◯「江戸座談会-奇人譚」(『江戸文化』第四巻四号 昭和五年(1930)四月刊)
◇河鍋狂斎(10/37コマ)
〝(鈴木)貧乏で居つたから、素行が治まらない、あの猩々狂斎なんかは
(山下)成程河鍋狂斎は畸人でした
(鈴木)狂斎が畳町十二番地の床屋と合羽屋の間に露路があつて、その入り口が鳶頭の松井留吉、その
隣りが天麩羅屋の龍助の住居で四畳半二間でした。其の一間を先生が借りて居ました、どうして龍助と
懇意になつたといふと、天麩羅の立食ひで懇意になつたのです、そして妾をおく所はないかといふと、
龍助が私の家は四畳半二間あるから、一間貸さうといふ すぐ噺しが決つた。そこで先生が引越て来た
処が先生の家庭の噺が松井の家に手に取るやうに聞えてくる 豆腐を買ふ銭がない。酒は借りて来たか
ら、どうかしろと妾に云ふ。あまり気の毒だから、松井の女房が豆腐を持つて行つてやつた。するとお
礼に猩々が崖の上から一升徳利をぶら下げて正覚坊を釣つてゐる画を呉れた。
或日狂斎が大事の墨を磨つておけと妾に命じた、しかし四日も五日も帰つて来なかつたら、妾は怒つ
て其墨をどぶへ流して仕舞つた、帰つて来て大いに憤慨した。法衣見たやうなものを着て六尺豊な大男
でした。
チイハアを買ふと、十銭で当れば三十銭になる夫だから三十銭買ふと九十銭になるので、しきりにチ
イハアを買つた 夫れに天麩羅屋の龍助の妻君はチイハアの運送をしてゐるものだから、好都合だつた。
チイハアを買うと云つてやると符合(ふは)といふ紙が来る 其紙に食於大海魚尾鳥翅などゝ書てある。
夫れへ解を記入し掛銭を付けて運送に持たせてやるのだ、解が当ると一銭掛けたら三十銭に成つて来る。
そこで運送に口銭を二銭とられるから 一銭かけると二十八銭 一円かければ二十八円になるのだ。
狂斎先生が買つた其の食於大海が当つた、猫の事だと云つた。妾が其符合を考へ居たら隣の猫の声が
聞へたから、是を辻うらにして猫と書いたので、六十銭ほどとつて来た。その大海は、鮑貝の事だ、魚
の尻尾や鳥の翅なんかを食ふと云ふ意味なのであつた。それで酒を買つて来い、肴といふわけで、妾が
こんなにみんな買て仕舞うと 私のたべるものが無いと云ひ出してとう/\喧嘩したことがあつた。
なんでも狂斎先生が死んで、娘が一人居ましたが、その時先生の遺物として、大きな長持みた様な箱
に画が一杯ありましあさうです。
(広田)暁雲と云ふのが息子でしたが、それが放蕩でしたから或は亡くしてしまつたでせう。あの陵王
の面を抱へて来た時ほど、困つたこといふ事はないと云ふ話で、よく嬢さんの暁翠さんから聞いて居る
があの一文も無いのに高価な面を買求めたのには弱らせされたといふことです、どうも奇人ですね。
(山下)あの人は、筆は感心に出来たものです。
(広田)いい酒を一升二升持つて来ると画を描いた。
(鈴木)何しろ、豆腐を一つやつても描くのだから。
(広田)棒で櫓をこしらへておいて、その上へ唐紙を貼りつけて 病床に仰のけになつたまゝで死ぬ朝
迄も観音を毎日/\かいてゐた、日課の観音と云て有名です〟
(18/37コマ)
(今泉)上野の弁天様の別当所で画会を開いたところへお役人様が来てゐた(その時分の監察は役人で
も直ぐつかまへられるので 今の警察とはよほど違ふ。人格を選んで有名な人ばかりが出る、儒者とか
道徳家などであつた)片手に西洋人に尻をほられてゐる衣冠そくたいの人をかいた。それは誰だといふ
とこちは三條、こつちは英人だといつたから 直ぐつかまつてしまつた、おらあいやだ/\と徳利をも
つてあばれた。牢には二月も入つたかしら。一番つらかつたのは酒が飲めなかつたことで、牢から出で
から暁斎とあらためた。当時は友達が狂人ですからといつてあやまりに行つたものである〟