Top        『彗星 江戸文化研究』(雑誌)      その他(明治以降の浮世絵記事)   出典:『彗星 江戸文化研究』柴田泰助編        春陽堂  大正十五年(1926)四月創刊~昭和四年(1929)九月)       朝日書房 昭和四年十月~同五年(1930)二月休刊)      (国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯「錦絵を彫る職人」靄軒叟著(『彗星 江戸生活研究』昭和二年(1927)十一月号)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(10/29コマ)   〝 板画といつてもこゝでは錦絵を主として言ふのである。その板画の彫刻に年季を入れて修養を積み、    一人前の職人で世間へ出られるやうになるのは中々容易でない。     先づ年季小僧にはひる時には親方になる人から試験をされる。年季小僧になるのは大概十一二からが    多い、そんな小僧ッ子、刀などは手に触れたこともないものに、物を彫らして見ることは出来ないが、    其者の手筋の器用無器用を試すにある。その方法は神棚へ切火を打たすのだ。右の手に火打鎌、左の手    に火打石を持たせカチ/\と遣らせる、手先の器用な小僧は火花がパツ/\と鮮やかに出るが、無器用    な奴になると音ばかりで火花が出ないから、この試験によつて親方がその小僧を仕立てる方針を定め、    此奴は頭彫りになれようとか 又銅彫りが関の山だらうとか将来を卜して古稽(ママ)させる。中には無器    用な手付で切火を打つた小僧が案外な結果を見るのもあるが、十中七八までは切火の巧拙で其ものゝ前    途は予知される。現在ではこんなことはしないさうであるが、昔はこれが板木屋へ小僧にはひる時の慣    例試験であつた。     彫工、即ち板木屋には文字彫り画彫りと分業になつてゐるは世間衆知の通りであるが、画彫り専業    のものでも稽古彫りの順序は、浄瑠璃の丸仮名であつて義太夫の五行本である。これが容易にふつくり    と丸味を持たせて彫れるものでない。その彫り方は浄瑠璃本を桜の板に貼りつけ、写物をするとき籠字    にとるやうに文字の周囲へ刀を入れる。その刀の運びが少しついて切り廻せると、段々に六行もの七行    ものと細かい文字に移るが例で、この間が大抵二年間ほどは稽古しなければならない。それも初めは子    守りや追廻しに使はれるのだから、首ツ引に刀で板木をつゝ突くのは早いので十四五だ。斯うして居る    うちに画彫りの方では、菓子袋とか団扇の裏画とかいふやうな簡単なものを彫らせられる。文字彫の方    では其修行もまた違ふのは言ふまでもない。今までむだ飯を喰はして著物を著せて来た取り返しはこれ    からで、ポツリ/\職業に就かせることになる。此頃になつて始めて此奴の手腕は伸びるとか、または    生涯平凡(ぼんくら)で終わるとかいふことがハツキリする。幾ら平凡の手椀でも刀を握つて板木に向    つてゐれば、一人口は過されたもので、首尾よく年季を了る時分には下手は下手なりに、切付合巻や玩    具絵ぐらゐは彫れる。で、気のきいた世渡りの上手な者でも、同業の下職で泳ぎ歩いて貧しい生活に終    るのである。     これに反し、小手の利くものはズン/\手腕が伸び、丸仮名が何(ど)うにか斯(か)うにか切廻しが付    くやうになると、画の彫りに刀を染めさせられる。こゝが修行をして来た手腕試しであつて、画彫りの    小手調べである。初めは切付合巻または一寸とした大錦の模様などを彫るのだが、それも見立物のやう    な上物の板木には刀を入れさせない、大錦でも並物と称する新狂言の似顔画の色板である。切付合巻に    しても頭は大抵兄弟子で草双紙を彫る程度のものが彫る。草双紙即ち合巻物を彫るものでも余程鍛錬の    積んだ者でないと、頭は専門の頭彫りの手習双紙になるのだ。さうして軽い胴彫りに進み、大錦の中に    ある書入の文字、背景の屋台引また風景を彫る。こゝまで来ればその者の手腕は相応に進み、運刀の切    れ味も見えて来ることになる。これが段々と錬磨の功を重ねて合巻類の小道具、また模様でも彫るやう    になると、モウ一ツ端の職人で同業の中でも、あれは何所(どこ)そこの弟子であると言はれる。此時が    大切の修行期、あと一二年で年期が明ける頃で 技術が上達するか平凡でかたまるかの分岐点である。    天稟の技能あるものは頭彫りとなつて妙技を発揮するが 多くは胴彫りどこで漸く合巻の頭を彫るのが    エンヤラヤツトだ。併し胴彫りといつても馬鹿には出来ない、彫竹こと横川竹二郎の甥で鼻萬こと豊田    萬吉のやうな胴彫りの名人もある、とにかく年季明け一二年前は、まだ親方の家にごろ付て居て値の知    れぬ米の飯を喰ひ、小遣銭を貰つてたゞ手腕を磨くを専一に、刀を縦横に揮ふのだから合巻物などには    随分精巧なのがある。時間や賃金にお構ひなしで手腕一杯に伸ばすことが出来るからだ。元来が合巻物    は算盤玉からでは割に合ふ仕事でない、あの緻密な画を丹念に彫るので時間を要すること一通りでない、    如何に生活の度の低い物価の安い時節でも手間賃には当らなかつた。     普通画彫りといふは、読本の挿画、摺物の画、大錦、合巻もの等を彫る職に従事する技術家を総称し    た名であるが、大錦や合巻類を彫るものは、鉄筆を業とする仲間(注1)にては画彫りとは言はないで、    あれは大錦屋だ合巻屋などと軽視して居た。尤も大錦屋でも頭彫りになると立派な手腕もあり、読本の    挿画を彫らしても水際の立つ彫刻家もあるから、さう侮りの眼で見られて居ない。大錦屋の側でも頭彫    り・胴彫り・色彫り即ち色板を彫るもの、またナツボウ(注2)などの文字でなく、戯作者の署名した書    入、その画面に就ての説明書になると文字彫り専門の手に掛けることになる。なほ頭彫りといつても一    流でパリ/\してゐる者は、其刀のナツボウは刻み込んでも、実際のところは美人ものでも役者もので    も顔と生際の毛割りより刀は下さない、頭髪、殊に女のあたまには櫛笄簪など種々の装飾品があるが、    これを専門に彫る職人もある、また女の髪の毛がき即ち通し毛ばかりを得意で彫る職人もあつた。又胴    彫りにしても衣紋などの線を彫るもの、模様を彫るもの、背景の風景や屋台引を彫るものと分れ、また    浚ひといつて彫刻しない板地を鑿でコツ/\浚ふ下ツ端ものもあつた。こんなやうに一枚の板下画が墨    板になつて筆者の手許へ校合摺の廻るまでには、六七人の手で捏ね廻し、色さしとなつて色板を彫るに    ほ二人か三人の手数が掛ることになる。最も普通ものゝ画には斯うした手数も掛けて居られない、が、    特殊の上物になると一流の頭彫りが助手の手を煩はさず、胴彫りも背景も一人で捌き これ見てくれと、    画工と技を争ふ立派な美術品と思はれるのもある。国芳ものを自慢で彫つた名人須川簾吉の刀を揮つた    大錦で、国芳慢画(ママ)の銘打つて出た簾吉の彫つた侠客物の図の如きは、頭は元より胴彫りも模様も背    景も刻され、緻密な模様などにも一もムダ彫りをせず仕揚げ、一流の刷工が一度見当を合せば狂ふこと    もなく、色と色の重なつたり隙を生じたりする所が兎の毛ほどもなかつたと言ひ、亀戸豊国ものにも豊    国の顔を得意で彫つた彫竹と胴彫りの名人鼻萬との合作がある。これらは彫刻の知識のない門外漢が見    ても、其鮮かさ見事さが直覚に映じて板画とは思はれないのは、錦絵通の先刻御承知のことである。     世間から画彫りとはいはれず、大錦屋さんで通つてゐる連中になると 主に純粋の職人肌で、熊さん    八さんの徒と変ることがない、懐中に幾らでもあると酒を飲んでしまひ、何時も著たまゝで随分尻切半    纏一枚で弥蔵を極める低級な兄イもあつたが、大抵は襟付の半纏に平絎の三尺帯がその礼服で 手間賃    を貰つた時などは切れ放れの好い銭を遣つたさうだ。そこへ行くと頭彫りの職人になると、常におめへ、    おれで通る我雑(がさつ)な職人気質に馴れてゐても、チヤンと長物を著て中には角帯をしめて居たもの    もあつた。大錦屋さんの平職人より品位も稍々高く、随つて親方にしても問屋にしても軽く扱はなかつ    た これは常に文字彫りの多い山の手の御家人と交際して居た自然の感化らしいとい云ふことだ。山の    手組の御家人には文字彫り殊に合巻類を内職にして、また画彫りを内職にするものが多く、文字彫りで    は江川派、木村派が下町にあり、山の手には宮田派があつた。御家人組で合巻の頭を彫る別派の頭目は    四谷左門町の竹内熊次郎といふ人、此人が御家人の大錦屋さんを統率して盛んに彫り、その後に山の手    名人と言れた永山や芹沢の両刀(りやんこ)挿が出て、胴彫りの名手と呼れた島田あり、また市ヶ谷の    蛙屋敷に長太郎も居た。牛込の榎町、半蔵門外火消屋敷、千駄谷新屋敷などには団をなして御家人の文    字彫り画彫りがゐて、この連中と職業上から交際することが多くなつた。で、見やう見真似に羽織の一    枚も引ツかけ、風俗でも動作でも野鄙の姿は幾分か少なかつたが、腕ツ節の強い職人には随分キビ/\    した気象に富み無邪気な勇者もあつた。     大錦屋さんのうちでも殊に頭彫りは画に艶を持たせることが大切である。活気の横溢した壮年時代は、    その刀跡は拙であつても何所となく覇気が満ちて艶を含むが、老熟すると捨て難い妙味は出ても何とな    く荒涼を感じさせるは、特に大錦や合巻の画彫りばかりではない、何れの芸術にも通有性であらねばな    らぬ。時世粧を描く浮世絵では就中艶といふことが一大事で、風俗美人絵の生命とされる、武者絵にし    ても勇壮の状が消え藁人形のやうになる。彫工のうちでも画彫りは殊にこれが必要で、年を取るに従つ    て段々と刀が切れなくなる。手腕に錆が出て妙境に入ると艶気が減るので、彼の名工彫竹の如きは常に    花柳界に入浸つて馬鹿をつくして居たさうだ。それが決して天窓兀げても浮気はやまぬ、的の道楽でな    く、その職に忠実であつたのだと香取緑波といふ彫工から聴いた事がある。同人の談に老大工の亀さん    は、朝四ツ(今の十時)までは鉋も切れるが正午頃から駄目だと言つて仕事をしなかつた。それは朝一    時は年を取つても壮時の様に仕事が出来るが、正午頃になるとモウ精力が衰耗するからだ、又声曲に衣    食する芸術家が艶を失はない為に 花街柳巷の地に出入りして 若い孫のやうな女に接触するも同じ理    であると言つてゐた。     山口寒山(若州小浜藩の儒者山崎闇斎門)の『雨滴夜談』中にも「我家に出入する剞劂師粂次といふ    者あり、齢既に耳順に達し家もなく妻子もなし、瓢と東西に流寓し食客となる、然れども刀を握つて板    木に対すれば、妖麗華を欺く美人を刻す、故に何れに到るも歓待を受くること極て厚し、常に一刀を懐    にして今日は神田に在れば明日は芝に遊ぶ、一夜陋屋に来つて快談す、談偶々業体に移り、予剞劂を職    とするもの壮年にあらざれば能はずと聞く、汝が如きは今にして死所を定めざれば 行路餓莩(注3)し    終らんと一笑す、粂次微笑を含みて曰く、否猶十年は憂慮するに足らず、鬢髪霜を見ると雖も此腕壮者    を凌げり、柳橋の月に憧憬し北里の花に浮動し、刻する処の美人に嬌姿衰亡せざらん中は、粂次の生命    何ぞ竭くると云んや云々」とあつて 其奇行を列記してある。粂次の伝は未詳ではあるが要する頭彫で    あらう、六十にして彫る画に猶愛嬌のありしは、若々しい気質で爺染みなかつたに違ひない。こんな現    象は特に画彫りにばかり見る訳でない、文字彫りにもあるやうに聴くが、これらは特別もので普通の画    彫りは二十歳前後から四十五六までを生命とする、モウ四十七八となると下り坂で刀の切れ方が鈍つて    来る。年を積むに従つて刀法は整然と極つて来ても 画彫りに大切な艶が失せて寒風に吹き曝された乾    鮭のやうになつて了ひ、何となく寂寥の気が満ちて明るい陽気な感じがなくなる。さうなると最うおし    まひである。      付言、この談は彫勇・目藤・円活(二代)の彫工、芳幾・豊斎の画工、現今彫工の重鎮大塚、刷工阿         部、香取の諸氏から聴いて置いた談話を総合した画彫り職人にホンの輪廓ばかりである〟   (注1)「鉄筆を業とする仲間」は篆刻家   (注2)「ナツボウ」は「戯作者の署名した書入、その画面に就ての説明書」などを指すようであるが、表記不明   (注3)「餓莩」は餓死     〈彫師(板木屋)の役割分担    A 文字彫り    B 画彫り(読本・摺物・大錦・合巻の彫刻)       別称:大錦屋、合巻屋(上掲のうち大錦・合巻の彫師を篆刻家はこう呼んでいた)     1「頭彫り」の仕事分担      ①顔と生え際の毛割      ②櫛笄簪などの装飾品      ③女の髪の毛がき(通し毛)      〈下掲石井研堂によると「頭の毛筋の長く通るを通し毛といふ」具体的には「水にぬれた毛、幽霊の毛、振り乱した       毛」とある〉     2「胴彫り」の仕事分担      ①衣紋などの線      ②模様      ③背景の風景や屋台引(直線)     錦絵の場合、以上の彫りに加えて     3「色彫り」色板の彫り)  ◯「浮世絵師売出しの一大難関」靄軒著(『彗星 江戸生活研究』第三年(1928)十月号)   〝(本郷豊国(二代目)襲名引札)    各位之諸賢 倍々御光祥被遊御座 奉唱南山候 陳者 来三月廿六日 不拘晴雨 柳橋大のし富八亭に    て名弘書画会相催申候間 御抂駕奉希上候      亥三月 会主 二代目 歌川豊国          補  歌川豊広 故人豊国社中〟    〈二代目豊国の襲名披露書画会、日時:文政十亥年(1827)三月廿六日、会場:柳橋大のし屋冨八亭〉   〝(歌川孝貞名弘会引札)    諸君倍清福奉恭喜候 陳れば廿七日両国柳橋万八楼上に於て名弘会莚相催候間 不論晴雨 諸君賑敷御    光駕願候      亥三月 催主 国貞伜 歌川孝貞          補助 歌川惣社中〟    〈この亥を著者靄軒は天保十年とするが、『馬琴日記』文政十年三月二十七日の記事に「国貞忰孝貞名弘会祝儀一包、     両国万八方へもたせ遣ス」とあるから文政十年と思われる〉