(Gierke)は伯林(ベルリン)の美術工芸博物館に於    いて約二百点ばかりの日本画を展覧に供した。其の後是等の絵画は普魯土(プロイセン)政府に買上げられて    終わつた。当時普魯土政府は伯林版画室といふ特別の一室を設け、故人の色摺版画を熱心に蒐集してゐ    た際なのでギールケ氏の所有品を買上げたのであつた。ギールケ教授は1880(明治13)年の頃から、日本    版画史を書く積りで材料を蒐集してゐたが、惜しいかな業(ぎょう)半(なかば)にして死んで終ひ、遂に    其の目的を達することができなかつた。    〈ギールケ(生没 1847-1886)「1882年の10月から12月にかけて、お雇い外国人として東京で解剖学を教えていた」とい     う(「ベルリン工芸博物館と日本」池田祐子著 立命館言語文化研究 31巻4号)    1882年(明治15)に到り、大英博物館では三千磅(ポンド)の大金を投じて、凡そ二千幅ばかりの日本や支    那の絵画及びウィリアム・アンダーソン(William Anderson)博士の所有に係る版画を買入れた。以前ア    ンダーソン氏は東京医学専門学校の教授であつた関係から多数の日本版画を蒐集し、所有してゐたので    あつた。其の他個人で日本版画を蒐集して巴里へ持つてきた人々の中で。ゴンス(Gonse)・ビン(Bing)・    ヴェヴェ(Vever)・ギロー(Gillot)・マンヂー(Manzy)・ルール(Rouart)・ガリマー(Galimart)・ユエフ    リン・コモン(Camondo)伯等最も有名であつた。    〈アンダーソン:1873年(明治6年)海軍省の招きで来日し、医師として海軍病院に勤務するかたわら日本の美術品を精     力的に収集して、1880年(明治13年)イギリスに帰国。明治20年『日本の絵画芸術』を出版(日本語版は明治19年刊)     本HP Topの「その他(明治以降の浮世絵記事)」参照。永井荷風はユエフリンの所を「Koechlin コクラン」としている〉   (展覧会および美術館)(93/171コマ)    回顧的な日本美術展覧会は既に1883年(明治16)に発起され、1890年(明治23)に到り日本版画展覧会とい    ふ一種特別な展覧会が開かれた。1893年(明治26)の始めにはデウラン・ルーエル室(Gallery Durand-Ru    el)に於いて広重の作ばかりを集めた風景画の展覧会があつた。ルーブル博物館内に於ける東洋の部に    は僅かではあるが版画が陳列されてゐる。そして The Musée guimet(ギメ東洋美術館)や the Biblioth    ique Nationale(フランス国立図書館) (the Duret Collection of illust-rated books デュレ・絵本    コレクション) と称して展覧に供せられてゐる。(注) 他に凡そ拾五人ばかりの会員からなつてゐる日    本協会(Société des Japonisants)といふ倶楽部があつて毎月巴里で会合してゐる。次いで1909年(明治    42)の二月に到り個人の蒐集した日本版画の第一回展覧会があつた。其の後同所で版画以外の日本美術    品展覧会の開催されたこともあつた。    (注)永井荷風は「ギメ及び巴里図書館にもまた日本の絵本類あり。巴里図書館の日本絵本類は Duret の担当して蒐集     せしものなり」とする       1888年(明治21)にはボーリングトン(Burlington)美術倶楽部に於いて、(注) 個人的に蒐集した日本版    画の中ではエッヂヤー・ウィルソン(Edgar・Wilson)氏の所有品は殊に逸品であつた。けれども最も大き    な蒐集品はボストン美術博物館の所有に係るものであつた。今其の大略を示せば、屏風が凡そ二百枚、    絵画が四千幅、版画が一万余種に渉つてゐる。是等多数の美術品はみな日本政府の美術調査員として十    二年間日本に滞在してゐたエルネスト・フランシスコ・フェノロサ(Ernest・Francisco・Fenollosa)氏の    将来品である。この外にフェノロサ氏自身の所有に係るものも大部あつた。一個人の所有としてはチカ    ゴ市のチヤールス・モールス(Charles J.Morse)氏及びフレッド・ゴーキン(Fred.W.Gookin)氏、ニュー    ヨーク市のジョーヂ・ヴァンダービルト(George W.Vanderbilt)氏などは有名なものである。ニューヨ    ーク市のフランシス・ラースロブ(Francis Lathrop)氏などは清長の版画だけでも百七十種をもつてゐ    る。ビゲロー(Bigelow)博士はボストンで北斎の作品展覧会を開いたが非常に豊富なものであつた。    (注)永井荷風は「~於いて、浮世絵板物展覧会の挙ありしより同好会の団体組織せられぬ」とする    独逸に在る日本の版画では伯林のコエッビング(Koepping)氏及びリーベルマン(Liebermann)氏、ムニッ    ヒのスタトラー(Stadler)氏、フランクホルト・アム・マインのストラウス・ネグパウル(Straus・Negba    ur)夫人・グライフスワルドのエーケル(Jaeke)氏・ライプチッヒのモスリー(Moslé)氏、ヅユッセルド    ルフのオェデル(Oeder)氏・フライブルグのグロッセ(Grosse)氏などは最も有名なものである。博物館    内にある日本版画室は前に述べた通りであるが、其の後伯林美術工芸博物館は漸時拡張されて国宝の中    央保蔵所たる観を呈してきた。ハムブルグの美術工芸博物館にも沢山の日本版画があつた。其の他ドレ    スデンでも日本版画の陳列室を設け、大いに版画の蒐集に務めてゐたのであつた。   (研究家および著書)    (ウィリアム・アンダーソン William Anderson)(94/171コマ)    斯くして日本版画に対する趣味の普及を計り、漸時版画を理解するに及び、版画に関する文献が大いに    発達してきた。日本版画史や日本絵画史の中で最も詳細にして確実な著作を出したのはアンダーソン(A    nderson)氏が嚆矢で、1879年(明治12)、日本亜細亜協会から出版されたものには『日本美術史(A Histo    ry of Japanese Art)』があり、二冊物では1886年(明治19)出版の『日本絵画史(The Pictorial Arts    of Japan)』がある。(注1) 其の他大英博物館の委嘱に拠つて編纂した物には日本支那絵画目録といふ    ものがあるが、これは矢張1886年(明治19)の版で、前の日本絵画史を更に精細に書いたものである。つ    いで彼は1895年(明治28)のポートホリオ誌五月号に於いて、『日本版画論(Japanese Wood-Engraving)』    を発表した。(注2)これは日本版画史の梗概を簡単に書いたものであつた。    (注1)永井荷風は『日本画論』とする    (注2)永井荷風は『日本の木版画』とする   (ギールケ Gierke・ゴンス Gonse・フェノロサ Fenollosa)(95/171コマ)    ギールケ教授は伯林美術工芸博物館で展覧に供した版画の目録を拵へて出版した。この書は自己の所有    に係る版画目録で、簡単ではあるが、併し極めて綿密なもので、全然独創的の立派な日本絵画史である。    其の翌年にはゴンズ氏の『日本美術史(L'Art Japonais)』が出版された。(注) これは二冊物で頗る立    派なものである。全体から云へば頗る概括的なもので、日本画と版画を論じてゐる。この書は美術家の    日本美術観ともいふべきもので、初めての試みではあるが可なり成功の著作である。フェノロサ氏はゴ    ンズ氏著の日本美術に於ける絵画の分類法を批評してゐる。そして日本美術史に於いて北斎の画は極め    て低級趣味なものであるが、日本人は彼を買い被つてゐるといつてゐるのは全然日本美術を理解しない    者の暴言であると冷評してゐるが、これに対してゴンズ氏は極力駁論を試みたが、其の理由なきを明白    に論断してゐる。夫れと同時にフェノロサ氏は、ゴンズ氏が光琳を大天才家として読者に紹介したんは    遉(さすが)に卓見であることを認めてゐるのである。    (注)永井荷風の書名は『日本美術』とする    光琳はこの時まで決して西洋人に理解された美術家ではなかつた。フェノロサ氏の絵画と画家に就いて    の該博な知識は偶然にも日本絵画の発達を判定する標準点を固めて終わつた。1885年(明治18)、丁抹(デ    ンマーク)の美術家マッセン(Madsen)氏は『日本画(Japansk Malerkunst)』と題する一小冊を発表した。(注)    日本画の精神や芸術的感情や婀娜(あだ)な様式を綿密に書いてゐるが、丁抹語で書き、非常に難解なも    のであるために未だにこの本の訳が出ないでゐる。今日でも此の書の翻訳が出たならば日本美術の天才    を識るには最前の参考書となるであらう。    (注)永井荷風の書名は『日本絵画論』とする       (ブリンクマン Brinckmann・ビン Bing)(95/171コマ)    1889(明治22)年に到り新時代は舞台に現れた。この舞台は或る一局部に対する熱心な刻苦的な捜索に依    つて近頃発見された地方に迄拡がり始めた。ブリンクマン(Brinckmann)氏は日本の美術工芸・巻の上を    ハムブルグで出版した。この書に於いて彼は日本の絵画と版画の歴史に就いて完全な判断を下してゐる。    併し、彼はフエノロサ氏よりも寧ろゴンズ氏の学説に味方する傾向をもつてゐた。殊にゴンズ氏の北斎    買い被り論に賛成する傾があつた。    ビン氏は巴里で『日本美術(Japon Artistique)』といふ本を著し、日本の美術を熱心に研究した。この    本は装幀頗る優美にして、英・独・仏の三カ国語に翻訳されたほどの有名な著書である。多数の逸品を    挿絵とし、日本画の観察に一種深遠な洞察を下してゐる。   (『国華』・巴里美術学校の目録)(96/171コマ)    其の他日本で発行されてゐるものには『国華』といふ版画の雑誌があつて、1890年(明治23)以来東京で    発行してゐるが、内容は頗る豊富であるけれども、発行部数極めて僅少にして一向振はない。    1890年(明治23)のエコール・デー・ボア・アート(École des Beaux-Arts)に於けるロオーン展覧会の出    品目録や1891年(明治24)のバーテー(Burty)集の目録は(注)充分版画の国(日本)へ巴里にある日本    美術を紹介したものである。この時迄で日本人は極く少数の人を除いては自国の美術品が斯くまで多数    に巴里へ行つてゐるとは思つてゐなかつた。    (注)永井荷風は「École des Beaux-Arts」を「巴里美術学校」とし「Burty集の目録」を「バーテー所蔵品絵入目録」とする   (ゴンクール Goncourt・ムーテル Muther)(96/171コマ)    1891年(明治24)にゴンクールは歌麿に関する一書を出版した。(注1) はじめての記事は主として日本の    美術家に渉つたものであるが、其の後この稿を六年間倦まず撓ゆまず書き続け、1896年(明治29)北斎論    の一書を出すに及び漸く完成した。(注2) ところがこの本は、元来或る日本人がビン氏に報酬として送    るために選定した材料を基礎として論じてあつたので大いに物議を醸したのであつた。けれどもビン氏    は或る策略を設けてゴンクールの先鞭を防止し、北斎に関する本だけはどうしても出版させなかつた。    ゴンクールの著は広くムーテル(Muther)氏の『十九世紀絵画史(Geschichte der Malerei im XIX. Jahr    hundert)』を読んで、独逸に在る日本版画をも入れ、極めて一般的なものとした。併し、その説明があ    まりに簡単にして、挿絵の如きもあまり小さ過ぎるために普通の註解やうのものとなつて終わつたのは    遺憾である。アンダーソン氏の『日本版画史(Japanese Wood-Engraving)』は逈(はる)かに有名で、其    の挿絵の如きも逸品が多い。    (注1)永井荷風は「欧州において日本の画家一人を主題としたる出版物はけだしこれを以て嚆矢となす」とする    (注2)永井荷風は「その編集の資料はもとビングの需(もとめ)によりて一日本人の蒐集せしものなりしを、この日本人       はビングを欺きその資料をゴンクールに二重転売したりしといふの故を以て一時大に物議を醸したり。ビングが       北斎伝出版の計画は此かくの如くゴンクウルの先鞭せんべんを着つくる所となりしがため中止するのやむなきに       至れりといふ。広く独逸の社会に購読せらるる Muther氏の」とする   (フェノロサ Fenollosa)(96/171コマ)    1896年(明治29)のはじめ、フェノロサ氏はニューヨーク市で開催した展覧会に出品した浮世絵界に於け    る諸大家の完全な目録(Catalogue of the Masters of Ukiyoye)を出版したので、日本版画に関して清    新な、而して仮定的な最後の知識を得ることができた。この目録は其の材料が極めて豊富であつて、芸    術上の自由と様式の大胆と透徹的な観察力の一半を窺ふことができるやうに出来てゐる。併し、この目    録は歴史的な著作ではない、約四百点ばかりの版画を流派別に分類し、一派に就いて凡そ五十点ばかり    づゝを参考品として挙げ、夫れを年代順に並べ、作品には総て解説を附してゐる。この目録は …今日    までこうした試みをやつた者があるが誰も成功してゐないが… 各美術家のつくつた時代の限界を決定    するものであつた。様式には各々変化のあるもので、こうした変化の研究は結局専門的なものであるが、    この目録に依れば即ち其の様式の変化や、凡そ1675年(延宝3)頃から1850年(嘉永3)に到るまでの日本版    画全体の発達に関する主要な時代を決定することができるのである。この目録は総て将来に於いて屹度    捜索されるにちがひない細目の矯正であるといふ確信的な光明を以て書いたものだ。    日本の版画は種々の流派に分かれてゐるので、組織的にこれを分類して、版画史の基礎を確立すること    は殆ど不可能である。これに反して、欧羅巴(ヨーロッパ)の美術史はこれと趣きを異にし、容易に其の基礎    をたてることができるのである。何れにしてもフェノロサ氏は小さな団体の美術家はこれを取り扱つて    ゐない。彼は十九世紀に於いて繁栄した詰まらない一群の版画師を不問に附してゐるが、何百といふ多    数の大家取り扱つてゐることは明白である。総てこうした是等の取り扱いは苟も権威ある美術史には是    非必要なことで、階級や順序にかまはず精査し、整備するには比較的監査人や主唱者の尠くない場合に    限るものであるが、この目録もこうした趣意のもとに書かれてゐるのだ。僅々一ヶ年の中にあれだけの    目録中にある版画へ一々日付を書き入れた彼の努力と自信は驚嘆すべきものであらう。併し、吾々は     …この著書のために彼は有名になり、彼を経験に富んだ研究家と認めなければならないやうになつたの    であるが… 彼の書いた時代は総て大体を書いたものであると思考せざるを得ないのである。この世の    中に絶対的な確実性ほど芸術的なものはない。だから吾人は彼の説を絶対に正確であると信じたいもの    である。    加之(しかのみならず)、是等の正確な時代は、唯だ種々な版画の様式を比較する場合にのみ始めて現れ    るものであるから、今迄はこうした目録は出なかつたのである。フェノロサ氏は確かに美術家の伝説的    な種々の時代を考に入れたにちがひない …正確な時代を記入した版画は一枚もないが、併し茲(ここ)    に都合のいゝことには、日本の版画には大抵筆者の落款が記入してあるから… 十八世紀、即ち版画の    全盛期に於ける錦絵には、例へば1743年(寛保3)に描いた重長の版画や、1765年(明和2)に出た春信の版    画や1783年(天明3)の清長物や1795年(寛政7)の歌麿物などに見るやうな… 唯だ是等の姓名を参考すれ    ば何等の支障もなく編年史を拵へることができるのである。    フェノロサ氏は版画に現れた婦人の髪の結い方に重きを置いて時代を区分してゐる。この髪の結い方は    時代に依つて異なるもので、版画の正確な時代を判断すべき非常に物質的な扶(たす)けとなるものであ    ることは明白である。けれども、吾々の聞かんと欲することは、如何にして彼は、或る時代に於ける特    殊の流行から自己に必要な年代を案出したのであろうかといふことである。    日本には時代時代の流行版画といふものはない。亦た日本には欧羅巴の如く一年一年に於ける趣味や流    行の変遷を書いた年代記といつたやうなものもない。けれども此の処に年代を判断すべき一つの根拠が    ある。フェノロサ氏はこの根拠を唯一の土台をして大まかに年代を定めることができたのだ。この根拠    に依つて彼は衣裳と殊に時代時代に於ける髪の結い方の変遷を順序正しく正確に追跡して版画の時代を    きめることができたのである。    以上述べた根拠とは即ち絵本である。この絵本には大抵刊行の年代が記入されてゐるので、フェノロサ    氏もこの絵本に依つて版画の年代をきめたのだ。絵本は言はゞ彼れが恐ろしい研究勢力の基礎で、年代    穿鑿の破天荒な結果を開く鍵である。若(も)し、彼がニュヨーク市の展覧会や目録に絵画を編入したや    うに、是等の絵本を編入してあつたならば、彼の全作に対する絵本の関係は直ちに明瞭になつてゐたで    あらう。そしてその結果はもっと教訓的で、確信あるものとなったらうと想はれる。絵本は唯だ流行ば    かりではなく、各美術家の様式を吾人に明示してゐるのである。    ところが不幸にしてフェノロサ氏は心臓病のために1908(明治41)年九月二十一日倫敦で死んで終つた。    夫れがために、彼の多年計画してゐた日本画と版画の正確な歴史を書くことができなかつた。この外に    彼は1898年(明治31)東京に於いて開催された展覧会の目録を著してゐる。これは小冊であるが、日本版    画の研究には重要なもので、『浮世絵の諸大家(Masters of Ukiyoye)』といふ表題をつけ、立派な装幀    をして出版されてゐる。(注)    (注)永井荷風の書名は『浮世絵の名家』とする   (エドワード・エフ・ストレンヂ Edward F.Strange)(99/171コマ)    ケンシングトン博物館(South Kensington Museum)員エドワード・エフ・ストレンヂ(Edward F.Strange)    は1897年(明治30)に簡単な『日本版画史(History of Japanese Wood-Engraving)』を出した。けれども、    この著書は芸術的価値の少ないもので、徒らに人物誌の如く画家の別号や住所などばかり多く書いたも    のだ。詰まり余談が多く、画家の美術上に於ける活動は少しも書いてゐないのだ。殊に本書の欠点とも    称すべきは、日本版画の発達に就いて全然誤解せる印象を与へてゐることである。この著者は独り呑み    込みをしてゐるやうであるが、歴史上から見て最も重要な十八世紀を度外視し、却つて北斎や広重を除    いては別段列挙すべきほどの画家のゐない十九世紀をさも全盛期ででもあるかのやうに詳説してゐる。    この本の著者は、全くのところ、日本美術の研究を寧ろ悪用せんとしてゐる傾向のある著作物のやうに、    売るために書いたといふ暗示を与へてゐると思われるほど、この本には題目に必要な端厳と憧憬を以て、    この仕事に従事することができなかつたことを白状してゐる。当時ストレンヂ氏は未だ1895年(明治28)    に書いたフェノロサ氏の基礎的目録を利用することができなかつたのだ。其の後彼は1904年(明治37)に    到り『日本の錦絵(Japanese Colour-prints)』といふ一書を著はした。(注)    (注)永井荷風の書名は『日本の彩色木板画』とする   (ザイドリッツ Seidlitz ・ デウレ Duret ・ クルト Kurth)    1897年(明治30)に到りザイドリッツ(Seidlitz)氏の『日本版画史(A History of Japanese Colour-Prin    ts)』の第一版が出た。デウレ(Duret)氏は1900年(明治33)にBiblionthéque Nationale の版画室に陳列    されてゐる絵本の目表を拵へて出した。1902(明治35)年以来種々な目録が金儲けのために発行されてゐ    る。併し吾々は是等の目録に依つて大いに得る所があつた。1904(明治37)年以来、ベルチンスキ(Perzi    nski)は日本版画に関する種々な論文を発表してゐる。是等の論文は極めて短いものであるが、分類的    で有益なものである。其の後1907(明治40)年に到り、クルト(Kurth)氏は歌麿に関する綿密な著書を出    版して大いに世人の賞讃を博した。   〈以上、ザイトリッツの『日本版画史』の訳。以下は、永井荷風がこれに続けて付言したもの〉  ◯「欧米人の浮世絵研究」(永井荷風著 大正三年稿『江戸芸術論』(岩波文庫本)所収 p113)   ※全角(~)は原文のもの。半角(~)は本稿の補記   〝クルトは歌麿に次(つい)で写楽の研究を出せり。1905年、仏人 Marquis de Tressan(マルキ・ド・テイザン)    亭山(ていざん)なる雅号を以て Notes sur l'art japonais(『日本美術史』)二巻を著す。1912年    米人 Dora Amsden(ドラ・アムスデン)の The Heritage of Hiroshige(広重の遺産)出づ。斯(かく)の如く欧    米各国において浮世絵及び日本美術に関する出版物の夥多(かた)なる余は本論文の原著者がその巻末    に挙げたる書目につき諸雑誌掲載の論文を除き単行本として公(おおやけ)にせられしもののみを数へ    てなほ七十余種の多きに及べるを見たり。仏人テイザンの『日本美術史』序論中左の一節は興味あるが    故に併(あは)せ訳して左に録す。    「欧洲人は維新以前にあつては僅に和蘭(オランダ)及葡萄牙(ポルトガル)人が長崎出島にてその土     地の職人に製造せしめたる輸出向の陶器漆器を見るの外ほか日本の美術については全く知る所なかり     しなり。その時代の輸出陶器は大抵支那製の模造にして意匠模様の如きも多年慣用せられたる最も形     式的のものなりしが故に深く珍重する所とならざりき。されど漆器のみはこれに反して夙(つと)に     欧洲人を驚かせし事は1600年代のマザラン宮殿宝什目録に徴するもまた明かなり。やや降(くだ)つ     て路易(ルイ)十五世及十六世の治世に至るや日本漆器の流行甚(はなはだ)盛(さかん)となりぬ。     今日こんにち巴里ルウヴル美術館に陳列せらるる王妃マリイ・アントワネットの所蔵品を看みれば当     時日本漆器の尊ばれたる事遥(はるか)に陶器に優りし事を知るに足るべし。然れども欧洲人はなほ     いまだ光琳の蒔絵、春信の錦絵、整珉(せいみん)の銅器、後藤の目貫(めぬき)等については全く     知る所なかりしが、維新の戦禍に際してこれらの古美術品一時に流出するやゴンクウル、ブュルチー、     ゴンス、ギメエ、バルブットオの如き仏国の好事家こうずか狂奔してこれが蒐集と鑑賞とに従事した     り云々(うんぬん)」                          大正三年稿〟