Top         「幕末明治の浮世絵師伝」
  幕末明治の浮世絵師伝           か行            
 出典:『幕末明治の浮世絵師集成』「幕末明治の浮世絵師伝」(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)    ☆ かおる 薫    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝薫(かおる)    宮城玄魚の息子。梅素亭と号し、明治二十年代に衣服、図案を工夫し、版画も描いた。小唄の名人で、    化粧品も経営していた〟    ☆ かげとら 景虎    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝景虎(かげとら)    芳景の門人、明治二十年代に作画がある〟    ☆ かげひさ 景久    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝景久(かげひさ)    芳景の門人、明治二十年代に作画があり、主として戦争画を描く〟    ☆ かそん 華邨    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝華邨(かそん)    鈴木茂雄、通称惣太郎、別号を忍青といふ。江戸の人、中島享斎に学ぶ。明治中期に、風景画、歴史画    家として活動し、また新小説その他の雑誌の口絵を描く。万延元年生れ。大正八年、六十才で歿してい    る〟    ☆ かねひこ 兼彦    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝兼彦(かねひこ)    高畠氏、三代柳亭種彦(藍泉)の男、明治期に小説本の挿絵を描く〟    ☆ ぎょううん 暁雲    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝暁雲(ぎよううん)    河鍋氏、周三郎、暁斎の男、多少の肉筆画あるも、早死している〟    ☆ ぎょうえい 暁英    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝暁英(きようえい)    英国人で、明治の有名な建築家コンドルの雅号。河鍋暁斎の門人として、肉筆画を描く。大正九年に歿    した〟    ☆ きょうさい 暁斎    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝暁斎(ぎようさい)    河鍋氏、俗称周三郎、周麿、洞郁、陳之、惺々狂斎をも号とした。下総国古河の藩士、甲斐喜右衛門の    長子、幼時より画を好み、歌川国芳の門に入つたが、のち前村洞和につき、軈て幕府の絵所狩野洞白に    学んだ。明治維新後は最も活躍した画人の一人。肉筆を主としたが、風俗画や諷刺画の版画にも活躍し    ている。何れも彼一流の特徴を出している。頗る酒を好み、逸話に富んでいた。古画研究にも新機軸を    出している。天保二年四月生れ、明治二十二年四月、五十九才で歿している〟    ☆ ぎょうざん 仰山    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝仰山(ぎょうざん)    中島氏、狩野派の人。また川上冬涯に洋画を学び、明治初年に各種の版下絵を描き、浮世絵派に近かつ    た一人である〟    ☆ ぎょうしゅう 暁舟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝暁舟(ぎようしゅう)    田代英虎、竹内桂舟の門人。信州の人、雑誌の挿絵がある〟    ☆ ぎょうしゅん 暁春    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝暁春(ぎようしゅん)    土居久米次郎、暁斎の門人〟    ☆ ぎょうすい 暁翠    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝暁翠(ぎようすい)    河鍋氏、暁斎の娘、美人画に長じ、女子美術学校教授とある。昭和十年に歿している〟    ☆ きよおき 清興    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝清興(きよおき)    藤原氏、清親の門人、明治二十年代に注目すべき開花絵の版画がある〟        ☆ ぎょくえい 玉英    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝玉英(ぎよくえい)    鍋田吉資、始めは延春、のち楊堂と号した。周延の門人、明治二、三十年代の版画家として活動して、    理智的な明治美人風俗を描いていた。その門人に梶田半古がある。半古の門人に小林古径、前田青邨を    出した。浮世絵の画脈を伝えた恩人である〟    ☆ ぎょくき 玉亀    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝玉亀(ぎよくき)    飯沼氏、稀堂と号した。玉英の門人、明治三、四十年代に美人画を描く〟    ☆ きよさだ 清貞    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝清貞(きよさだ)    鳥居氏、実姓はじめは渡辺氏、後に後藤氏を嗣ぐ。始め国芳の門人であつたが、その歿後は鳥居清満の    門に入り、清貞と名乗る。喜昇座の奥役として番附絵本を描く、弘化元年生れ、明治三十四年、五十八    才で歿した〟    ☆ きよただ 清忠 三代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝清忠 三代(きよただ)    鳥居を称した。二代清忠の長男父清忠と、二代清満に学び、芝居絵看板、番付を描く傍ら勘亭流の書を    よくした。住吉町に薬種商を営み、三礼堂とも号した。文化十四年生れ、明治八年、五十九才で歿した〟    ☆ きよたね 清種    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝清種(きよたね)    徳田元三。二代鳥居清満の門人となり鳥居を称した。絵草紙屋を営み、また絵ビラ描きを業としたが、    後には芝居絵本、辻番付を描く。天保元年生れ、明治二十三年、六十一才で歿した〟    ☆ きよちか 清親    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝清親(きよちか)    小林氏、画号は明治九年頃は方円舎清親、のちに十七年頃よりは真生楼または真生と号した。肉亭夏良    もその始め頃の仮号であるといわれている。幕府の御蔵方組頭小林茂兵衛の末子である。明治維新と共    に静岡に移住した。数年後に東京に帰る途中、横浜で下岡蓮杖より写真術を、ワーグマンより油絵を習    い、東京に帰つてからは河鍋暁斎、柴田是真等からも日本画の要点を習得した。かくして版画製作の素    地を作つて明治九年、大黒屋松本平吉店より新しい東京風景を描いた洋風新版画を発行した。十二年よ    り十四年までは具足屋福田熊次郎店からも、東京、箱根等の風景を出したいる。    明治十四年後はその作画法が一変して低調となつたが、画人的活動は各方面に拡大された。各種の版画    と並んでポンチ絵を描き、また新聞雑誌の挿絵も描いた。日清戦争の戦争版画が、版画家としての活動    では絶頂であつた。その後、日露戦争時にも戦争画があるが、この頃より多く旅行し、肉筆がを残して    いる。画人としては晩年は本流より離れ、比較的不遇の中に送つた。弘化四年八月生れ、大正四年十一    月、六十九才で歿した。ともあれ、明治浮世絵版画界の代表的人物である〟    ☆ きよみつ 清満 三代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p86   〝清満 三代(きよみつ)    鳥居氏、俗称亀治、のち栄蔵と改める。二代清満の長男、父に学び、その歿後は襲名し、鳥居宗家の六    代目となる。鳥居派の人々はすべて、明治の風俗浮世絵界には関係が薄い。天保三年生れ、明治二十五    年、六十一才で歿した〟    ☆ ぎんこう 吟光    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝吟光(ぎんこう)    安達平七、始めは松雪斎、のちに松斎、銀光とも号した。明治十年代より三十年代にかけて美人画、風    俗画の版画を描き、また雑誌小説の挿絵を描く。師伝、流派その他が明らかでない人である〟    ☆ くにあき 国明    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国明(くにあき)    歌川を称す。十四番組御徒士平沢辰之助の長男、三代豊国の門人。その作画期は弘化より、慶応に及ん    でいる〟    ☆ くにあき 国明 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国明、二代(くにあき)    歌川を称す。平沢氏より出て、蜂須賀氏を嗣ぐ、初代国明の弟、俗称斧二郎、一鳳斎また鳳斎と称した。    三代豊国の門人。角力を好み、角力絵が多いが、文久期には横浜絵も描いた。しかしこれは一世、二世    何れの国明が描いたものか疑問として置く。天保六年生れ、明治二十一年、五十四才で歿している〟    ☆ くにきよ 国清 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国清 二代(くにきよ)    歌川を称す。一楽斎、松魚楼と号した。その作画期は嘉永より明治十年代に及ぶ〟    ☆ くにさだ 国貞 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国貞 二代(くにさだ)    四代豊国の前名、その項参照〟    ☆ くにさだ 国貞 三代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国貞 三代(くにさだ)    歌川を称す。竹内栄久。幼名朝太郎、幼時より三代豊国の門に入り、彼の歿後は二代国貞(後の四代豊    国)に学ぶ。初め四代国政を名乗り、梅堂と号したが、明治二十二年、三代国貞を襲名し、香朝楼と号    した。別号を梅堂豊斎、芳斎ともいつた。明治十、二十年代の国政時代に作画が最も多く、俳優の似顔    を写すと共に、博覧会、開化事物などを題材としたものがある。嘉永元年生れ、大正九年、七十三才歿    した〟    ☆ くにたま 国玉    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国玉(くにたま)    歌川を称す。江田岩次郎、一宝斎または宝斎と号した。三代豊国の門人、明治期に多少の作画がある〟       ☆ くにちか 国周    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国周(くにちか)    荒川八十八、花蝶楼、一鴬斎、豊春楼、曹玄子、米翁などと号した。京橋五郎兵衛の湯屋の大島九十郎    の次男。豊原国信の門に入り、羽子板に俳優の似顔を写すを習い、のちに三代豊国の門人となる。国周    の号はその双方の師匠の一字をづつを取つたもの。歌川派であつても、これを名乗らずに豊原国周と称    したのもこの師門関係による。その生涯を役者似顔絵に終始した。俳優の声色、無踊、狂言を好み、淡    泊、無頓着な浮世絵師らしき生涯を送つたが、女房と住居にも厭き易く、一代に妻を代えるること四十    八余度、転居すること八十三回に及んだ。門人も頗る多い。天保六年生れ、明治三十三年、六十六才で    歿している〟       ☆ くにつな 国綱 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国綱(くにつな)二代    一曜斎国輝の前名、の項参照〟    ☆ くにつる 国鶴 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国鶴(くにつる)二代    和田勘之助、初代国鶴長男。歌川を称し、これをのちに本名とした。号は一寿斎という。横浜に住み、    明治の横浜風物を描く。のち幻灯をもつて地方を巡業したりして、明治二十年頃からは芝日蔭町に石版    画店を出し、自作もした。嘉永五年生れ、大正八年、六十八才で歿している〟    ☆ くにてる 国照    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国照(くにてる)    歌川を称す。山下彦三郎。下総古河藩士、初代豊国の門人、浮世絵の傍ら文晁の風を学び、晩庵、琴松    と号した。幕末期に多少の浮世絵版画がある〟    ☆ くにてる 国輝 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国輝 二代(くにてる)    山田金次郎、一雄斎、一曜斎と号した。三代豊国も門人、始めは国綱と名乗つていたが、のち二代国輝    となる。その作画期は慶応より、没年までに及ぶ。よく明治の開化風物を描き、また教育絵などをもの    にした。その画風は貞秀に似た所あり、一時貞秀に師事したともいわれる。天保元年生れ、明治七年十    二月、四十五才で歿した〟        ☆ くにてる 国輝 三代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国輝 三代(くにてる)    岡田藤四郎、歌川のちには、豊原を称した。一雄斎と号し、二代国輝も門人、のちの国周の門に入る。    明治十、二十年代に多少の作画がある〟    ☆ くにとく 国得    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国得(くにとく)    歌川を称す。大屋幸五郎、明治期に役者絵がある〟    ☆ くにとし 国利    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝山村清助、歌川を称す。梅寿または梅翁と号した。楳樹邦年もこの人の別号である。三代豊国の門人。    明治十、二十年代に作画多く、明治三十二年、五十三才で歿した〟       ☆ くにとし 国年    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国年(くにとし)    歌川を称す。小笠原玉記、一笠斎、笠斎と号した。三代豊国の門人、横浜に居住し、明治期に多少の作    画がある〟             ☆ くにとも 国朝 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国朝 二代(くにあさ(ママ))    歌川を称す。俗称友次郎、四谷新宿に住み、酒店を業とした。三代豊国門人、嘉永より明治にかけて多    少の作画がある〟        ☆ くにとら 国虎 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p87   〝国虎 二代(くにとら)    歌川を称す。渡辺丑太郎、始め政員と号し、のち梅筵と改めた。明治期に多少の作画がある〟    ☆ くになお 国直 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国直 二代    歌川を称す。芦原氏、三代豊国の門人、明治期に諷刺画等を描く〟      ☆ くにはる 国晴    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国晴(くにはる)    二代芳盛の前名。その項参照〟       ☆ くにひさ 国久 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国久 二代(くにひさ)    歌川を称す。勝田久太郎、一陽斎、立蝶楼などと号した。三代豊国の門人で、その三女お栄を妻とし、    師家の養子となる。嘉永より明治初期に作画がある。美人画の他に多少の横浜絵を残す。その子の豊宣、    国峰も明治の浮世絵師として立つ。天保三年生れ、明治二十四年、六十才で歿している〟      ☆ くにふさ 国房 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国房 二代(くにふさ)    歌川と称す。大竹政直、俗称勝五郎、一柳斎、一梅斎と号した。三代豊国の門人。安政より明治十年代    までに相当の作画があつた〟    ☆ くにまさ 国政 三代      ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88     〝のちに二代国貞、四代豊国と改める。その項参照〟     ☆ くにまさ 国政 四代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国政 四代(くにまさ)    三代国貞(梅堂豊斎)の前名。三代国貞の項参照〟    ☆ くにまさ 国政 五代      ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国政 五代(くにまさ)    梅堂と号す。四代国政の門人らしく、姓氏その他明らかでないが、小国政とは同人らしい。明治二十年    代に風俗画がある〟    ☆ くにまつ 国松    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国松(くにまつ)    歌川を称し、これを先代以来、本姓とした。始め一龍斎豊重、のちに福堂国松と改めた。晩年は玩舟、    とも号した。初代国鶴の次男、二代国鶴の弟、絵を父に学び、その幼年時代の幕末、明治初期には横浜    に住み、明治始めの横浜の風俗画を描く。その後各地で新聞の挿絵を画き、のち東京赤坂に居住し、浮    世絵風の肉筆をものにした。安政二年生れ、昭和十九年、八十九才の高齢で逝く。最後の浮世絵師であ    つた〟    ☆ くにまろ 国麿    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88       〝国麿(くにまろ)    歌川を称す。菊越菊太郎、一円斎と号し、俳号を菊翁という。三代豊国の門人。その作画期は幕末より    明治の始めに及ぶ〟    ☆ くにまろ 国麿 二代    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国麿 二代(くにまろ)    歌川を称す。横山二代、二代一円斎菊哉と号した。初代国麿の門人らしい。明治十、二十代に諷刺画が    ある〟    ☆ くにみつ 国光    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国光(くにみつ)    歌川を称す。一雄斎と号し、幕末より明治始めに、多少の作画がある〟    ☆ くにみね 国峰    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国峰(くにみね)    歌川を称し、これを本姓とした。俗称銀次郎、梅蝶楼と号した。豊宣の弟で、三代豊国の直孫である。    明治二、三十年代に風俗画、新聞、小説単行本に挿絵がある。晩年は鎌倉に住み、肉筆画を描く。文久    元年生れ、昭和十九年八十三才で歿した。国松とは血縁関係はないが、国松が二代豊国の門系で、国峰    は三代豊国の末流として、共に昭和十年代まで生き残つた最後の浮世絵師であつた〟    ☆ くにもち 国保    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国保(くにもち)    歌川を称す。瀬尾文五郎、石斎と号した。明治期に多少の作画があつた〟    ☆ くにゆき 国雪    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝国雪(くにゆき)    歌川を称し、梅章と号した。四代豊国の門人。明治二十年代に多少の作画がある〟    ☆ くによし 邦年    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝邦年(くにとし)    国利と同一人。その項参照〟    ☆ けいしゅう 桂舟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝竹内銀平、紀州藩士竹内藤介の次男。初め狩野永悳に学び、のち松本楓湖の門に入り、また月岡芳年よ    りも学んだ。明治二、三十年代の新聞雑誌の挿絵を描き、尾崎紅葉と深く相許し硯友社の同人であつた。    薩摩焼の陶器画にも新機軸を出した。長く九段に住し、晩年は肉筆画を描いた。文久三年生れ、昭和十    八年、八十才で没した〟    ☆ けいちゅう 敬中    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝敬中(けいちゅう)    本姓島根氏、のちに山田氏を継いだ。名は忠蔵、別号可得。芳年の門に入つて浮世絵を修め、川端玉章    に従つて四条派に学んだ。明治二、三十年代に新聞雑誌、単行本の挿絵を描いた〟    ☆ けいりん 蕙林    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝蕙林(けいりん)       鍬形蕙斎の孫、名は勝永、狩野雅信に学び、明治期に浮世絵風の肉筆画を描いた。文政十年生れ、明治    四十二年、八十三才で歿した〟    ☆ げっこう 月耕    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝月耕(げつこう)    本姓名鏡、田井氏を継ぐ。名を正之助、桜斎、名鏡斎、華暁楼と号した。尾形姓は陶器絵、漆器絵を描    いていた時代に尾形光琳の末葉、尾形周平から、その姓を継ぐことを求められたによると。彼は師伝な    く、全く独学独修で自分の一派を成した明治期の浮世絵師である。風俗画、戦争画をよくしたが、新聞    挿絵にも力を尽した。山村耕花、坂巻耕漁等の門人も多かつた。安政六年生れ、大正九年十月、六十二    才で歿した〟    ☆ げっこう 月耕    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝月耕(げつこう)    溝口氏、川上冬涯の門人、初期洋画派。多少の版下絵あり。尾形月耕とは同人でない〟    ☆ げんぎょ 玄魚    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝玄魚(げんぎよ)    宮城喜三郎、梅素亭、整軒、楓園、水仙子、小井居などの数号がある。経師屋の息子として、少年の頃    から骨董商に傭われその後これを辞し、摺物の図案、草双子の袋絵等に独特の意匠をこらしていた。安    政二年の大地震には、絵を主題とした各種の戯画を出して、頗る売れたという。その後も各種の諷刺画    を描いている。純粋の浮世絵師ではないが、非常の関係密接な人である。文化十四年生れ、明治十三年、    六十四才で歿している〟    ☆ こういつ 光逸    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝光逸(こういつ)    土屋光一。明治二年浜松在の農家に生れて、少年の時上京し、木版彫の弟子となつたが、のち清親の内    弟子となる。明治三、四十年代に清親張りの風景画、戦争画を描いた。その後新版画に生命を開く。昭    和二十四年十一月に七十五才で歿した〟    ☆ こうぎょ 耕漁    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝耕漁(こうぎよ)    月岡芳年の養子、その前姓は坂巻氏、年久という。月耕の門人で、木版能画を専門とするが、明治三、    四十年代には風俗画、戦争画がある。明治二年生れ、昭和二年、五十九才で歿している〟    ☆ こうぎょう 広業    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p89   〝広業(こうぎよう)    寺崎氏、名は徳卿、宗山、秀斎と号し謄龍軒、天籟山人ともいう。秋田藩士の家に生れ、平福穂庵その    他に学び、一家を成す。その画名の奪われる前の明治二十年代には新聞雑誌の挿絵を描き、また版画の    戦争絵なども描いた。慶応二年生れ、大正八年、五十四才で歿している〟    ☆ こうさい 高斎      ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝高斎(こうさい)    小林氏、明治二十年代に風俗画がある。履歴不明〟    ☆ こくにまさ 小国政    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝小国政(こくにまさ)    竹内氏、四代国政(三代国貞)の長男。始め父に学び、のち飯島光峨の門に入る。柳蛙とも号した。日    清戦争絵が多い。五代国政とは同人らしい〟    ☆ こどう 古洞    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝古洞(こどう)    山中氏、元姓は佐藤氏、名は升、芳年の門人であるが、在原古玩、熊谷直彦、石原白道等に画技を学ぶ    明治三十年代に雑誌の口絵などが多く、その後は主として肉筆を描く。高円寺に住み、昭和二十年に没    している〟    ☆ このぶ 小信    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝小信(このぶ)    初代と二代あり。初代は二代貞信のこと。二代は初代小信(二代貞信)の長男。二代小信を唱え、三代    貞信をも襲名している。明治末期より大正、昭和にかけての上方派の浮世絵師〟        ☆ こよしもり 小芳盛    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」p88   〝小芳盛(こよしもり)    芳盛の門人らしい。明治二十年代に作画がある〟