Top  「側面から観た浮世絵三名人 一勇斎国芳」樋口二葉著  その他(明治以降の浮世絵記事)  ◯「側面から観た浮世絵三名人」樋口二葉著(『錦絵』第七号 大正六年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)((かな)は原文のルビ。(カナ)は本HPのルビ)   〝(一勇斎国芳)     歌川系に於て筆力秀勁意匠巧妙なのは、国芳を推さねば成らない、何人も之れに異存はあるまいと思    ふ。其国芳は寛政九年十一月銀座一丁目に生れた、父は柳屋吉右衞門と云ひ、後井草氏を継いだのであ    る。通称孫三郞、幼名を芳三郞と云つて、京紺屋の徒弟に成つたが、父が上絵を描いたので幼時から傍    らに在つて筆を持ち、武者絵を描き其十三歳のとき、鍾馗の剱を提ぐる図をかき、一世豊国の見出す所    となつて其門に入り、忽ち先輩を凌駕して国の一字を許され国芳と名乗り、一勇斎又は朝桜楼と号して    国貞と覇を競ふたは、誰れも能く知る処で玄冶店の師匠で通つた大家である。最も玄冶店は大成後の住    居、其前は本白銀町二丁目、向島、米沢町、長谷川町等に住し、最後に新和泉町玄冶店にどつしりこと    構へ、縮緬の褞袍(ドテラ)に三尺帯を締め、私(わつち)お前の巻舌で江戸子気象を発揮させ、狭きなが    らも坪庭に木石など配置して、瀟洒な家に先生風でなく大親方を気取り、大胡坐(アグラ)をかいて六十    五歳まで机に向つて居たのである。     国芳はチヤキ/\の江戸子肌であつた、肌合であつた、最一ッ砕ひて云ば職人風であつた、宵越の銭    は持ぬといふサツパリした風で、画料などを取ると直ぐパツパと使つて、跡で米塩の料にも困るやうな    事が往々あつた。であるから礼儀礼譲と云ふやうな事は無論好まない、随つて其品行の如きも豊国(か    めいど)とは正反対で言語動作ともに卑しい、常に鳶の者等と交際をして、頗ぶる火事好であつたので、    ヂヤン/\と半鐘の音を聞くと、どんな真夜中でも飛起き、道の遠い近いの別なく馳せ行き、消防の助    けをして危きを顧みない、成る事ならば纏を振て威勢よく、一度は黒煙渦(うづま)き掛る屋上に立つて    見たいと云つてゐたそうだ、以て其性行の一斑は窺はれるぢや無いか。     左様(さう)した風ではあつたが、狂歌師の梅の屋鶴寿と心易くなつて深く交はり、又儒者東条琴台と    も意気投合して親交した。琴台は俗称文左衛門、名は信耕、字は子蔵、呑海翁と号し下谷三味線堀に住    居(すま)つた人、梅の屋は室田又兵衛と云ひ、秣翁(まぐさをう)とも号し、佐久間町に住み秣商であつ    たが、この人と心易くなつたは国芳が向島に居る頃で 当時未だ国貞と肩を並べるの地位に至らず、板    画の下絵を頼みに来る者もなく、偶々思ひ付た三枚続の絵などを描き地本問屋へ売込みに行けど、思ふ    やうに出版を快諾し呉れず、或時馬喰町の問屋へ三枚続一番を携へて行きしも 種々の文句を聞かされ    再び之れを懐中にし怏々(すごすご)として両国橋へ掛り、欄干に何心なく観下(みおろ)せば 一隻の遊    山船より 芳さん/\と呼ぶは知り合いの芸妓である、客は何者と熟視(よくみ)ると兄弟子の国貞であ    つたから、憤慨して懐中の絵を掴み出しズタ/\に引裂いたと云ふも此頃で、国芳が最も窮境にあつた    時分だ。さうして熱心に修行し疲れると、田園を彷徨(うろ/\)して数十匹の蛙を捕へ来て庭前に放ち、    其滑稽な姿を眺めガア/\と鳴く声をきゝて楽んで居る処へ 一日梅の屋が来て其描く絵の筆力非凡な    るを見て歎称し、之れより国芳の為に諸肌脱いで力を添へ、江戸向へ出づるを得たも其助力であつたが、    爾来(じらい)数十年間 衣服庖厨は梅の屋の好意で支へて居たと云ふ事である。     名を成して後も常に手許が緩やかでなかつた、画料も相応に取れるし殊に刺青(ほりもの)が流行(ハ    ヤッ)て、其下図は国芳でなければ幅が利かぬ処から、中々の謝礼を受けるので立派に門戸を張る事が    出来る筈を、何うして何時もピー/\風車で居るかと云へば、画名の四方に轟く頃より常に吉原に遊び、    一月の中その半(なかば)は妓楼または茶屋に在る始末だ。それで心得た問屋は吉原へ行きて絵の注文を    すると、妓楼にても茶屋にてもお構ひなく平気で筆を執り、興に任せて描たものであるさうな。又家に    在つても急に遊意兆(きざ)して来ると、門弟の誰れ彼れなしに伴ひて遊廓(くるわ)に往き、門弟等には    昼三(チューサン)の花魁(おいらん)を買せ、自分は二朱の新造(しんぞ)を招き平然たりしと云ふが、平    生も勿論であるが、斯(か)かる時は殊に先生と呼ぶを嫌ひ、弟子を始め問屋の小者に至るまで 芳さん    を以て呼(よば)しめ、若(モ)し先生などゝ云ふ者あれば 大いに怒られたと云ふ事である。又祭礼を好    み、ある年日枝山王の祭礼に門人等と相談して共に手踊に出で、練物の列に加はつて国芳の踊りを上覧    にも供し、得々(とく/\)として其図を三枚続に描き売出した事もある。総てが斯様(こんな)やうであ    る上、宵越し銭は持ぬといふ肌合ひだもの、何うしても福の神を親類に持つことが出来なかつたのであ    る。     然(さ)れば羽織を着たり袴をはくと云ふ事は殆んどない、其様(そんな)場合は避けられるだけ避けて、    篦棒奴(べらぼうめ)窮屈袋なんかはかされて堪るものかと、何時も逃出して吉原に隠れるが例であつた。    国芳の談になると河鍋暁斎翁が能く話して居たには、或日国芳(げんやだな)と豊国(かめゐど)の二人が    ある諸侯の席画に招かれたが、国芳は例に依つてそんな窮屈な所は御免だと断つたけれど、何うしても    断り切れないので、渋々承知して出懸ける、豊国は真面目な人だから当時の画工(ゑかき)の服装、黒羽    二重の紋附、同じ羽織でリウとした服装で、弟子に絵の具函を持たせ 先生で済まして乗り越んだが、    此方は例の縮緬の褞袍へ三尺帯を無造作にくる/\巻き。絵の具と筆を手拭ひに片端に括りつけ、ぶら    り/\と提げて出懸け 慇懃に一室に請じられる、直ぐ真平御免(まぴらごめん)ねえと胡坐(あぐら)を    かいたので、三太夫先生(注1)も之れには殆ど閉口し、其お服装(なり)では(ママと)云へば、私(わつち)    は服装で画は描かねえンだよ、之れで悪けりやァ幸(せいは)いだ ハイ左様ならと、逃げ支度に狼狽し    漸く宥め賺(すか)し、三太夫先生紋服を持出し無理に着せて席画を描かした事があるが、之れ等が国芳    の面目が躍如した所だと云つて居る、随分遣(や)りさうな事で、彼の梅の屋が書画会を柳橋の河内屋で    催した時、畳三十畳敷の大紙へ水滸伝中の九紋龍史進を描いて、一座を驚かした折にも、門人等と大絞    りの揃ひに浴衣を来て、最後の史進の踏まえる巌石を描くに当り、自分に着てゐる浴衣を脱ぎ墨汁に浸    して描くなどの奇抜を遣つた。此会は嘉永六年六月廿八日(注2)だから 国芳が五十七歳の時で、猶こ    の行為を遣つて居るを見ても元気思ふべしである。其様(そんな)磊落であつたが 猫を愛すること一通    りでなく、常に四五匹の猫は机辺を去らず 猶懐中(ふところ)に子猫の二三匹も入れて画をかき、或ひ    は吉原へ遊ぶにも子猫を懐中にして往くこと珍しくない程だから、最愛の大猫が行方不明に成つたとき    などは、三日も茫然(ぼんやり)として筆を持つ勇気がなかつたさうである、国芳の画で天保十三年に京    山の作『朧月夜猫草紙』と云ふ合巻(注3)が出たも、京山も猫好き国芳も猫狂(きち)と云ふ処から、双    方得意で出来たものであるのだ、猶書立てるとまだ/\此様(こんな)お話はあるやうだが、是れで国芳    が側面の一方は知れるだらうと思ふから、先づ此処等で打切つて置かう、ハイ御退屈さま〟    (注1)「三太夫」とは大名の世話役(家事・会計責任者)    (注2)『武江年表』嘉永六年記事「六月二十四日、柳橋の西なる拍戸(リヨウリヤのルビ)河内半次郎が楼上にて、狂歌師梅        の屋秣翁が催しける書画会の席にて、浮世絵師歌川国芳酒興に乗じ、三十畳程の渋紙へ、「水滸伝」の豪傑九        紋龍史進憤怒の像を画く。衣類を脱ぎ、絵の具にひたして着色を施せり。其の闊達磊落を思ふべし」    (注3)「国書データベース」の統一書名は『朧月猫草紙』初-七編 歌川国芳画・山東京山作・山本平吉板 天保十        二年~嘉永二年(1841-49)刊