Top             『古画備考』         浮世絵文献資料館    古画備考              あ行              ※〔古画〕:『古画備考』朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日・嘉永四年四月二日起筆  ☆ あしくに せいようさい 青陽斎 蘆国  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1408   〝石田玉山、  岡田玉山【石田玉山門人】、 青陽斎蘆国、  一峯斎馬円    丹波桃渓、  合川珉和、         松好斎半兵衛  歌川豊秀    速水春暁斎、 已上、京大阪画草紙画者、享和前後人、武江年表〟  ☆ あんど かいげつどう 懐月堂 安度  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1367   〝懐月室(ママ) 号安度、称源七、正徳中行はる、武江年表    [署名]「日本戯画懐月堂安度図之」[署名]「安度」(朱文方郭内印) 寛文頃、茗荷屋奥州像    元和中、浅草に住しける人にて、御府内浮世絵師のはじめなり。花街漫録    (補)[署名]「懐月堂図之」[印章]「戯画安度」(白文方印)〟    〈西村藐庵の『花街漫録』は文政八年(1825)刊〉   ☆ いっけい うきた 浮田 一蕙  ◯「近世二」〔古画〕三十上 中p1273   〝浮田一蕙 平安人、学土佐氏、全邦俗人物、賦色古逸 画乗要略〟  ☆ いっけい はなぶさ 英 一珪   ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1932   〝(一川)養子 一圭 旧嵩谷門人、今住法恩寺東、天保十一年〔空欄〕月、於柳橋祝八十八賀、    文化六年七月、深川宜雲寺に、英一蝶の筆塚を建る、市野光彦文を選し、英一珪これを建る、これは一    蝶寓居の所なりし故也、    天保十四年十二月廿一日、一珪卒、八十餘歳、二本榎承教寺中顕乗院に葬【共ニ武江年表】〟   ◇「英流」系譜 下1935   〝一珪 嵩谷門人、師命ニテ、英家再興、天保十四年十一月廿一日歿、九十二〟    「英流」(英一蝶系譜)   ◇「英流」下p1945   〝一蝶肖像二幅あり、    一は英一蜂【初代】画、賛無し、    一は英一舟画、賛あり、辞世と書て、世に伝る所の     まぎらかす浮世のわざの色どりもありとや月のうす墨の空     像はあとにて、紙を継て、一舟が画添しなり、       此二像年月隔りし故か不似、只目の大なると、鼻の大きくて丸き処ばかりは同じ、一舟書たる像は一     圭まで伝りしが、典物に入たるか、売たるか、一蝶の印も不残伝りしを、質に入候て、今は三河町な     る、三文字屋と云へる酒屋い伝へたり〟    一蝶と、嫡子信勝【長八郎、後に一蝶と号】中あしき様になり、一圭方に伝はりし、一蝶の手紙に其趣    あり、長八郎銚子へ参り度よしに付、火事羽織も□□も遣し可申、別になり候て、家業致度由、是も其    意に任せ可申由の文体之由、家をば後に弟子の一舟を、養子として継たる也、次男の百松は、後に源内    と申、久留米の有馬侯に仕へしとなり、一圭方に一蝶自筆にて、百松御召抱被下候へとの、願書の草稿    ありて、御慰に御召抱られ候様と申事有之〟    〈この記事の直前に「観嵩月老話 文政十年十月廿五日聞之」とあり、一蝶肖像画のことを聞いた日付か〉  ☆ いっしゅう はなぶさ 英 一舟  ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1931   〝(一蝶)門人養子 相続 一蝶 弥三郎信種、号東窓翁、遺跡志ニ号潮窓、    明和五年正月廿七日(添え書き「イニ廿三日」)歿、葬于顕乗院、(補)嵩月子話、名信景〟    「英流」(英一蝶系譜)   ◇「英流」下p1945   〝一蝶肖像二幅あり、    一は英一蜂【初代】画、賛無し、    一は英一舟画、賛あり、辞世と書て、世に伝る所の     まぎらかす浮世のわざの色どりもありとや月のうす墨の空     像はあとにて、紙を継て、一舟が画添しなり、    此二像年月隔りし故か不似、只目の大なると、鼻の大きくて丸き処ばかりは同じ、一舟書たる像は一圭    まで伝りしが、典物に入たるか、売たるか、一蝶の印も不残伝りしを、質に入候て、今は三河町なる、    三文字屋と云へる酒屋に伝へたり〟    〈この記事の直前に「観嵩月老話 文政十年十月廿五日聞之」とあり、一蝶肖像画のことを聞いた日付か〉  ☆ いっしょう はなぶさ 英 一笑  ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1934   〝(一圭)養子 一笑、嵩渓四男〟   ◇「英流」系譜 下p1935   〝一笑 嵩谷ノ孫ニテ相続、嵩嵺弟、安政五年八月十二日歿、五十五〟    「英流」(英一蝶系譜)  ☆ いっすい はなぶさ 英 一水(佐嵩之、嵩指参照)  ◯「英流」〔古画〕四十四 下p1933(朝岡興禎編)   〝一蝶晩年門人佐嵩之、始嵩指、始一水、佐脇氏名道賢、字子岳、号果々観、称甚蔵、又有中岳堂、東宿、    一翠斎等号 明和九年七月六日(添え書き「イニ二日」)歿、年六十六、葬浅草誓願寺中称名院、遺跡志    右一蝶先生門人、施画為人、居東武駒谷、古人物氏〟    「英流」(英一蝶系譜)  ☆ いっせい はなぶさ 英 一蜻  ◯「英流」〔古画〕四十四 下p1935(朝岡興禎編)   〝一蜻 嵩嵺ノ男、北町奉行同心、大村信三、天保十年己亥生、現在〟    「英流」(英一蝶系譜)  ☆ いっせん はなぶさ 英 一川  ◯「英流」〔古画〕四十四 下p1934(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1934   〝一舟門人 一川、字宗峰、号松下庵〟   ◇「英流」系譜 下p1935   〝一川 安永七年正月二十八日歿、嗣絶〟    「英流」(英一蝶系譜)  ☆ いっせん はなぶさ 英 一蝉  ◯「英流」〔古画〕四十四 下p1933(朝岡興禎編)   〝一蝉、小船町 大坂屋武兵衛、嵩月老話〟    「英流」(英一蝶系譜)  ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶  ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1931   〝英一蝶 【名信香、一ニ安雄、俗称助之進、俳名暁雪、花街ニテハ和央、         一作和応、一蜂閑人、後門人ニ譲、大阪産、藤原多賀氏】    拾五歳ノ時江戸ニ下リ、安信門人トナル、呉服町一丁目新道住居、元禄十一年配流、年四十、宝永六年    九月帰郷、在島十二年、其後称英一蝶、号北窓翁、享保九年正月十三日歿、年七十三、墓在二本榎日蓮    宗承教寺塔中顕乗院、法号英受院一蝶日意、母為尼妙寿ト云、一蝶謫居ノ中、一蝶の友横谷次兵衛宗珉    方ニ養ハル、正徳四年三月卅日歿、葬于顕乗院、宗珉ノ居ハ檜物町    三谷氏某ニ、一蝶謫居ヨリ、母ノモトヘ贈シ画を蔵ス、謫居の趣ヲ細ヤカニ絵ガキタル也、元宗珉ノ家    ニ残シモノトゾ、一蝶短冊ノ名 夕寥、号旧草堂、隣樵庵、鄰濤庵    「英流」(英一蝶系譜)   ◇「朝清水記」下p1935    「朝清水記」   ◇「四季絵跋」下p1938    「四季絵跋」   ◇「朝妻舟讃考」下p1939    「朝妻舟讃考」   〈この「朝妻船讃考」は山東京伝の『近世奇跡考』(文化元年(1804)刊)と同文〉      箍懸讃考    近曾【イニ往事夢に似たり、さめたる又うつゝにあらず或日】螺舎其角と共に、深川なる芭蕉菴に遊ぶ、    夕に帰る途中の吟、たがゝけの、たがたがかけて、帰るらん、螺子此句にはづんで、身のうすのめと、    思ひきる世に、蛍星のうつりかはり、芭蕉もやぶれ、螺舎のくだけたるに、我のみ残る深川の、今日お    もへばはからざる世や、以上    案に貞享中、一蝶多賀朝湖といひて、呉服町一丁目新道に居住、年三十五六歳、其角は、てらふれ町に    居住年廿六七歳の比、両人芭蕉菴にいたりて、かへるさの口ずさみなりと、夢中庵夜話に見えたり    ◯ばせをもやぶれ螺舎もくだけたるに、我のみ残る深川と書たるは、一蝶晩年深川長堀町に居住の時、    懐旧の心をのべたるならん、右讃に六十九翁と書たるあり、是享保五年にあたれり、奇跡考    一蝶承応元年摂州に生る、父を多賀伯菴と云、某侯の侍医なり、一蝶寛文六年十五歳の時、江戸に下り、    狩野安信を師とす、姓は藤原、多賀氏、名は信香、一に安雄、幼名を猪三郎と言、後に次右衛門といひ    ける由、望海毎談に見ゆ、或云助之進、剃髪して朝湖と称す、翠簑翁、牛丸、暁雲堂、旧草堂、一蜂閑    人【後門人にゆづる】一閑散人、隣樵菴、隣濤庵、北窓翁等の諸号あり、書を佐玄龍に学びて、後一家    の風を書て書名あり、俳諧を芭蕉翁に学び、其角嵐雪等と交り深し、俳号暁雲、又和央【洞房語園】と    云、    元禄十一年十二月【元禄八年とするは非也】呉服町一丁目新道に住し時、故ありて謫せらる、時に年四    十七、謫居にある事十二年、宝永六年九月、【宝永四年とするは非也】帰郷して後、英一蝶と称し、北    窓翁と号し、深川長堀町に住す、享保九年甲辰正月十三日病て歿せり、享年七十三、二本榎承教寺【日    蓮宗】塔頭顕乗院に葬る、法名英受院一蝶日意、辞世、まぎらかす浮世のわざの色どりもありとや月の    薄墨の空、    深川霊岸寺の後、海辺新田に、宜雲寺といふ禅院あり、一蝶帰郷して後、しばらく此寺に住ける由、寺    中の絵障子のたぐひ、すべて一蝶が筆なり、故に世人一蝶寺と云、其画近比の回禄にほろびしとぞ    一蝶の母剃髪して妙寿と云、一蝶謫居にある間、友人横谷宗珉の家に養ふ、一蝶帰郷して後六年を経て    正徳四年三月晦日歿せり    嵐雪その袋  花に来てあはせ羽織の盛哉   暁雲    同      朝寐して桜にとまれ四日の雛  同    温故集    此みぎりひだり鎌倉すぢ鰹魚  同    この余画賛の文、或は句あまたあり、記し尽べからず、奇跡考    ◯英一蝶、為人豪放、市有奇古石龕、諸侯争且買之、一蝶即便馳往傾囊取之、又覩鬻新茄子、亦高価買    之、於是毎日石龕点火噉茄子、傲然謂人曰、此乃天下第一歓楽矣、近世叢語    ◯一蝶寺、深川海辺新田藪の内にあり、妙心寺派禅宗、号蒼龍山宜雲寺、元禄七年創建にて、卓禅和尚    開山なり、英一蝶帰島後、寓此寺、仏殿僧坊の屏障、悉蝶所画、世俗称一蝶寺、惜哉回禄為烏有矣     三養雑記 山崎美成著 天保十年    ◯英一蝶女達磨の画、画工の英一蝶は、世に名高き人にて、その事跡は書に記したるも、人口に伝ふる    も、多くは附会の説なり、罪をかうふりし由は、竜渓小説附録にしるす所、やゝ実説に近し、さて世に    あまねくゑがきつたふる、女達磨といふは、一蝶が書はじめたりとぞ。そのかみ、新吉原中近江屋の抱    に、半太夫といふ遊女ありしが、後に大伝馬町の商人へ縁づきたり、その家に人々あつまりて、何くれ    の物語の序に、達磨の九年面壁のはなしを、しいだしたるに、その半太夫きゝて、九年面壁の坐禅は、    何程のことかはある。うかれ女の身のうへこそ、紋日もの日の心づかひに、昼夜見せをはること、面壁    にかはることなし。達磨は九年、われ/\は苦界十年なれば、達磨よりも悟道したりとて、笑ひけると    ぞ、このはなしを、英一蝶がきゝて、やがて半身の達磨を、傾城の顔に絵きたるが、世上にはやりて、    扇うちは、多葉粉入、柱かくしなどのかきて、女達磨といひけるとかや、市川栢筵が、その画の讃、そ    もさんか、是こなさんは誰と、詞書して     九年母も粋よりいでしあまみかな、といふ句をしけるとぞ、俳人素外が手引艸に、九年何苦界、十年     はなごろも、といふ祇空が句あり、因にしるす    ◯英一蝶晩年に及び手ふるへて、月などを画くには、ぶんまはしを用ひたるが、それもこゝろのまゝに    も、あらざりければ、おのづからいざよふ月のぶんまはし    これは高嵩谷の話なり、嵩谷は町絵師にて、近来の上手なり、俳諧を好み、発句をよくせり、    海鼠の自画賛は、望む人あれば、たれにても、すみやかにかきて與へし也、その発句     天地いまだひらき尽さでなまこかな、仮名世説【杏花園蜀山     編、文宝堂散木補】    一蝶始竹原喜八郎、八歳の時、安信大阪多賀伯庵よりもらひ来、十七歳に而安信より破門して帰りて何    十郎、或書    観氏先生(*添え書き「嵩月也」)に而聞書    ◯二河白道の図妙也、    ◯一蝶始伊州亀山家中にて、多賀助之進と申也、     父は則石川侯(*添え書き「主殿頭」)家中の医師にて、多賀白雲と云て、刀術等も指南せしとなり、    安信門人ニテ画ヲ学、石川侯ト有馬侯ヨリ扶持ヲ受、其肖像ノ賛ニ、元禄六年遠流ノ事有、其時下谷広    徳寺ノ和尚モ罪アリテ、同船ニテ遠流セラル、     奈良屋儀助子話    奈良屋本店に、先祖安休頃の茶客之日記有之、其中に何日御客、養朴様、一蝶様等と有之由、如斯なれ    ば、養朴共一席に出会有しとみゆ、     観嵩月老話 文政十年十月廿五日聞之、    一蝶肖像二幅あり、    一は英一蜂【初代】画、賛無し、    一は英一舟画、賛あり、辞世と書て、世に伝る所の     まぎらかす浮世のわざの色どりもありとや月のうす墨の空     像はあとにて、紙を継て、一舟が画添しなり、       此二像年月隔りし故か不似、只目の大なると、鼻の大きくて丸き処ばかりは同じ、一舟書たる像は一     圭まで伝りしが、典物に入たるか、売たるか、一蝶の印も不残伝りしを、質に入候て、今は三河町な     る、三文字屋と云へる酒屋い伝へたり、    一蝶と、嫡子信勝【長八郎、後に一蝶と号】中あしき様になり、一圭方に伝はりし、一蝶の手紙に其趣    あり、長八郎銚子へ参り度よしに付、火事羽織も□□も遣し可申、別になり候て、家業致度由、是も其    意に任せ可申由の文体之由、家をば後に弟子の一舟を、養子として継たる也、次男の百松は、後に源内    と申、久留米の有馬侯に仕へしとなり、一圭方に一蝶自筆にて、百松御召抱被下候へとの、願書の草稿    ありて、御慰に御召抱られ候様と申事有之、    ◯神田安休歿後、其家督より、一蝶へ聞合せの事有し時の、其返書今奈良屋にあり、云く、安休様より    絵の御挨拶、いまだ参り不申候哉との御尋、承知致候、乍去其儀は【私申候事にても無之とか、かれ是    申事にて無しとか、予失念】認し絵絹、はくの代も三十四五通り分有之とか申事候し、浅草様へ被遣候    屏風の事も、其中に有之、此浅草とは、人参座鈴木屋の事にて、嵩月老の曾祖父の兄なる由、今其跡も    なく、身だいを本口なくし候由、十畳敷の間に、絹布夜具一はい押こみ有之候所、夜になり候へば、皆    なくなり候、とまりに参り候程の者、ヶ様に多く有之候由、    ◯一蝶有馬家の好にて、舞楽の六尺屏風一双被申付、其料として金二百両給り候を、帰る道にて、奇石    を買候て、宅迄ニ百両遣ひ候由、    ◯一蝶龍虎の絵は拙なる事、先頃観氏にて聞り、今日又承り候は、鷹の絵至て不調法にて不画、それを    有馬侯存知られ、一蝶へ無理に鷹の三幅対かゝせしと、それより外には鷹無之候由     乙丑二月嵩月方にて、御勘定より出たる書付を見、      呉服町一丁目新道、勘右衛門店 一蝶       元禄八年八月十五日、揚リヤニ行       元禄十一年(*添え書き「三年過テ」)寅十一月十二日遠島    右の一件ニ付、仏師民部、村田半兵衛、御咎有之、科の次第何れも無之、    申伝には桂昌院様御兄弟の御方、殊之外放蕩にて、□□郭中へ御遣ひ被成候、一蝶等は、其率頭なるゆ    ゑに如此となり    ◯一蝶遠島十二年、始三宅、後寛而八丈、宝永六丑年遇赦帰、観氏談    ◯一蝶配流ノ後、其角ノ許ヘ送リシ発句ニ、初松魚カラシガナクテ涙カナ(*添え書き「イニノナキカ」)    其角カヘシニ、其カラシキイテ涙ノ松魚カナ(*添え書き「イニ初魚松」)三橋雑録    一蝶配流の後、高弟一舟ハ、師の眷属を引受、はごくみける、一舟宅は、霊岸島奈良屋の表なりしと、    一蝶島より絵を書て、船のたよりに一舟かたへ送り、此方にて売候て、其価を以て米を買、島の通船    につみて送りしと也、此島にて、役人其米を請取所の法ありて、一蝶の許へも届け候由、島中温気甚    しく、総て米類を得候へば、直ぐにいり候て、粉に挽て貯へ置事とぞ、さ様せざれば忽ち虫つきて、    食用になりがたきよし、正月元日なども餅なしに、芋ばかり煮て、雑煮のかはりに食候由、一蝶御赦    免ありて帰りし後、私祖父【名五兵衛】世話致候て、近所深川霊巌寺門前に、宅を求候て、そこに一    蝶を住はせ候由、自分宅は六軒堀にて、道具商売致居候へども、殊之外のあい口にて、毎日一蝶の方    へ参り咄し居候由、帰島の後、猶又殊之外絵流行致、毎日諸方より、魚等の到来候事夥しく、喰余り    めづらしからざれば、魚売共三人出入有て、各半切桶を置、水を汲入置、到来の魚半切へ打込候と、    やれ今度は己れが半切なりとて、悦び引揚持行、後日に魚の来らざるとき、礼に代りの魚を納め、又    は外の品などにて礼をせしとぞ、大きくひこき台所にて、青物うり其外、其辺を商ふもの共、食事の    時には、勝手に来りて食けれども、さらに構はず置けるとぞ、其隣に狩野梅笑住居けれ共、甚さびし    く、火の消たる如くにて有しと、    在島の中出生せしは、長八郎とて、同道して帰りしなり、次男百松とて、是は後に立花侯へ召抱られ    武家になりし由、右の深川の宅もとめ候まで、五兵衛自分の菩提所、宜雲寺の奥の方に、隠居住れし    所の、明きたる座敷有しかば、そこへ暫くの内かり候て、一蝶寓居せしなり、和尚へ五兵衛すゝめて、    此逗留中にふすま等かゝせ候、    一蝶自分の宅へ帰りし後、ます/\絵を求る者多く、諸侯等より厚き幣物を贈り、さまざまの絵頼有    しか共、気にむかざれば、いつまでも捨置書ざりしかば、家内の者より、五兵衛方へ密に其事を告候    て、何とぞ筆をとられ候様、計策頼候由申来候へば、其時五兵衛参候て、其頃諸侯より頼来候絵様を    かねて聞置、さて何々の絵図は、つひに見たる事無之、いかゞ致たる図に候哉と申時、幸此節外より    も其図を頼参りたれば、いま書て見申さんとて、筆硯をとりよせ候へば、か様/\と咄ながら画て見    せ候由、誂人の絵忽ち出来せしと也、    親孤雲、幼少なるをつれて参候時、帰りには、必何か絵一枚書てくれ候由、道具屋の鼠屋何某、五兵    衛方へ来り、例の絵はたまり申さずやと問、何枚にても、一枚ニ付銀十匁の定めにて買候由、或時沢    庵和尚の画のうつしをば、これは珍敷絵に候とて、これ計りは、百疋置候由、    彫工横谷宗珉は、一蝶の画の弟子にて、常に其指揮をうけ候由、一蝶好みにて指料に、大工道具一式    揃の脇差出来候由、小尻には墨つぼを彫り候由、宗珉潔癖ありて、常に食事は勿論、美麗の服を着し、    一日の内にも、幾度となく着かへ候由、一蝶其事を笑、わざと近所の雁金□と云る、麁品の餅を出し    て、自分一ッを喫してすゝめ候へば、宗珉止事を得ず、こらえてたべるを見て興に入候しとなり      文政九年二月八日、竹本五兵衛処より聞     ◯英一蝶画隆達像、水墨 色紙傍有隆達直筆小唱、     一 こはだ山路に行暮て、月をふしみのくさまくら     一 いつもみたきは、はなの夕ばえ、雪の明ぼの、須磨や明石の月と、君よなう、     一 草のなはおしけれどなむぞ、わすれぐさはなう     一 し安してしよぞ、物/\し、しあむしもせで、     一 月はゑせもの、しのぶ其よは、なほさゆる     高三隆達は、もと日蓮宗の僧也、堺津顕本寺に住す、故ありて還俗し、高三氏の家にて薬種を賈ふ、     年を経て小歌節を一流謳ひ出しけり、世人隆達流とて大に謳ふ、     [署名]「北窓翁一蝶図」[印章]「(一字未詳)在山雲一水石間」(朱文丸印)     [署名]「天和三年秋八月 旧草堂主人朝湖僭書」[印章]「刻字未詳」(方印)     [署名]「英一蝶書」[印章]「舊艸堂主人」(白文方印)    英一蝶初名     多賀猪三郎十歳書、獣人物花鳥花卉巻物 紙本     多賀猪三郎十二歳書、宝船ノ横物上ニ鶴アリ、武清先生蔵    ◯一蝶不動絹中竪、瀧にうたれ立たる図、背の火炎を瀧つぼの傍に置、縄と剣をひとつに岩穴の間に    置たり、不動片目をすがめたる体、面白く書たり、是も同人(*添え書き「河尻式部少輔」)の所持    也     [署名]「英一蝶写」[印章]「英師弟二川芳窗」(朱文丸印) 三幅対花鳥、紙本     [署名]「一峰閑人朝湖画」[印章]「藤原信香」 天竜川ノ富士、橋アリ     [印章]「天理之節文」(長方印)「雪蕉」(方印)     [署名]「藤信香書」[印章]「刻字不明」     [印章]「壺中天」(長方印)[署名]「己巳秋七月中元日(*添え書き「元禄二年也」)狩林散          人朝湖臨図」[印章]「朝湖」(方印)「印字未詳」(方印)     [署名]「北窗翁図」[印章]「英一蜨虫」(方印)「君受」(方印)         富士川ノ富士、橋アリ、紙地箱書付、一珪、久松町はあしゝ     [署名]「北窻翁一峯書」[印章](丸枠のみ・刻字なし)     [署名]「英一蝶画」[印章」「刻字未詳」     [署名]「英一蝶書」(*添え書き「二代目」)[印章]「信勝之印」(朱文方印)    (補)[印章]「壺中天」(朱文長方印)・「朝湖」(白文方印)・「(一字未詳)摹山」    (補)「印章」「英一蜨」(白文方金)・「長煙一空」(朱文方印)〟  ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蝶 二代  ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1931   〝一蝶 長八郎信勝、落款ニ六巣一蝶トアリ、内藤氏ニ写アリ    元文元年閏十一月歿、法号機外道輪居士、葬深川寺町陽岳寺、遺跡志    「英流」(英一蝶系譜)   ◇「英流」下p1946   〝一蝶と、嫡子信勝【長八郎、後に一蝶と号】中あしき様になり、一圭方に伝はりし、一蝶の手紙に其趣    あり、長八郎銚子へ参り度よしに付、火事羽織も□□も遣し可申、別になり候て、家業致度由、是も其    意に任せ可申由の文体之由、家をば後に弟子の一舟を、養子として継たる也、次男の百松は、後に源内    と申、久留米の有馬侯に仕へしとなり、一圭方に一蝶自筆にて、百松御召抱被下候へとの、願書の草稿    ありて、御慰に御召抱られ候様と申事有之〟〈信勝は二代一蝶。百松は一蜩〉   ◇「英流」下p1954   〝[署名]「英一蝶書」(*添え書き「二代目」)[印章]「信勝之印」(朱文方印)〟  ☆ いっちょう はなぶさ 英 一蜩  ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1932   〝一蜩 始百松、後源内(補)百松ハ一蜩ニ非ズ    〔頭注(補)トアルハ旧来ノ増補ニテ誰ノナセルモノナルカ今知ルニ由ナシ、又補ト注セズシテ増補ニ     係ル者往々アリ〕    (補)嵩月老話ニ、後ニ久留米侯ヘ仕、一圭方ニ一蝶ノ自筆ニテ、百松ヲ御召抱被下候得トノ願書ノ草       稿アリアリシ、御慰ニ被召抱候様ト申事也、    (補)竹本話ニ、百松後ニ立花侯ヘ被召抱武家ニ成候由、    (補)天保七年二月廿一日、内藤嵩松子所輯ノ印譜ニテ、一舟ノ前名ナルコト明也、      [印章]「信祐之印」【此印一蜩、又一舟トアリ、此下ノ印ニモアリ、一人ト可改也】〟   ◇「英流」系譜 下p1935   〝一蜩 後一舟、明和五年正月二十七日歿、七十一〟    「英流」(英一蝶系譜)   ◇「英流」下p1946   〝一蝶と、嫡子信勝【長八郎、後に一蝶と号】中あしき様になり、一圭方に伝はりし、一蝶の手紙に其趣    あり、長八郎銚子へ参り度よしに付、火事羽織も□□も遣し可申、別になり候て、家業致度由、是も其    意に任せ可申由の文体之由、家をば後に弟子の一舟を、養子として継たる也、次男の百松は、後に源内    と申、久留米の有馬侯に仕へしとなり、一圭方に一蝶自筆にて、百松御召抱被下候へとの、願書の草稿    ありて、御慰に御召抱られ候様と申事有之〟〈信勝は二代一蝶。百松は一蜩〉  ☆ いってい はなぶさ 英 一蜓(英一峰二代参照)  ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1932   〝(初代一峰門人)一蜂 始一蜓、    天明八年六月十二日歿、葬築地本願寺中真光院、遺跡志〟    「英流」(英一蝶系譜)  ☆ いっぽう はなぶさ 英 一峰(英一蜓参照)  ◯「英流」〔古画〕四十四「英流」(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1932   〝(初代一峰門人)一蜂 始一蜓、天明八年六月十二日歿、葬築地本願寺中真光院、遺跡志〟    「英流」(英一蝶系譜)  ☆ いっぽう はなぶさ 英 一峰  ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1932   〝(一蝶)門人 一蜂 号春窓翁 宝暦十年四月廿八日歿、葬于深川法禅寺中南龍院〟    「英流」(英一蝶系譜)   ◇下p1955   〝英一蜂 絵方    此人が無いと、此風儀はめつもん、宝暦八年比評判記     一蜂翁肖像賛    世人と交るに、黙して詞少し、書くときは、人情世態写さゞる処なし、山水田野に遊ぶ事を好まず、大    都広陌のかまびすしきに居て、ゑがくときは、よく朝夕陰晴の隈をわけ、高低遠近をあやまたず、其餘    は衣食器財竹木禽獣、一物として愛するなし、画くときは、万象こまやかに知る、さりとて粉本のたく    はふるなく、禿筆みづから快しとす、まことに千枝のしげみを分て、北窓のはかなさを、味はひしるが    故なるべし、蝶去て游蜂有、筆勢蜜より猶うまし、      宝暦十年庚辰十二月廿日友人皐月平妙書[印章]「珍」「(一字未詳)叔」(共に方印)     [署名]「英一蜒画」[印章]「印字未詳」〟  ☆ いっぽう はなぶさ 英 一峰  ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1932   〝(嵩谷門人)一蜂 始嵩林、    「英流」(英一蝶系譜)  ☆ うたまろ きたがわ 喜多川 歌麿  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1402   〝喜多川歌麿 俗称勇助、始は鳥山石燕門人にて、狩野の画を学ぶ、後男女風俗を画きて、画双紙屋蔦屋          重三郎方に寓居す、今弁慶橋に住す、錦画多し、浮世画類考    (千虎補)[署名]「哥麿画」[印章]「歌麿」(朱文丸印)     歌麿ノ印(補)[印章]「画餅」(朱文長形印) (補)[印章]「歌麿」(朱文丸印)    寛政の頃、住久右衛門町、当代御女画銘人此上なし【笹屋筆記】    此名字、文政十一年春、見かけたり、中絶して名跡を継し者有之と見ゆ、坦記    〈「笹屋筆記」は未詳。「坦記」は『古画備考』が引用する『皇朝名画拾彙』の著者、檜山坦斎の記であ     ろうか。岩佐又兵衛の項参照〉  ☆ うへい 右兵衛  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1414   〝贋画人名       文政十年聞     松田ユウ庵 山楽画 密画 似セ師    金屋八助 同賛 昨年死、六十八九    亀屋喜兵衛 書画ヲ賈由、文政十二年春聞之    中通リ右兵衛 偽名書 守景、尚信〟  ☆ うんぽう おおおか 大岡 雲峰  ◯「近世二」〔古画〕三十上 中p1271   〝大岡雲峰 名成寛、字公栗、旧称次兵衛、居四谷大番町、芙蓉の高弟也、山水ノミナラズ、花鳥モ能画    ケリ、嘉永元年八十四没    〔頭注、一時ニ盛名アリ四谷南蘋ト称セラル〕〟  ☆ えいざん きくかわ 菊川 英山  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一   ◇中p1367   〝英山【女ノ画、麹町、今老不出来】〟〈「今老不出来」の今とはどの時点をいうのであろうか〉   ◇中p1412   〝菊川英山 文化中〟  ☆ えいし さわき 佐脇 英之  ◯「英流」〔古画〕四十四(朝岡興禎編)   ◇「英流」系譜 下p1933   〝(嵩雪)女英之、寛政三年六月三日歿、同寺(*浅草誓願寺)遺跡志〟   ◇「英流」系譜 下p1935   〝(佐脇嵩之門人)英之 嵩之ノ女、嵩雪妹〟    「英流」(英一蝶系譜)  ☆ えいし せつせん 雪仙 栄子  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1422   〝(補)雪仙栄子    達磨半身紙本 油絵横物[署名]「雪仙栄子筆」[印章](図あり)印文不詳モノ〟  ☆ えいし ちょうぶんさい 鳥文斎 栄之  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1404   〝栄之 【俗称細田五郎兵衛、或云弥三郎】御小納戸相勤、僅三年ニテ、依病隠居、号鳥文斎、御勘定奉        行細田丹波守、三世之孫也、狩野栄川院門人、    浚明院様之御小納戸を勤む、画を好み給ふ故に、殊御意に叶ひ、日々御側に在て、御画の具の役をつと    む、上意に依て栄之と号、勤仕僅三年、病に依て辞し隠居、長病閑居中に、自分工夫を以て、浮世画の    一派を絵出す、天明中、錦画を以て、専ら世に行はる、寛政中、故障ありて、錦画を止む、栄之、天覧    之印を用ることは、過し年、宮方東方御下向之時、御望によりて、隅田川の図を画て呈す、仙洞画を好    み給ふによりて、宮帰京の後、隅田川の画を進献す、仙洞御賞美斜ならず、終に御文庫に納る、仍て天    覧の印を用るといへり、懇望にあらざれば、猥に印することなし    (補)[署名]「鳥文斎栄之画」[印章]「栄之」(朱文方印)    (補)(印章二顆)「栄之」(朱文方印)・「栄之」(「栄」白文、「之」朱文徳利形印)    栄理 或作永梨 栄之門人    栄昌      栄之門人     素人には栄之、永梨など、いづれも当世流行人情に其名高く、うるはしく摸なしたる云々、思出草紙    〈「思出草紙」は「日本随筆大成」第三期第4巻所収の『古今雑談思出草紙』(東髄舎著・天保十一年     (1840)序)。「浮世絵、昔しに替る事」の項に〝素人には栄之、永梨など、何れも浮世絵に其名を上     て、美わしく書なしたる浮世絵を(下略)〟とある〉  ☆ えいしょう 栄昌  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1404   〝栄昌 栄之門人、  ☆ えいせん 英川  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1400   〝英川 女ノ画、馬喰町〟  ☆ えいせん けいさい 渓斎 英泉  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1412   〝渓斎英泉 字混聲、号無名翁、一号一筆庵、住下谷池之端、称池田善次郎、広益諸家人名録、    嘉永元年八月死、武江年表〟  ☆ えいり 栄理  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1404   〝栄理 或作永梨、栄之門人〟  ☆ えきさい 駅斎  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1418   〝(補)駅斎    (補)「挿秧図 絹采色横」[署名]「駅斎画」[印章]「駅斎」(朱文関防印) 北斎風品ヨシ〟  ☆ えきしん ふうざん 風山 易信  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1405   〝風山易信[署名]「風山易信筆」[印章]「(一字未詳)哉」(朱字関防印)    鳥羽画写、春画小巻物、絹彩色、栄之風〟  ☆ えんきょう かぶきどう 歌舞伎堂 艶鏡  ◯「浮世絵師伝」〔古画〕三十一 中p1406   〝歌舞伎堂艶鏡 役者似貌のみかきたれど、甚拙ければ、半年計にて行はれず【浮世絵類考】◯寛政間〟