Top       「日本美術品の説」(浮世絵の部)        浮世絵文献資料館                アルネスト・ハールト 講演      その他(明治以降の浮世絵記事)    出典:「読売新聞」明治二十年(1887)五月連載記事    (1886年(明治19年)5月 英国工芸協会で行われたアルネスト・ハールト(Hart・Ernest)の講演をもとに編集したもの。     明治二十一年十二月刊『美術工芸前途之方針』所収の「日本美術品の説」を参照した)    ※原文は全文ルビ付きだが、煩雑を避けて半角カッコ(るび)のかたちで適宜施した。     また原文には句読点がなく読みにくいので、一字スペースを入れて区切った。     記事中の「余」は講演者のアルネスト・ハールト。備考および按記は読売新聞社のもの     例(48/106コマ)は上掲『美術工芸前途之方針』を所蔵する国立国会図書館デジタルコレクション画像の番号   ◇又兵衛派(明治20年5月6日記事 48/106コマ)   〝又兵衛派 通俗派 第十六世紀の初に方(あた)りて 又兵衛なる者あり 初め土佐光茂の門弟なりしが    後(のち)土佐派より独立して 通俗倭画(やまとゑ)の一派を開創せり 欧州に於ては此画風を称して日    本人民の特性を表せるものなりと云ふ 要するに又兵衛は 重(おも)に人民の生活及び其(その)他日常    目撃せる所の模様を画に顕(あら)はすを以て得意とせり 其晩年に於て画きたるものは 頗(すこぶ)る    精妙にして価値ありと雖(いへども)も 惜いかな 其遺蹟の今日に存するもの甚だ尠(すくな)し 諸君    余の所蔵に係る此又兵衛の画を見よ 一見して其画風の精緻なると 其筆蹟の活達なるとを知るべきな    り 其門弟中 師宣及び長春は共に当時の優手にして 今尚ほ其遺蹟を称揚す 余は師宣の遺蹟を所蔵    せざれども 茲(ここ)に掲ぐる日本婦人の肖像は 長春の画きたるものにして頗る優美なり オーヅレ    ー氏は 其日本美術なる著書(Ornamental Arts of Japan)に於て之を摸倣せり 師宣は近世に於ける    有名の画工にして 書籍の画を為すことに長ぜり 当時の彫刻者は師宣の画きたる日本紳士の肖像 又    は詩意の解釈 又は日本古話の実情 又は美婦人の肖像を得て 大いに其専業の意匠を助けたりと云ふ〟    (備考 扶桑画人伝を按ずるに 又兵衛 氏は岩佐 名は勝重 世に浮世又兵衛と称す 浮世絵と唱     ふるものゝ始祖なり 慶長中京師に出て 土佐家の門に入り 倭画を学び研究して 後一家の流義     を立てたり 其画く所は当時風俗の人物、美人或(あるひ)は遊女・白拍子等遊興の戯画を作(な)す     に巧(たくみ)なり 其筆意緻密にして最も濃厚なり 彩色を厚くせるが為(た)め 頗る美麗にして     人之を称誉す 今を距(さ)る大約(おほよそ)二百六十年前の人なり     師宣 氏は菱川 通称吉兵衛 友竹と号せり 房州の菱川吉左衛門光竹の子なり 初め縫箔師を以     て其業と為(な)せしが 常に図書を好みて 土佐の画風を慕ひ 又岩佐又兵衛を学びたり 凡そ遊     戯(ゆうげ)の図を写すことに於ては 又兵衛に続きて当時の優手にして 画名にも日本画菱川師宣     と記せり 今を距る大約二百年余の人なり 其遺蹟著名の品を掲ぐれば 花見の図 演劇の図 花     街の図 四季遊山の図 船遊の図 春宵秘戯(ひげ)の図等なり     長春は宮川氏 江戸の人なり 元禄 享保年間に在りて倭画を修め 土佐派の画風を慕ひ 又岩佐     又兵衛の図に依りて 当時の風俗・人物・及び遊戯の模様を写し妙を極めたり 世人其の画を愛翫     して師宣に次ぐべきものとせり 長春亦(また)師宣の如く 其落款に日本画宮川長春と記せり 其     子孫勝川と改め 浮世絵画に名を得たり 今を距る大約百九十年前の人なり)   ◇浮世派(明治20年5月19日記事 53/106コマ)   〝浮世派 浮世画(うきよゑ)は 古来彫刻及び絵画挿入の書籍(しよじやく)に於て 多く見る所なり 而    (しかう)して諸君も知らるゝ如く 日本の彫刻品中 其最も前代に行はれたるものは仏像にして 当時    仏像信者のために木材に仏像を彫刻して 之を紙に印書し 以て之を広く分配せり 左(さ)れば仏書中    にも亦屢々(しば/\)画像を挿入せしことあり 然(しか)るに近世に至りては 書籍に挿入せる絵画中    其最も賞賛せらるゝ所のものは 独り浮世派と狩野(かの)派との画に帰せるものゝ如し 抑(そもそ)も    浮世派に於て 最も有名なる菱川師宣は 千六百七十年乃至(ないし)千七百年の頃に在りて 許多(あ    また)麗妙の画を作り 之を印書するに文雅清浄の黒墨(こくぼく)を以てせり 然れども 現今其遺蹟    甚だ罕(まれ)なるを以て非常の価(あたひ)あり 師宣の門弟は東都に在りて此画風を発達し 尋(つい)    で千七百年の頃に至りて 鳥居清信及び奥村政信の二工は大いに之を世に弘めたり〟    (按ずるに 鳥居清信は通称を庄兵衛と云ひ 江戸難波町に住せり 清信は初(め)菱川の画風を学び     之を画きしが 後一変して遂に一家を成せり 当時劇場(しばゐ)の看板は多く鳥居の画風を以てせ     り 又清信は江戸画(えどゑ)と称する一枚摺の画(ゑ)を世に出し 或は草双紙(くさざうし)等の板     下(はんした)を画き 大に世の好評を得たり 元禄・享保年間の人にして 今を距る大約二百年前     の人なり     奥村政信は志道軒 花月堂 又は丹鳥斎と号し 通称を源六と云へり 江戸塩町に於て書肆を業と     し 傍ら浮世画 又紅画(べにゑ)を画き 許多(あまた)草双紙を発行せり 今を距る大約百七八十     年前の人にして 清信と共に当時の良工なり)   〝大阪に於ては橘守国と云へる狩野派の画工あり 二十種余の画書を著し之を発刊せり〟    (按ずるに 橘守国は素軒と号し 通称を惣兵衛と云ひ 大阪に於て画書を著せり 今を距る大約百     四五年前の人なり)   〝京都に於ては西川祐信なる者ありて詩画を著せり 其画は形態の優美を顕はすことに長ぜり 蓋(け    だ)し三都の風俗並(ならび)に其流行の競争は 日本の彫木術を完全の域に進めたり〟    (按ずるに 西川祐信は通称を右京、号名を自得斎又は文華堂と云ひ 狩野永納の門に入りて 画を     学び 後浮世画に変じて有名なり 其最も長ぜる所のものは春宵秘戯の図、婦女戯(たはむれ)の図     及び俳優(やくしや)の肖像なり 今を距る大約百七八十年前の人なり)〟    (明治20年5月20日記事)   〝江戸の画工に鈴木春信なる者あり 許多の草双紙を発行して好評を博し 又錦画を以て有名なり 蓋し    春信の錦画は素(も)と誰の画法に拠りしやを知る能(あた)はずと雖(いへ)ども 既に千六百九十五年の    昔時(むかし)に在りて 之を画きし者ありと伝ふる人ありと云ふ 或る記録に拠れば 之を菱川師宣の    伝なりと云ひ 或は鳥居清信の発明に係れりと伝へ 又之を西村(按ずるに 西村とは西村重長のこと    を云ふならんか)より学びたるものなりと云ひて 未だ其確証を得ず 然れども最初の錦画は概ね紅色    を以て之(こ)れを画き 間々(まゝ)金泥を附せりと雖ども 之れを後のものに比すれば 其及ばざるこ    と甚だしく 且(かつ)其粗密日を同じくして談ずるべきに非らざるなり 是より後 年を経るに随ひて    経験及び工夫の二事漸く進み 降(くだ)りて春信の時に方(あた)りては 大(おほい)に此進歩を顕した    り 蓋し春信が筆力の進歩を顕すを得たるは 千六百七十五年を以て 江戸湯島天神社内に於て開かれ    たる一大祭典の時にあり 此時二人の少女は 同社内に於て神舞を為せしに 其技(ぎ)頗る時人の賞す    る所と為れり 春信は此舞妓(ぶぎ)の肖像を画き 之れを印刷せしに 其画様及び彩色 春信が実際に    見たる所と毫(ごう)も異らずして 頗る妙技を顕せるが為め 一大栄名を博するを得たり 爾後(じご)    絶えず彩色画(ゑ)を発行して 世人の好評を得たり 是れ日本浮世絵の歴史上に 一大新時期を開けり〟    (按ずるに 鈴木春信は湖龍斎と号し 西村重長の門人にして 浮世絵を善(よ)くし 又吾妻錦絵を     以て有名なり 当時江戸中彩色の摺物 頗る流行せるを以て錦画を作れり 然れども其一世中 決     して俳優の肖像(にがほ)を画(ゑが)かざりき 明和六年 江戸湯島天神の境内に於て 泉州石津笑     姿(えびす)の開帳あり 于時(ときに)二人の美婦舞踏を為せり 本文に千六百七十五年とあれども     千六百七十五年頃は師宣在世の時にして 春信は未だ世に出でざる前なり 春信が画を以て有名な     りしは明和中なりしを以て考ふれば 茲(ここ)に千六百七十五とあるは千七百七十五年の誤なるべ     し 又江戸谷中笠森稲荷の前なる茶屋の娘仙(せん)女と 浅草楊枝(やうじ)屋の娘藤(ふぢ)女の肖     顔(にがほ)を錦画に摺出し 当時頗る愛翫せられたり 春信は宝暦明和安永中に在りて 今を距る     大約百二三十年前の人なり)     〈この按記は春信と湖龍斎との混同している。また湯島社において二人の巫女が舞った明和六年は1769年である〉   〝其後 同時代の画家は之れに基きて各々其業を修め 就中(なかんづく)北尾重政及び勝川春章の二工は    当時に在りて其名を顕すに至れり 此二人は春信の画法に基きて 許多草双紙の画を作れり〟    (按ずるに 北尾重政は俗称を左助 号を紅翠斎又は花藍と云ひて 江戸大伝馬町に住し 後根岸に     転じ 浮世絵を善くし 就中武者絵に巧妙なり 又勝川春章は俗称を祐助 号を旭朗斎と云ひて     浮世絵を善くし 俳優の肖顔又は五人男の画又は武者絵に巧妙なり)    (明治20年5月21日記事)   〝鳥居派の画工は新機軸を出し 当時世に栄えたり 其内関清長なる者あり 鳥居画を大形に為し 三枚    一揃(そろひ)の摺物を世に出せり 蓋し清長の画風は 其後に出でたる錦画師(にしきゑし)又は彫刻師    等の学ぶ所と為れり〟    (按ずるに 清長は通称を新助と云ひ 鳥居清満の門弟にして 三歌舞伎の絵看板を画き 又錦画に     於て有名なり)   〝其他細田栄之・磯田湖龍斎・北川歌麿・歌川豊国等は 皆清長の画法を学べる者なり〟    (按ずるに 細田栄之は鳥文斎と号し 徳川氏の家人(けにん)にして 江戸本所割下水に住し 浮世     絵を善くし 就中美人の画に妙なり 磯田湖龍斎は俗称を庄兵衛と云ひ 江戸小川町土屋家の浪人     なり 後薬研堀に住し 浮世絵を善くせり 北川歌麿は通称を勇助と呼び 江戸弁慶橋辺に住し      浮世画を作(おこ)し 男女の風俗又は錦画を善くせり 歌川豊国は倉橋五郎兵衛の子にして 通称     を熊八 号を一陽斎と云ひ 芝神明辺に住し 人形細工を業とせしが 性画を好み 歌川豊春に就     き浮世絵を学び 歌川を以て氏と為せり 当時美人の風俗又は俳優の肖顔を写すことに妙を得 且     つ浮世絵画の名技たり 文政中五十七才を以て死せり)   〝勝川春章は鳥居派と一派殊なる所の妙を以て 演劇の状及び俳優の肖顔等を摺出し 其門弟春好も亦師    春章の名を貶さゞりき 此時に方りて鳥居派の画 頗る世に行はれ 其画法を学びたる者等は 一枚摺    の江戸絵又は俳優の肖顔等を摺出したれども 其彩色、紙質共に劣等のものなりき 然るに清満は独り    優美の画を出せり〟    (按ずるに 鳥居清満は清倍の子にして 歌舞伎の絵看板 又は一枚摺の江戸絵 又草双紙の板下絵     に妙を得たる人なり)   〝一筆斎文調なる者あり 春信の彩色を学び 俳優の肖顔を画きたり 然れども俳優の愛嬌を顕す事 虚    飾に過ぎたるが為め 惜ひかな其画、妙を缼(か)けり 独り彩色及び全体の風俗に至りては 特殊の妙    あるものゝ如し〟    (按ずるに 一筆斎文調は男女の風俗及び俳優の像を画きしが 後法橋に叙せられて 浮世絵を作す     事を廃したりと云ふ)〈「法橋」云々は、文調と湖龍斎とを混同したようだ〉   〝春章の門弟中 曾(かつ)て文学を修めたる人にして 絵画に於て非常の奇才あり 後躬(みずか)ら文道    を廃して 専ら画道に身を委ね 以て当時の通俗画工と為り 遂に其名を古今に轟したる者あり 是れ    余輩が常に慕愛する北斎其人なり 北斎は第十八世紀の終りに方(あた)りて 大部の画書(按ずるに     茲に大部の書と云へるは『北斎漫画』の事なるべし)を著し 日本絵画社会中 意匠の独立を以て頗る    名誉を得たり 蓋し其の想像に(ママ)豊富にして 生活上の現象は言ふに及ず 宇宙の実景を画くにも     人情真実及び精密の三事を完具せし事は 他人の得て及ばざる所なり 北斎の画蹟は広く絵画世界に於    て尊敬せられ 苟(いやしく)も日本流の絵画を学ぶ者は 之れを参考せざるはなく 其画世界に於て大    功ありし事は 余が喋々を要せずして ヂユーレー氏の記録 ゴンス氏の著書 及びアンダーソン氏の    称道する所に拠りて知るべきなり 昨年ホヰストラール氏が 其美術論に関せる演説の結論に至りて     談北斎に及びしが 氏はヴァンダイク以降 北斎其人の如き画家は 曾て世界中に見ざるなりと迄(ま    で)に云へり 加之(しかのみならず)北斎の画蹟は リード、アレコツク爾他(じた) 欧洲美術家の絵    画に関する著書中に於ては 必ず画解(ゑとき)の基礎と為れり 北斎の大家なりしことは 以上の事に    由りて知るべきなり 偖(さて)余が茲に諸君の見覧に備へんとする所のものは 其筆蹟の摺物、画書等    に止まらずして 夫(か)の有名なる掛物 即ち節分追儺の図を画ける軸に在り オーヅレー氏は日本美    術と題する其著書中に 此画を模図して登載せり〟    〈「爾他」ここでは「じた」のルビだが、以下はすべて「そのた」とある〉    (明治20年5月22日記事)※「爾他」のよみは「そのた」   〝又余は北斎の筆に成れる四十有余の蒐集を得たり 蓋し是れ北斎の存命中に在りて計画せし画の一にし    て 其内僅かに百人一首の画解(ゑとき)の一部は出版せられたり 其未だ出版せられざるもの 即ち今    余の所蔵するものは近年に至るまで 人皆其日本に在るや将(は)た其欧州に在るやを知らざりしに 豈    (あ)に図らんや 近頃其極書と共に余の手に入りたり 左れば余は更に其筆蹟の真偽を鑑定するの必要    を見ず 躬ら無比の至宝と看做(みな)し 爾来(じらい)之を愛蔵す 諸君茲に之を見よ 其画法の神速    にして精密なる 其触覚の真実にして細密なる 其意匠の無限 其天才の非凡 必ずや諸君を満足せし    むべし 此等の画蹟は爾他(そのた)北斎の画筆の如く 初は木材に彫刻するの目的を以て之れを薄紙に    画けり 若(も)し北斎にして此等(ら)の画を完成し 爾他筆蹟の如く出版せられたらんには 其原筆竟    (つい)に滅却せられたるならん 抑(そもそ)も日本の木板者が木板を彫刻するには 原画を木材に接合    するを常とす 故に木材を彫刻すれば 其原画滅せられて 復(また)之れを得(う)べからず 然るに余    が原画の儘(まゝ) 今に之を蔵するを得たるは 梓(あづさ)に上(のぼ)さずして止みたるに因(よ)れり    とす    巴里(パリイ)のギルロー氏は 嚮(さき)に近時写真法を以て 此等北斎の画蹟を写さん事を余に請へり    余思へらく 之れを写真に撮影するには 毫も原画を損する所なしと 因(よつ)て余は即ちギルロー氏    の請(こひ)に応ぜり 北斎の遺蹟中多くは彩色の摺物なり 此摺物は我が新年の紙牌に似て 之れより    一層機巧なるものにして 或時は良工の筆に成り又或時は自家独流者の筆に成るものあれども 孰(い    ず)れも丁寧なる彩色画にして 此等は重に新正の時 其知己への贈物と為すべきものなり 北斎の摺    物画は頗る巧妙にして 爾他画工の得て及ばざる所なり 但し其精撰巧妙のものに至りては 宛(あた    か)も茲に陳列するものゝ如し ゴンス氏は北斎の摺物画を摸写して 之れを其著書中に登載せり 西    紀千八百四年は日本一般祝賀の年(甲子の歳なり)なりしを以て 同年一月に方りては 第十八世紀の    慣例に因りて 各種の摺物を夥多(あまた)発行せり 北斎又其恩人の需(もとめ)に依り 労力を尽して    之れを画きしに 其画最も好評を博し 凡(およ)そ画家中彩色画に於ては 之れに及ぶべきものなしと    まで云へり 其筆蹟妙巧を極むるに由(よ)り 其価値亦頗る高貴なるにも係はらず 余は特殊の嗜好あ    るがため 巨額の金員を投じて 之れを蒐集するを得たり 北斎の世に在るや 其画けるもの甚だ多か    りしと伝ふれども 其画蹟の今日に存するものは甚だ寡(すくな)く 為(ため)に之れを得る事難し 其    門弟等(ら)亦精巧の摺物を発行せりと云ふ〟    (按ずるに 北斎は葛飾氏にして 通称を鉄二郎と云ひ 北斎、宗理、辰政、雪信(せつしん)、戴斗     等と云へり 初め画を勝川春章に学び 後古人の遺蹟を追慕し 之れを学びて一家を成せり 其画     く所の神社、仏閣、宮殿、楼閣より山水花卉に至るまで悉(ことご)とく真に迫り 又狂画を善くせ     り 曾て『北斎漫画』を著し大(おほい)に世に行れたり 其着色緻密の者は応挙に 水墨の粗なる     ものは文晁に似て 粗密共に妙を極む 嘉永二年九十歳を以て死せり)   〝此より後 清長の大形画は一般浮世派の学ぶ所と為り 且つ豊国及び其門弟の力に依りて 一層世に広    (ひろま)れり 蓋し清長・豊国等は孰れも有名の画工にして摺物を発行せり 然れども世上に於ける需    要の夥多(くわた)なりしと 其価値の廉低なりしとに由りて 漸く其着色、仕上等を粗雑に為せり 北    斎は此等摺物の版下の外(ほか)に許多書籍の画を作(な)せり 此等の画は全く墨画或ひは少彩色入りの    墨画なり 要するに北斎の画蹟は何々なりや 未だ之を尽すに由なしと雖も 其天資の画才を充分に研    究するがためには 其重立(おもだち)たる筆蹟を実察する事頗る緊要なり〟   〝一立斎広重は彩色板下画を作すことに妙を得 就中其東海道の図の如き 遠近写法の妙を写すに至りて    は爾他同時代に於ける画工の及ばざる所なり〟    (按ずるに 一立斎広重は安藤某の子にして 名は元長(もとなが) 俗称を徳兵衛と云ひ 江戸の人     なり 初め画法を岡島林斎に学び 後歌川豊広に就き 景色(けいしよく)の図を善くせり 安政五     年六十二歳を以て死せり)   〝豊国流の画は国貞之れを受け 国貞は後師名を襲(つ)ぎて豊国と改め 彩色画板下画を善くせり〟    (按ずるに 国貞は氏を角田 通称を庄蔵 号を五渡亭又は香蝶楼と云ひて 江戸本所の人なり 画     法を豊国に学び 天保年中 師名豊国を継ぎて其名とせり 柳亭種彦著「田舎源氏」の図を画きて     有名なり 元治元年七十九歳を以て死せり)   〝長谷川雪旦は「江戸名所図会」二十冊を著して有名なり 其遺蹟は此図書館に於ける 余の蒐集中    に就きて見らるべし〟    (按ずるに 長谷川雪旦は名を宗秀、号を巌岳斎又は一陽菴と云ひて江戸の人なり 画を以て法橋に     叙せられたり 家世々(よゝ)雪舟の画風を守り 雪旦甚だ之を善くせり 「江戸名所図絵」を画き     頗る名あり 天保十四年六十六歳を以て死せり)   〝画入(ゑいり)書籍及び彩色版刻は 此二十年来 日本に於て衰凋を極めたり 其今日の発行に係るもの    ゝ如きに至りては 図画不完全、彩色未熟、仕上粗雑にして 実に見るに足らざるなり〟