Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ りゅうほ ひなや 雛屋 立圃浮世絵師名一覧
〔文禄4年(1595)~ 寛文9年(1669)9月30日・75歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』  ☆ 承応元年(慶安五年・1652)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(承応元年刊)    雛屋立圃画『つれ/\なくさ見草』大本八冊 雛屋立圃画 長頭丸在判     ☆ 明暦三年(1657)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明暦三年刊)    雛屋立圃画    『北野通夜物かたり』大本二冊 立圃絵 伊藤三右衛門板    『源氏小鏡』    大本三冊 画工不明 立圃 京都 安田十兵衛板     ☆ 万治元年(明暦四年・1658)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明暦四年刊)    雛屋立圃画『京童』大本六巻(雛屋立圃画)中川喜雲撰 八文字屋五兵衛他板          (立圃にあらず、師宣に似て人物又)(頭注 ブラウン師宣とせり)     ☆ 万治三年(1660)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(万治三年刊)    雛屋立圃画『絵そら言』小本一巻 画工不明 立圃 荒木如友編     ☆ 寛文元年(万治四年・1661)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文元年刊)    雛屋立圃画『十丁源氏』大本十冊 立圃画(序文より)立圃著 立圃跋(刊年なけれど他人の説による)     ☆ 寛文十年(1670)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文十年刊)    雛屋立圃画『おさなげんし』大本五巻(立圃書画)八尾勘兵衛板  ☆ 没後資料    ☆ 延宝元年(1673)    ◯『画工便覧』(伝新井白石著・延宝元年(1673)成稿・『日本画論大観』中1104)   〝立甫 名親重、住京都、貞徳門弟、翫俳諧于世発於名、常戯人物鳥獣花草図而共賛発句〟    〈松永貞徳門人で俳諧によって世に知られる。常に人物鳥獣草花を戯れに画き発句をもって賛とする〉  ☆ 天和元年(1681)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天和元年刊)    雛屋立圃『おさな源氏』大本十巻 画工不記名 立圃 立圃序 松会板  ☆ 元禄九年(1696)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄九年刊)    野々口立圃画『源氏大和言葉巻』小本三冊 画工不明 立圃 山中孫兵衛板  ☆ 正徳三年(1713)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(正徳三年刊)    雛屋立圃画『源氏鬢鏡』三巻 画工不明 立圃歟 小島宗賢・鈴村信房共撰 永田長兵衛他板     〈「日本古典籍総合目録」は万治三年刊〉  ☆ 享保五年(1720)     ◯『異本洞房語園』〔大成Ⅲ〕②310(庄司勝富著・享保五年序)    (承応明暦の頃、吉原、山本芳順抱え遊女・勝山の記事中、同抱え常盤の記事)   〝京大文字屋、俳諧名乗重頼といひしもの、同く雛屋立甫、二人去大人に随ひ、ときはが一座をとりもち    し時、重頼が発句に、     見まいらせ候はぬときは花に夢    立甫が発句に、     姫松のかはらぬ色や常盤御前(ゴゼのルビ)〟    ☆ 享和二年(1802)  ◯『画道金剛杵』「古今画人品評」(中村竹洞著・享和二年刊・『日本画論大観』上183)   〝中中品    和画 友松       立甫 逸致有り       光成〟    〈「逸致」は「優れた趣(おもむき)」。海北友松・土佐光成と同格。唐画の「中中品」は、心越禅師・与謝蕪村・八     仙堂(彭城百川)・岡野石圃・熊代熊斐・大鵬〉       〝文人画    玉畹子 真相  石圃  立圃 大雅 松花堂 彰甫 萩坊    宮筠圃 八仙堂 柳里恭 大鵬 心越 即非  古礀〟    ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年十月記・文政元年六月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)      雛屋立圃【明暦の頃の人、立圃が伝は諸書に出て人の知る事なれば、つばらにいはず、俗称紅屋庄           右衛門】    専ら浮世絵をかきたり。医師中川喜雲作の草紙のさし絵、おほくは立圃なり。許六が歴代滑稽伝に、雛    屋立圃は画を能す、京童といふ名所記自画也云々。上り竹斎の絵も立圃也    〈雛屋立圃の絵を浮世絵とし立圃を浮世絵師の中に組み入れたのは山東京伝と思われる〉    ☆ 文化元年(1804)    ◯『近世奇跡考』〔大成Ⅱ〕(山東京伝著・文化元年序)   ◇「凡例」⑥256   〝浅井了意、井原西鶴等がたはれ書(ブミのルビ)、雛屋立圃、菱川師宣等がざれ絵のたぐひも、その代のお もむきをもてかけるは、いにしへをまのあたり見るごとき有りて、証とすべき事おほかり。それゆゑへ に俗書といへども、実とおぼしきはとりもちゐぬ〟   ◇「へまむし夜入道」(へまむしよにうどう)の項 ⑥272   〝わらはべのたはぶれにゑがく、へまむし夜入道ふるき事にや。      望月の影をゑによく似たる哉と思ひ合て    〔山の井〕絵に似たるかほやへまむし夜半の月 雛屋立圃    此句正保の頃の吟なり〟  ◯『山東京伝書簡集』(竹垣柳塘宛・文化初年(1804~))   (『近世の学芸』p400 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   〝貞徳門人ひなや立圃 号松翁 寛文九年九月没、享年七十一、姓野々ロ、名親重、俗称紅粉屋庄右衛門、    雛人形をつくり紅粉染の名人にて絵をよくかきし人也、書も又よし〟  ☆ 文化五年(1808)  ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収〕   〝雛屋立圃【野々口親重、紅屋庄右衛門、松斎、松翁、如入斎】    中川喜雲作の草紙のさし絵を多くかけり、許六が歴代滑稽伝に、雛屋立圃は画を能くす、京童といふ名    所記自画なり云々、上り竹斎のさし絵も立圃なり、逍遙軒の門に入りて俳諧に詣(イタ)りふかし、おさな    源氏・十帖源氏は自作自画なり【寛文年中没】〟  ☆ 文化八年(1811)    ◯『一話一言 補遺参考編Ⅰ』〔南畝〕⑯101(大田南畝記・文化八年四月二日の記録)   (文化八年四月二日の雲茶会(骨董書画の品評会)、山東京伝が出品)   ◇⑯91   〝雛屋立圃作美少年人形 山東菴所蔵〟   ◇⑯101   〝雛屋立圃所造偶人 山東子蔵 右人形を包み候古包袱 縫物〟   〈人形の図及び包み袱紗の図柄あり〉     ☆ 文化十二年(1815)    ◯『骨董集 上編下巻』〔大成Ⅰ〕⑮502(山東京伝著・文化十二年刊)   (「於国歌舞妓古図考」の項)   〝許六が〔歴代滑稽伝〕に雛屋立圃は画を能す。京童と云名所記自画也。元禄十五年印本、団水が〔花見    車〕巻二に、立圃、寛文九年晦日卒す、とあり。〔誹諧家譜〕には、寛文十二年三月十七日没す。年七    十一とあり。いづれが是なるをしらざれども、慶長中くにが、かぶきのさかりなるころ、立圃はおほか    た十五六歳にてありしなるべし〟    ☆ 文政二年(1819)    ◯『続本朝画史』(檜山義慎著・文政二年刊・『日本画論大観』中)   〝野々口立圃 名親重、号松翁、京師人〔世称雛屋〕、貞室に学び、盛に俳諧連歌を唱へ、画亦逸趣有り。    〔寛文九年九月晦日歿、歳七十五〕、其子生白、号鏡山、亦画を作す〟    ◯『甲子夜話5』巻之七十二 p149(松浦静山著・文政二年記)     (文政元年十月七日の大火に焼失した松浦家所蔵の品目)   〝六歌仙画讃小屏風 一双    是始は安芸国廿日市駅の旅舎某の家に有し者なり。その家海辺に在て、厳島を眺むる勝景の所なり。此    屏風、予〈松浦静山〉東上西下必ずこゝに休宿するを以て、屢々鑑賞す。後その主に請て家蔵と為す。    京人立圃の所画。六歌仙、新六歌仙の像を描きて、上にその詠歌と自讃の発句を題す。画の狂態風逸、    自句も亦奇趣、翫尚すべし。予退隠の後、修繕を加へんと欲し、還て祝奪に遭へり。今其記憶せるを言    ふ。        新歌仙定家卿の画像の讃に      駒とめて袖うちはらふかげもなしさのゝ渡りの雪の夕暮        何とか詞書ありて    立圃      とめて見る駒やじや/\踏む雪のくれ蹈む雪のくれ        又西行法師画像の讃には      天の原おなじ岩戸をいづれども光りことなる秋のよの月        また詞書ありて      太鼓ほどに今宵てれ/\天の月    『名画拾彙』云。野々口立圃、名親重、号松翁。京師人。世に雛屋と称す、貞室に学びて、盛に誹諧の    連歌を唱ふ。画も亦逸趣有り。寛文九年没、歳七十五と。珍しき物なれば惜むべき也〟    ☆ 文政八年(1825)    ◯『兎園小説』〔大成Ⅱ〕①243(角鹿桃窠(青李庵)記・文政八年十月一日)   (「兎園会」第十集〔乙酉冬十月朔於輪池堂集会〕において京の青李庵が披講した「中川喜雲京童の序の 弁」)   〝乙酉初冬兎園           京 角鹿桃窠    明暦四年の卯(ママ)本京童六巻は、中川喜雲の序ありて其作なりと思ひしに、森許六が歴代滑稽伝に、雛    屋立圃は野々口氏なり。貞徳門人にして撰集数多あり、画を能くす。京童といふ名所記自画なり。立圃    発句ありとみえたり。しかれば喜雲作にて、画と発句は立圃なるにや。京童の序にそも/\やつがれは、 丹波の国馬路といふ村そだち、牛の角もじさへしらず、無下にかたくなゝりなどあり。もとは丹波の人 にして京に住せしや。立圃門人なりしや。なほ考ふべし〟    ☆ 天保三年(1832)  ◯『画乗要略』(白井華陽著 天保三年刊 『日本画論大観』中)   〝立甫、屋号は雛屋、平安の人、諧歌に長ず、丹青を好み、嘗て狂画三十六歌仙の図を製す、奇恠賞すべ    し、近来、呉月渓其の意に倣ひて之を画く〟(原漢文)    ☆ 天保四年(1833)  ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③289(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝雛屋立圃【立圃ノ伝、諸書ニ載テ人ノ知ル所ナレド、爰ニ出ス】     野々口氏、称雛屋、俗称紅屋庄右衛門、【京都人】、初名親重【明暦ノ頃ノ人、寛文中歿、七十一】    立圃は書画を能し、俳諧に名あり、風流の一奇人と云べし、画は土佐氏の門に入たり【元和、寛永、    正保、慶安、承応、明暦、万治、寛文歿ス】醒世翁曰、専ら浮世絵を書たり、医師中川喜雲の作草双紙    のさしゑ、多くは立圃なり、許六が歴代滑稽伝に、雛屋立圃は画をよくす、京童と云名所記自画なり云    々、上り竹斎の画も立圃也、【類考追考】〟    〈「醒世翁」は『浮世絵類考追考』の山東京伝〉    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)  ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)     〝(立圃の伝諸書に出 人の知るなれば爰に略す)     野々口〈ノヽグチ〉氏、称雛屋ト     俗称、紅屋庄右衛門  幼名 親重(明暦の頃京師の人、寛文中没、七十一)      画名ニイクラモアリ」の書き込み)    歿七十一    立圃は書画を能す、俳諧に名あり、風流の一奇人と云へし。画は土佐氏の門に入たり。(元和寛永正保    慶安承応明暦万治寛文歿す)醒世翁曰、専ら浮世絵を書たり。医師中川喜雲作の草双紙のさしゑ多くは    立圃なり。許六が歴代滑稽伝に、雛屋立圃は画をよくす、京童と言名所記自画なり云々。上り竹斎の画    も立圃也。(類考追考、男を〔尚〕〈生〉白といふ、画をよくす)    ヒレ紙〈尚白ノ尚ハ生也、画名ニイクラモアリ〉〟  ☆ 嘉永五年(1852)     ◯『俳林小傳』「利部」〔人名録〕③500(中村光久編・嘉永五年刊)   〝立圃【野々口氏、名親重、通称次郎左衛門、号雛屋、又松翁、京師人、寛文九年己酉九月歿、七十一歳、    著述、はなひ草、徳万歳、花月千句、あだ花、帰花、明鐘、袖中記、鵜鷺千句、碁打千句、河舟、       みこの舞、万句、若楓、小町踊、暮繋集、老鳥千句、すり火打、ゑほし箱、片輪車、硯はいかい、       詞よせ、大岑、空つぶて、江戸紫、こきりこ、つつら折、雑談集】     海棠かいや御やうにはなしの花〟    ☆ 安政二年(1855)     ◯『古今墨跡鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④211(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝雛屋立圃【雛屋ハ其家号ナリ、平安ノ人、俳諧ヲ貞室ニ学ンデ、松翁ト号ス、委シクハ俳家ノ部ニ出セ    リ】〟    〔印章〕「松翁」  ☆ 文久二年(1862)    ◯『本朝古今新増書画便覧』「リ之部」〔人名録〕④322(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝立圃【野々口氏、雛屋ト云、初ノ名ハ親重、京師ノ人、寛文十二年二没ス、七十二歳、書画ヲ善シ、又    俳諧ヲ善ス、貞徳門人】〟  ☆ 明治元年(慶応四年・1868)    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪194(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝野々口氏、俗称は紅屋庄右衛門、或は市兵衛、名親重、自松翁と号す。書画を能す。又俳諧を貞徳翁に 学んで名あり。画は土佐氏の門に入て専ら浮世絵を画く。医師中川喜雲作の草双紙のさしゑ、多く立甫 也。許六が歴代滑稽伝に、雛屋立甫は画をよくす。京童と云名所自画なり云々。上り竹斎の画も立甫な り。男を生白といふ。鏡山と号す。父と共に画をよくす。寛文九年酉九月晦日歿す。行年七十一歳。法 名 日祐居士、或は日英、     辞世 月花の三句目を今しる世かな〟   〝立圃(リウホ)    野々口氏、松翁と号す、俗称江屋庄右衛門、一に市兵衛、又、次郎左衛門、京師の人、一に丹波の人、    寛文九年死、七十一〟  ☆ 明治三年(1870)  ◯『睡余操瓢』〔新燕石〕⑦附録「随筆雑記の写本叢書(七)」p6(斎藤月岑書留・明治三年頃)   〝足は我像なりとて愚息生白かきて見せたりおかしさのあまりに      かくとたにえやハ祝ひのいき見玉 立圃    図ハ菅原洞斎摹、    野々口立圃翁像其子鏡山所図也、亀沢竹垣氏得此物十襲不啻模刻以伝之同好、嗚呼松翁得竹垣氏而伝焉、    則茂矣苞矣宜相比近     文化両寅夏五      杏花園主人書〟    〈杏花園主人は大田南畝(蜀山人)。野々口立圃の肖像、原図は立圃の子生白(鏡山)、それを南畝の友人竹垣柳塘が     入手し、菅原洞斎に模写せしめ、翻刻して同好の士に配ったようである。松翁、茂は共に立圃をさし、苞は竹垣柳塘     をさす〉  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (第二回 観古美術会 5月1日~6月30日 浅草海禅寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十四年五月序)   〝野々口立圃 野々口立圃作 楽人形 一対(出品者)服部杏圃〟  ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝野々口立圃 雛屋ト称ス、初メ名親重、京師ノ人、松永貞徳門人、俳諧ヲ善クシ、又書画ヲ能クセリ、          寛文十二年ニ没ス〟  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『第三回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治15年4月序)   (第三回 観古美術会 4月1日~5月31日 浅草本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十五年四月序)   〝野々口立圃 女人形置物 雛屋立圃作(空白)(出品者)藤本幸次郎          出山釈迦図 雛屋立圃  一幅(出品者)逸見元二郎〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『新撰書画一覧』(伴源平編 赤志忠雅堂 明治十四年五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝野々口立圃 雛屋ト称ス、初メ名親重、京師ノ人、松永貞徳門人、俳諧ヲ善クシ、又書画ヲ能クセリ、          寛文十二年ニ没ス〟  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師   〝国学和歌     (烏丸光広)/ 楫取魚彦 / 野々口立圃〟   〝雅俗遊戯錯雑序位混淆     (岩佐又兵衛)小川破笠 友禅山人 浮世又平 雛屋立甫 俵屋宗理 耳鳥斎 英一蝶 鳥山名(ママ)燕     縫箔師珉江〟  ☆ 明治二十五年(1892)    ◯『日本美術画家人名詳伝』下p501(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年(1892)刊)   〝雛屋立圃    野々口氏、俗称ヲ紅屋庄右衛門【一ニ市兵衛又宗左衛門トス】ト曰フ、丹波保津人、京師ニ出テ雛人形    ヲ鬻ク、因テ呼ビテ雛屋ト曰フト、和哥ヲ烏丸光広ニ、書ヲ尊朝法親王ニ学ビ、兼テ又俳諧ニ名アリ、    画ハ土佐氏、或謂フ狩野氏ノ門ニ出ツト、寛文九年九月、病テ卒ス、年七十一、醒世翁曰ク、立翁ハ専    ラ浮世画ヲ画ケリ、医師中川喜雲作ノ草双紙ノ挿絵ハ多ク立圃ノ手ニ成ルト、又許六ガ歴代滑稽伝ニ雛    屋立圃ハ貞徳門人ニシテ撰集数多アリ、又画ヲ善クス、京童ト云フ名所図会ノ画アリ、竹斎ノ画モ又立    圃ナリト(類考通考)〟     ☆ 明治二十六年(1893)    ◯『古代浮世絵買入必携』p18(酒井松之助編・明治二十六年刊)   〝雛屋立甫    本名〔空欄〕   号 自松斎   師匠の名〔空欄〕   年代 凡二百二三十年前    女絵髪の結ひ方 第二図(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 肉筆    備考  〔空欄〕〟    ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『内外古今逸話文庫』6編(岸上操編 博文館 明治二十七年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    ※ 原文は漢字に振り仮名付き。(かな)は原文の振り仮名   (第八編「洒落」の項)   〝雛屋立圃の洒落(182/410コマ)※(かな)は原文の振り仮名    野々口立圃、俗称を雛屋市兵衛といふ、風流多芸、和歌を烏丸光広卿に学び、書は尊朝親王の流を受け    て能筆の名あり、画は狩野探幽に学び、俳諧は貞徳の門に入りて此道の高手と称せらる、京童、はなび    草等の著あり、父の追善に独吟九百首を詠じける中、      雪と消えしあとの光や弥陀如来      手向けぬる花や九品の浄土経    曾て花桶の銘を作る、曰     花といへば吉野を思ひ、吉野といへば花の吹雪の思ひ出でらるゝよ、いづれか此の名の本末ならん      昔したれかゝる桜の種を植ゑて吉野を春の山となしけん     とあり、そのいはれしれ難し      八専のふるをな似せそ花の雨      庭にさへさぞな落葉は東山    寛文九年七十一歳にて没す、辞世の句あり      月花の三句目を今知る世なか〟  ◯『名人忌辰録』下巻p3(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝野々口立圃 松翁    通称鄙屋庄左衞門、名親重、京師の人。俳諧を貞徳に学び、又絵を能くす。延宝九酉年九月三十日歿す、    歳七十一。洛東鳥部山に葬る〟       ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(17/103コマ)   〝雛屋立圃【正保元~四年 1644-1647】    野々口氏、名は親重、通称市兵衛、また源助、一に紅屋庄右衛門、松翁、如流斎等の号あり、俳諧を貞    徳、また貞室に学び、浮世絵を善くして、中川喜雲が著作の草紙を多く画けりといふ、寛文九年九月晦    日没す、享年七十一(或は七十五)辞世の句に      月花の三句目を今知る世かな    本伝は『浮世絵類考』『俳家奇人伝』『続本朝画史』等に拠る〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(203/218コマ)   〝雛屋立圃    野々口氏なり 俗称を紅屋庄右衛門といふ 丹州の人なり 浮世絵を能くし世に名あり 又俳諧を松永    貞徳に学び 名声一時に高し 且つ書法を尊朝親王に学び 和歌を烏丸光広に学ぶ 寛文九年九月没す    年七十一(類考追考 俳林小伝 続本朝画史)〟  ◯『浮世画人伝』p4(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝雛屋立圃(ルビひなやりつぽ)    雛屋立圃は野々口氏、名は親重(チカシゲ)、通称紅屋荘右衛門また市兵衛とも称す、松翁は其号なり、京    都の人にして土佐家の門より出でゝ、浮世絵に巧なり、松永貞徳に俳諧を学び、立圃の号は俳諧及び絵    画両様に用ひき、雛屋とは雛人形製造を本職としたればなり。今の木偶師永徳斎は立圃が家職を継ぐも    のなりと云ふ。許六が『歴代滑稽伝』に云へるは、京童と題する名所記は、立圃の作にして、其挿画も    亦(*マタ)自ら物せるものにて頗(スコブ)る上出来なりと云ふ。されば後年に至り、松村月渓この趣向に倣    ひ、三十六歌撰休息図を作れり。立圃また書を能くせり、人となり風流にして一奇人たることは諸書に    見えたり。寛文九年酉九月三十日没す。年七十一、洛東鳥部山に葬る、法名は日祐居士と号す、其辞世    に、     月花の三句目をいましる世哉〟  ◯「集古会」第六十六回 明治四十一年(1908)一月(『集古会誌』戊申巻二 明治41年10月刊)   〝安田松廼舎(出品者)雛屋立圃画 能楽歌留多〟  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年(1911)~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第一輯(明治四十四年(1911)七月刊)   (絵師)   (画題)   (制作年代) (所蔵者)   〝野々口立圃 「物語図」   寛文頃    高嶺俊夫〟  ◯「集古会」第九十二回 大正二年(1913)三月(『集古会志』癸丑之三 大正4年7月刊)   〝川喜田久太夫(出品者)雛屋立圃画 賛菅神 紙本 一幅 南無天神大事の木なり松と梅〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    雛屋立圃(◇は所蔵者)   ◇新田純孝「碁打花見図巻」   ◇小林亮一「中 男舞 左右 白拍子」三幅対(正蔵の図を模写せしものゝ如し)〈小林文七嗣子〉  ☆ 昭和以降(1826~)    ◯『狂歌人名辞書』p249(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝野々口立圃、名は親重、通称紅屋庄右衛門、丹後宮津の産、京都に住す、和歌を光広卿に、俳歌を貞徳    に、絵画を探幽に学び、傍ら浮世絵を能くす、寛文九年九月卅日歿す、年七十一〟    ◯「日本小説作家人名辞書」p807(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝野々口立圃    通称雛屋庄右衛門、また市兵衛と云ふ。名は親重、松翁、立圃の号がある。京都の俳諧師で松永貞徳の    高弟、一方では土佐派から出て浮世絵に巧であつた。雛屋といふは雛人形製造を本職としていたからで    ある。寛文九年九月三十日歿、年七十一歳。仮名草紙「をさな源氏」(寛文十年(1670))の作者。其    他俳諧の著書が多い〟    ◯『浮世絵師伝』p221(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝立圃(リウホ)    【生】慶長四年(1599)     【歿】寛文九年(1669)九月三十日-七十一    【画系】狩野探幽及び俵屋宗達門人【作画期】    野々口氏、名は親重、俗称紅屋庄右衛門(或は市兵衛、次郎左衛門とも)、立圃また松翁(一に松斎)    と号す、丹波国保津村に生れ、後ち京都に出でて烏丸家の近傍に居を構へ、禁裏御用の雛人形師となり、    傍ら画技に親しみ、書は尊朝親王の流を習ひ、共に堪能の聞えあり、其他、歌を烏丸光広に、俳諧を松    永貞徳に学び、文才亦豊かなりしが如し、素より専門の浮世絵師にはあらざれども、世に雛屋立圃の名    は、其の肉筆画を以て多く知られたり、又版本には『十帖源氏』の挿画あり。墓所、京都要法寺〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「慶応四年 己亥」(1599)p2   〝野々口立圃生る。    野々口立圃は、京都住にして、雛人形を製作して生業とし、元来多芸多能の人にして和歌俳諧を善くし    て自画自作の奈良絵やうの冊子を編み、高貴の翫びものとして世に鬻ぎ、或は当時目撃の歌舞伎の姿態    などを精細に描写し以て世に残しゝ人なるが、著書も亦少なからざるは世の知る所なり〟   ◇「承応元年(十月八日改元)壬辰」(1652)p22   〝四月、雛屋立圃らしき画の絵入本にて『つれ/\なぐさみ草』八冊出版さる〟   ◇「明暦三年 丁酉」(1657)p25   〝八月、雛屋立圃『源氏小鏡』に画き、安田十兵衛より出版〟   ◇「万治元年 戊戌」(1658)p25   〝七月、中川喜雲の『京童』出版、古来雛屋立圃の挿絵なりといふも、立圃に似ずして菱川師宣などには    似たり。    此年又浅井了意の『東海道名所記』成れり。此の書の挿画こそ郤て立圃に似たり。余(*漆山天童)は    蓋し元禄元年、服部九兵衛再版のものを見たり〟   ◇「寛文元年(五月五日改元)辛丑」(1661)p29   〝此年雛屋立圃の『十帖源氏』十冊出版。挿画も立圃の筆なり〟   ◇「寛文九年 己酉」(1669)p35   〝九月三十日雛屋立圃歿す。行年七十一歳なり。(立圃、姓は野々口、名は親重、通称紅屋庄右右衛門、    一に市兵衛、又次郎左衛門・宗左衛門等の数称あり。号は立圃の外に松翁ともいへり。もと丹波の人に    して京に出でて雛人形を商うて生業とせり。天性多能の人にして、書を能くし、画を善くし、連俳・和    歌・国文等を善くせざるなく、生業として人形を商ふ傍ら、自ら書し自ら画きて奈良絵本の如き極彩色    の絵入本を調製して鬻げるものゝ如く、此頃の絵入本に立圃の自筆自画の冊子は今に至りても稀に観る    ところなり。)〟   ◇「寛文十年 甲戌」(1670)p36   〝正月、雛屋立圃の遺著『幼源氏』十冊出版。版元は八尾勘兵衛なり。又林市三郎版にて『判官みやこば    なし』五冊あり〟     ◯「集古会」第二百三回 昭和十年十一月(『集古』丙子第一号 昭和11年1月刊)   〝三村清三郞(出品者)雛屋立圃 嵯峨紀行 一巻〟  ◯「集古会」第二百二十回 昭和十四年三月(『集古』己卯第三号 昭和14年5月刊)   〝三村清三郎(出品者)雛屋立圃 式紙 一枚     草木情なしといへど異形につくりなせば玉しゐそれ/\に入なるべし        花も香もいかにあやつる糸さくら 立圃〟  ◯「集古会」第二百三十二回 昭和十六年九月(『集古』辛巳第五号 昭和16年11月刊)   〝渡辺刀水(出品者)野々口立圃手紙 一通 三月廿三日付〟  △『増訂浮世絵』p68(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝雛屋立圃    立圃は丹波国保津の人で、京都に出て、雛人形を商つた。名は親重、松斎と号して、書は尊朝親王に、    歌は烏丸光広に、俳諧は松永貞徳に学んだ。絵は誰に学んだか、諸説あるが、或は俵屋宗達の門人とい    ひ、また探幽の門とも伝へられる。優麗な筆致と美はしい賦彩とはこの人の特色である。人形師として    俳人として、歌人として有名で、風俗画家としても可なり優れたものである。没年は寛文九年九月七十    一歳とあるが、名人忌辰録には延宝九年三十日七十一歳とある。前者の設が多く行はれて居る〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔雛屋立圃画版本〕    作品数:112点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:立圃・野々口・親重・立甫・松翁軒・雛屋・雛屋立圃・野々口立圃・松翁軒立圃・        野々口親重    分 類:俳諧89・連歌7・紀行4・和歌2・絵巻1・仮名草子1・地誌1・能1・随筆1    成立年:寛永8・10・13~14・17・19・21年(8点)        正保3年    (1点)        慶安1~3・5年(6点)        承応2年    (4点)        明暦2・4年  (2点)(明暦年間合計3点)        万治2・4年  (3点)        寛文2~3・5・7~8年(7点)(寛文年間合計8点)        延宝3年    (1点)    〈立圃の作画は一点で、『草戸記』(刊年記載せず)という名所記。他はすべて著作のようで、絵巻『鞆観音堂縁起絵     巻』も、現在所蔵する東京芸術大学美術館の収納データベース「基礎情報」によると、立圃は詞書だけのようである〉