Top         「桜斎房種」靄軒生著        その他(明治以降の浮世絵記事)
      出典(『【江戸生活研究】彗星』柴田泰助編 第三年八月号 春陽堂・昭和三年(1928)八月刊)         (国立国会図書館デジタルコレクション)(15/27コマ)    ◯「桜斎房種」〈文中の「玄冶店」とは一勇斎国芳の住所であるが、ここでは国芳自身を指している〉    〝 姓は村井、名は静馬、一瓢斎また一笑斎といひ 桜斎は活動期に入つてからの号である。対州藩士で維    新後御厩河岸旧最上邸の勤番長屋の一隅に住んだ。初め四条風の画を淡島椿岳に学び華岳の号もある。中    年より浮世絵に転じ 一勇斎国芳の門に出入する、お屋敷者と称されて 師匠も呼捨てにしない通ひ弟子    であつた。その性格は頗る真摯な温厚の武士気質で素行も修つた壮者で、当時の浮世絵師の社会とは意気    が投合しない、玄冶店へも相当長い間通つたが、親しい朋輩もなかつたやうだつたが、たゞ一人一梅斎芳    春とは後年まで往復してゐた。さりとて敵を求めるやうな融通のきかぬ頑冥者でない、誰れにも円満な質    で応対もテキハキと歯切れがよかつた。が、追従軽薄はその長所でなく、後来版元の問屋に対しても兎角    ブツキラボウであつた。     村井家は代々小録の藩士、元より有福な生活振りではいが 決して不自由はしない、勤め向も激職でな    かつたから常に閑散であつた。黒船が浦賀へ来てから世間は騒々しくなつたとは云ひながら 泰平に馴れ    た江戸武士、遊惰に流れた若侍どもは竊(ひそか)に稽古所通ひをする時節、村井家もまた家庭にその空気    は棚引いて 頑固一点張りのお屋敷風でない。流石に夏の夕暮蚊遣りの煙と軒端の爪弾きの音色が伝はる    ほどではなかつた。そんな家庭に育つても極めて真摯な若侍で、白痘斑は薄ッすりあつたがスラリと背の    高い好男子、近所では小意気なお侍さんと噂に立てられてゐた。その房種が画工となる動機に就いて、姻    戚関係のあつた同藩の岩佐某の語る。戯作者二代目為永春水が美麗な合巻物を出すを羨み、自分も戯作者    となつて草双紙を出したいとの希望で、岩佐が春水と昵懇なのを幸ひ 入門の橋渡しを頼んだ。が、春水    はたゞ一言これを拒絶した。それは房種の性格が戯作者に不適当であつたからである。再応の頼みも頑と    して承知しなかつたが、あの人は戯作者になるより画工になるのが適しさうだと言はれた、これで初念を    翻へして画筆を甜(ママ)り、四條流の淡島椿岳の門に入つたけれども意に満たない。その後浮世絵の華やか    な画面に憧憬れ、画をかくならば浮世絵がよいと国芳の社中に投じ やがて房種と名乗つたのである。当    時浮世絵師間の慣例として その画名には師とする人の名の一字を允許され、これを名取りと称し稍々浮    世絵の仲間入りをしたものと吾も人も思つたのである。処が房種は玄冶店直門であつたに相違ないのに、    弟子は勿論画を描き得ない彫工にまで芳の一字を惜気なく与へた大量の(ママ)国芳が何故に片字を許さず、    房の字を用ゐたか疑問のやうであるが、これには深い理由はない、実名の房種をその侭画名に用ひ、師匠    よりの許し名でなかつたやうに聞いて居る。     彼れの玄冶店へ通ふ頃には既に四條流の画風だけは稍々会得して居た。で、板下画に筆を染めるのも早    かつた。板下といつても最初から錦絵や合巻物を描いたのでない、また描かせる板元もない。お約束通り    玩具絵に毛の生えたもの、切附合巻の表紙絵が最上のものである。また彼れは国芳門下であつたがその私    淑するところは亀戸豊国の画風、美人絵でも役者似顔絵でも亀戸一流の円満な筆法を手本とした、豊国没    後は役者ものは豊原国周を模倣して居た。房種の浮世絵師として世に乗出したのは大錦ではなくて、役者    似顔の団扇画である。その画は明治三年守田座の春興行の『白浪五人男』の勢揃へを一人宛半身に五段に    かいた、これは五人男の二度目で外題を『館扇曽我訥芝玉』といひ、駄右衛門に芝翫、弁天小僧に菊五郎、    忠信は訥升、赤星に紫若、南郷に左団次で、板元は堀江町の団扇問屋伊勢惣であつた。これが売出しの版    画でそれから大錦も年に二三版は描き、その全盛期は明治十二三年より五六年間である。得意とするとこ    ろは風俗美人画、役者似顔画だが、彼れの筆には男女とも鼻柱に癖があつて必ず段鼻になつてゐる、野郎    あたまの髷物になると上から押潰される木槌頭、で、仮令落款がなくとも一見明瞭(ママ)してゐたが、大錦    でも団扇でも景色物の配景(ママ)は広重風と四條風を折衷した独特のものを往々見る。すべてに甘味を認め    られなかつたが、問屋から歓迎されたのは画そのものよりも、約束を履行して期日を誤らないのにあつた    といふ。大錦では源氏模様の風俗画、花柳界の美人姿画に好評を博したのが四五版、団扇では人に知れた    出世画の五人男、今様花競、見立花の姿見、艶色源氏私見(官女物)等がある、役者似顔画では際立つも    のなく、合巻では青木弥太郎の履歴をかいた真龍亭是正作『【小倉山青樹栄】昔日新話』五編、芳川春濤    作『毒婦高橋於伝』三編が優れてゐる。     なほ彼れは画の外に草紙類の筆耕もやつた。一寸した切附もの、短い合巻の戯作もした。また村井静馬    の名で『明治太平記』十余篇も出てゐるが、この作者は染崎延房で、彼れは名をかしたまでゞある。こん    な風で画以外の収入もあり、家庭は豊かであつたが、妻には早く死別して後は、老母と一人娘を抱へ片眼    の傭女をおき、不自由勝に送つた。これに同情した堀江町の問屋連が後妻談を持懸けて、傭女の故障に手    を焼いたとの評判もあつて鰥(やもめ)暮した。やがて老母も世を去り病溽に起居も自由でない娘を労はる    寂しさを、一本の釣竿に慰め、一月に二三回づゝ釣堀にまた沖釣に鬱悶を遣り、ある時は寄席や貸本で纔    かに気を紛らし不幸の境遇に甘んじてゐた。そしてその凋落期に入つて旧藩の分家再興に際し、選ばれて    三太夫となつて画筆を投じたのが明治二十四年頃で、幾干(いくばく)もなく六十余歳で没した    〈「たゞ一人一梅斎芳春とは後年まで往復してゐた」とあるが、芳春もまた元武士であった。下掲参照〉    浮世絵師(武家出身)(本HP「浮世絵事典」の【う】歌川芳春)