Top       『日本美術全書』沿革門・応用門        浮世絵文献資料館                ウィリアム・アンダーソン著      その他(明治以降の浮世絵記事)    原著『The Pictorial Arts of Japan』William Anderson 1886      (『日本の絵画芸術』ウィリアム・アンダーソン 明治20年刊)    翻訳『日本美術全書 沿革門』明治二十九年(1896)七月刊      『日本美術全書 応用門』明治三十年(1897)七月刊       ドクトル・アンデルソン著 末松謙澄訳并増補 八尾書店       底本:国立国会図書館デジタルコレクション      〈著者ウィリアム・アンダーソンは1873年(明治6年)海軍省の招きで来日し、医師として海軍病院に勤務するかたわら日本     の美術品を精力的に収集して、1880年(明治13年)イギリスに帰国する。その後、彼の膨大なコレクションは大英博物館     の所蔵となる。原著『The Pictorial Arts of Japan』(『日本の絵画芸術』)は1886年(明治20年)の刊行。以下、本文に     出てくる版本は大英博物館所蔵のものである〉    ※「三編」「二十五図」「二十六板」の「編・図・板」は全て本書下巻の『日本美術全書 応用門』に収録されている図版番号     全角( )と二行割書【 】は訳者の注記     書名の『』は本HPが施したもの     半角( )の注記や読み仮名や送り仮名は本HPが施したもの。また原文は句点のみ、読点は本HPが補った     原文の西暦は漢数字だが煩雑を避け、本HPはこれを算用数字に改めた。それに伴い「乃至」も「~」に改めた      例 千六百年乃至千六百五十年 1600年~1650年     国文研「古典籍DB」とは、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録データベース」の略  ◯『日本美術全書 沿革門』 アンデルソン著 八尾書店 明治二十九(1896)七月刊   (第一編「沿革総論」第三章 85/134コマ)(團團珍聞)   〝現今に於ては鳥羽絵は既に戯画師の需用に敵せず、日本は数多の欧羅巴思想を採用せる中に、又苦心して    西洋滑稽画をも採用せり、『團團珍聞』の政事家又は時事の絵画的批評は已に一勢力をなせり、今後如何    なる変化を来すも知るべからず、但し鳥羽僧正の遺風が之が為め地に堕ちたり〟    〈『團團珍聞』(明治10年3月創刊~明治40年7月終刊 週刊 1654号)の表紙・挿絵を担当した画家は、本多錦吉郎 小林     清親 田口米作 ジョルジュ・ビゴーなどといった面々。彼ら明治の戯画は西洋風の表現法を取り入れるとともに、政     治や時流の諷刺といったこれまでになかった分野を開拓して一勢力をなすに至ったが、そのかわり鳥羽僧正以来伝えら     れてきた日本的戯画の遺風は失われてしまったという評価である〉   (第一編「沿革総論」第六章 95/134コマ)(岩佐又兵衛・大津又兵衛)   〝又兵衛は荒木摂津守村重の遺子にして、始め土佐派の門人たり、土佐派の画法は十分之を修めたるものゝ    如きも、第十六世紀の末尾に近づく頃より、彼の最も法式に泥み且つ貴族的なる土佐の画風を脱し、専ら    其筆を戯画及び通常の風俗画に用ひ始めて、浮世絵専門の別旗を建てたり、但し其伝記は其遺作と共に甚    だ欠乏せるを以て、其技能及び感化力に就て、茲に一定の評論を下すこと能はず、斯くの如く原物の欠乏    せるが為め、余輩は已むを得ず其百年以後の浮世絵者流の描けるものによりて、其最旧時代の状況を研究    せざるを得ず、英国博物館にある又兵衛の小野小町は、単に其描写着色とも土佐画に彷彿たることを示す    のみ、又アルネスト・ハート君所蔵の一画幅より抜載せる第二十五図(又兵衛筆美少年)は以て第十七世    紀末葉(元禄時代)の浮世絵は又兵衛の起したる画風に反せりとの内国著者の説をして真ならしむべきも    のなり、第二十四図(又兵衛筆扁額軌範所載の大名行列)は同じく又兵衛の筆を称するものゝ模写なれど    も其真偽は知るべからず。    戯画師としての又兵衛の名は大津絵と称する粗画によりて伝はれり、大津絵は今尚江州大津に於て之を鬻    ぐ故に此名あり、大津絵は又兵衛の画風を表すと称するも、又兵衛より出でたりと伝ふる一事の外、殆ど    注意を引くに足ることなし、此一種の奇画に於て頻りに見る所の画意は鬼の念仏なり(【訳者曰く、大津    絵又平は岩佐又兵衛とは別人なりとの説あり似是】)〈「似是」は「正しいようだ」の意味〉    又兵衛は其成蹟を保持すべき継続者を有せず、其没するや彼の漸く其蕾を結ばんとせる浮世派の歴史は久    しく空隙を生じたり、世人が浮世派の名称を附すべき一画派の復興に注意を及ぼしたるは、実に第十七世    紀の末葉(元禄時代)なり〟    〈著者アンデルソンは岩佐又兵衛と大津又兵衛を同人とするが、訳者末松謙澄は別人説が正しいらしいと見ている〉   (第一編「沿革総論」第六章 96/134コマ)(菱川師宣)   〝此時に当り(第十七世紀の末葉(元禄時代))菱川師宣俗称吉兵衛出でゝ、彼の一時衰廃したる又兵衛風の再    興を謀りたり、師宣は1646年の頃(正保六年)房州保田に生る、始め縫箔及び紺屋の上絵師たりと云ふ、    彼は其天より賦与せられたる斬新活動の筆、色相鑑別の堪能、敏鋭なる観察力及び勤勉不屈の精神を以て    して、仮令世人の注意を惹かざらんと欲するも得べけんや、加之其画は印刻して弘く世に頒布せられした    め、其成蹟は又兵衛に比して一層恒久となれり、書籍挿画を専門としたるものにして、其名声の世に知ら    るゝは実に氏を以て嚆矢とす、蓋し木版画は師宣時代以前は甚だ幼稚の状況に在り、師宣は実に木版画の    進歩に関して其功少からず、其声誉も之に起因すること少しとせず、日本彫刻家の刀力は師宣の手に成れ    る数多の絵本に於て始めて其鋭鋒の証徴を顕はせり、而して此等の彫刻は蓋し師宣の自から監督せしもの    なるべし、但し其絵は骨力あれども稍粗雑なるを免れざりき。    師宣の画は、其時代の風俗及び衣服の記録者として非常に有益なり、師宣の目撃したる世態風俗は、現世    紀に於て北斎及び其他の継承者が忠実に写したる所のものとは異なり、何となれば師宣は其思ふ所に従ひ    て商人、担夫、及び遊女を其画中に写出したりと雖ども、此等は常に遊戯三昧の士人を描くに際し、概ね    其の玩具若くは付加物として描き出したるものに過ざればなり、師宣の画の雅致は日本人の眼を以てする    にあらざれば之を観ること易らず(ママ「易(やす)からず」)、時様の鬚髯を以て飾れる二百年前の風流少年及    び優美は、即ち優美なるも是非甚だ知るべからざる少年社会の習慣娯楽、又は諸遊楽場に於ける珍奇の囲    繞物等、皆隠蔽する所なく而も猥褻に渉らずして画中に顕はる、而して此等の画に於て見る所のものは、    彼の土佐派の描けるが如き儀式と柔弱とに流れたる宮殿内の生活及び現今の各公共遊戯に於て目撃し若く    は長谷川雪旦及び竹原春朝の画に於て見る如き誠実無邪気にして殆ど児戯に似たる遊楽と相待て、好映対    を為す。    師宣並に其画の彫刻師の技能は滑稽画の一珍書より抜粋し第三編に載せたる縮図に於て詳に之を見ること    を得べし、師宣の画く所の絵本にして世に知れたるものは殆ど三十種内外(英国博物館目録を看よ)に渉    り、新奇なる滑稽画より古大家の模写に至るまで殆ど各種の画意を包含せり、此等は皆画本蒐集者の最も    珍重する所のものなり、氏は1711年~1716年の間(正徳年間)に於て八十歳にて没したり〟    〈アンデルセンは師宣の特長として運筆・彩色の妙および優れた観察力と勤勉不屈の精神を挙げ、加えて木版画を重視し     たことが、木版技術の進歩を促すとともに、師宣の名声を広範なものにしたとする〉      (第一編「沿革総論」第六章 96/134コマ)(師宣以後)   〝師宣と俱に浮世画の発達に功あるは、其諸弟師房・師重・師永(【訳者曰く、師房は師宣の子にして師重    は門人なり】)其門人石川伊左衛門俊之、及び杉村次平正高(【訳者曰く、俊之又流宣と云ふ、杉村一に    杉山に作る】)、及び其後進の同時代者にして始めて着色版画を描きたる技芸家の一人鳥居清信(1688年    ~1736年・元禄二年より元文元年まで)始め、土佐派の門人たりし宮川長春(1690年~1736年・元禄三    年より享保元年まで)、及び版画師として高位を占むる奥村正信(ママ)(1700年~1720年・元禄十三年よ    り享保五年まで)等即ち此れなり、第三編に写出したる奥村正信の画は師宣の筆と殆ど分別し難し、長春    は眼前の風俗を写して活気ある画を多く遺せり、其画風は甚だ師宣に似たりと雖ども、版刻ならざりしを    以て世に知らるゝこと比較的少(な)し、其子長喜(ママ)は父の画風を追蹤せり、亦浮世派の一名手なり、長    春の筆にて都祭の光景を描ける絵巻物、及び長喜の筆にて其二を十一図(川向の喧嘩)十二図(大工鋸に    て爪を割く)に刻せる所の極めて詼謔なる聯続画は英国博物館にあり〟    〈奥村正信(ママ)は政信、正信長喜(ママ)は宮川長亀が正しい〉       (第一編「沿革総論」第六章 96/134コマ)(英一蝶)   〝菱川師宣と其席を同じく得べきは多賀潮湖なるべし、潮湖は師宣と同代にして全く独立して別に一家を成    し、浮世派の進歩には重要なる助力を与へたり、氏は大阪の医某の子にして其画名の一なる英一蝶の称号    によりて一層能く其名を知らる、氏は狩野安信門下の敏腕家にして、後其派を離れたる者まりお、始め失    行により破門せられたりと伝ふれども、其何事なるを知るべからず、氏が狩野家より受けたる薫陶の結果    は、其の安信の門を去るの時に於て、已に其筆鋒より抹殺すべからざる痕跡を留むる程度に達せり、氏は    実に聖賢及び神仙の画を多く遺せり、此等は唯其画風の点に於てのみ安信の筆と同種視し得べきものなり、    着色の秀雅は直ちに山楽に比するに足る、然れども氏は狩野家の古風古則を保有すると同時に、忽ち一種    の新画意を採用せり、其雅意は蓋し彼の戯画師鳥羽僧正覚猷を除くの外、未だ曽て前人あらざるものゝ如    し、而して氏は陸続として人目を娯しましむべき創作を世に出し、以て仮に其名を一世に轟したり、中に    は其当時に至るまで殆ど神聖動かすべからずとせし画題の古法を著しく変化したる画あり、一蝶は蓋し最    も市街に馴れたる人なり、而して詼謔者及び観世物師が街頭に懶人の目を楽しましむる鄙俗の遊戯を見て、    之を描き出すを好めるものゝ如し、氏か先輩の憎む所となりたるは、其筆の不羈独立にして格法を破りて    顧みざりしによれるなり、何となれば始め狩野派を破門せられたるのみならず、氏は又其時代の数多の美    人画と俱に大樹の一寵姫の画像を版刻して、将軍家殿内の状態に筆を及ぼせし故を以て、遂に其中年に於    て十八年間八丈島に貶謫せらるゝに至りたればなり(【訳者曰く、一蝶画く所のの百人女臈中朝妻船即ち    此書なり】)    一蝶は師宣とは違ひ、版刻して其画を弘布することを求めざきり、一蝶画の第一集が画譜として版刻せら    れたるは其死後殆ど四十年にあり、而も忽ちにして第二集之に次ぎ、遂に其総巻数二十以上に達するに至    れり、浮世絵の進歩に関する一蝶の感化力は師宣の如く直接ならざりき、一蝶に在りては絶えて自ら浮世    絵史上に其好位置を占めんと欲したる如き証迹あるなし、而も其感化力は終りに至りて強盛なりしは殆ど    師宣に譲らず、然りと雖ども其画の特色即ち機慧の筆鋒は国風的に過ぐるを以て日本外には十分に了解せ    られ若くは真価を知られざるべし、二十六板(道士と飛雁)は殆んど其画風の標本なり、此図には信仰心    に富み正餐の材料には欠乏せる一旅僧あり、諸器は已に準備したるも之に盛るべきものなく、偶々頭上を    飛行せる雁に数珠を撚りつゝ熱心祈願せるにも拘らず、雁は旅僧の犠牲たるを願はず悠然として天の一方    に飛び去り、可憐の貧僧は仏陀が◎兎に化身したる時代以来動物界の澆季に陥りたることを愁嘆せる状を    写せり、二十六図(雷神と盲人)は珍奇なれども真偽確実ならざる遺物より模写せり、戯画師のためには    其常套の画題に一変化を与ふるものなり、此れは嘗て日本にて一種の社会をなせる盲人托鉢僧の災難を描    けるものなり。    一蝶は(1724年・享保九年)七十三歳にして没せり、信勝と名(づ)くる一子及び子若くは門人なりし一    蜩、併に門人一蜂(1707年~1772年・宝永四年より安永元年まで)を遺せり、皆名声あり〟    〈一蝶は狩野派の絵師だが伝統から逸脱するところがあって、それが浮世絵の進歩に大きな影響を及ぼすことになったの     だが、一蝶自身は浮世絵派に身を置こうとはしなかったし、また木版画を重視することもなかった、とアンデルセンは     説く〉   (第一編「沿革総論」第六章 97/134コマ)(彩色版画・草双紙)   〝師宣及び一蝶後の時代に於ける浮世絵師は挿画及び一枚摺版刻画のために殆ど其全力を用ひたり、1700年    頃(元禄十三年頃)より彩色の版刻画夥しく世に出でたり、就中名優の模真画(ニガホ)多きに居りたり、    此等の木版画は始めは単純なる二三色(赤黄及び薄藍)を用ひ、多くの注意と雅趣とを以て製したるもの    なりしも、其後六七十年を経るに至るまで未だ其最上の完美に達せざりき、(第四編を看よ)此等の版画    に従事せし初期の画師は鳥居派の清信、清倍(マス)、清満の三人及び西村重政(ママ)、石川豊信等なり、    師宣以前より始まれる小挿画は第十八世紀の中頃(宝暦明和頃)に盛に流行せり、此頃よりして図画と本    文と参差交錯し図画の間に本文を挿入せる絵草紙始まれり〟    〈手彩色の紅絵・漆絵と木版による色摺の紅摺絵、すなわち錦絵以前の彩色版画の変遷である。また「図画と本文と参差     交錯し図画の間に本文を挿入せる絵草紙」とは現在言うところの「草双紙」であり、いわゆる赤本・黒本・黄表紙・合     巻を指す。西村重政(ママ)は重長が正しい〉  ◯『日本美術全書 応用門』 アンデルソン著 八尾書店 明治三十年(1897)七月刊   (第二編「絵画の適用」第三章 126/179コマ)(絵手本)   〝木板術の新紀元は1770年~1780年(明和七年より安永年間)に起たる又平の浮世絵一派の復興(【訳者曰    く、岩佐又兵衛と大津絵又平とを同人物としての立論と見ゆ】)と共に開始したり、後来北斎及び其門人    が力を込めて耕耘せし境域の殆んど全斑に渉る所の菱川師宣の勇壮なる絵画の出版は、其事已に自から版    刻者に対する教育なりしなり、而して其結果として顕はれたるものは格好と優美との点に於ては後来尚改    良して加ふべきものありしとするも、其力の点に至りては既に遺憾なき程度に進歩せり、殆んど同時代に    於て鳥井(ママ)清信が起せし劇場派の絵画は、菱川の事業と要用なる映対をなし忽ち支那風の彩色印刷術応    用の端緒を促したり。    菱川派の画風は第十八世紀の始めに(元禄の末より宝永正徳の頃)於て全盛せる奥村政信の手に因りて、    益々世に行はれたり、政信の木版画は雑彩単彩共に嘉すべきものあれども、唯師宣の画に於て見るが如き    筆力の雄健を欠けり、第六十四図(奥村政信筆遊君酒吸三教図)は其画風を示す一例なり。    師宣の猶世に生存し、未だ全く其筆を止めざるの時に方り、早く既に通俗美術の発達の為めに大の其効用    を顕はしたる画本の世に公けにせらるゝもの少からず、以て師宣が率先して示したる先例の能く其好果を    結べるを証す1707年(宝永四年)『画史会要』と題するもの世に出でたり、此れ実に有名なる和漢の画工    が画きし絵画より抜萃せし貴重なる画秩の濫觴にして、大岡春朴(ママ)の出版せる者なり、蓋し師宣の『掛    物絵尽』と云へる画本に傚ひて作りたるものなるべし、之に踵(つ)ぎて『画本手鏡』(1721年・享保六年)    『画巧潜覧』(1741年・寛保元年)『和漢名画苑』(1749年・寛延二年)『和漢名筆画詠』(1750年・寛    延三年)『和漢秀画苑』(1760年・宝暦十年)『和漢名筆金玉画譜』(1764年・明和元年)『和漢名画法』    (1767年・明和四年)及び『画則』(1777年・安永六年)等世に出でたり、以上列挙中、年代の新しきも    のは桜井秋山の監督して出版せしめたるものなり、(【訳者曰く、浮世絵類考に秋山は字を桂月と云ふ江    戸の女画史なり、画は之を父山興に学ぶ、天明寛政の頃の人なり、雪舟の画孫と称す、『画則』七冊を刻    して画論を出すと註せり】)中には方則上及び理論上の訓例となるべき有益なる事柄を記せる付録あるも    のあり。    春朴の画集第一巻の出でたる後数年にして、狩野派の門弟なりしと称せらるゝ橘守国は始めて画を挿入せ    る各種の画冊の続物を作りたり、其多数は学生を教へ又は版刻家の意匠を助くるを目的とせるものなり、    先づ第一着に世に公にせるものは『画本故事談』(1714年・正徳四年)にして画を挿入したる和漢物語の    抜萃なり(【訳者曰く、原書脚註に云ふ、此種の最古なるは蓋し1688年出版の長谷川等雲の『絵本宝鑑』    なるべし】)次は『絵本写宝袋』(1720年・享保五年)にして、其最も緊要なる部分は画法の模範を示す    に在り、次に『絵本通宝誌』(1725年・享保十年)『画典通考』(1727年・享保十二年)『謡曲画誌』    (1732年・享保十七年)『絵本鴬宿梅』(1740年・元文五年)及び『画本直指宝』(1745年・延享二年)    にして、是亦前者と相類似せる画本なり、其後に至り粗筆の草体に倣ひ非常に巧に彫刻したる『運筆麁画』    と題せる疎画集及び和漢の詩歌を解釈するに画を挿入したる大形の画本三部を追加せり、初七冊は広く浮    世絵画工の用ふる所たり、守国と同時代の画工にして奥村政信の流を汲めるものと推定すべき西川祐信は    一層多く其筆を揮へり、然れども『絵本故事談』の体に倣ひ且つ画論を記載せる『絵本和比事』の一篇を    除くの外は、氏は其筆を婦人画及び物語、箴言及び詩歌に関したる画の為めに専用せり(1723年~1768年    ・享保~明和)に於ての出版に係る、下河部(ママ)拾水は1765年及び1791年(明和~寛政)の間に於て同    様の画風を以て修身上の物語に関したる数種の書の挿画を画きたり、月岡丹下は『絵本姫文庫』(1760年    ・宝暦十年)を以て同種類の一書を加へたり、其後に至り陸続出版あり、中に就き玉山の手になりし『童    子教絵本』(1806年・文化三年)及び北斎の『女今川』(1830年頃・天保元年)の如き最も能く世に知ら    るゝものなり、『童子教絵本』は(1882年・明治十五年)在日本亜細亜協会雑誌中にチャンバレン氏の翻    訳あり〟    ※以下の書誌は国文研「古典籍DB」による     ◯『画史会要』  大岡春卜    寛延4年(1750)(『画本手鑑』(享保5年・1720)の改題本)     ◯『屏風掛物絵鑑』菱川師宣    天和2年(1682)  ◯『画本手鑑』 大岡春卜 享保5年(1720)     ◯『画巧潜覧』  大岡春卜    元文5年(1740)  ◯『和漢名画苑』大岡春卜 寛延3年(1750)     ◯『和漢名筆画詠』不明               ◯『和漢秀画苑』不明     ◯『和漢名筆金玉画譜』月岡雪鼎  明和8年(1771)  ◯『和漢名画法』不明      ◯『和漢名筆画宝』吉村周山    明和4年(1767)か ◯『絵本宝鑑』 橘宗重著 長谷川等雲画 貞享5年(1688)     ◯『画則』    桜井雪館(秋山) 安永5年(1776)  ◯『絵本故事談』橘守国  正徳4年(1714)     ◯『絵本写宝袋』 橘守国     享保5年(1720)  ◯『絵本通宝誌』橘守国  享保14年(1729)     ◯『画典通考』  橘守国     享保12年(1727)  ◯『謡曲画誌』 橘守国  享保17年(1732)     ◯『絵本鴬宿梅』 橘守国     元文5年(1740)  ◯『画本直指宝』橘守国  延享2年(1745)     ◯『運筆麁画』  橘守国     寛延2年(1749)  ◯『絵本姫文庫』月岡丹下(雪鼎) 宝暦8年(1758)     ◯『童子教画本』 岡田玉山    文化3年(1806)  ◯『絵本女今川』葛飾北斎 天保6年(1835)か    (第二編「絵画の適用」第三章 127/179コマ)(仏画)   〝宗教上の書籍は画工及び彫刻師に事業を与へたること少し、1752年(宝暦二年)の出版に係れる『仏像図    彙』は頗る古くして且つ仏像の全歴史を画きし緊要なる書なれども、其後に至りては北斎及び其門弟等が    首として画きい僅々三四の高僧の伝記と釈迦の一代記とに過ぎず〟    ※以下の書誌は国文研「古典籍DB」による     ◯『仏像図彙』画工不明 宝暦2年(1752)   (第二編「絵画の適用」第三章 127/179コマ)(稗史小説(民間小説、草双紙・読本等))   〝稗史小説は出版の多きこと実に驚くに堪へたり、源氏物語体の古話は第十七世紀の中頃に至り其時代の小    説皆之れに倣ひ、而して師宣より国芳に至る当時有名の浮世派画工は概ね皆其挿画を画くに与れり、此種    の最旧の本は1608年より凡そ1720年(慶長十三年より享保五年まで)に至るの間に於て出版せるものにし    て、其種類二つあり、一は昔話を画きたるを通例とする大本、一は一般に其体裁も劣れる小本にして同く    昔話を画けり、其挿画は皆半枚の処に一つ若くは両半枚に一つを限れり、若し両半枚の処に一つの画を画    くときは各半枚に対する二個の木版を要すべし、或場合には木版の画を肉筆にて彩色せるものあり、『平    治物語』(1626年・寛永三年)及び菱川師宣の挿画せる三四書の如き其例なり、第六十七図(春朝斎筆    『摂津名所図会』中、天下茶屋村是斎薬店図)に於て見るが如く、挿画に概ね大和派の流を斟みて、最初    より想像的雲を加へたり(【訳者曰く半輪線様の雲形を施したるもの】)1730年(享保十五年)頃に至り、    近世彫刻の版本に於て往々見る如く、稍長き十二折の形行はるゝに至れり。    但し書籍印刷の体裁にて最も奇なるは草双紙なるべし、此れは殆んど同時代に始まりしものにて、第十八    十九両世紀間の浮世諸大家の全力を尽したるものなり、其重なる人を挙れば、鳥居清満・鳥居清長・鳥居    清経・富川吟雪・北斎・豊国及び豊広等なり。    草双紙は極めて小なる冊子なり、通常幾多の薄き小綴りに分てり、後年に出版せるものは表紙を美麗なる    彩色画とせり、而して各半枚若くは相対したる両半枚に、殆んど全紙面に渉る画ありて、文辞は画の妨害    にならざる余白の部分にあり〈本HP注「後年に出版せるもの」とは合巻をいう〉    第十九世紀の初葉よりしては、小説本は概ね八つ折の旧形に復し、第一巻又は各編の首部若くは全部の一    部分は通常二三枚の木版画を掲げて口絵とす、此等の戯作物は往々驚くべき長篇のものにして、六十巻乃    至百巻若くは其以上に上るものあり〈以下、読本の内容に関する記述あるも省略〉    近代の稗史小説に挿入せる画は風俗の点よりは一も批難すべき所なきは明かなり、勿論日本と雖も他国と    均しく此の如き小説の挿画は多少批難すべき傾向に流るゝものなきにあらず、若し絶て之れなしとすれば    却て怪むべし、然れども腐敗の部分は即ち之れなし、若し自から好んで毛を吹き疵を求むるに非ざれは醜    気の口鼻を衝く如きに至るものあらざるなり〟   (第二編「絵画の適用」第三章 128/179コマ)(名所図会)   〝国土の風景を画きし絵は、或は一枚画とし或はトヂ合せの帖とし或は長き全景を写したる折本として、16    80年(延宝八年)頃より既に世に行はれたり、又名所図会善良なるものは頗る浩瀚にして且つ頗る実用の    作なり、名所図会は風景佳絶の名所を詳記すると共に、其勝地に関する歴史上及び口碑上の記事を始めと    し、其近傍にある種々の奇物珍器及び考古学上要用なる材料を記載し、或は其地方の動植物に付て科学上    の説明批評を下し、且つ工商業上参考となるべき材料の原を開き、其他其地居住の人は勿論遊歴者にも有    益なる凡百の事物を記して遺す所なし、各大都会又は重要なる地方には各々有名なる画工の画を挿み、且    つ丁寧に校訂し及び印刷したる案内書あり。    江戸(今の東京)及び其近傍の図会は二十巻あり、京都には林泉名勝の一大編を除き尚十一巻の図会あり、    大坂及び摂津に関したるもの十二巻あり、東海道の図会は六巻あり、厳島神社及び其近在の図会は十巻あ    り、斯くの如く揚げ来れば二百巻以上にも至るならん。    先づ第一に指を屈すべきは竹原春朝斎の挿画せる『都名所図会』(1787年・天明七年)なり、氏は又「大    和」(1791年・寛政三年)「和泉」(1793年・寛政五年)及び「摂津」(1798年・寛政十年)等の図会を    も画きたる人なり。丹羽桃渓(【訳者曰く、河内名所図絵の画工】)、西村中和(訳者曰く、梅渓なり、    紀州名所図会の画工)、法橋ニシクニ(【訳者曰く、英国博物館画集目録に法橋ニシクニは木曽路名所の    画工とあり、因て該書を点検する(に)法橋西村中和と記せる跋文あり、挿絵は此人の手に成れり、即ち上    に註する所と同人物なり、蓋し西村の村を邨の草書に書せるより、何人か原著者の為め之を邦と誤読せし    こと明らかなり】)    及び其他の画工は、現世紀の始め二十余年間同種類の図会を増加する所ありたれども、春朝斎の死亡の為    めに生じたる空隙は、1837年(天保八年)長谷川雪旦の筆に成れる『江戸名所図会』の出版に至るまでは    之を充すに至らざりしなり、『江戸名所図会』の続編として画きたる江戸祭の画は1838年(天保九年)の    出版なり、又同種類の稍小なるものにして1939年(天保十年)の出版あり、其他多くも浮世絵画工は忽ち    にして同種類の画界に出現し、或る案内書乃ち日光山誌の如きものは数人の筆尾を一書中に含有せり、其    他名所絵の最新版にして重要なるものは数画師の合作なる『利根川図誌』(1856年・安政三年)及び半山    安信の画ける『花洛名所図会』(1859年・安政六年)なり。(【訳者曰く、同書の画工は半山松川安信・    春翠四方義休・東居梅川重寛の三人なり】)    前に説きたる如く春朝斎の手になりし画一巻は名所図会の濫觴にてはあらざりしなり、江戸の風景を画き    しものは既に第十七世紀の終に於て世に出でたり、1703年(元禄十六年)の出版に係る花洛細見図に中に    は建築及び風景に関したる好画あり、且つ絵と同紙面に文句に加へて之を説明せしが如き、暗に草双紙の    先駆者たり(但し細見図は挿画と文句との境界は雲様の線を以て之を区別せり)    月岡丹下の挿画ある日本東部の名所を記せる東国名所誌は1762年(宝暦十二年)の出版なり、而して全景    写真の形にて肉筆の彩色を加へたる折本形の若干巻は1710年~1770年(正徳~明和)の出版に係る、但し    此等は一として春朝斎及び其門弟等の手に成りし諸画巻に比肩すべきものなし、谷文晁の名山図画は名所    図会の追加たるべきものにして日本山嶽の風景に関し嘆賞すべき名画多し    此等の絵画は固より光線及び遠近の配置の点に於て稍不完全なるにも拘らず自から一種類をなし其筆甚だ    生気あり、能く人をして其実景を目撃するの感あらしむ、山水・市街・家屋の間に排置せる画中の人物は    人々各々其好位置を得せしめ、而して歴史上及び伝説上の事柄に関したるものを絵画を以て顕はし、稍理    想的に傾けるものも亦巧みに写出し、画をして能く其事を語らしむ、大和土佐派の諸大家が始めて画ける    人為的雲様の着色法は、名所の絵を画くに當り、便宜上応用するに至れり、是れ一は細密なる贅筆を避け、    一は記事的本文の為めに余白を存せんが為めなり、其絵の大さ若し十分に二頁を占むるに足るときは、之    を両分し、而して全体の景色の非常に広闊なる場合には、三頁四頁若くは其以上に連る幾多の片画を分ち    て画くなり、故に各半枚に対して個々別々の版木を要するなり(【訳者曰く、前半枚と書くるにより、必    ずしも各半枚つゝに一個を要せず】)        ※以下の書誌は国文研「古典籍DB」による。「◎◎/」の◎◎は角書き     ◯『江戸名所図会』  7巻20冊 斎藤月岑著 長谷川雪旦画 1–3巻 天保5年(1834) 4-7巻 同7年     ◯『都林泉名勝図会』 5巻6冊  秋里籬島著 西村中和・佐久間草偃・奥文鳴画 寛政11年(1799)     ◯『都名所図会』   6巻6冊  秋里籬島著 春朝斎竹原信繁画 安永9年(1780)     ◯『拾遺/都名所図会』4巻5冊  秋里籬島著 春朝斎竹原信繁画 天明7年(1787)     ◯『大和名所図会』  6巻7冊  秋里籬島著 春朝斎竹原信繁画 寛政3年(1791)     ◯『和泉名所図会』  4巻4冊  秋里籬島著 春朝斎竹原信繁画 寛政8年(1796)     ◯『摂津名所図会』  6巻12冊 秋里籬島著 竹原春朝斎画   寛政8・10年(1796・98)     ◯『河内名所図会』  6巻6冊  秋里籬島著 丹羽桃渓画    享和1年(1801)     ◯『紀伊国名所図会』初-三編・後編 18巻23冊 西村中和画(初-三編担当)文化9-天保9年(1812-38) 後編嘉永4年(1851)     ◯『東都歳時記』4巻付録1巻5冊 斎藤月岑著 長谷川雪旦画    天保9年(1838)      〈著者の言う「『江戸名所図会』の続編として画きたる(天保9年刊の)江戸祭の画」とはこれか〉     ◯『利根川図志』   6巻6冊  赤松宗旦著 葛飾北斎二世等画 安政2年(1855)     ◯『花洛名所図会』  未詳 〈訳者の言う松川半山画の作品は次の『花洛名勝図会 東山之部』か〉     (『花洛名勝図会 東山之部』文久2年(1862) 奥付「図画 半山梥川安信 春翠四方義休 東居楳川重寛」)     ◯『東国名勝志』   5巻5冊  鳥飼酔雅著 月岡丹下(雪鼎)  宝暦12年(1862)     ◯『日本/名山図会』 3巻3冊  河村元善編 谷文晁      文化9年(1812)   (第二編「絵画の適用」第三章 128/179コマ)(滑稽画(戯画・狂画・漫画))   〝滑稽画の挿画本は出版者が曾て試みたる最古の投機業の一なり、『犬百人一首』(1669年・寛文九年)は    有名なる古歌を滑稽的に改作したるものを集めたる挿画本なり、菱川師宣は神仙を嘲笑せる続画一部を画    きたり(1690年・元禄三年頃)(【訳者曰く、異形仙人絵本なり】)又奥村政信も『優形仙人』(1710年・    宝永七年)と云ふ書に於て此種の画を画けり、『狂画苑』(1776年・安永五年)は殆ど嘲笑に近き筆法に    て仏教に関したる半宗教的荒誕の絵画を載せたり、此書に載する所の挿画は多くは狩野探幽の手に成れり    と云ふ    『一蝶画譜』及び一蝶の筆に係る粗画集には、第三十六板(一蝶筆、道士と飛雁)及び第二十六図(一蝶    筆、雷神と盲乞食)に於て見る如き奇異の想像画多し、『北斎漫画』中に滑稽画を載せたるもの一巻あり、    其中の若干の画意は最初より之を省きたらばり愈(まさ)りしならんと思はるゝものあり、又此五年来板行    せる暁斎の画集は頓智滑稽の淵叢たり〟    ※以下の書誌は国文研「古典籍DB」による。「◎◎/」の◎◎は角書き     ◯『狂詠/犬百人一首』1冊 幽双庵 画工未詳  寛文9年(1669)     ◯『異形仙人づくし』 3巻 菱川師宣画     元禄2年(1689)     ◯「優形仙人」は未詳〈著者のいう『優形仙人』は大英博物館所蔵本〉     ◯『狂画苑』     3巻 素絢斎(鈴木鄰松)画 明和7年(1770)(安永4年版あり)     ◯『一蝶画譜』    3冊 英一蝶原画 鈴木鄰松臨模 明和7年(1770)     ◯『北斎漫画』  15編15冊 葛飾北斎画     文化11年-明治11年(1814-1878)     ◯「此五年来板行せる暁斎の画集」は不明     〈アンダーソンはこの第三章の続きのところで、「能く種々の時代画風及び画工を表示せる範例として撰びし」版本のリ      ストを掲げている。(次回5月収録)その中に「絵本高鏡 1870年頃 河鍋暁斎」という記述が出てくるから、「此五年      来板行せる暁斎の画集」とはあるいはこの『絵本高鏡』を指しているのかもしれない。ただ気になるのは「此五年来板      行せる」という記述、アンダーソンの原著は1886(明治20)年の出版であるから、そこを起点として考えると、1870(明      治3)年頃に出版された『絵本高鏡』を「此五年来板行」とするのは無理があると思う。なお『絵本高鏡』本HPは未確認〉   (第二編「絵画の適用」第三章 129/179コマ)(武者絵)   〝武士の偉業は数多の画工の注意を促したり。此種の画本にて最も古きものは、恐らくは師宣の手に成りし    『古今武士道絵尽』(1685年・貞享二年)なるべし、其後に至り月岡丹下、武士道に関したる絵を画きて    誉を得たり、北斎及び渓斎英泉の画きし有名なる部分の或絵は、其画意寧ろ演劇に傾けり、    菊池容斎の『前賢故実』は独り武士のみならず其他にも有名なる人物の種々の画あり〟    〈「月岡丹下、武士道に関したる絵」とは大英博物館蔵本の『絵本武者たづな』(1759・宝暦9年)を指す。(国文研「古典籍     DB」は『絵本高名二葉草』(外題「絵本武者手綱」)月岡雪鼎 宝暦9年刊とする)。北斎の武者絵の例として、著者が何     を念頭に置いたのかは不明。英泉の武者絵の例としては、大英博物館蔵本の『武勇魁図会』(1835・天保6年頃)を念頭     に置いているようだ。但し国文研「古典籍総合DB」の『武勇魁図会』の刊年は「弘化年間?」となっている〉        ※以下の書誌は「古典籍DB」による。     ◯『古今武士道絵つくし』1巻 菱川師宣画〈上記DBは貞享元年とするが本書通り同二年が正しい〉     ◯『前賢故実』10巻10冊 菊池容斎画 天保7年-慶応4年(1836-1868)   (第二編「絵画の適用」第三章 129/179コマ)(劇場図会)   〝劇場に関して筆を取りたる画工の画は殆ど皆彩色版なり、彩色なき墨画は概ね粗末なる芝居番付に限る、    番付には画師の名あること極めて稀なり、独り其最も稀有なる例外のものは、松好斎半兵衛の画きし『劇    場楽屋図会』(1800年・寛政12年)にして、此れには舞台各部の面白き遠近法的景色を画けるものあり〟     ※以下の書誌は書誌は「古典籍DB」による。     ◯『劇場楽屋図会』2巻2冊 松好斎半兵衛画 寛政12年(1800)    (以上 2020/04/30 収録)   (第二編「絵画の適用」第三章)〈浮世絵研究上の範例版本〉(129/179コマ)    ( )の書誌は〔古典籍DB〕による。〈未詳〉とは〔古典籍DB〕未収録の版本   〝左に列挙せる墨摺の挿画本は能う種々の時代画風及び画工を表示せる範例として撰びしものなり、若(も)    し好みて此種の事実を研究せんと欲するものは容易に此英国に於て之れを為し得べし(【訳者曰く、此等    の書は英国博物館に所蔵あるにより斯く云ふなり】)     伊勢物語      1608年  慶長13年 不知画工     保元物語      1626年       不知画工     智恵鑑       1660年       不知画工  (『智恵鑑』(仮名草子) 万治3年・1660跋)     恋のみなかみ    1685年       菱川師宣  (『恋の水かみ』(艶本) 天和3年・1683刊)     優形仙人      1710年頃 宝永7年  奥村政信  〈未詳〉     画史会要      1707年       大岡春朴(ママ) 【諸名家の作を集めたるもの】     (『画史会要』大岡春卜 寛延4年(1751)刊。1707(宝永4)年版は未確認)     百人女臈品定め   1723年       西川祐信  (『百人女郎品定』享保8年・1723刊)     絵本直指宝     1745年       橘守国   (『絵本直指宝』 延享2年・1745刊)     運筆麁画      1804年  文化1年  橘守国   (『運筆麁画』  寛延2年・1749刊)     絵本武者たづな   1759年       月岡丹下  (『絵本高名二葉草』(外題「絵本武者手綱」)月岡雪鼎 宝暦9年・1759刊)     狂苑画(ママ)     1770年       諸画工   (『狂画苑』素絢斎(鈴木鄰松) 明和7年・1770刊)     若木の花須磨之初雪 1771年       富川吟雪  〈未詳〉     武勇錦のたもと   1767年       鈴木春信  (『武勇錦の袂』禿帚子序 明和4年序^・1767)〈〔古典籍DB〕の統一書名は『絵本錦の袂』〉     ゑんどう藤袴    1769年(ママ)     鳥居清経  (『艶道富士袴』  (黄表紙)  安永4年・1775刊。1769・明和8年版は未確認)     返り花英雄太平記  1779年       鳥居清長  (『帰花英雄太平記』(絵本番付) 安永8年・1779刊。春好画は確認済だが、清長画は未確認)     都名所図会     1787年       竹原春朝斎 (『都名所図会』安永9年・1780刊。大英博物館本は天明7年・1787版)     一蝶画英      1779年(ママ)     英一蝶   (『群蝶画英』 鈴木鄰松模写 安永7年・1778刊)     絵本琵琶湖     1788年       北尾重政  (『絵本琵琶湖』雪中庵完来編 天明8年・1788刊)     絵本遊び草     1791年       下河辺拾水 (『絵本あそび歌』寛政3年・1791刊)     諸職絵鑑      1795年       北尾蕙斎政美(『諸職画鑑』  寛政6年・1795刊)     絵本太閤記     1800年       石田玉山  (『絵本太閤記』(読本) 岡田玉山 寛政9-享和2年・1797-1802刊)     画手本       1800年       春風堂柳湖 (『山水略画式』蕙斎画 寛政12年・1800刊)     (蕙斎画『山水略画式』(寛政12年・1800刊)の奥付に「剞劂 春風堂野代柳湖刀」とあり。柳湖は彫師)     年中行事大成    1807年(ママ)     速水春暁斎 (『年中行事大成』文化3年・1806刊)      名山図譜      1810年頃(ママ)    谷文晁   (『名山図譜』  文化1年・1804刊)     七福物語      1809年       歌川豊国  (『七福譚』(合巻) 式亭三馬作 文化6年・1809刊)     楠公誠忠画伝    1815年       勝川春亭  〈未詳〉     朝比奈こうりうじつさん伝 1819年    歌川豊広  (『朝夷巡島記全伝』1-6編 (読本) 曲亭馬琴作 文化12-文政10・1815-1827刊)     (【訳者曰く、此書未詳、朝比奈巡島記全伝の挿画、豊広の筆に係る、蓋し書名の誤記なり、英国博物館目録にも朝比奈巡島記全伝に作れり】)     櫛雛形       1829年(ママ)     葛飾北斎  (『今様櫛◎雛形』文政6年・1823刊)〈◎は竹カンムリに扌+金〉     江戸名所図会    1837年(ママ)     長谷川雪旦 (『江戸名所図会』天保5-7年・1834-36刊)     墨竹発蒙      1831年       乾々斎雲鳳 (【訳者曰く、菅氏】)(『墨竹発蒙』画法 天保2年・1831序・安政4年・1857刊)     くまなき影     1840年頃(ママ)          (『くまなき影』皎々梅崕編 慶応3年・1867刊)     (【訳者曰く、是真の口絵あり、中絵は芳幾と云ふ】)〈香以山人・山々亭有人序。口絵是真 挿画芳幾か 仮名垣魯文跋〉     玄黄斎印籠譜    1840年       玄黄斎   (【訳者曰く、森氏】)(『印籠譜』森玄黄斎 享保2年・1717刊)     武勇魁図会     1835年(ママ)     渓斎英泉  (『武勇魁図会』天保9年・1838刊)〈刊年はARC古典籍ポータルデータベース〉     前賢故実      1836年       菊池容斎  (『前賢故実』 天保7-慶応4年・1836-68刊)     万物雛形画譜    1881年       鮮斎永濯  (『万物雛形画譜』明治13-15年・1880-13刊)   〈アンダーソンの研究姿勢は次のようにまとめることができよう。作品を歴史的時間軸上に並べおいて、その間の題材および画    法や画風の変化に注目して詳しく観察する、そしてそこから相互間に存在するであろう影響関係や因果関係を考察する、    と。アンダーソンが版本に注目したのは、一枚絵と違って出版年代の明確なものが多いからである。つまりこれを時系列に沿    って並べておくと、刊記のない作品の年代推定にも役立つし、なにより記述の客観性・合理性が保証される。上掲の版本    は観察と考察を加える場合の最適基準となりうるというのである。ともあれ、こうした方法、つまり科学的な時間軸の導    入はこれまでの日本の浮世絵研究にはなかったから、極めて新鮮であったに違いない。これもまた西洋が日本にもたらし    た画期的なものの一つと言ってよいのだろう〉     (第三章)〈彩色版画〉(129/179コマ)   〝彩色木板術は第十七世紀の末葉より既に世に行はれたる旧木板法と密接の関係を有せり、然れども浮世絵    派の重なる技芸家師宣、祐信及び守国等は、彩色版に関しては嘗て手を下せし所なし、之れに反して鳥居    家の諸子、西村重長、勝川家の諸子及び鈴木春信等は、首として其自から指揮して製出せる木板彩色画に    因りて声誉を博したるにも拘はらず、墨画印刷物に対しては少しも要用なる筆を揮はざりしなり、墨色彩    色俱に均しく其名を知られたるものは実に僅々なり    初め木板画には単個の版木のみ用ひしが、後日本人が彼の数個の版木を連ねて摺る所の支那風の彩色木版    法を了解するに至るや、忽ち其発明者たる支那人を凌駕し精巧且つ活潑に之を応用せり、支那に於ては此    法何の世に発明せるや分明ならずと雖も、第十七世紀に於て彩色版は既に盛んに行はれたるを見る、而し    て1701年(元禄十四年)の出版にして、現にアレキサンドル集品中に在りて殊に稀有なる一書『翎毛花卉』    (【訳者云く、呉世語著の翎毛花卉譜と題する書なり】)に因りて証せらるゝ如く、同法は其頃已に甚だ    有益なる点まで進歩せり、而して日本に於ては其頃は猶幼稚の程度に在りたり     〈「翎毛花卉譜」は『芥子園画伝』三集。王蓍・王概・王臬編 1701年刊〉    〈紅絵〉(130/179コマ)    日本の諸学者は概ね彩色木板の創始を以て第十七世紀の末(天和元禄)に在りとす、当時和泉屋権四郎と    いへるもの紅を以て其絵の或部分を摺らんが為めに第二の版木を使用したるに始まれりと云ふ(之れより    して往時の彩色版を称して紅絵とは云ふなり)然れどもゴーンス君は又極めて粗造に彫刻したる者にて此    種の絵ある浦島物語の出版物を以て、最も古き彩色とす、此絵には所有者の名に相対して1653年(承応二    年)の日付けあり、同標本の彩色法は其後に至り使用せる彩色法とは異なりしやも知るべからず、之を要    するに権四郎以前には彩色法は未だ広く実行したるものには非ざる如し    故蜷川君は今日知らるゝ彩色画の最古なるはものは1695年(元禄八年)江戸に於て販売せる俳優市川団十    郎(現今東京梨園社会の泰斗団十郎)の先祖の絵なりと信ぜり、之を要するに、此の画は江戸絵として世    に知らるゝ絵画中最も古き部分の絵なりしものゝ如し、江戸絵は其後に至り技芸上及び商業上緊要なる物    品となれり    〈紅摺絵・錦絵〉(130/179コマ)    美術的彩色木板術の歴史は今日存する所の遺物に因りて証明し得る如く1700年(元禄年中)の頃始まりた    り、即ち鳥居清信の絵及び其後少く経て、其門弟なる清倍又は奥村政信の、下絵に拠り墨、青、紅(薄き    石竹色)の三色を印する三個の版木にて摺りたる一枚絵の世に出でたるは此時なり、1720年(享保五年)    の頃に至り、西村重長第四の版木を用ひ、其後四十年許を経て第五第六の版木を用ふるの至れり、一世は    一世より画家が漸次進歩するに従ひ着色も自から鮮明となり 1865年(明和二年)及び1785年(天明五年)    の間に於て板行せる、鳥居清長、鈴木春信、一筆斎文調及び勝川春章等の画きし一枚絵に至りて、実に完    美の点に達せり、其後二十五年の間絵画は依然として秀美の位置を失はざりき、此時代の画学の進歩は彼    の着色版木の数を増し且つ調和を害せずして、能く光輝を増すの点に於て成功したる、歌川豊国を始めと    して栄之、北川歌麿、勝川春朗、北尾政演(訳者曰く「有名なる戯作者山東京伝の画名」)栄山及び細井    鳥文斎等大に与りて力あり、又北斎及び其同輩の年始箋の摺物も其隆盛を助けし一つなり    1830年(天保元年)の頃より稍退歩を始めたり、彩色は苦渋となり、彼の豊国が大胆の意匠を以て施し而    して能く調和を得たる好精細をば已に之を失へり、此退歩は欧羅巴の粗製絵具の輸入に起因せり、而して    衆人の彩色上の感覚は数世間鳥居派及び勝川派の優美なる調和に因りて養成せられたる後、茲に至りて始    めて其色相の異に一震動を受け、尋(つい)で其彩色の不整頓なる為めに攪乱せられ、遂に現今に至りては    絵草紙屋の店前は面(おもて)を他に傾け之を過ぐるの外なきものと変じたり    〈役者絵〉(130/179コマ)    彩色木板術を応用したる最古のものは有名なる俳優を画きたる一枚絵なり、彩色画の歴史は芝居(古代及    び貴族的の舞楽若くは能と混ずべからず)の歴史と離るべからざる関係を有す、日本に於ける俳優の地位    は近代に至るまでは一種奇異なりき、芝居を見るものは概(ね)皆一般の良民なり、而して俳優たる者の職    業上の名誉は其良民社会にありて極めて赫灼たるを得べし、獨り其社交上の地位に至りては最下等の人民    として度外視せられたり、舞台に在りては能く巧みに都人の感情思想を震蕩し、又能く過去の高尚なる伝    説的事実を演じて彼等の脳裏に印せしめ、若し其人一旦死するか又は退隠する時は、全都の男女をして恰    も之を公衆の災難の如く嘆息するに躊躇せざらしめし所の名優にして、社交上に於ては若し之と親交を結    ぶことあらば無上の汚辱としたるなり、士族貴族は勿論其身と家格とを貴ぶ名門の人々は尽く皆劇場に臨    むことを避け、縦令(たとえ)此等の快楽を貪らんとするも極めて隠密にするを例とせり、然るにも拘らず    一新派の諸画工は好んで俳優の絵を画きたり、中には此等の絵を画くを以て自から其技芸の価値を落すの    嫌(きらい)ありと思ひし技芸家もありたりと雖も、多くの技芸家殊に鳥居派勝川派及び歌川派の錚錚たる    者は熱心に当代のゲーリック或はリストン(【訳者曰く、英国名優の名】)とも云ふべき名優の真面目及    び打扮(姿や扮装)を画き、之を永久に伝ふることを務めたり、此等技芸家中には其精神を遊女に関する絵    画に費したるものありと雖も、彼等が其名誉を博したるは全く劇場に関する絵画のためなり    〈遊女絵〉(131/179コマ)    俳優画に次ぎ一枚絵の材料となりて世に行はれたるものは、各地の有名若(もし)くは醜名(【訳者曰く、    醜業者なり】)の佳人なり、芝居を蔑視せし派の画人、即ち鈴木春信、紅翠斎(【訳者曰く、北尾重政な    り】)栄之、北尾政演及び北川歌麿等を始めとし、之れに加ふるに俗説の偏屈に区々たらざる一筆斎文調    及び勝川春章は佳麗なる都女の容姿を彩色絵に画て、之を不朽に伝へんと務めたり、其設色の美麗は殆ど    完全の域に達せり、その動作は自然にして窮屈の風なく、其服装は優美なり、只幾多の欧州漫遊者が日本    婦人を見て熱心に形容称揚せる、流暢の文章に於て見るが如き姿態の閑雅温厚と顔色の嬌艶及び生気とは    之を欠けり、且つ四肢の不格好なると描線の拙劣なる為め殆んど戯画に類せんとするものあり、是れ実物    の研究に於て苦心の足らざるに起因せずんばあらず〈醜業者とは娼婦をいう〉    〈相撲絵〉(131/179コマ)    力士も亦世上の快楽を助くる好材料なりしが故に一枚絵師の注目する所たり、力士は自ら其職業の位地俳    優の上に在ること数等なりと思へり、時としては傲然として之に驕り毫も躊躇する所なきことあり、然れ    ども技芸家は、彼等の厖然たる姿態及び象の如き容貌を殊に巧みに画くべきの余地なく、且つ力士の皮下    に於て往々壮んに見る所の筋骨は彼等技芸家の歎賞する所にあらざれば、彼等が力士に関して筆を弄した    る絵にして保存の価値あるものは殆んど希なり    〈古典絵・花鳥画・風景画・歴史物語絵・戯画時事絵・横浜絵〉    稍古代に属する典故中より出でたる画題は時として彩色版として初期の浮世絵画家の筆に上り、有名なる    男性及び女性の歌人は勝川春章及び細井(ママ)鳥文斎の筆に霊気を与へたり、然れども大和派の古画に基き    たる人物画は浮世派の特性にはあらざりしなり、花鳥類は其筆に上ること殊に稀なり(【訳者曰く、歌麿    の虫撰及び北尾重政の花鳥図会等あることを忘るべからず】)但し北斎及び広重は、日本の風景を画きし    有益にして趣味ある彩色画数多を遺せり、現世紀の中頃に近づくに至り、歴史及び昔話に係る画、世に愛    せらるゝに至れり、但し彩色画の既に衰微を始めたる後に在り、稍其後に至り戯画及び時事画は同じく木    版術によりて世に行はれたり、此等の近代画本中には、彼の開港場に於て所謂「赤髯奴」が窮屈卑醜の態    度にて奇々妙々の衣服を纏ひ、紅毛粗髯の裡に醜顔を露はせる状を写し出せるものあり、以て他邦人が其    外人を見る如く其外人自身をして東洋の鏡に映じたる自像を見ることを得せしむ    〈摺物・新年賀箋〉(131/179コマ)    江戸に於て第十八世紀の末頃(天明年間)よりして新年見舞に短句若(もし)くは短文を挿める摺物又は吾    妻錦絵を贈物とするの風始まれり、皆彩色版にして浮世派の北斎、北渓及び其同時代の諸画家が筆を把り    しものなり、意匠は概ね簡略なりと雖ども亦彩色絵の模範たるべきものなり、且つ特別に注意して彫刻印    刷したるものゝ如し、故に彫刻も印刷も自ら上乗に居れり、彩色印刷術に始めて金属を使用したるは、恐    らくは此時代より始まりしならん、然れども純粋の金銀に非ずして多くは劣等の泥合金を用ひたれば、其    装飾の点に於て幾何(いくばく)の価を添へしや甚だ疑ふべし、    現世紀の初三十年(文化文政)間を経ざるに新年賀箋の風は已に衰頽せり、故に其標準本として現存する    もの罕(まれ)なり、然れども其最上品とも称すべきものは、ボルティ、モントフォイオル、及びヂユレー    諸君の標本集に就て之を目撃研究し得べく、又ゴーンス君の「日本技芸」にも若干の好復写あり    三十年以来粗雑に彩色画を画きたる紙扇子及び絵日傘の製造甚だ多きも技芸上の価値あるもの少し。    〈画風に関する標本〉(131/179コマ)    書籍の挿画にして稍著大なる彩色絵は、多く芝居青楼又は休日遊楽に関したる作の中に於て見る所なり、    其最も緊要なるは勝川春章、歌麿、及び北斎の作なり、現世紀に於て出版せる漫画集は概ね彩色を第二と    し、僅に一二板摺の淡彩を用ふ、各時代の画風に関する標本は之を左に挙く     好美の津穂     1770年 明和7年  勝川春章・一筆斎文調(『絵本舞台扇』明和7年・1770刊)     〈和文序の題に「【舞台扇/姿画】婦美の津穂」とあり「ふみのつぼ」と読むか〉     青楼美人合     1776年      勝川春章・北尾重政 (『青楼美人合姿鏡』安永5年・1776刊)     鳥山石燕画譜    1774年      鳥山石燕豊房(『石燕画譜』安永3年・1774刊)     江戸名所若紫    1790年      歌川豊国  〈未詳〉     絵本春の錦     1771年      鈴木春信  (『絵本春の錦』明和8年・1771刊)     魚貝略画式     1810年      北尾蕙斎政美(『魚貝譜』享和2年・1802刊)〈1810(文化7)年の出所不明〉     女三十六歌仙    1798年      細井鳥文斎 (『女房三十六歌仙』細井鳥文斎 寛政13年・1801)     (『【新版/錦摺】女三十六歌仙絵尽』(外題) 細井鳥文斎 寛政10年・1798書成 同13年・1801刊)     〈この書誌はARC古典籍ポータルデータベース所収The British Museum本による〉     百千鳥狂歌合    1800年 寛政12年 北川歌麿  (『百千鳥狂歌合』赤松金鶏撰 喜多川歌麿 寛政4年・1792刊)     絵本隅田川両岸一覧 1802年      北斎    (『絵本隅田川両岸一覧』享和1年・1801刊)     夏の富士      1827年      歌川国定(ママ)(『夏の冨士』山東京山作 五渡亭国貞画 文政10年・1827序)     抱一上人真迹鏡   1820年      抱一    (『抱一上人真蹟鏡』慶応1年・1865刊)     東海道風景図会   1851年 嘉永4年  広重    (『東海道風景図会』嘉永4年・1851刊)     百鳥画譜      1882年      楳嶺    (『百鳥画譜』幸野楳嶺 明治14年・1881刊)    〈絵本の変遷〉(131/179コマ)    1852年(嘉永五年)外人の来港より国事漸く多端にして遂に騒乱を起すに至れり、之れが為め画本の発行    は忽焉として衰微に赴きたり、現世紀の中葉の至りし後、幾何ならずして世に出でたる画本は即ち最終の    要用なる名所図誌なり、浮世絵師の助を得て自ら益せし小説家も筆を投じたり、北斎が首として其名を得    たりし漫画帖も1849年(嘉永二年)頃は既に廃止せり、歌舞伎絵其他の彩色絵は依然として多く出でしも、    其技芸上の価値に至りては殆んど見るに足るものなし、此の如くして多年間絵画は退歩の姿に陥り、僅に    広重の景色画、並に1864年(元治元年)に至り其末巻を出版せし所の容斎の『前賢故実』の続きもの、及    び北斎画の余光の其門人為斎の筆端に隠見するものを除くの外、古人の有せし熟練は更に現はれざりしな    り、然れども今上皇帝の治世に至りて復興の姿を呈し来り、此六年以来は北斎及び北斎時代の画風に模倣    せる絵画帖、陸続現出せり、中には非常に価値あるものあれども、暁斎、永濯及び楳嶺を除くの外、未だ    一も其派の古大家の出したる機軸に加ふる所にあらず    〈注〉     1852(嘉永5)年 → ペリーの来航は1853(嘉永6)年      1849(嘉永2)年 →『北斎漫画』13編(1編-文化11年刊) 葛飾北斎没     『前賢故実』 → 菊池容斎画 全10巻20冊 1836-1868(天保7‐慶応4)年刊     「為斎の筆端 → 葛飾為斎画『為斎画式』2巻2冊 1864(元治1年)序    〈製版・印刷・彩色法〉(132/179コマ)    木版術に附て記述上の細密なる論説を為すは必要に非ざれば唯二三の重なる事実を記すべし、彫刻に用ふ    る絵は薄き透明質の紙(第七十図を看よ)に画き、欧州にては木理を横に輓けども、日本にては木目通り    に輓きたる木板通例桜に、其絵の裏の方を上にして貼付し、紙の上層は絵の鮮明に木板に存して見ゆるま    で濯ひ去り、而して後絵の各線の間を鑿又は種々の形なる小道具にて鑿るなり、印刷は手を以て之を為す、    其結果の美なるは蓋し之れが為めなり、時としては単純なる一刻版にてぼかし又は数色を刷出することあ    り、故に此等の摺物を見るに付ては、画工及び彫刻者の手を離れたる後摺屋の手に在りても亦多く美術的    感情を其摺方に注ぎし事、往々明かなるべし、此れ欧州に於て日本絵を翻刻するも、通例満足なる結果を    得ざる所以なり、能く日本画の原版に似たるものを得んとするには、原版に比し法外の費用を費すにあら    ざれば其写正を得難きは之が為めなり、青楼美人合せの絵に従ひて彩色石版に附したる第四十六板(勝川    春章筆青楼美人合姿鏡中のゑびら玉菊外二人)は、其費用少なくとも日本にて木版に附する費用の十二倍    なり、仮令(たとえ)日本固有の法に傚ひて同一の好結果を得んと欲するも蓋し難し、精彩を助けん為め下    絵の或る部分を無墨摺りとして、其部分を浮絵とする法は1730年(享保十五年)頃に出版せる西村重長の    作に於て之れあり、恐らくは此以前早く既に行はれしなるべし、北川歌麿は此法を用ひて『百千鳥狂歌合』    を作り良結果を得たり、亦稍々(やや)近来世に出る所の彩色絵中にも往々之れあるを見る、    場合に因りては単に一個の版木に各種の絵具若(もし)くは一色なるも、濃淡の度種々なる絵具を用ひ以て    二個若くは数個の版木を用ひて彩色すると同一の結果を生ぜしむ、此の如き種類のもの1769年(明和六年)    の往時に於て早く既に『宗(ママ)紫石画譜』の中に之れあり、又『画巧潜覧』(1740年 元文五年)に載せ    たる山水画の中にもありて、遠景を画くに浅暗色を以てし、而して暗黒の前景を用ひて大胆なる助勢とし    て之れに対せるものを見る、彩色画の天色及び水色も同じく絵具を種々の度合に加減して用ふるなり、其    法は淡彩を要する部分は予め彫刻者の指示する所に従ひ、単に湿(うるお)ひたる拭布を以て彩汁の濃部を    拭ひ去り、而して後ち之を摺るに過ぎざるものなり〟    〈銅版〉(132/179コマ)   〝銅版は日本画の長所たる或特有の点を摺出すに能く適合すれども、往時の日本には嘗て行はれざりしなり、    第十八世紀の将さに終らんとするに先(さきだ)ち(天明寛政)司馬江漢と云へる者始めて銅版法を輸入し    たり、氏は長崎に於て和蘭人某に従ひ之を学べり、1785年(天明五年)に出版したる『紅毛雑話』と云ふ    書の中に、欧州にて銅版彫刻に用ふる器具の図あり、銅板画は時々出版せられたれども、唯其絵多くは西    洋画の遠近法の痕迹を顕はし、時としては光線陰影法の初歩を見る外価値あることなし、但し、遠近法及    び陰影法は江漢の師たる和蘭人が江漢に教へたる学課の一部分なるべし、銅版画の重なるものは1866年    (安政二年)出版の岡田春燈斎の『銅版細画帖』、又同年の出版にして『東海道五十三駅』と題する画帖    及び近頃五六年の間に出版せる数巻の雑書此れなり、第七十板(呉道子筆銅版画「釈迦八相涅槃縮図」)    は銅版画の好標本なり、当時行はれたる銅版法は恐くは他物に於ての如く、腐触剤には酸類を用ひ素針は    単に其腐蝕の欠所を校正するに用ひたるならん(【訳者曰く、雷洲、亞欧堂、玄々堂、中川信助、九皐等    ありしことを忘るべからず、詳細は沿革門補遺中に記せり】)〟    (以上 2020/05/31 追加収録)   (第四編「日本画の諸特相」第二章)    〈陰影法〉(150/179コマ)   〝第十八世紀の中葉【宝暦明和前後】に於て浮世絵師西川祐信の著せる有名なる『絵本大和比事』に左の如    く記せり     植物及び人物を画くに際し光線と陰影との調理を弁知する事緊要なり、例へば草木の葉を画くには、其     外面には日光を顕はし、其下部即ち稍暗黒なる部分をば影とせざるべからず、而して人物画に在りては     其衣服の褶(ひだ)に明暗の部を分示せざるべからず、此等のことは精細に研究を要す(【訳者曰く、英     文の意を訳す、大和比事の原文は文字も意味も少しく異なり即ち左の如し】)    「草木にても人物にても、すべて絵に陰陽と云ふ事あり、能々此理を弁へ知るべし、たとへば草木の葉の     あまた重りたる体をゑがくに、表にみへたるを陽とこゝろへ、下になりたるを陰とおもふべし、木にて     も岩にても是に同じ、人物に至りても衣裳の衣紋に陰陽ある事なり、尤も弁へ知るべし」    此文に由りて之を観る時は、光線陰影法は十分に尊重せられたるものと解するに足る如しと雖も、其実は    斯の如き文章の日本の書籍中にあるものは、日本絵画に於て要素とする其他のものゝ多数と等しく、比喩    的性質を有するものに過ぎざるなり、此文章の意味は天然の日光と陰影とを指して云へるに非ずして、唯    古代の支那画家の作為せる想像上の光線と陰影とを云ふなり、是れ該書の著者自身の画く所亦分明に真の    光線陰影法を欠けるに徴して明かなり、欧羅巴に於て往々日本画の模範として知らるゝ一種変体の近世画    は之を除き、真実の日本画に在りては、決して所謂高射光線若(もし)くは反射光線を示せるものなきのみ    ならず、通例光線陰影と称すべきものは絶えて之れなし、然れども或流派の画に於ては層起若くは充実の    感想を与へんが為め、種々の虚妄的又は方式的の陰影法を用ふ、設(たと)へば四條派の一画家の如きは、    円形の物体即ち葡萄実の如きものを画くに際し、其筆に飽まで水を含ませて、其尖を墨に沈めたる後巧に    之を回転して忽ちに其中心に近(ちかづ)くに従ひ、次第に淡泊にして殆んど無色なる輪郭を写し出し、此    の如くして近接の諸物体より来る光線の反射の欠きながら、其充実体なることを知るべき感想を抱かしむ、    竹幹の長円体及び葉葩の屈曲体を画くにも亦同一の筆法を用ふ、亦支那葉中には其人物画に於て、瞼下及    び鼻唇部の着色を他よりも濃厚ならしめて面部の高低を示し、衣服の褶下に一種の暗影を施して以て衣服    の凹凸を示すものあり、然れども未だ一として自然の現象を直接に研究したる證跡を呈するものあらず〟    〈物の表裏・高低・凹凸を色の濃淡によって表現する日本の陰影法は、光線による陰影に基づかないという点において、     西洋の陰影法とは基本的に異なるという。西洋の絵師は表現者であるまえに観察者でなければならないというのである〉    〈彩色法〉(150/179コマ)   〝彩色法は日本技芸中最も愛すべき特色の一なり、蓋し吾人が色相に対する愛心は形状に対するものに比し、    恐くは感情に基く所多く、智力に憑ること少なかるべし、是故に画中の物体の著色は真を離るゝことある    も、其各色の調和を失わざる以上は必らずしも吾人の視感を害せず、而して日本画家は彩色の調和に至り    ては実に特得の妙あるが故に、其彩色の極めて自然に反するもの多きにも拘らず、吾人は之を以て之を咎    むるの念慮を生せず、日本の技芸家は彩色の作用に於て、其濃淡の逓減及び異色の対照の精妙なること、    往々驚嘆すべきものあり、欧羅巴知名の画家にして、日本の古画及び古彩色摺により好妙なる多くの新意    匠を得たる事を自白して少しも躊躇せざるもの、一にして足らざるべし、且つ日本の着色の妙技は独り鳥    居派及び勝川派の錦絵の温雅妙婉の筆迹に存するのみならず、其流を汲める後進の諸家並に稍(やや)古代    にして且つ古法一式なる土佐派の諸名家に在りては、其画面を快活ならしむる為め、彩色の最高調を用ひ、    時としては、我欧州の学理に正反対に調理せるものだにありて吾人を驚殺するも、猶且つ吾人をして其調    和の錯乱若くは急迫を感ぜしむること甚だ稀なり、彼等は其材料の用法の研究に於て、已に至らざる所な    く、随て之を誤用せんと欲するも得べからざるの程度に達せり    茲に怪むべきは、彩色の用法に関しては生ながら審美の妙感を有せる同一の画工にして、之を与ふるに其    平生慣用し来れるものにあらざる原料を以てするに当りては、往々驚くべき錯誤に陥る在り、近年欧羅巴    と交通を開きてより、日本旧来の絵具よりも低価にして、且つ華美る劣等の絵具を輸入すること非常に多    く、浮世派は概ね之を採用せり、然るに其成蹟極めて悪く、近世画中には其画品は古代画に劣らざる秀気    を帯びながら、其設色に至りては舶来の粗悪なる洋紅緑色又は藍色を誤用せるが為め其品位地に堕ち、而    して彩色摺木版彫刻者は之を悟らず、新絵具の最も矯激なるものを誤用し、古人勝川春章の霊をして、地    下より起ちて異議を陳べしむるに足るべき悪版画を以て、団扇舗及び草双紙屋の店頭を充せり〟    〈アンンダーソンは、鳥居派や勝川派の着色の妙も、伝統的な土佐派の彩色法の流れのなかに位置づけられるとする。にもかか     わらず、開国以降の浮世絵は、安価な西洋絵の具を採用し、派手だが著しく品位を欠く版画を製作して、団扇屋や絵草     紙屋の店頭を飾っている。アンダーソンの日本滞在は1873-1880年(明治6-13年)だから、アニリン(洋紅)やムラコ(紫)を多用した刺     激的な色合いの版画が巷間に溢れていたはずである。錦絵は本来、植物性・鉱物性の顔料が使われていたが、文政12年     (1829)にベロリン(藍)が入ってきて以来、化学染料が広く使われ始める。明和2年(1765)、鈴木春信の温雅で上品な色調か     ら始まった錦絵も、明治に至って、地下の勝川春章も異を唱えるようなケバケバしい色調の錦絵に変貌してしまったと     いうのである〉   (第四編「日本画の諸特相」第三章)〈遠近法〉(152/179コマ)    〈下出の「劃線遠近法」とは線遠近法すなわち透視図法をいう〉   〝日本画の遠近法に附ては屡々(しば/\)議論ありたり、或は日本画には欧羅巴に行はるゝ所の所謂遠近法    なしと論じ、或は之と正反対の説をなす、然れども其説の相異なる所以は全く其「日本画」と云へる語の    解釈の異なるに因るなり。若し近来百年間に於て、欧洲の他の学芸の一端と共に和蘭画法の初歩を不熟の    侭(まま)吸収せる八九人の浮世派画家の画けるものを以て、日本画を代表するものとせば、日本画にも遠    近法ありとの説を維持するに足るべき数百の実例を提出すること難かるざるべし、然れども日本の鑑定家    の認めて正統派とする所の画家には、彼の全く劃線遠近法の法則を知らざる支那古法を離れたるもの、一    も之れなきは確実なり     (中略)    浮世派中には劃線遠近法に関して、不完全乍ら外国の思想を得たる者若干ありとの事実は前に既に之を述    べたり、始めて之を学びたる人は、第十八世紀【寛政前後】の画家司馬江漢なり、氏は長崎に住せし蘭人    某に就て、欧洲画学の一斑を学びたる後、『画図西遊伝(ママ)』(1794年・寛政六年出版)の図解及び其他    の方法に於て、其知得せる所の僅少の知識を其国人に知らしめたり、芝居に用ふる景色画(【訳者曰く、    所謂画割(カキワリ)なり】)の画家は忽ち遠近法の便益を察知し、直に其の知り得たる僅少の知識を応用せ    り、〈江漢の著、正しくは『画図西遊譚』(統一書名『西遊旅譚』)天明8年(1788)成稿、寛政2年(1794)刊〉    其後、葛飾北斎出でゝ馬琴の小説中に画ける一二の筆(第百図を看よ)及び他の若干の画冊中の挿画によ    り、氏も亦遠法に関して少なくとも前人の知り得たる丈(た)けは、之を知れる事を実地に證せり、然れど    も北斎は、遠近法を用ふるに非ざれば他に如何なる方法に因るも其望むが如き成績を得ること能はざる時    に限りてのみ、之を利用したり、    『江戸名所図絵』及び『東都歳事記』の画工、長谷川雪旦は又其『東都歳事記』に於て、茶店の内部を写    し出さんが為め、其少しく学び得たる遠近法を利用せり、只同一の板画中に於て新旧の法式を混用し其状    甚だ奇なり、而して此図を除く外は殆んど皆固く支那法を守れり、其他多くの有名なる画中には、往々遠    近法の画例を有せざるものあらざれども、画家の選びは常に旧画法に在り、『厳島図会』より採れる第百    五図(市中の景、遊女能見物に出る図)を観るに、画家の意匠とする所は屋根越しに眺めたる市街を写し    出すに在り、而して外国の画法を捨てたり、但し第百一図(厳島図会中宴会図)に於ては屋内にて漸消点    を画き出さんと力めたれども其成功を見るに至らず、〈漸消点は消失点〉    劃線遠近法に関し古風を脱して稍(やや)完備なる筆蹟を顕はしたるは、彩色摺版画に於て超群せる近世意    匠者の一人広重なり、氏の重なる画作は1830年~1850年の間【天保弘化嘉永年間】に於て世に出でたり、    氏は欧洲の画学を研究せんが為め幾分の辛苦を経たることを明かにして、風景画の意匠を設くるに於て、    其得たる所の知識を示さゞるは殆んど稀なり、唯未だ其蘊奥の境に達するを得ざりしなり、故に其実地に    臨み、難題を決せんと試むるに至りて、失敗の不幸に陥れり、例へば其画の英国博物館にあるものゝ中に    一画ありて、全体は甚だ巧妙なるも、遠近法を以て一の廻廊を画かんとし、屋頭座席及び欄干を精密に画    き出し、各々之を漸消点に向ひて集合せしめたるは可なれども、其漸消点の方向は遙に地平線上を過ぎ、    天の一角に飛び去れる如き奇観是なり、漫(そぞろ)に外国画を摸せしと思はるゝ所の第百一図、尚又第九    十八図(『北斎漫画』和蘭陀遠近法)に於て、其誤謬は殆ど此道の識者を待たずして発見し得べし、其他    苟(いやしく)も遠近法の適否を知らんと欲する時は之を見ること蓋(けだ)し易々(やす/\)たり、北斎は    『二十四孝図解』の一に於て明かに二ヶ処の視線中心線を示せり(【訳者曰く、一画は一時に一ヶ処より    見たる図なるべき筈なれば、一画中に二ヶ所より見たる状あるは不可なり】)而して其後の出版にて求め    ずして自ら滑稽に傾ける画本なる『横浜開港見聞誌』(1862年 文久二年出版)と云へる書に於ては、其    画工が遠近法の学理を深く研究するの労を取らずして直に其法の利益を収めんとしたる大早計の為め、其    画は之を瞥見して殆んど吾人をして、此画工は戯(たわむれ)に欧人の相貌と欧人の学理とを愚弄的に画き    て自ら慰みたるには非ざるかを疑はしむるに足るべき一種の奇観を呈せり、実に余輩欧人は此画を見て画    工を冷笑すべきか、若くは画工と共に余輩自身を冷笑すべきかを知らざらんとす    〈『横浜開港見聞誌』の画工は橋本王蘭斎(歌川貞秀夫)〉    1857年【安政四年】の頃出版せる岡田春燈斎の銅版細画帖には、其前後の時代に於て世に出でたるものよ    り一層能く蘭画の思想を得たる筆あり、啻(ただ)に遠近法の少しく許容すべき筆あるのみならず、又幾分    か光線陰影法の見るべきものあり、然れども日本人は此等の画をば、之を純粋の欧州画とし、日本画に非    らずとすることを記憶せざるべからず。凡(およ)そ同時代にして他の有名なる銅版の画本は『東海道五十    三駅』と名(なづ)くるものなり、其画法前者と同種類に属す、其他之に類せる画本は猶若干あるべし、    四條家の写正派を除くの外、所謂日本派の画家として知らるゝものにして、欧羅巴の遠近法を容れたるも    のなきは確実なり、然るに何人に就て学ぶもの吝(やぶさか)ならず稍折衷主義を取れる工芸画家(【訳者    曰く、浮世絵師を始めとし板下を画きしもの】)だも、敢て其古人より学びたる画法を離るゝこと稀なり、    若干の画家が尽したる辛労は単に例外にして通例は左の如く断言することを得べし、曰く、遠近法の学理    の日本画に於けるは猶彼の光線陰影法若(もし)くは解剖法の日本画に於けるが如き程度のものに過ぎずと、    日本の画家は劃線遠近法を欠くを以て之を償はんが為め、大に原物に過ぎたる大気遠近法を用ふ、又往々    想像的雲形を挿入して遠距離の感想を加ふる一助とす、此の法元来は便法に出づと雖も、而も亦実地の観    察に基く所多しとす、何となれば狩野派及び支那派の画中には、靄々たる大気及び熱帯又は半熱帯の地に    於て観るが如き溽熱時候の蒸発、気の濃層の状、歴然として目前に横はるを覚ゆるものあればなり、彼等    は不幸にして時刻及び季節に違へること少なからず、随て其画かんと欲する所の距離の効果を得んが為め、    時としては其事の実際に適合するや否やを顧みざるものありしこと明なり、     訳者曰く、嘗て錦絵の一種に浮絵と称するものありたり、其画の標題の冒頭に、特に浮絵の字を冠せり、     視線を集合して之を臨めば、恰も実景の眼前に浮出し来るに似たり、是れ蓋し浮絵の名を得たる所以な     り、此種の画は最も覗(のぞき)等に用ふるに適せるに似たり、其画は家屋・人物・景色等、皆芝屋書割     の筆法に倣ひ、能く劃線遠近法の主義を厳格に適用せり、唯其厳格に過ぐるが為め却(かえり)て機械的     痕迹多きに過ぎて絵画的趣味に乏し、是れ其特に浮絵の名称を付し、他種類の画と区別せし所以ならん、     此画名は久しく已に棄(す)たれり〟    〈アンンダーソンには日本人の透視遠近法理解は不十分に思えた。日本の多くの画家は「遠近法の学理を深く研究するの労を取ら     ずして直に其法の利益を収めんと」するために、消失点をあり得ない位置に置いたり、あるいは消失点が複数あるといっ     た奇妙な絵を平気で画いている。そんな中、唯一広重がこの画法を自らのものにしたらしく見えるが、それでも「未だ其     蘊奥の境に達するを得ざりし」で、やはりこの画法のもつ本質の理解には至っていないとする。この「蘊奥の境」とは西洋     近代の人間中心の世界観からくるもので、人間の身の丈から世界を捉えて、そこから見えてくるものを写実的に表現しよ     うということなのだろう。しかし、自らを無私の精神状態にしてなおかつ己の胸中世界を表出すること、そこに久しく意     を傾けてきた日本の絵師には、その切り替えがなかなか出来なかったにちがいない。近世日本人の透視図法に対する理解     が、選択の可能な画法の一つだというレベルにとどまったのはそのためなのだろう。西洋近代精神の本質的な理解の困難     さ、これは近世の人々に限らず現代人も等しく背負っているものでもあるが、身も心も西洋になるということは、日本人     としてのアイデンティティーを失うおそれもあるのだから、知的な理解にとどめておこうという身構えが働くのは当然の     ことなのかもしれない。ところで訳者・末松謙澄は、浮絵について「劃線遠近法の主義を厳格に適用」したために、覗き眼     鏡絵には適しているが「絵画的趣味に乏し」いとする。これを見れば、近世の人々が透視遠近法の受容を世界観のレベルで     捉えたのではなく、眼に快楽をもたらす有効なテクニックの一つとして理解し、利用したと言ってもよいのではないか〉     『江戸名所図会』七巻二十冊 斎藤長秋著 天保五-七刊      『東都歳事記』 四巻五冊  斎藤月岑著 天保九年刊     『厳島図会』  十巻十冊  岡田清編 山野峻峯斎他 天保十三年刊     『二十四孝図解』?      『横浜開港見聞誌』三巻三冊 橋本玉蘭斎編・画 文久二年序     『大日本名所銅鐫画帖』岡田春燈斎画 安政五年刊 銅版細画等の貼交ぜ    (第四編「日本画の諸特相」第五章)〈天象の観察〉(157/179コマ)   〝日本画家は往々筆を用ふること最も少なくして、而して最も完備せる種類の感動派的画趣を有する冬景を    写し出すに長ず、其法其紙の表面に白地を余し、之を以て直ちに雪を以て覆はれたる峯巒渓谷を現し、而    して数回の淡墨の暈筆を以て、陰気暗澹として寂寞を極むる状形を、空中及び物景上に施す、第五十四板    (竹堂筆 清水寺雪景)及び第百七図(北斎漫画 時頼入道佐野に赴く図)に示すものは雪景画の好例な    り。    日本画に於て光輝を画くものは常に其発光体の本源とは自ら相連続せず、随て影若(もし)くは他の微証に    よりて以て其の主動者たる発光体の性質若くは位置を知ることを得ず、在天の諸物体は光を発せず、又影    を投ぜざるなり、太陽を表する朱の団円物は単に装飾的符号なり、月は唯夜を表する徽章として之を画く    に過ぎず、実に日本画に於ては近世の挿画中に在るものを除くの外、月は常に夜景を示すに欠くべからざ    るものたり、日本画の夜景は日景と殆んど異なる所なく、纔かに天の一涯に数星を添へて其別を示すこと    を得るのみ、独り浮世派に在りては延長陰影法を捨てゝ用ひざるにも拘はらず、往々夜景の天空に就て甚    だ力ある妙趣を示し、且つ巧みに影画を用ひて精采を増す、第五十六図及び第五十六板(渓斎英泉筆 江    戸の日中及び夜間の両景 渓斎浮世画譜所載)は即ち其好例を示せるものなり〟    〈紙の生地を雪景に見立てた『北斎漫画』は、浮世絵も日本画の伝統を受けついでいることを示す好例。英泉の人物シル     エットによる夜景の表現は、必ずしも伝統に拘らない浮世絵の斬新さを示す好例〉   (第四編「日本画の諸特相」第七章)〈動物画〉(159/179コマ)   〝蛙の活勢を画くは或画家の長所なり、今猶存命なる暁斎の如き其一なり、氏が人間界の事情を嘲笑諷喩せ    んが為め、蛙群を駆逐するの技倆に至りては殆んど天授の偉才とするに足る(百十八図 暁斎筆 群蛙と    蛇を看よ)〟    〈激賞された河鍋暁斎の戯画、百十八図(タイトルは「暁斎狂画」95/179コマ)の款記は以下の通り〉    「明治十二己卯十二月 惺々暁斎筆〔◎斎〕」〈◎は「狂」か、示教を請う〉   〝日本画家が最も驚くべき奏功を示すは鳥類なり、其活動殊に飛行の状を写すの妙に於て、之に比し得べき    ものは独り其師たる支那の古大家あるのみなるべし、本書及び他の書に掲げたる許多の範例を看ば、雀よ    り隼に鴉より孔雀に至まで羽族の境界は彼等独特のものたるを見るべし〟   〝四足族に於ては亦均しく其の妙趣を存すれども、其欠点は密画に於て顕はる、此れ稍(やや)精密なる馬の    図に於て殊に人の着目を引く所なり、彼等は全く天然形の全美を解せざるが故に、其天然に違へる胴及び    四肢に筆勢を注入し得るも、殆んど吾人をして感ぜしむること能はず、然りと雖も欧州の大家は解剖学の    知識を有しながら、馬の馳駆踊躍の状を写すに、単に一位置而(しか)も拙劣なるものを創始したるに過ぎ    ざるに、第十六及び第十七世紀の狩野派は、欧州に於ては第十八世紀の初葉に至るまで未だ嘗て画上に現    はれざりし自在と雅趣とも以て、其廻走飛跳の状を曲尽(きょくじん)し得たるは感ずるに余りあり、    牛、鹿、犬及び猫の日本画は前者に比して劣る所あり、勿論往々巧妙にして活気を帯ぶるものありと雖も、    欧州の動物画と比肩すべきものなし、但し家鼠の単純なる形状は稍良結果を現せり、北斎及び暁斎の筆に    於て殊に其の然(しか)るを見る若(ごと)し、夫れ日本がの写生力の絶頂を示すものは、ラフェール以前の    画工を満足せしむる足るべき精細の注意を示せる四條派の去るなり、第六十八板(狙仙筆 松に猿 英国    博物館所蔵)及び第三十二板(法橋周峯筆 猿)は、最も猿を以て著はれたる二名家、狙仙周峯の画風を    示すべき好例として引用するを得べし〟    〈日本の動物画は解剖学的知識に基づいていないので、西洋人の目から見ると総じて感心できない。とはいえ、それらの     知識を欠きながらも、動物の躍動感を見事に表現しうる日本画の写生力・表現力には驚きを禁じ得ないというであろう〉   (第四編「日本画の諸特相」第七章)〈人物画〉(160/179コマ)   〝動物画の特相の全体に関して既に陳述せる断案は、又之を人物画に応用し得べし、点画少なき方法を以て    画けるものは其成迹佳良なり、其全身各部の比例は概ね其正を得、且つ一体に其面相並に肢体の動作の恰    (あたか)も生物の如き状形は殆んど之に過ぐべからず、唯ブアンダイク若くは支那の西金居士の意匠に出    でたるが如き肖像、若くは欧州の各画派が主として画けるが如き斜面体の如きもの、若くは解剖学上の形    状に就て観察したるものは、日本画界に於て殆んど見るべからず、第百二十六図(北斎筆 鬼児島弥太郎、    西法院赤坊主 和漢誉所蔵)の両雄力を争ふ図は、日本人物画の長所短所両(ふたつ)ながら之を示せり〟    〈「和漢誉」とは『絵本和漢誉』天保七年(1836)刊。日本の人物画は、特定の人物を表現する肖像画ではない、また斜め     から見た描写もなく、解剖学的な観察に基づく表現でもない、しかし北斎の絵を見ると、「面相並に肢体の動作の恰(あ     たか)も生物の如き状形」が感じられ、その欠点を補って余りあるほどのレベルに達しているというのである〉   (第四編「日本画の諸特相」第七章)〈人物画 武士〉(160/179コマ)   〝古流派の人々が好んで選みし画題は通例其達筆の妙勢を示すべきものを目的とし、直接に原物を実写せる    や否やは其画の価値を軒輊(けんち=優劣判断)すべき要素とは考量せざりき、狩野派及び支那派は其形状    及び性質は概ね皆伝説に基(づ)き、事実の研究を為すに要なき支那の賢哲及び仏家の善知識を画き、陸続    として幅又幅を重ねたり、之に反し土佐派は首として其労力を内国の歴史及び古話の図解に注ぎたるを以    て、宜(よろし)く他派の人為的構成を免(まぬか)れるべきものゝの如きも実際に於ては、彼等は真相の標    準に遠ざかること、反(つ)て益々甚(だ)しく、彼等が画上に於て吾人に表示せる旧日本の官爵威権及び智    力は一隊の土人形に異ならず、月卿雲客は不格好なる礼服に手足を拘束せられて、其面(おも)に生気なく、    名媛官女は礼儀は端正なるも、満身遅鈍にして其為す所は、其華麗なる錦繍の衣紋を乱さざるにのみ心を    労して日を送るに過ぎざるに似たり、此の如き気勢は近世紀に至り、浮世派の出るに及び全く一変したり、    彼等は大和土佐派の平穏にして寧ろ倦厭すべき人物に代ふるに、全く相異なる種類を以てし、武勇及び歴    史に関する新趣向を画き出し茲に一生面を開きたり、其面貌は憤怒し其眼光は烈火の如く、而して鮮血淋    漓(りんり=したたり落ちる)中に呼吸せる如き一軍の戦闘者を画界の陣頭に喚起し、時に或はバルザーカ    ルの如き大力と憤激とを以て敵人の首級及び四肢を乱伐するあり、時に或は四海を睥睨するの気概を以て    自ら其身を名誉の犠牲に供するあり、而して其最も奇怪なるは、其挙動及び面相を画ける張大の筆は、世    界に於て最も温柔にして最も平和なる一階級、即ち日本の平民社会を感ぜしめたるに在り、顧(おも)ふに    彼ら平民の境遇及び感情は、常に戦闘及び割腹を以て士族の特権として之を尊敬したるに拘はらず、彼等    の想像心は常に高飛して劇場勇士の誇大の動作に於て最も鋭敏なる感覚を表せり、其身自ら良家の士族な    りし菊池容斎の出るに及び、『前賢故実』と題する有名なる二十冊の書に載せたる歴史人物画い於て始め    て理想上の真武士及び新紳士を写すには生気と威厳とを併せ有すべきことを示せり、第三十五板(可美真    手及び日本武尊 前賢故実所載)第百二十七図(小野小町 前賢故実所載)及び第百三十一図(後藤実元    及び義朝女 同上)は其適例なり〟    〈古流派(狩野派・支那派・土佐派)が重視するのは運筆・筆勢であって、実物の写生か否かについては評価の基準にはな     らない。題材も聖賢・名僧・月卿雲客や古典に取材したものに限られ、また決まりきった表現のため総じて生気に乏し     い。これを一新したのが、浮世派と武者絵と菊池容斎派の歴史人物画。浮世派は炯炯たる眼光に憤怒の形相など、エネ     ルギッシュな面貌の表現で日本の人物画に新機軸を打ち出した。しかし浮世絵師は職人であって武士の気概を知らず、     また表現も芝居の誇大な所作に基づいているため、奇怪で鮮血滴る殺伐たる武者絵となってしまった。そこに菊池容斎     の『前賢故実』が現れる。彼は故実に基づいて生気と威厳に満ちた理想的な武士像を創り上げ、歴史人物画というジャ     ンルを切り開いた、とアンダーソンは見る〉    〈人物画 庶民〉(161/179コマ)   〝然りと雖も工芸画家は特有の一長所を発揮したり、往時の画工は其門地及び修練共に貴族的なりしを以て、    庶民に関しては其筆を煩はせしこと稀なり、役夫若くは商人を其画中に挿入するは、殆んど酒杯若くは脅    息(ママ脇息の誤記か)に均しき附属物たるに過ぎず、第十七世紀の浮世画の大家と雖も、普通人民に対して    は著しき同感の情を表せしことなし、此の如くして日本風俗の最も特殊なる形象を写すの一事は其後に起    りたる浮世絵師の筆に委し(ママ「ね」の誤記か)たり、吾人が、彼の温和にして野心なく哀楽共に小児の如く    愛すべき所あり、其性質は鄭重にして親切に富み、商売上に於ては敏捷にして殆んど理想上の正直に過ぐ    るの行ひあり、而して過度の辛労を待たずして其十分なる食糧を得、及び費用を要せざる奢侈と定期の祭    日に要する資本とを得る以上は、嘗て其施治者の誰なるや、若くは其国教の何たるやを問はずして、太平    に鼓腹せし日本平民の情態を捜索するは、只此百年以降の画帖及び名所図会の鏡面に反映せるものに於て    せざるべからず、此等の状態を容易に詳悉し得たるにも拘はらず、浮世絵師は其教育及び交際の異なれる    よりして、殆んど彼等をして古流派の筆端に上りしが如き画意を試むるに適せざらしめたり、彼等は武将    賢宰若くは公卿を画くに演劇に観る所の外、更に高尚の標本を求むることを得ざりしなり、而して之を看    る士君子をして、是れ皆壮麗なる衣服若くは甲冑を纏ひたる俳優の打扮に過ぎざることを容易に喝破し、    以て此の如き偽物を以て満足せる画は空虚にして且つ鄙俗なりと判定せしめたるも、亦決して驚くべきに    非らず〟    〈古流派(狩野派・支那派・土佐派)が人夫や商人のような一般庶民を題材として画くことはなかった。これを一変させた     のが、やはり浮世派で、鼓腹撃壌、太平の世を謳歌する「平民の情態」を好んで画いた。ただ浮世絵師は古流派が取り上     げるような「武将賢宰若くは公卿」の図様は得意でなかった。彼らの受けた教育及び交際範囲に限りがあるためで、それ     らを描くにも、如何せん芝居俳優の扮装に頼るほかなかったからである〉    〈人物画 婦人・役者〉(161/179コマ)   〝第十七世紀の末葉に起りたる浮世絵は始めて稍々見るべき婦人の容貌を写し出し、菱川師宣及び其後に出    たる奥村政信は其同国の婦人を写すに稍其正鵠を得たり、第十八世紀の中葉に於て、西川祐信其理想に一    進歩を加へ、尋(つい)で勝川春章、栄之、北斎、北尾重政等、又少しく之を変ぜり、試(み)に見よ、羞を    含みて微笑せる処女及び慈愛掬すべき老婦の、北斎漫画の紙上より徐(おもむろ)に会釈するものは、何等    の日本人も之を其平民階級に属する温雅なる同国人の秀像として認むるに踟蹰するを要せざるなり、唯上    流社会に属する一層幽閑貞静なる理想上の美形を写し出すの技倆は、更に将来の名手を俟たざるべからず、    五十年来一新形の画出で来れり、役者絵是れなり、廉価の団扇に貼付せる華美の木板彩色画を購求するの    人は其男女の容貌の一種の新相を現せるを見るならん、顔は小くして長く、目は細くして甚しく斜傾し、    口は直く且つ広くして、薄唇の鋭く且つ精確なるものを有し、而して或る土佐派の画家の画ける如き無雅    趣の一扁鼻を変じて著しき鉤鼻とせり、此等の特相は一々皆空想に出でたるに非らず、其実多くは男女形    の名優を写せるものなりと雖も而も彼等は蓋し之を以て貴人の真相とするに踟蹰せざりしなるべし、顧ふ    に此の如き相貌は今尚京都公卿の後裔中に見得べきものにして、世間或は貴人の美相の理想的標準とせし    ならん、之れが為め俳優の過大に模擬する所となり、遂に浮世絵師の筆に上るに至りしものならん〟    〈『北斎漫画』に見るように、浮世絵は平民の肖像を画くことは得意だが、「幽閑貞静なる理想上の美形を写し出すの技     倆」はまだまだ、とアンンダーソンはいう。また最近の役者絵の面相が現代の京都公卿の後裔の相貌に似ているのは、役者が     それを理想的な美相として過大に模擬しているからだという〉      〈人物画 婦人・役者〉(161/179コマ)   〝種々なる感情の面色を写し出して画学生の指導に供せるループラン(【訳者曰く 有名なる仏国画家の名】)    及び真骨相の研究を分析して一科学とせるベル(【訳者曰く 英国医師の名】)及びダルウヰン(【訳者    曰く 同上】)は未だ日本に起らざりき、(中略)    然りと雖も、浮世派に至りては其画の性質上よりして既に明確に画中の人物の内部の感情を画面に顕然た    らしめざるを得ざるものあり、故に英一蝶及び菱川師宣の作には骨相学上の実地観察に基(づ)けるもの多    し、第十九世紀の浮世派は更に此点に向ひて力を尽せり、彼等は舞台上の団十郎、左団次一流の演芸を標    本とし、好んで傷心苦慮の感情を写出し、写正(ママ)に於て足らざる所あるものは筆勢の雄健を以て十分に    之を償(つぐな)へり、蓋し舞台の演芸に於て面相の如何に注意するの極は、演技の要所に至る毎(ごと)に    特に蠟燭を持する者をして、演者に随伴して一挙一動其顔色を照さしめ、以て看客をして時々刻々の変化    を詳密に観察するの便を得せしむるに至れり〟    〈日本にはヴィジェ=ルブランのような肖像画家もベルやダルウィンのような解剖学者も未だ生まれていない。しかし浮     世派、特に一蝶や師宣の作の中には「骨相学上の実地観察に基(づ)けるもの」も多い。そして19世紀以降になると一層こ     の傾向に拍車がかり、役者の感情を好んで写し出しすとともに写生で足りないところは筆勢でもってカバーするような     役者絵も登場する。日本の観客が役者の面相にどれほど注目するかは、舞台上の役者の演技が要所にくると、随伴する     ものが蠟燭でもってその「一挙一動其顔色」を照らし出すことでも分かる〉    (以上 2020/06/30 収録完了)