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歌川国貞 三代目豊国襲名 記事
 ☆ 天保十五年(弘化元年・1844)    正月 歌川国貞、三代目(自称二代目)豊国を襲名    〈下掲『老婆心話』「香蝶楼の招待状」および「三世歌川豊国(上)」参照〉  ◯『藤岡屋日記』②394 歌川国貞記事   〝天保十五辰年春、師の名を継て〈一陽斎〉歌川豊国と号す(二世豊国と名書を記す。按るに二世にあら    ず三世也)〟  ◯『藤岡屋日記』②419 国貞、豊国襲名記事   〝(天保十五年)此頃歌川豊国弟子五渡亭国貞、二代目豊国と成、此時沢村訥升、沢村宗十郎訥子と改名    致し、梅の由兵衛を相勤ル也。右看板を国貞、豊国と改名致し、始而是を書也〟    〈ARC番付ポータルデータベースによると、訥升の宗十郎襲名公演は、天保15年7月の市村座「沢村咲初由兵衛」とのこと〉  ☆ 弘化三年(1846)  ◯『戯作花赤本世界』合巻(式亭小三馬作・歌川国貞画・弘化三年刊)   (国書データベース画像)   〝(小三馬口上)うた川国貞ぬし おとゞしのなつ豊国と改名いたされました 当人先ン師の名をけがし    候事をいとひ しゅじゅじたいいたされたる所 先ン師画名 なもなき末弟(ばつてい)につがれんより    高弟なり(ママ)めうせきそうぞくあらば 先ン師へ孝養ともなり かたがたしかるべき為なりと うた川    社中豊国いちぞくより あひたつてすゝめに 豊国と改名いたされました 高名の自身名をあらため     ほどふりし先師の名をつぐこと じつに師をうやまふまごゝろとかんじいり 当人のたのみはなく候へ    どもそのじつぎをかんしんのあまり つひでながら此だん申上奉り升 又うしろへひかへをり升るは二    代豊国門人国政 国まろ 国道 国明にござります 此所にておめみえいたさせまする ゑざうしはつ    ぶたいのせつは ごひやうばんよろしく御ひいき御取立をねがひ上奉り升 わざも心もきよきうた川の    画工をちからに 此さうしもあやかりまして やんやのみこゑを給はらば はんもとが見世はにぎは式    亭がさいはひと ありがたい仕合にぞんじあげ奉り升(以下略)    〈式亭小三馬の口上にいう「おとゞしのなつ」とは天保十五(弘化元年)年夏のこと。下掲の図はこのときの豊国襲名披     露を踏まえたものであろう。国貞改豊国が率いる門人の国政・国まろ(麿)・国道・国明はこの時点では、まだ合巻デ     ビュー前であったが、襲名した師の豊国同様今後の引き立てを宜しく願うという口上である〉    式亭小三馬口上 国貞改二代豊国 襲名披露  ☆ 安政二年(1855)  ◯『老婆心話』(写本) 梅花のおきな(梅花山人)著 文政十三年(1830)十二月自序(国書データベース画像)   ◇「香蝶楼の招待状」兼子伴雨(20/26コマ)   〝 天保十五年正月、立川焉馬と伊賀屋の老母が勧めもだし難く、師名を襲ひ、豊国を名乗る十余年間、    古稀の長寿を迎ふべき安政二年乙卯の春に逢着した、美人に、役者に、似顔画描きの名手巨匠として、    社会の人々から歓待され、身は高齢の七十歳を数ふるばかりか、此時には長女スゞに門弟の国政を配偶    し、次女の某にも、同じく門弟の国久を娶合せて、歌川の流れ尽きせぬ築かれて居た、嘉永六(以下欠)      寿筵  会主 歌川豊国 一世一代     老拙今年七十歳の春を迎候 功恵年来御懇篤を蒙り候 諸君の御愛顧を乞ひ奉り 賀酒さし上度奉存    候へども 草庵は光駕をいるゝに足らず 依之来ル五月十九日 東両国中村屋へ御集会 雨中たりとも    御来駕奉希上候 ◯(ママ)此会一世一代と聞て まだ/\八十も九十も百も祝ひせよ 客は仙人万歳の春    と賀して 五十余年の友京山八十七歳 板下の筆をとりぬ         乙卯五月吉日〟    〈兼子伴雨によれば、国貞が天保十五年(1844)の正月豊国を襲名したのは、立川焉馬(二世)と伊賀屋(板元?)老母の強     い勧めがあってのことらしい。このチラシは、安政二年(1855)五月十九日、両国中村屋において、豊国古稀の祝宴を     催すというもの。この板下は当年八十七歳の山東京山が認めた。国貞が合巻に初めて筆を執ったのは文化五年(1808)     で、この年の京山作二点に作画している、以来両者は多くの作品を世に送り出してきた。「五十余年の友」とあるから     それ以前からの付き合いということになる〉  ◯「三世歌川豊国(上)」荘逸楼主人著(『浮世絵』第十二号 酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(24/27コマ)   〝(国貞の三代豊国襲名時期について)私は(天保十五年)の正月説に賛成する、これは外ではない二世三    世襲名襲名披露の配り扇が証拠立つて居る、画は島田髷の振袖姿の娘と、裃を着けた児童の図で、これ    へ左の文が添えてある。      睦月七日は師の忌日なれば墓もふでせしに、うからのよりて師の名をつげよとあるにいなみがたく      やがてぞ其意にまかしぬ、野坡うしの句を思ひ出て朋友(ともどち)へかいつけおくりぬ        長松が親の名で来る御慶哉          国貞改二代目 歌川豊国〔年玉花押〕〟     画と云ひ、野坡の句を挙げたと云ひ、此襲名が夏でなくつて春である事は立証すべきもの(云々)〟    〈子供の裃すがたといい、睦月七日の師・初代豊国の墓参といい、はたまた野坡の句を引いて、自らを丁稚奉公の長松     に擬え、一人前になった今は親同様の豊国を名乗って「御慶(新年を祝う詞)」の挨拶をするというのである。やはり襲     名は正月(睦月)なのであろう〉