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   人物編Ⅰ 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌〔人物編Ⅰ〕   大田南畝関係
 (浮世絵師・狂歌師・役者・遊女・芸者等、当世の人物)
  【あ】※浮世絵師は名前別。◯は欠字、◎は表示不能文字
人名詞書・詩歌出典巻・頁年月日
あかまつれん
赤松連
「寄小石川祝【赤松連初会、八月二日】
 川の名の小石ひろふて土くれをうたおさめたるわらんべの歌」
巴人集②414天明3年
1783/08/02
「赤松連の狂士、ぞうしがやにて狂花合せし時【是雑司谷会式花合のはじめ也】遙見千家花便入、不論源氏与池坊とかきて
 なげ入の水際だって見へたるは花をいけずきむだをする墨」
巴人集②420天明3年
1783/10/16
「赤松連中狂歌会に沢辺帆足・呉竹ふしみ来りける折から、雪ふりければ
 雪の日にほたるの来るもことはりやさるおやしきの儒者もみゆれば」
巴人集甲辰②433天明4年
1784/02/02?
あかじみ の えもん
赤染 衣紋
「(正月七日、五明楼)家童子【棟上高見が妻】を、赤じみの衣紋とよび侍りければ
 たはれ歌よめどもよめどもあかじみの衣紋をけふのきそはじめ哉」
巴人集②391天明三年
1783/01/07
あげやのくらちか
揚屋 蔵近
「はるのよ五明楼棟上高見がもとにて、あげ屋のくらちか、蔦のから丸など物語し侍りしに、そばいでゝのち、おぼろ豆腐をすゝめければ
 御馳走の御そばにはらもはるの夜は朧豆腐にしくものぞなき」
巴人集②392天明3年
1783/02/
あけら かんこう
朱楽 菅江
山道甫(さんどうほ)
(交友編参照)
「山手白人・あけらかん江・地口有武などゝ同じくすみ田川に舟逍遙し侍りし時、おちよ・おとせといへる二人のしら拍子の今様うたふをきくに、 野辺の若草むすぼんことを、いなか風とて花染ちらし、梅のかほりのつんとして、姫御前の身のつまからげ、ほんに気まゝなうき世わたりは、うれしからふじやないかいな、といふをきゝてよめる
 此比のいなか風とてもはやす狂歌に心のべの若草
 けふの舟うれしからふじやないかいな隅田川原のうき世わたりは」

〈『蜀山人判取帖 補正』に「卯月廿二日山手白人のあそのすみだ川へ舟逍遥し給日とあり」〉
巴人集②402天明3年
1783/04/
「もとの木あみ、あけらかん江とゝもにから衣橘洲のもとにあそびて
 から衣きつゝなれにし此やどにはるばる過て夏のお出合」
巴人集②410天明3年
1783/06/
「人日、馬蘭亭に集ふ 今年春似去年春 去歳人非今歳人 唯有年々人日会 此人此日此相親」
「又 菅江不共橘洲遺 一曲狂歌和者誰 但飲生前如此酒 有涯何必羨無涯」
【山崎景貫、字道甫、号菅江。小島恭従、字温之、号橘洲。共に狂歌を善くす。今や則ち亡し】
南畝集13
漢詩番号2212・3
④242享和3年
1803/01/07
あさくさあん
いちひと
浅草庵 市人
「浅草庵にてもろ人梅のざれうたよむと
 風の神こちらをむけば浅草の庵にちかき梅匂う小屋
 梅音院のもとの名を二王小屋とも匂ふ小屋ともいへばなるべし」
をみなへし②20文化4年?
1807/02/?
「市人の酒を飲むをみて
 寒き日は酒うる門にむれゐつゝさかなもとめてゑへる市人」
をみなへし②29文化4年?
1807/10/
「浅草庵剃髪を祝して 〔欄外 浅草東仲町いせや久右衛門〕
 あらためて浅草のりの道にいる東仲町もとの市人」
七々集
万紫千紅
②249
①284
文化12年
1815/08/
「(文政四年冬『あさくさ/\』序(浅草庵市人追善狂歌集))
天明四のとし、浅草市にたつの冬、はじめて浅草庵にたちよりしより、としごとの市に此庵にいこはざる事なし。謎坊主とやらん春の雪とけ/\と語りしをとぢめとして、枕にふして杖をひく事あたはず。ことしむつきのはじめ、だい/\ところ米だはら待ち、大松のみてらに柩のつなをひく事とはなりぬ。もろ人の追福のうたのはし書せよとせちにこふにまかせて、
 浅草の庵にすめる市人の名はうづもれぬ大松のもと
辛巳の冬の日    七十三翁蜀山人狂花園にしるす」

〈市人、文政三年十二月二十七日没、享年六十六才。埋葬は大松寺〉
序跋等拾遺⑱568文政4年
1821/10/
あさぎぬ
朝衣
「古河のわたりにすめる人、うかれめのもとにことづけてゝ、桑の木もてつくれる飯櫃をおくりけるに【欄外。遊女は若菜屋朝衣也】
 これなくは中気やせんとまくらかの古河のおきやくの思しめし次」
万紫千紅
七々集
①284
②248
文化12年
1815/08/
あさづま
朝妻
(高橋万里・田中氏と吉原岡本楼に宴。遊女朝妻(むかし遊女・敷波の禿)、所蔵する南畝の書を十姉妹と交換せし事。翌年享和三年、メリヤス「十姉妹」を作りこれを偲ぶ)細推物理⑧399享和2年
1802/12/22
あな かしこ
阿那 可師古
「小阿那可師古、わがすがたをゑがゝしめて歌をこひければ
 鏡にて見しりごしなるわがすがたお目にかかるもひさしぶりなり」
徳和歌後万載集①35天明3年
1783/01/
あひる の まえ
家鴨前
「家鴨前死時傷作歌  四方赤良
 ばさらなすいちのおさ(長)らがむふべつ(無分別)は、むだてふものに日くらしつ、金てふ物をぼりすれど、つかひすれば、うしごみ(牛込)のうし(黄牛)にひかれて、行くかは(川)のこひ(鯉)ならなくも、みづ鳥のあひるしめにと、うかれでゝ、そこらまは(廻)りとかこつけて、きしも(鬼子母)のみやのまへなる、めがや(茗荷屋)にこもり、ふたひまで居つゞるのみか、江戸川のわた瀬をはやみ、年月のたちゐもおのがまゝのかわ、妻こふ猫の四ッぢ物、みすぢのいとのたとへまなみ、ひるはもあからぐひのみし、よるはもやたらとりのめし、おどりはねぬる折も折、やはりもてくるいも(痘瘡)はしか、親のこふ子の里いもゝ、ころりあのよのお日待に、よばれしゆけば、やみが雲にとさはぎにし、ちよ/\らよのまもわすられなくに
 反歌
 よこでらのまちのうら屋をうすのごところげありきしあひるしぞ思ふ」
〈本文の前に酒上熟寐の「あひるのまへ」という狂文あり。それによると、家鴨前は牛込の芸者。身長が低いので、あひるの前と呼んだという〉
游戯三昧抄②505安永5年
1783/01/
あやめ の まくら
あやめ の 真久良
「芳沢菖蒲をあやめの真久良とよび侍るとて
 かきながす筆のあやめのまくらがみゆかしきこえによし沢の水」
巴人集②412天明3年
1783/07/