Top     樋口二葉著 『浮世絵と板画の研究』     その他(明治以降の浮世絵記事)
     (『日本及日本人』二二九号から二四七号・昭和六年七月~七年四月(1931~32)刊)        〔底本「日本書誌学大系35」『浮世絵と板画の研究』(青裳堂書店・昭和五十八年刊)〕    ☆ えびすこうえ 夷講絵    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第二部「浮世絵師」「独立して後」p85   〝〈歌川国直〉其の人が板下画を描く時は綿密と云ふより寧ろ馬鹿丁寧であつた。或時十月の夷講に掛け    る鯛を小脇に抱へ釣竿を持つ、色の二三遍も入つた殆ど玩弄画に類した恵比寿の一枚絵を依頼された、    其様絵は誰れでも碌々下画など付けて描く者は稀れで、極めて疎雑なもので筆者の名を署するものでも    無く、夷講に一度使れると跡は子供が引裂き捨てるのが多い。玩弄画のあるものよりも当時は麁末に取    扱はれ、従つて夷講絵と云へば軽視するので、彫でも摺でも見られたものでなく、殆ど瓦板同様な滅茶    々々な絵であつたから、誰れも真面目に描く画工は無いに拘らず、国直は下画から丁寧につけ、之れを    浄写して板下画にするにも、十何遍摺といふ大錦の立派なものを描くのと異らず、一線一劃を苟くもせ    ず描いたと云ふことで、之れを彫る者も田所町の夷かと云つて頭を掻いた。田所町とは国直の住した町    名である。当時是れ等職人間では、何職業にても其の技術の優れた者は其の名を云ず、住居する町名を    以て呼んだから、国直もまた其の町名を以て常に呼れ、偽(ママ)直の描た恵比寿だから滅茶々々のなぐり    彫りには出来ない。小僧任せで打捨つては置かれない、然りとて手間賃は相当に取ることも成らずと歎    息して頭を掻たと云ふのやある。文化頃の人で著述もする絵も描く、彫刻もした神屋蓬洲の『蓬洲随筆』    にも「夷講のえびす三郎の画にて、柳烟堂のかきたるものゝみは、人これを捨るを惜み往々に持伝ふる    ものあり翁は如何なる画にても意に満ざる下図は描かざりし云々」とあるにても推測し得られ、其の下    画の深切丁寧なことが思ひ遺られる〟    〈神屋蓬洲の『蓬洲随筆』は「日本古典籍総合目録」には見当たらないが、どこかに伝わっているのであろうか〉    ☆ うきよえし 浮世絵師    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」 p16-48(慶長から明治にかけて、活躍した年代ごとに浮世絵師を列記したもの)   〝初期 慶長の渾沌時代から享保の丹絵紅絵まで    〔慶長より貞享〕     岩佐又兵衛  浮世又兵衛(以上同人歟)  花田内匠   山本利兵衛  北村忠兵衛     野々口立圃  辻村茂兵衛  岩佐勝以   河合翰雪   井上勘兵衛  月直清親     杉村治信   菱川師宣   長谷川長春  吉田半兵衛  菱川師房   探幽斎正信     鳥居清元   大津又平   浮世義勝   繁尚     勘左衛門    〔元禄年間〕     古山師重   石川俊之   杉村正高   菱川師永   菱川政信   菱川友房     菱川師平   菱川師盛   菱川新平   菱川師継   菱川師秀   山本伝六     石川流宣(一説俊之と同人) 吉川昌宣   当世絵又兵衛 蒔絵師源三郎 東坡軒     鳥居清信   英一蝶    〔宝永年間〕     宮崎友禅   正田金暇   宮川長春   岡沢懐月堂  懐月堂度辰  懐月堂度秀     長陽堂安知  井村勝吉        〈岡沢懐月堂は安度〉    〔正徳年間〕     奥村政信   古山師政   近藤清春   鳥居清倍   羽川珍重   鳥居清重     鳥居清忠   鳥居清朗   川島叙清   大森善清   西川祐信       〔享保年間〕     古山師胤   山崎竜女   近藤清信   奥村利信   奥村政房   藤田秀素     泰川重利   勝間竜水   宮川春水   西川祐尹   西川照信   野々村治兵衛     中路定年   鳥居忠春   常川重信   絵菱忠七   橘守国    西村重長     川枝豊信   羽川藤永   吉川盛信         二期 紅絵以後明和の彩色摺始まり東錦絵の出づるまで    〔元文年間〕     羽川元信   羽川和元   吉田魚川   勝川春水   西村重信   鳥居清満     田村貞信   勝川輝重   東愚斎    上柿芳竜    〔寛保年間〕     柳花堂重信  富川房信   橘保国    酢屋国雄   勝薪水    〔延享年間〕     春川秀蝶   服部梅信    〔寛延年間〕     下川辺拾水  山本義信    〔宝暦年間〕     石川豊信   石川豊雅   春川師宣   長谷川光信  寺井重房   鳥居清英     鳥居清経   鳥山石燕   橘岷江    月岡雪鼎   勝川春章   阪本兌候     石川幸元   梅林堂    常行     常政    〔明和年間〕     鈴木春信   小松屋百亀  磯田湖竜斎  柳文調    吉川定好   菊川秀信     雲鏡斎    古川鬼玉   有楽斎長秀  守文調    岸文笑    望月勘助     北尾辰宣   駒井美信   三春        三期 安永より寛政へ掛け彩色摺の完成、名家輩出して享和に至るまで    〔安永年間〕     山本重春   山本重信   山本重房   鳥居清長   英慶子    北川豊章(歌麿)     門牛斎秋童  谷文和    芳川友幸   松野親信   耳鳥斎    雪仙     巨川    〔天明年間〕     歌川豊春   蔀関月    竹原春朝斎  竹原春泉斎  勝川俊潮   北尾重政     赤松亭秀成  細田栄之   恋川春町   喜多川歌麿  田中益信   鶴岡蘆水     勝花     文竜斎    秀幸     旭光     竜向斎    笑丸     興秀    〔寛政年間〕     北尾政演   石田玉山   桜井文喬   東洲斎写楽  勝川春好   勝川春英     歌舞伎堂艶鏡 紀吉信    北尾政美   窪俊満    栄松斎長喜  堤等琳     西村中和   司馬江漢   勝川春亭   歌川豊広   歌川豊久   歌川久信     勝川春朗   丹羽桃渓   葛飾為一   北斎辰政   速見春暁斎  流光斎如圭     歌川豊国   歌川豊秀   北川月麿   泉守一    春川栄山   泉山松月     十返舎一九  文康     宮川春治   宮川春重   佐脇英之   樹下石上     東穿     細田之郷   細田昌有   一峰斎馬円  松好斎半兵衛 井上勝町     古阿三蝶       〔享和年間〕     喜多川式麿  蹄斎北馬   北川春成   小石堂一指  菊川英山   勝川春扇     遠藤戴斗   谷本月麿   桂向亭長丸  青陽斎蘆洲  今川岷和   歌川豊清     浅山蘆渓   優遊斎桃川  巨勢秀信   蔀関牛    翠松斎栄月     〈遠藤は近藤の、今川は合川の誤記か〉     〔勝川春章門下〕      春常 春童 春鶴 春竜 春里 春喬 春泉 春江 春朝 春林 春旭 春艶     〔鳥居清長門下〕      師忠 清俊 清勝 清次 清久 清定 清広 清時 清政 清里 清之 二世清時     〔喜多川歌麿門下〕      秀麿 行麿 北麿 可麿 道麿 年麿 花麿 此麿     〔細田栄之門下〕      栄理 栄笑 栄亀 栄昌 栄水     〔北尾政演門下〕      亀毛 山東鶏告(此二名一説に政演変名)     〔葛飾北斎門下〕      三女栄 文華軒雷洲 柳々居辰斎    四期 文化から天保に至る浮世絵最大隆盛期に達した時    〔文化年間〕     歌川国長   歌川国丸   歌川国直   歌川国芳   歌川国安   歌川広重     歌川国政   柳川重信   魚屋北渓   鳥居清峰   鳥居清元   春川五七     二世歌麿   歌川国満   喜多川峰麿  大原東野   青陽斎蘆国  川島信清     錦亭鳴虫   中井藍江   松川半山   一楽斎長松  勝川扇里   歌川竜子     二世柳文朝  横山華山   恋川吉町   礫川亭永理  礫川亭そりん 玉川舟調     勝川豊章   月岡栄山   北川直厚   北川春政   群堂     秀艃     東秀     雪蔭     柳谷     豊庵     泉調     水盧朝     文狼     浮世船麿   江南     月光     赤城山人   百斎     松東楼    〔文政年間〕     二世重政   二世豊国   二世春暁斎  渓斎英泉   二世岡田玉山 二世重信     岳亭定岡   長谷川雪旦  大石真虎   喜多武清   春川英笑   石田石峰     森川保三   尋雪斎雪馬  形赤子    蔡園渓桃   北川周月   春暁斎政信     三木探斎   玉川春水   石川哥山   向竜斎    晩器     東栄     遊馬    〔天保年間〕     三世豊国   歌川貞秀   歌川芳虎   喜多川雪麿  花岡光宣   目川輝重     水原玉藻   長谷川実信  菱川清春   胡蝶庵春升  渓錦斎双鶴  一容斎立政     春貞     春栄     長秀     雪嶠     千万     玉水     〔葛飾北斎門下〕      酔醒斎北崇 昇亭北寿  盈北岱   東西南北雲 柳亭重春  抱亭北鵞       北亭墨僊  雪花亭北洲 卍斎北僊  春陽斎北敬 千亭北洋  寿々北鷹      高井鴻台  牧亭集馬  九々蜃北明 卯亭北鳴  北亭為直  嶺斎北雄        雪花楼北英 工形亭北一 白山人北為 北堂墨山  東春嶺   福知白瑛      雷周 北雅 雷川 北周 北園 北牛 北広 北昆 戴璪 北目      北輝 戴岳 北秀 北涛 北紫 江鯉 一扇 戴一 北竜 北袋     〔鳥居清峰門下〕      清安 清芳 清忠     〔一世歌川豊国門下〕      豊年 喜斎国重  国次 国清 国房 国光 国忠 国滝 国幸 国朝 国春 国道      国虎 国花女国登久女? 国鉄 国兼 国宅 国彦 国種 国勝 国武 国宗 国照      一年斎国為 一筆斎国英 一笑斎国景 一礼斎国信 一鏡斎国時     〔歌川豊広門下〕      豊熊 広演 広昌 広恒 広政 広兼 滝広 広近     〔菊川英山門下〕      英秀 英柳 英里 英蝶 英信 浅野英章 光一英章 英賀 英重 英子女     〔勝川春英門下〕      春玉 春紅 春琳 春陽 春幸 春雄 春青 春加 春久 春雪 春山 二世春章       春徳 春洞      〔二世歌川豊国門下〕      国興 国総 国鶴 国一 国弘 国久女 国盛     〔三世歌川豊国門下〕      五風亭貞虎 五丁亭貞幸 五亀亭貞房 五湖亭貞景 貞信 貞繁 貞綱 貞歌女      貞久 貞広 貞章 貞雅 貞兼 貞延 貞宣 貞国 貞知 貞猶 貞岡 貞重      〔歌川国安門下〕      安信 安重 安春 安常 安清 安峰     〔歌川豊久門下〕      久直 久信     〔歌川国直門下〕      直政 直貞     〔歌川国勝門下〕      勝重 勝之助 勝信 勝芳 勝政 勝秀     〔歌川国種門下〕      種繁 種政 種清 種景 種信     〔歌川国信門下〕      信一 信清 信秀 信喜与     〔歌川国武門下〕      武光 武重 武虎     〔渓斎英泉門下〕      大木英春 米花斎英之 渓斎小泉 貞斎泉晁 英斎泉寿 景斎英寿 紫飯斎泉橘      山斎泉隣 嶺斎泉里  浅野文斎 静斎英一 仲斎英松 英得   英暁     〔歌川国芳門下〕      一天斎芳政  一勢斎芳勝  一輝斎芳玉女 一円斎芳丸 一好斎芳兼       後田蝶梅月  一宝斎芳房  一旭斎芳秀  一教斎芳満 一教斎芳鳥女      一寿斎芳員  一春斎芳英  一嶺斎芳雪  一集斎芳為 一竜斎芳豊      一登斎芳綱  一素斎芳貞  一峰斎芳鷹  一盛斎芳直 芳員      一光斎芳盛  一鴬斎芳梅  一声斎芳鶴  芳明 芳重 芳清 芳忠       芳形 芳邦     〔門下不明〕      年丸 耀人 重丸    〔弘化年間〕     鳥居清峰  鳥居清国  八島五景  六花亭富雪    〔嘉永年間〕     二世国政(長文斎) 一鵬斎芳藤    〔万延年間〕     葛飾為斎  湖春亭景松 五葉亭広信 歌川国員  春陽亭春子 小信    〔文久年間〕     三世国政(二世国貞)    〔慶応年間〕     歌川国明  二世広重  一蕙斎芳幾 大蘇芳年  一松斎芳宗    〔明治年間〕     一鴬斎国周 鮮斎永濯 惺々暁斎 三世広重 一英斎芳艶 一雄斎国輝     小林清親  仙斎年信 尾形月耕 井上探景 滝村弘方  森川寿信      蒔田俊親  葛飾正久 望斎秀月 石斎国保 揚州周延  丸山英重      関根秀水  松田釣月 小林景信 小島勝月 石塚空翠  香蝶楼豊宣     梅蝶楼国峰 歌川国松 二世貞景 栄斎重清 小林襲明  麗斎春暁     歌川小芳盛 梅盛香得 深沢竹斎 小林栄成 梅花園春香 梅樹邦年     保明    保一   華明   土佐光  帰城松山  鳥居清満〈帰城は帰誠の誤記か〉     鳥居清忠  鳥居清種 兼彦   松斎吟光 歌川広国  藤原信一     歌川貞広  中川蘆月 笹木芳光 木下広信 南斎春香  露木為一     昇斎一景  二世梅章国雪 二世仙斎年信 二世一光斎芳盛 三世一光斎芳盛     〔歌川国芳門下〕      一停斎芳基 一猫斎芳栄 一蓮斎芳近 一長斎芳久 一梅斎芳春      一芸斎芳富 一葉斎芳里 一晴斎芳照 一柱斎芳延 一雷斎芳辰      一礼斎芳信 歌川芳重  梅之本鴬斎 玉池堂一豊 歌川芳仲      伊藤静斎  静斎房種  坂本芳秋  野村芳国  芳広 芳谷      芳彦 芳柳 芳仙 芳桐     〔三世歌川豊国門下〕      歌川国升  歌川国明  一宝斎国玉 一柳斎国孝 二世国信      和田国清  長谷川竹葉 蘆原国直  歌川国久  山村国利      一柳斎国房 二世一麗斎国盛 二世一鳳斎国明 二世一円斎国丸      国歳 国魁 国得 国朝 国郷 国富 国寿 国道     〔二世歌川国貞門下〕      梅童政信  梅莚政貞  梅堂政久  梅童国雪     〔豊原国周門下〕      守川周重  蕙洲周春  降幡周義  豊原周義  一柳斎周秀      周季    梅堂小国政     〔大蘇芳年門下〕      水野年方  稲野年恒  旭斎年景  玉容年種  春斎年昌      亭斎年参  南斎年忠  筒井年峰  大月年光  陽斎年貞      静斎年一  梧斎年英  桂年挙   二世一松斎芳宗      年秀 年甲 年季 年晴 年次 年明 年広 年茂 年隆      年芳 年麿 年豊 年延 年章 年之 年人女     〔葛飾為一門下〕      近藤為一  沼田歌政  葛飾応為女     〔歌川芳景門下〕      景久 景虎     〔歌川芳艶門下〕      艶豊 艶政 艶長     〔一松斎芳宗門下〕      宗政 宗久 宗成 宗兼 宗正     〔歌川芳梅門下〕      芳滝 梅雪 梅英 芳峰     〔落合芳幾門下〕      一交斎幾丸 幾勝 幾年 幾英     〔揚(ママ)洲周延門下〕      揚堂玉英 揚斎延一     〔鮮斎永濯門下〕      富岡永洗 山本永興 富田秋香         〔年代未詳〕     浮世正蔵  菱川和翁  立好斎   柳川    兆斎月亭     長園斎栄深 栄江    晴雲斎東山 遠浪斎重光 花川亭富信     為説斎雪間 弥四郎等(元禄より天明迄の如し)〟(2019/05/28追加)   △「第二部 浮世絵師」「一 世間に於ける地位」p67    (浮世絵師とは)   〝浮世絵師とは浮世絵派の絵を描く者の総べて名称である。其主なるものを挙げると、江戸名物として絢    爛たる東錦絵即ち風俗絵、武者絵、役者絵その他諷刺絵、風景絵等の色摺の板画、時世粧の絵本又は読    本の挿画、合巻即ち草双紙もの、俗に切附合巻と云ふ戦争ものゝ主となつてゐる柾四つ切の玩弄本、又    は姉様尽し、道具尽し、切抜絵、組立絵、柾八つ切りの桃太郎や猿蟹合戦などの昔咄しの麁雑な玩具絵    本を描き、或は刺子の下絵、文身の図案絵、紙鳶大行灯の絵、演劇その外興行物の看板絵などの類を描    くを専門にする画工であつて、平民的の絵画、日常触目する時世粧を其の侭に描き出すが浮世絵師の特    有なる技術であるが、其の浮世絵中にまた幾つかの流派もあつて錦絵を専門に描く者でも、美人絵の得    意もあれば、役者の似顔絵に得意もあり、または勇しい武者絵ものを本領とするもあり、裸一貫を稼業    の力士絵に妙を得たもの、風景絵を巧みに写し出すもの、調刺的の戯画に衆人をアツト言はすものもあ    れば玩具絵その他のものに妙技を発揮するものもあつて、素より一様でなく、読本の挿絵にしても、絵    本類にしても皆同じことである〟    (画工の弟子)p68   〝浮世絵師の卵がウジヨ/\出来るが、扨て此の卵が皆満足に孵化したら、画工は箕で量る程沢山に成つ    て始末が付くもので無い。然れど十中七八までは孵化しない中に、自ら筆を捨て魔道に落ちるか止めて    了ふのが多く、不具ながらにでも巣立して浮世絵師と名乗る事の出来るのが、二人もあれば師たるもの    ゝ大手柄と云れたものである〟    (師匠の一字を許された弟子=名取の弟子)p68   〝名取の弟子と云ふにも、種々の魂胆があつて師たる者の権謀から、実際碌々絵も描けない者に名を許す    例がある。最も此の風が多かつたは北斎で、悪例の種を蒔き初めたらしく、丁度現代の生花や抹茶の師    匠が目録次第でドシ/\免許を与へると同じ格であらう。豊国の畠にもあつたやうに聞くが、国芳には    随分それがあつて、板木屋や摺工で弟子分にして芳の字を許した。近くは国周にも此の弊があつて、玩    弄絵一枚描いた事のない画工があるそうである〟    (浮世絵師の品格)p69   〝要するに浮世絵師は一定の場所までは漕ぎ付られるが、黒潮の如き激流の横はりが前途を遮つて、尋常    の柔軟腕では乗切ることが出来ないで、此処に至つて凹垂れて彼岸に達せられないから、不具の画工が    多く半熟で終る。鶏卵なら却て半熟に効能はあるが、画工の半熟では閻魔の庁でも用ひ処があるまい。    処が何時の時代でも此の半熟先生が浮世絵師の多数を占め、彫工摺工の職人等と親しみ、芸術家などゝ    云ふ観念は微塵も無く、宵越の銭は持ぬを外見にパツパと遣ひ、何時もピイ/\風車で問屋の職人扱ひ    に甘んじ来た悪弊が、文化文政の浮世絵全盛期後に於ける画工に、著るしき現象を示して来たと同時に、    画工の品位が段々と堕落して了ひ、それが絵の精神に喰込んで荘重な威厳は失て、優美な気品薄らいで    来てゐる。初代豊国の如き豊広の如きでも、寛政の清長の如き、春章の如き、歌麿の如きに対照して見    たら何うであるか、一目して明かな事実であるのだ。此のぺイ/\画工の堕落は先づ問屋向の軽侮とな    り、問屋向の軽侮は頓て絵双紙店の侮りとなり、再転三転遂に一般に軽視せられたやうに思はる。    山東京山の『思出草』巻の四の中に「亡兄が北尾重政のもとに居て、数々地本問屋へ使ひにやらるゝ時    分は、問屋が絵師に対しても丁寧にて、其弟子が師匠の使ひに赴きける時の如きも、相当の礼儀を守つ    たものなりしと聞きけるが、今は豊国などの弟子にても、又国芳の弟子にても、名を成した絵師に対し    て取扱ひの無礼なる傾きと成れり。昔の絵師はたとへ門弟たりとも、然る扱ひはせざりしなり、さは云    へ問屋のみを咎むるは僻ことにて、絵師の品格は著るしく降り劣りたれば、之れも自ら招く◎ひならん    かし云々」とあるも、是れ等の消息を漏らすものだらうと思ふ。兎に角熊公八公に類する徒が多かつた    ので、世間より軽々に観られて職人視せられるやうに成つたと推断されるが、昔の絵師は町絵師と同等    位には取扱はれて居たと見て宜しからう〟(◎は草冠+擘)(2019/05/28追加)    〈山東京山の「思出草」は未詳。「日本古典籍総合目録」になし〉   △「第二部 浮世絵師」「四 独立して後」p81    (際物師)   〝(玩具絵)すら成し能はぬ者は際物師に脱線する。際物師とは其の季節/\で種々の絵を描き、紙蔦の    仕込ごろには紙鳶絵を切々と描ぎ、祭礼があると大行灯を描いたり、刺子の絵を描いたり、羽子板の役    者似顔を描いたり、諸興行物の看板を引受けたり、或は招牌絵を描いたりするのである。斯ういふやう    に脱線して種々の方面に活路を開き、世渡りの綱を蜘手に引き廻して、太夫身支度出来仕つりますれば    綱の下まで出られますの口上も、是れからが七分三分のかね合とございの吹聴も、皆一人で切つて廻す    もあれぱ、又その専門家と成ると妙なもので弟子もつき、手伝ひに寄つて来る不具画工も出来て、却て    玩具絵などをコツ/\描いて燻つて居るより、派手な生活なして居た者もあつた〟   〝年期から叩き揚げた画工で行路病者と成り、野垂れ死にをしたと云ふ者は殆ど聞かない。大酒喰にとか、    懶怠者とかで、自分から世間と隔離して同情を失わない限りは、何かに有り附て饑餓は免れ得られる処    から、画工に成れば喰はぐれが無いと人も云ひ、自らも信じて名家の門には、怪しい画工の卵がごろ/\    転がつて居たと云ふ、此の頃とは大分時世も違うて昔日の面影が髣髴と浮て見えるやうである〟                                      (2019/05/28追加)     ☆ うきよまたべいめいがのきとく 浮世又平名画奇特    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   (『浮世又平名画奇特』の大津絵の人物に対する説明文。『東都名所』という題がついている)   〝げほう カイゾクバシ(老中牧野備前守忠雅、邸海賊橋にあり、人海賊牧野と揮号す)    若衆  タカナハ(鷹匠の袖にかんとあるは当時疳性公方と云れし十三代将軍家定公)    やつこ アカサカ(赤坂奴は紀州侯、其の邸赤坂にあり)    藤姫  カメイド(藤娘は当時大奥にきり者藤の枝といふお年寄り)    弁けい シバ  (芝増上寺、十二代将軍家慶公の葬儀に上野と争ひ奇捷を博し、芝へ葬送ありしを云             ふ)    なまず カジバシ(若年寄鳥居丹波守忠挙邸の所在地)    雷   アナクサ(雷年はしろいからすで、ほうだいからはだかでのぼる手かゞりと書あり、品川の砲             台は嘉永六年八月の起工、誰の事か詳かならず)    おにハ ソトカンダ (同断)    座頭 マタツメ (アベと書入あり、老中阿部伊勢守正弘、福山侯押の法被の印は◯なり座頑に石餅の             紋あり、下屋敷二ツ目)〟   〝『続々泰平年表』に「嘉永六年七月国芳筆の大津絵流布す、此絵は当御時世柄不容易の事共差含み、相    認め候判じ物のよし、依之売捌上差留、筆者板元過料銭被申渡」とある〟    ☆ かいげつどう 懐月堂    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p20   〝享保十七年板『近世百談』に「浮世絵は菱川師宣が書出し、現在は懐月堂、奥村政信等なり、富川吟雪    房信と云ふ人、丹絵の彩色を紅にて始めたるを珍らしく鮮かなりとて評判云々」とある〟    〈「日本古典籍総合目録」に『近世百談』は見当たらない〉    ☆ かめいどは 亀戸派    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「浮世絵の描法に就て」p58   〝(面相)割出し描法に就て嘗て落合芳幾翁から聞いた事がある。亀戸派にては面相を描くのに、碁盤罫    を引いて鼻や目口を割出して居るが、一面には人物の顔が能く整つて好いやうである、初心の者の練習    には悪くもあるまいけれど、之れで稽古する時は自然何時も其の型に箝つて了ひ、何れも是れも同じ顔    になる弊が生ずるので、国芳畠では此の描法は用ひなかつたと、此の説を聞いてから亀戸派の絵に注意    をするに、師匠たる豊国の画風を学ぶは弟子の当然ではあるが、円満な丸顔の何れを見ても同じ様な型    に入て居る。殊に女の顔にこの弊が多いは、蓋し描法に拘泥する結果であらうと思へる。是れに反して    同じ歌川の流れに泳ぐ玄冶店派になると、円熟した愛嬌には欠ける処はあるが、何れを見ても兄弟姉妹    かと思へるは比較的少い。是れ等は練習中から割出し描法に拠らない結果ではあるまいか〟    〈亀戸は三代歌川豊国(初代国貞)の住所。したがって亀戸派は三代豊国一門を云う。落合芳幾は歌川国芳一門の玄冶     店派。p85に「当時是れ等職人間では、何職業にても其の技術の優れた者は其の名を云ず、住居する町名を以て呼     んだ」とある〉      ☆ くにとら うたがわ 歌川 国虎    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第二部「浮世絵師」「独立して後」p81   〝亀戸豊国の高弟であつた国虎の如き、能く師風を呑込み運筆自在で、二世国貞などより合巻物では遥に    上手であつて、柳亭種彦作の『白縫物語』などには、其の代筆の最も多くあつても、豊国と国虎の見分    が附ない程であるに、名を求めるを好まず一生を隠れた画工で、師匠の代筆で終るやうな奇人もあるが    (後略)〟    〈「日本古典籍総合目録」によれば、柳下亭種員作『白縫譚』。この合巻の挿絵を三代豊国が担当したのは、嘉永二年     (1849)~同五年まで〉    ☆ くになお うたがわ 歌川 国直    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第二部「浮世絵師」「独立して後」p85   〝歌川国直にも下画を疎かにしなかつた逸話がある。此の人は吉川鯛蔵後四郎兵衛と云ひ、一烟斎、一揚    斎、浮世庵、柳烟楼、柳烟堂、写楽翁等の数号があつて、初め明画を学び北斎の画風を慕ひ、後初代豊    国の門に入つて文化の末より、草双紙、錦絵、読本などを多く描き、井草国芳も此の国直の世話になつ    た名手たが、其の人が板下画を描く時は綿密と云ふより寧ろ馬鹿丁寧であつた。或時十月の夷講に掛け    る鯛を小脇に抱へ釣竿を持つ、色の二三遍も入つた殆ど玩弄画に類した恵比寿の一枚絵を依頼された、    其様絵は誰れでも碌々下画など付けて描く者は稀れで、極めて疎雑なもので筆者の名を署するものでも    無く、夷講に一度使れると跡は子供が引裂き捨てるのが多い。玩弄画のあるものよりも当時は麁末に取    扱はれ、従つて夷講絵と云へば軽視するので、彫でも摺でも見られたものでなく、殆ど瓦板同様な滅茶    々々な絵であつたから、誰れも真面目に描く画工は無いに拘らず、国直は下画から丁寧につけ、之れを    浄写して板下画にするにも、十何遍摺といふ大錦の立派なものを描くのと異らず、一線一劃を苟くもせ    ず描いたと云ふことで、之れを彫る者も田所町の夷かと云つて頭を掻いた。田所町とは国直の住した町    名である。当時是れ等職人間では、何職業にても其の技術の優れた者は其の名を云ず、住居する町名を    以て呼んだから、国直もまた其の町名を以て常に呼れ、偽(ママ)直の描た恵比寿だから滅茶々々のなぐり    彫りには出来ない。小僧任せで打捨つては置かれない、然りとて手間賃は相当に取ることも成らずと歎    息して頭を掻たと云ふのやある。文化頃の人で著述もする絵も描く、彫刻もした神屋蓬洲の『蓬洲随筆』    にも「夷講のえびす三郎の画にて、柳烟堂のかきたるものゝみは、人これを捨るを惜み往々に持伝ふる    ものあり翁は如何なる画にても意に満ざる下図は描かざりし云々」とあるにても推測し得られ、其の下    画の深切丁寧なことが思ひ遺られる〟    〈神屋蓬洲の『蓬洲随筆』は「日本古典籍総合目録」には見当たらないが、どこかに伝わっているのであろうか〉    ☆ げんやだなは 玄冶店派(歌川国芳派)    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「浮世絵の描法に就て」p58   〝(面相)割出し描法に就て嘗て落合芳幾翁から聞いた事がある。亀戸派にては面相を描くのに、碁盤罫    を引いて鼻や目口を割出して居るが、一面には人物の顔が能く整つて好いやうである、初心の者の練習    には悪くもあるまいけれど、之れで稽古する時は自然何時も其の型に箝つて了ひ、何れも是れも同じ顔    になる弊が生ずるので、国芳畠では此の描法は用ひなかつたと、此の説を聞いてから亀戸派の絵に注意    をするに、師匠たる豊国の画風を学ぶは弟子の当然ではあるが、円満な丸顔の何れを見ても同じ様な型    に入て居る。殊に女の顔にこの弊が多いは、蓋し描法に拘泥する結果であらうと思へる。是れに反して    同じ歌川の流れに泳ぐ玄冶店派になると、円熟した愛嬌には欠ける処はあるが、何れを見ても兄弟姉妹    かと思へるは比較的少い。是れ等は練習中から割出し描法に拠らない結果ではあるまいか〟      〈玄冶店は歌川国芳の住所。したがって玄冶店派は歌川国芳一門の呼称。落合芳幾も国芳の弟子であるから玄冶店派。     亀戸派は三代歌川豊国(国貞)一門をさす。p85に「当時是れ等職人間では、何職業にても其の技術の優れた者は     其の名を云ず、住居する町名を以て呼んだ」とある〉    ☆ さしこ 刺子  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   △「第一部 浮世絵の盛衰」「九 浮世絵の描法に就いて」p60    (刺子図)   〝刺子の下図を附けるは思ひ切た長細い図を描ねば、一面に糸で刺し揚げた後、物にならない。人物の面    相でも一尺に仕揚るには、一尺五寸に描ねば釣合が取れないのだ。言ふまでも無く刺子は雑巾の如く竪    に刺すから、一尺五寸の丈は一尺に縮むが例である。で、下図も其の心得で筆を執る、杵に目鼻を附た    やうな顔が刺し揚げると丁度釣合の取れた並々の顔になるのだ。総て縦の縮む絵は此の手加減が大切で、    提灯の絵なども刺子の絵と大差なり比例になつて居る〟(2019/05/28追加)    ☆ さだひで うたがわ 歌川 貞秀    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「錦絵と諷刺画」p54   〝『泰平年表』天保十四年十二月廿六日の条に「戯画に携り候者共御咎一件、堀江町一丁目弥吉店久太郎、    重蔵、貞秀事兼次郎、神田御台所町五人組、室町六丁目長吉、右過料五貫文宛、絵双紙屋桜井安兵衛売    徳代銭取上げ過料三貫文、右者国芳画頼光四天王の上に化物有之絵に種々浮説を書含め、彫刻画商人共    売方宜敷候に付、又候右之絵に似寄錦絵仕立候はゞ、可宜旨久太郎存じ付、最初は土蜘蛛四天王ばかり    の下絵をもて、改めを請け相済候後、貞禿に申し候て四天王の上土蜘蝶を除き種々妄説を付け、化物に    仕替改めを不請摺立売捌き候段、不将の次第に付右之通過料申し付る」とある〟    〈改めに提出した下絵と違うものを摺って売り捌く手法、摘発されるまでが勝負。過料を払ってなお余りある売り上げ     に賭けるのである〉  ☆ したえ 下絵  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   △「第二部 浮世絵師」「五 下絵の描法」p83    (下絵)   〝いざ絵を描くといふ場合には、先づ浮世絵の規則として下絵といふものを附けねばならぬ。下画とは描    き上ぐべき絵の構図であつて、人物でも景色でも其の他のものでも、考案即ち構図を作成せねばならな    い。此の構図を作るのが画工の頭脳を搾り出す最も必要で、是れに依て絵の出来栄を支配され、其の絵    に就ての毀誉褒貶を甘受しなければならぬのだから、下手は下手なり、上手は上手なりに苦心惨湾だ、    殊に未だ書習ひの一人前に達せない腕では、下画の為に呑れて了ひ、一線一画の筆すら紙上に下しかね、    頗る難産の体は側に見るも気の毒な心が出る。馴れ切つた者でも遣付仕事を平気でする者の外は、随分    細心の注意を払ふもので、捏ねくり返して出来合の仏掌薯を描くのとは些と訳が違ふ、其様ちよつくら    描きの出来るものでない〟    ☆ しゅんこう かつかわ 勝川 春好    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇「浮世絵の盛衰」「錦絵と諷刺画」p53   〝「酔竹庵覚書」といふ写本に「小壺春好の七賢人に見立たる判じもの上一枚面、御改革の御役人衆を当    込みし由にて大評判なり云々」とある〟    〈酔竹庵は狂歌の唐衣橘洲。「酔竹庵覚書」は「日本古典籍総合目録」に見当たらない〉    ☆ しょがかい 書画会  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   △「第一部 浮世絵の盛衰」「五 最大隆盛期」p36   〝書画会の席などでは浮世絵師は軽蔑されたものであるが、広重は席上画に長じ頗る妙所があつたので、    文人墨客も敬意を払ひ同等の交際を結んだと云ふにも、其の人格の高かったことも知れよう。又当時浮    世絵師の中で席画を画いたは、広重と玉蘭斎貞秀のみであつたとは泉竜亭是正といふ戯作者が能く話し    てゐた〟(2019/05/28追加)〈泉竜亭是正は明治十年代前半の合巻作者〉  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   △「第一部 浮世絵の盛衰」「七 続き絵の出版」p50   〝春画は何れの時代でも風俗を壊乱するものとして禁じてある。彫刻の発達も摺方の精巧に成つたも、春    画の出版が盛んに成つた結果であるとさへ云れてゐても、夫れは公然に製出することの出釆ない秘密出    版であるから、画工が絵を描くも彫工が鉄筆を揮ふも、又摺工が鍛錬の乎腕に任せて、真情の追り来る    やうに色調の工夫をするも、皆犯罪行為に出てゐるのであつて、一朝曝露すれぱ重刑に処せられねば成    らぬのだから、総ての工賃は顔る高料で利潤の多いものでもあり、出版元の利益は莫大でもあるので、    其の製出の絶間はないけれども(云々)〟    〈天保三年(1832)、曲亭馬琴の小津桂窓宛書翰に次のようなくだりがある。「画工柳川重信、九月より十月迄、外の板元に、     いそぎの春画とやらをたのまれ、俄にうけ込ミ、その画にのみ取かゝり居、『俠客伝』の前約を等閑にせし故、さし画半分     ほど不出来」と、自作読本『開巻驚奇俠客伝』の挿絵(重信画)が後回しにされ、埒があかないことを歎いている。春画は工     賃も高く利潤も多いから、版元以下・画工・彫り・摺りの諸職人ともども、何はともあれ最優先なのである。(引用書翰は     『馬琴書翰集成』第二巻・書翰番号-64 十二月八日 小津桂窓宛 ②279)〉  ☆ たこえ 凧絵  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   △「第一部 浮世絵の盛衰」「九 浮世絵の描法に就いて」p60    (凧絵)   〝堤等琳が工夫に成つた紙鳶の絵にも、祭礼の時に町の幅一杯に掛る大行灯の如き絵も、皆それ/\の書    方あり〟(2019/05/28追加)    ☆ たどころちょう 田所町(歌川国直)    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第二部「浮世絵師」「独立して後」p85   〝田所町とは国直の住した町名である。当時是れ等職人間では、何職業にても其の技術の優れた者は其の    名を云ず、住居する町名を以て呼んだから、国直もまた其の町名を以て常に呼れ〈後略〉〟    ☆ たんえ 丹絵    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p20   〝享保十七年板『近世百談』に「浮世絵は菱川師宣が書出し、現在は懐月堂、奥村政信等なり、富川吟雪    房信と云ふ人、丹絵の彩色を紅にて始めたるを珍らしく鮮かなりとて評判云々」とある〟    〈「日本古典籍総合目録」に『近世百談』は見当たらない〉    ☆ とよくに うたがわ 歌川 豊国 三代    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第二部「浮世絵師」「修行の後期」p76   〝三世豊国のやうに亀戸に納まつて居る者の弟子が芝の神明前あたりの間屋へ使ひに行くは一日掛りで、    大抵は握り飯を腰に提げて出たものたが、さもないときは盛蕎麦三つが弁当、廿四文を渡されるが余程    調子の好い場合だ。殊に豊国の晩年万事を妻のお粂婆さんが麾を振るやうに成つては、此の婆さん有名    な締り屋で弟子に対する総てが甚だ辛く、弁当代りの蕎麦代の如ぎも二つ分より与へないので、大分不    平があつて芝の問屋泉市などでは、亀戸の弟子衆は気の毒だと云ひ、食事頃に使ひに来ると昼飯を振舞    たものだと云ふ事である〟     ◇第二部「浮世絵師」「独立して後」p81   〝亀戸豊国の高弟であつた国虎の如き、能く師風を呑込み運筆自在で、二世国貞などより合巻物では遥に    上手であつて、柳亭種彦作の『白縫物語』などには、其の代筆の最も多くあつても、豊国と国虎の見分    が附ない程であるに、名を求めるを好まず一生を隠れた画工で、師匠の代筆で終るやうな奇人もあるが    (後略)〟    〈「日本古典籍総合目録」によれば、柳下亭種員作『白縫譚』。この合巻の挿絵を三代豊国が担当したのは、嘉永二年     (1849)~同五年まで〉     ◇第二部「浮世絵師」「役者似顔絵の流行」p105   〝三世豊国即ち国貞が晩年の弟子で歿後四世に随従した豊斎翁の談に「昔は上方の役者が下つて来ると、    何事おいても座元か狂言作者が同道して、師匠さんの処へ挨拶に来たものでげす。左様すると師匠さん    は其の役者と種々の話をして居る中に、此の役者は鼻が箆棒に高い、高麗屋の鼻に似てゐるが少し段が    あるとか、小鼻の処が開いて居るとか、或は目附は彦三郎に悉皆だ、口元は誰れに似て愛嬌があるなど    と、一々其の癖を呑みこんで了ひ、その顔の輪郭を心で描いて見られたものでげす。そして顔の中で何    処か好いところの有るもので、口元に愛矯があつたり、目附に清しい処があつたりする、其の人々の一    番目立つて好い点を十分に見えるやうに初めから打解けて親しくされましたよ、平生は余り戯言なんか    言つた事のない師匠さんでげすが、初対面の役者衆には馬鹿に面白く口当りが好く、斯うして悉皆その    顔の癖を取つて了ひ、また帰るのを送り出すときに歩行癖まで、ちやんと見て了ひなさるのに、実に経    験とは言ひながら怖しいやうで、師匠さんの話を蔭で聴いてゐると、アヽ彼の人は今試験されて居るな、    何にも知らずに師匠さんの口に乗せられて喋舌つてゐるかと、弟子同士で噂することもありますさ、馴    れと云ふものは怖しいもので、斯うして一度近附に来たとなると、其の似顔絵が下り役者何某と云はれ    て、其の得意として売込んで居る狂言とか、又は下つて来た座で演る狂言の役々の姿で出ます。夫れが    仮に璃寛とすれば、今度来た璃寛は先代とは何うだとか斯うだとか、芸の巧拙までが市中の評判となつ    て、我れも見に往くから己れも見ようと云ふ事になるのでげす」と聴いた。此様訳であるから、役者よ    りの附届の言葉を変て露骨にいふ時は賄賂だが、殆ど絶ることが無く、下り役者に成るに土産物が中々、    扇子や手拭ぐらいで何分御晶員にと頭を下げて済むので無い。晩年亀戸豊国の有福であつたも、此様余    禄の手伝ひが多かつたと云ふ噂さへ残るのである〟     〈役者似顔絵の名人・国貞(三代豊国)の秘訣はこの鋭い観察眼にあるのだろう。岩本活東子著『戯作六家撰』(安政     三年十二月自序)に、山東京伝・式亭三馬・曲亭馬琴・十返舎一九・柳亭種彦・烏亭焉馬の戯作者六人の肖像と、北     斎・一陽斎豊国・国貞の肖像が載っている。すべて香蝶楼国貞画である。亀戸の国貞が『南総里見八犬伝』の板元・     丁子屋平兵衛に伴われて、四ッ谷信濃坂の曲亭馬琴宅を訪れ、肖像を写し撮ったのは天保十二年(1841)十一月十六日     のこと。この肖像画は「八犬伝」最後の挿絵に使うためのものだが、第九輯の画工を担当した二代目・柳川重信や渓     斎英泉を差し置いて、国貞を採用したのは、その似顔絵技術を高く評価してのことであろう。おそらく肖像画の国貞     という定評が定着していたものと思われる。余談になるが、国貞の起用は馬琴の提案かそれとも丁子屋か。馬琴のこ     の日の日記には「丁子屋家内之者抔ハ、よく似たりとて誉候由ニ候へ共、小子家内之者ハ、さばかり似ずと申候」と     丁子屋の方では評判高かったが、滝沢家では案に相違して低い評価が下された。無論、失明した馬琴は自分の肖像を     見ることはできない。ただこういう見解は持っていた。「昔年、豊国が京伝没後に肖像ヲ画き候ハ写真ニ候ひき。是     ハ日々面会之熟友なれバ也」この豊国は初代。一陽斎豊国画く京伝の肖像画が生き写し同様に仕上がったのは二人が     熟友なればこそ。肖像画の出来映えは画工と被写体との親疎に関係すると、馬琴はいうのである。その点からいうと、     馬琴と国貞の関係は極めて疎遠で、『吾仏乃記』には「国貞と親しからず。文化年間、歌川豊国が家にて一たび相見     えしのみ。今日酒飯を薦めて晤譚の間、国貞則懐紙に吾肖照を写す事数扁、畢に写し得たりけん、哺時に至りて辞去     しけり」という。果たして豊斎がいうように、昼食と見られる食事の前の僅かな時間内に、国貞は面談しながら馬琴     の「癖を呑みこんで」真を写し得たであろうか。よしんば真を写し得たとしても、今日を入れても二度しか会ったこ     とのない国貞である、疎遠のものに良い肖像画は生まれないという馬琴の思いが、おそらくそのまま写し取られてい     るに違いないのである。『戯作六家撰』は『燕石十種』第二巻(中央公論社刊)参照。「日記」及び『吾仏乃記』記     事は、本HP「歌川国貞」及び「馬琴日記」の項参照〉     ◇第三部「彫刻師」「絵を活かすも殺すも」p148   〝三世豊国が地本絵双紙問屋菊寿堂広岡幸助へ遺した手紙の文中「扨又御ねがひは此の大全のかしらは、    ぜひ/\ほり竹に御ほらせ被下度候、どうも役のかしらは一番竹がよろしく候云々」と云ひ、その後文    に「先日女ゑ御ほらせ被成候は伊八ならんと存じ候、此人のわり毛すかし等は又中々外の板木師とひと    つになり不申かんしんに存じ候、女ゑの分は伊八に御遣し可被下云々」とある、此の手紙は葉月廿一日    喜翁とあるから、文久二年八月豊国七十七の時のもので、文中の大全とは「古今俳優似顔大全一の事で    あるが、是れ等な観ても〈*画工と彫工との〉一部の消息は想像し得られるのだ〟    ☆ とよのぶ いしかわ 石川 豊信    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第二部「浮世絵師」「板上絵と成る絵」p88   〝『耕書堂漫筆』に「ある日石川豊信大人を訪ふらひけるに、机上に摩りへらしたる猪の牙あり、根附に    しては大きくもあり、紐を通す孔もなきまゝ、何するものぞと問ひければ、画をかく折々に之れにて紙    をこすりて認むるに重宝なるゆゑ、此ほど藤吉許へ音信ひしとき、譲りうけつかひ居るよし語られける    が、その折には深くも心にとめずして過ぎ、一年余も経ちたる後何れの画師の家にも此の猪の牙をつか    ひけるより、おのれも此の牙を鬻ぐ家を尋ね、此ごろ一本を求め戯作する時の料としぬ、おのれが知れ    るところにては浮世絵師のうちで、猪の牙をつかひ出されしは豊信大人を始めとす、又藤吉とは板摺工    にして、色摺物に上手の男なりけらし」とある〟    〈『耕書堂漫筆』は未詳。「日本古典籍総合目録」になし〉    ☆ とよはる うたがわ 歌川 豊春    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p26   〝(歌川豊春)操人形の看板ばかりで無く、天明六年には桐座の絵看板、顔見世番附をも描いてゐる。当    時鳥居派に清長の名手あつたに拘はらず、豊春の之れに指を染たは、覇気に満た清長が一機軸を出すに    汲々として、家の業を疎にしたからでもあろうが、其四代を継いで家の業に復帰してからも、猶ほ豊春    は絵看板な描いた。寛政十年『猿若座の顔見世番附』に「絵師歌川新右衛門」とある。新右衛門とは豊    春の通称であるから、鳥居派の領分を侵触して居たことが知れる〟     ◇第二部「浮世絵師」「板上絵と成る絵」p92   〝蔦唐丸の『耕書堂漫筆』に「歌川豊春大人が東錦絵を彩るには、数枚筋彫をした板行画に一色づゝを、    絵の具皿にときたる岱赫墨にてぬり、紅、くさ色、藍などゝ傍らへ認め渡す云々」とあるを見ると、豊    春の盛時安永の末から天明へかけては、既に近頃まで行はれ居た彩色法であつたやうでもある〟    〈蔦唐丸(蔦屋重三郎)の『耕書堂漫筆』は未詳。「日本古典籍総合目録」になし〉  ☆ のれんえ 暖簾絵  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   △「第一部 浮世絵の盛衰」「九 浮世絵の描法に就いて」p60    (暖簾絵)   〝髪結床に掛た長暖簾の武者絵は、国芳門の芳艶が殆ど専門で、如何にも勇壮な響きがあり、何人も芳艶    の暖簾には太刀打が出来なかったさうである〟(2019/05/28追加)    ☆ ふさのぶ とみかわ 富川 房信    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p20   〝享保十七年板『近世百談』に「浮世絵は菱川師宣が書出し、現在は懐月堂、奥村政信等なり、富川吟雪    房信と云ふ人、丹絵の彩色を紅にて始めたるを珍らしく鮮かなりとて評判云々」とある〟    〈「日本古典籍総合目録」に『近世百談』は見当たらない〉  ☆ べにくくり 紅括り  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   △「第二部 浮世絵師」「八 板画施色の扱ひ方(二)」p102    (黄色に紅括り)   〝模様中に使つてある黄色には薄紅の括りを取る、之れは古い所の絵には無く、三世豊国がまだ国貞時代    の全盛期からで、五渡亭の最初の絵には黄色に紅括りが無い。天保頃より始まつたらしく思へる〟   〝黄色に紅括りを使ひ始めたは歌川国丸だと云ふ説が伝つて居るが、果して左様であるか何うか因所がな    い。未だ何等の書たものを見ないから確に云ふことは出来ぬ。若し国丸だとすれば初代豊国の門下で天    保以前に既に行はれて居た筈だ。国丸の錦絵は余り多く見た事がないので、何とも言へないが、著者の    見た画には、不幸にして黄色に紅枯りのある物でなかつた〟   〝(国丸は文政末没だから)黄色の紅括りを始めたと云ふ伝説が疑はれて来る〟    ☆ ほりし 彫師    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第三部「彫刻師」「頭彫と銅彫の分業」   〝寛政頃までは彫工にも頭彫り胴彫りの区別なく、従つて分業に成つて居なかつたので無からうか。荻野    荻声と云ふ人の『荻の葉風』と題する随筆に「近いころまで板木をほりて渡世にいたすものは、板元よ    り頼まれたる絵は己れ一人にてほりしものなり、弟子どもには中々に代ほりなんどをさせしものにあら    ず、幾日かゝるとも忠実やかにはんこうと首引きしたるものなるに、此のごろ久し振にて下町に出たる    かへるさ、湯しまの三八がりを尋ねぬ、机のしたからは酒の香の立ちそめ、三八は熟柿の如き息をはん    こうに吹きかけ絵をほる、誰れの絵かと問へば今はやりの春章の美人絵なりと答ふ、頭さし出して見れ    ば如何にも見事なる絵なり、傍らに首だけほりたるもの二三枚ありけるが、今ほり居たるはんこうも、    首だけ彫りあがると傍らへ積み、小刀をしまひけるゆゑ、予が訪らひたるより仕事の手を止めさするを    気の毒に思ひければ、暇乞して帰らんとす、三八あわてゝ袖を引止め先生帰るに及ばず、某の仕事は之    れにて終れり、これより共に一杯の酒に久澗の情を温めんと勧められ、然らば馳走にも成らんがはんこ    うの首ばかり何枚もほつて、跡は何時ほるやと問ふを、三八大口あいて笑ひ出し、先生は物に疎い人な    り、近頃のはんこうやは首を彫るものと、胴をほるものとは別々に成りたり、お蔭で某は首をほり居れ    ば工銀も多く仕合せなりと語りぬ、その心をとめて見るにはんこう彫りの上手なるものは首ばかり彫り、    次なる者がからだを彫る事になりしは、絵彫職の仕合せと云ふべし云々」とある。此の著者は「戯作者    年表」の享和年問の備考の部に其の名も列記され、随筆中の記事も天明から寛政享和ころのものが多い    のを見ても、近頃と云るは寛政年代ならんと推定する事も出来ようと思へば、頭彫りと胴彫りの分業し    たのは当時からであらううと推断向するのだ〟    〈荻野荻声の随筆『荻の葉風』は未詳。「日本古典籍総合目録」にはなし〉    ☆ まさのぶ おくむら 奥村 政信    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p20   〝享保十七年板『近世百談』に「浮世絵は菱川師宣が書出し、現在は懐月堂、奥村政信等なり、富川吟雪    房信と云ふ人、丹絵の彩色を紅にて始めたるを珍らしく鮮かなりとて評判云々」とある〟    〈「日本古典籍総合目録」に『近世百談』は見当たらない〉    ☆ もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣    ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p20   〝享保十七年板『近世百談』に「浮世絵は菱川師宣が書出し、現在は懐月堂、奥村政信等なり、富川吟雪    房信と云ふ人、丹絵の彩色を紅にて始めたるを珍らしく鮮かなりとて評判云々」とある〟    〈「日本古典籍総合目録」に『近世百談』は見当たらない〉    ☆ やくしゃにがおえ 役者似顔絵  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   △「第一部 浮世絵の盛衰」「七 続き絵の出版」p51    (三代豊国画「東海道五十三」嘉永五年(1852)刊 いわゆる「役者似顔見立絵」について)   〝〈天保改革の〉峻厳な禁令は背景を主題とした見立風俗絵に逃を張り、東海道木曾街道の如き一枚づゝ    で、続いて行く題材を撰んで国貞・国芳・広重の合筆の東海道五十三次なども出来る。擬源氏五十四帖、    擬百人一首、名所見立、料理店見立、曰く何、曰く何と此様種類が続々と出るやうに成つた。広重の東    海道五十三次や、江戸名所、諸国名所等も産出されるに至つたのは、無意義な役者風俗絵は有意義なも    のと成つて、一時の打撃は再び隆盛を歓呼する媒介と成つて来た。    此禁令も次第に弛んで三年目の弘化二年には国貞は既に三世豊国を名乗つた後で、役者の似顔に見立て    た東海道五十三次の大錦を出した。久々で役者似顔の出たのだから大歓迎である。けれども憚つて役者    の名を入れる事はしなかつた、役者似顔とは一目瞭然であつても、其の名を捺棒(ママ)に入れないから、    並の風俗絵で通り大いに世に行はれ、岡崎駅中村歌右衛門の見立、荒木政右衛門の如きは三十五杯も摺    立てたと云ふ。三十五杯と云へば七千枚である。当時錦絵の売高は能く売れたと云ても三四千枚である    に、七千枚を捌いたと云ふ古今未曽味の事と評判された。此の役者似顔見立が試験石となつて、ポツリ    /\役者絵の出版を見たが、役者の名は皆署せないで禁令の網の目を潜り、其の習慣は文久頃まで繋続    して来たやうである〟(2019/05/28追加)     東海道五十三次の内 岡崎駅 政右衛門 三代歌川豊国画(国立国会図書館デジタルコレクション)    〈荒木政右衛門が四世中村歌右衛門の似顔絵になっている。この売り上げ枚数が七千枚にも及んだという。なお売値     については本HP「浮世絵事典・や」の「役者見立絵」の項、嘉永六年の『藤岡日記』を参照のこと。ところで樋口二     葉はこの「役者東海道」を弘化二年の出版としているが嘉永五年刊が正しい〉   △「第二部 浮世絵師」「九 役者似顔絵の流行」p103    (役者似顔絵の享受層)   〝芝居と甘藷を好まぬ女は江戸に居ないと云はれた程、武家の素ツ堅気な女の外は芝居を見るが唯一の娯    楽で、役者に知己でもあるを無上の名誉のやうに思うた風が、江戸の女気質と成つて居て、それが民間    の俗を成すのみでない、柳営の大奥でも諸侯方の奥向でも、旗本などの後庭にしても河原者よ歌舞伎者    よと貶しつゝ、碌々芝居を観た事もなく、役者の顔をも知らない女で、似顔絵を介して顔馴染の贔屓々    々を生じ、誰れの彼れのと嘖々噂する不思議の現象があつた。    此の現象が役者の似顔絵をして勢力を占め、芝居の興味を誘り立て憧憶させるので、役者似顔の芝居絵    と云ふと、観劇の出来ない婦人向に歓迎を受け、次第に拡まると同時に営利を目的とする版元は、其の    出版を続々と行ひ役者似顔の一絵が多くなつて来て、後には風俗美人絵よりも遥に版数も多く、売高も    亦た多いことに成り、東錦絵の隆昌を導く急先鋒の役を勤め、化政度に至つては錦絵の売高、出版の版    数は役者絵に敵する絵は殆ど無いやうに成つた。     (中略)    殊に五渡亭国貞が盛んに役者似顔絵を出すやうに成つて、浮世絵界を風靡した頃から、芝居の座元・狂    言作者または役者との関係が密になつた。(中略)国貞の役者絵は師匠の一世豊国よりも、顔の描き方    の円満で愛嬌に富み、何様醜い顔でも何処にか美点のあるものだから、其の美点を誇張して癖を取るの    で、描かれる者は勿論観る者も更に悪感を与へない特長があつた〟   △「第二部 浮世絵師」「一〇 新狂言の役者絵」p106    (出版への段取り)   〝芝居の座元・狂言役者または役者との間には連鎖が附いて居るから、新狂言が極ると直ぐ画工の許へ知    らせて来る。此処に於て画工は其の狂言に依て構図を作るだが、新しく書下した狂言で無い限りは、夫    れ/\にお約束の型はあるもので、廿四孝輝虎配膳とか狐火とか云ふやうに、絵にする処は極り切て居    るから、画工は腹案を定めて下絵を作るし、書下しものゝ新狂言になると、作者より其の筋と場面を聞    き、主要の人物が仕業を尋ね、また役者が其の役々に対する工天を探り、下図を考へて一番目物、二番    目もの、中幕ものと、先づ五六番の下絵を描き弟子を地本問屋へ走らせて相談するのだ。     (中略)    地本問屋には年行司と云ふものを設け組合内の事務を執り、画工から廻る下絵の如きも年行司が先主権    を有して居るので、先づ自分の家にて出版せんとする絵柄の好きものを選定し、他を組合中へ紹介して、    例へば世界が忠臣蔵とすれば、甲の座は三(ママ)段目の腹切を取る、乙は五段目の二つ玉、丙は七段目の    茶屋場と云ふやうに絵の衝突を避けて、新狂言に対する出版が決定すると、画工はいよ/\板下絵に着    手して描き揚げるのである〟                      以上『浮世絵と板画の研究』2011.1.3 収録(2019/05/28追加)