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☆ いっく じっぺんしゃ 十返舎 一九浮世絵師名一覧
〔明和2年(1765) ~ 天保2年(1831)8月7日・67歳〕
 ※〔漆山年表〕  :『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」   〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』    〔狂歌書目〕  :『狂歌書目集成』   『黄表紙總覧』前編 棚橋正博著・日本書誌学大系48   『稗史提要』「青本之部」比志島文軒(漣水散人)編   『噺本大系』「所収書目解題」武藤禎夫編  ☆ 天明六年(1786)    ◯「艶本年表」〔白倉〕   ◇艶本(天明六年刊)    十返舎一九画・作    『笑本艶次郎』墨摺 半紙本 一冊 陰蘭堂主人(十返舎一九)作 天明六年頃     (白倉注「山東京伝作『江戸生艶気樺焼』の主人公艶次郎を主人公にした艶本」)  ☆ 寛政五年(1793)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇黄表紙(寛政五年刊)    十返舎一九画『道中助六』自作    ☆ 寛政六年(1794)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇黄表紙(寛政六年刊)    十返舎一九画『初役金烏帽子魚』京伝作    ☆ 寛政七年(1795)    ◯『稗史提要』p385   ◇黄表紙(寛政七年刊)    作者の部 通笑 森羅亭 三和 楚満人 慈悲成 馬琴 善好 坪平 十返舎一九 黄亀    画工の部 重政 政美 栄之 豊国 春朗 二代目春町 長喜 一九    時評〝十返舎一九出る、作の体おかしみを専一とす、年々に著述し、文政にいたる。又洒落本膝栗毛、    大に名あり〟     〈「日本古典籍総合目録」によれば、前年の寛政六年、京伝作の黄表紙『初役金烏帽子魚』に、一九は画工を担当して     いた。従って時評にいう〝十辺舎一九出る〟とは戯作者として初登場という意味である〉     ◯『戯作外題鑑』〔燕石〕⑥80(岩本活東子編・文久元年)   (「寛政七乙卯年」時評)   〝十返舎一九出る、作の体おかしみを専一とす、年々に著述し、文政にいたる。又洒落本膝栗毛、大に名   あり〟    〈『稗史提要』に同文あり。前項に見るように、「十返舎一九出る」は自作自画の初出という意味〉    ◯『黄表紙總覧』中編   ◇黄表紙(寛政七年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『心学旹計草』    〔十返舎一九画〕「十遍舎一九」叙跋 蔦屋板    『新鋳小判◎』  署名「自画」    「十扁舎一九作」  蔦屋板     〈◎は「耳+囊」の合成文字。読みは「ミミタブ」〉    『奇妙頂来胎錫杖』署名「一九画作」            蔦屋板     〈備考、この年、一九の黄表紙初登場〉    ☆ 寛政八年(1796)    ◯『稗史提要』p387   ◇黄表紙(寛政八年刊)    作者の部 京伝 石上 馬琴 一九 善好 宝倉主 誂々堂景則、楽山人馬笑 春道草樹    画工の部 重政 豊国 一九 春朗     ◯『黄表紙總覧』中編   ◇黄表紙(寛政八年刊)※角書は省略    十返舎一九画    『替銭通用寿護録』「一九画作」     岩戸屋板    『御膳浅草法』  「一九画作」     岩戸屋板    『漉返浅艸紙』  「一九画作」     岩戸屋板    『信有奇怪会』  「一九画作」     岩戸屋板    『浮世賽銭箱』  「一九画作」     岩戸屋板    『初日影七福即生』「自画」  「一九作」村田屋板    『虫看鑑埜辺若艸』「一九画作」     村田屋板    『御誂向鼠嫁入』 「一九画作」     村田屋板    『㩮会入雲鳥』  「一九画作」     村田屋板     〈備考、挿絵中屛風に「重田貞一画」の落款ありとする〉    『常盤国風土記』 「一九画作」     榎本屋板    『垣覗本草盲目』 「一九画作」     榎本屋板    『初登山手習方帖』「一九画作」     榎本屋板     〈備考、挿絵の天神に「耳鳥斎」の落款、凧に「東洲斎写楽画」の落款あり〉      『怪談筆始』   「一九画作」     蔦屋板    『年中行状記』  「一九画作」     蔦屋板    『化物小遣帳』  「一九画作」     蔦屋板     『青海波竜宮』  「一九画作」     泉市板    『千里一刎勇天辺』「一九画作」     泉市板    『早野勘平若気誤』「一九画作」     西宮板    『油断敵薬効能書』「一九画作」     西宮板    ☆ 寛政九年(1797)    ◯『稗史提要』p389   ◇黄表紙(寛政九年刊)    作者の部 京伝 楚満人 石上 慈悲成 唐丸 馬琴 三馬 一九 馬笑    画工の部 重政 豊国 一九 春朗    ◯『黄表紙總覧』中編   ◇黄表紙(寛政九年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『忠臣店請状』  署名「一九画作」        岩戸屋板    『化物見越松』  署名「自画」     「一九作」岩戸屋板    『怪談深山桜』  署名「自画」     「一九作」岩戸屋板    〔風光花猛者男〕 署名 十返舎一九画作      岩戸屋板    『花筺勇者命』  署名「十偏斎一九画」      岩戸屋板    『郷見家軍談』  署名「十偏斎一九画」      岩戸屋板    『金生水洞幹子』 署名「一九画作」        岩戸屋板    『時花壍抜井』  署名「一九画作」        岩戸屋板    『◎師直開帳』  署名「一九画作」        榎本屋板    『諺東埔寨掌』  署名「十返舎一九画作」     榎本屋板    『寿金太郎月』  署名「自画」     「一九作」榎本屋板    『今昔狐夜噺』  署名「一九画作」        榎本屋板    『貧富水懸論』  署名「一九画作」        榎本屋板    『釣戎水揚帳』  署名「一九画作」        村田屋板    『薯蕷鰻鱺薬』  署名「自画」     「一九作」村田屋板    『閣思獣堺界』  署名「自画」     「一九作」村田屋板    『挙家安全鼠山入』署名「一九画作」        村田屋板    『太平記無礼講中』署名「一九画作」        西宮板    『千早振紙屑籠』 署名「一九画作」        西宮板    『夜眼遠目笠之内』署名「一九画作」        西宮板    〔玄猪節〕      〔十返舎一九画〕      板元不明    ☆ 寛政十年(1798)    ◯『稗史提要』p390   ◇黄表紙(寛政十年刊)    作者の部 京伝 三和 楚満人 石上 慈邪成 馬琴 三馬 一九 唐丸 恋川春町遺稿          壁前亭九年坊 傀儡子 聞天舎鶴成    画工の部 重政 豊国 可候 清長 業平榻見 栄昌 春亭    ◯『黄表紙總覧』中編   ◇黄表紙(寛政十年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『河童尻子玉』  署名「十遍舎一九画作」        岩戸屋板    『雲上道中記』  署名「一九画作」           岩戸屋板    『出侭略縁起』  署名「十遍舎一九画作」        岩戸屋板    『福神江島台』  署名「一九画」            岩戸屋板    『三輔待為運次第』署名「自画」     「一九作」   岩戸屋板    『価千金栄花夢相』署名「自画」     「一九作」   岩戸屋板     〈同年刊『三輔待為運次第』の改題再摺本〉      『孤陽来伏帳』  署名「一九画」    「自作」    村田屋板    『御徳用黄金艸鞋』署名「一九画作」           村田屋板    『旧去求故軍』  署名「一九画作」           村田屋板    『忠臣星月夜』     十返舎一九画   十返舎一九作 村田屋板     〈作画者の署名はないが、序に「十偏斎誌」とあり、一九の作画とする〉    『義光夜功珠』  署名「十偏斎一九画」         村田屋板     『十偏舎戯作種本』署名「一九画作」           榎本屋板    『尻攑御要慎』  署名「自画」     「一九作」   榎本屋板    『取得貨徳用』  署名「自画」     「一九作」   榎本屋板    『物見松御坐所』 署名「一九画作」           山口屋板    『栄盈表易町』  署名「十遍舎一九作」         山口屋板    『人唯樽底抜』  署名「一九画作」           西宮板    『仮名文章女忠臣』署名「十遍舎一九画作」        西村屋板    ◯「艶本年表」〔白倉〕   ◇艶本(寛政十年刊)    十返舎一九画・作    『絵本江戸錦』墨摺 半紙本 一冊 陽発山人(十返舎一九)作 寛政十年    ☆ 寛政十一年(1799)    ◯『狂歌東西集』〔江戸狂歌・第五巻〕千秋庵三陀羅法師編・寛政十一年刊   〝里花   十遍舎一九      おはぐろのふしみの里の花さかり入相のかねつきかねるなり〟   〝山郭公  十遍舎一九      ちりはてしその花山のほとゝきすねにかへるにはしかしとぞなく〟   〝川蛍   十偏舎一九      舟人もあすの日和やみなと川ほしのふるかとおもふ蛍に〟   〝海上夏月 十偏舎一九      磁石見る夏の月夜の涼しさは秋もきたかとおもふ海はら〟         十偏舎      夏の夜の浪間に月を宮嶋はあきのまなことおもふすゝしさ〟   〝野外虫  十偏舎一九      はかりさる玉野の草の葉すゑにもものさひてなく虫のもろこゑ〟    〝雪    十偏舎一九      祖師ゐます身延の山のいたゞきもけさはかぶれる雪のきせ綿〟    〝五月雨  十偏舎一九      庭の面に箒目たつるひまもなしさればさつきの雨の長尻〟   〝納涼   十偏舎一九      いにしへは奈良の都と仰けんうちはの里の風のすゞしさ      此風を待おほせてや居眠の舟こきいだす夜のすゞしさ〟   〝紅葉   十偏舎一九      石橋にあらぬ岩はし紅葉して色も赤熊のかつらきの山〟   〝菊    十偏舎一九      ゑのことは白きを後の雛に似てごふんの色の菊の花園〟   〝納涼   十偏舎一九      明礬にかく文月のふたつ星たらゐの水にあらはれにけり〟     ◯『狂歌杓子栗』巻之下〔江戸狂歌・第五巻〕便々館湖鯉鮒編・寛政十一月(1799)序、文化五年(1808)刊   〝恋    十返舎一九      はつかしや君にふらるゝ錫杖のかたちよりして生れたるみは〟   〝社頭   一九      神木の松は大こくはしらにえ鼠の宮にちとせふるかけ〟    ◯『稗史提要』p392   ◇黄表紙(寛政十一年刊)    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 石上 馬琴 三馬 一九 鉦扈荘英 蘭奢亭香保留    画工の部 重政 豊国 一九 春亭 豊丸    ◯『黄表紙總覧』中編   ◇黄表紙(寛政十一年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『正直即功帋』  署名「自画」    「一九斎作」  西村屋板    『竹本義太夫武士』  〔十返舎一九画〕「一九戯作」  西村屋板    『腹内養生主論』 署名「自画」    「一九作」   西村屋板    『大福茶呑噺』  署名「自画」    「一九作」   西村屋板     『両説娵入奇談』   〔一九画〕   「一九作」   山口屋板    『三十石◎初』  署名「十偏斎画」          山口屋板    『花軍梅先陣』  序「十偏舎誌」           山口屋板     〈作者画工名なし、備考は一九の自画作とする〉    〔露深淀引船〕  序「十偏舎誌」           山口屋板     〈作者画工名なし、備考は一九の自画作とする〉    『穴賢狐縁組』    〔一九画〕   「十偏舎一九作」村田屋板    『運開大黒傘』    〔一九画〕   「一九作」   村田屋板    『分福茶賀間』  署名「自画」    「一九作」   村田屋板    『大鯨豊年貢』  署名「自画」    「一九作」   榎本屋板    『鳩讃試礼者笑宴』署名「自画」    「一九作」   榎本屋板    『善悪両良薬』  署名「自画」    「一九作」   岩戸屋板    『敵討住吉詣』  序「十偏斎誌」〈作者画工名なし、備考は一九の自画作とする〉    『殿下茶店譽仇討』署名「十偏舎一九画」        岩戸屋板     〈備考、『敵討住吉詣』の後編〉    ☆ 寛政十二年(1800)    ◯『稗史提要』p394   ◇黄表紙(寛政十二年刊)    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 馬琴 一九 石上 鈍々亭和樽 色主 可候 蘭奢亭香保留    画工の部 重政 可候 豊国 子興    ◯『黄表紙總覧』中編   ◇黄表紙(寛政十二年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『木下陰狭間合戦』   十返舎一九画 十返舎一九作  岩戸屋板     〈備考、『後編狭間合戦』の前編という事から一九自作自画とする〉    『後編狭間合戦』 署名「十偏斎一九画」        岩戸屋板    『木下陰狭間合戦』署名「十偏斎一九画」        岩戸屋板     〈備考、本作品は前二作の合綴合冊ではなく、同題名で同時に一括刊行されたもの〉    『此縁唐有乎』  署名「一九画」  序「十偏斎誌」  岩戸屋板    『開帳噺』    署名「一九画」   「一九作」   西村屋板    『明眼千人盲仙術』署名「自画」    「一九作」   西村屋板     『臍煎茶吞噺』  署名「一九画」   「永寿堂自作」 西村屋板    『怪談富士詣』  署名「十返舎画」  「永寿堂自作」 西村屋板    『雅衆忠臣蔵』  署名「自画」    「一九作」   村田屋板    『化物見世開』  署名「自画」    「一九作」   村田屋板    『出世鯉四方瀧水』署名「自画」    「一九作」   村田屋板    『大江山幾野紀行』   十返舎一九画  十返舎一九作 榎本屋板     〈備考、『増補大江山物語』の前編という事から一九自作自画とする〉    『増補大江山物語』署名「一九画」           榎本屋板    『男伊達東錦絵』   〔十返舎一九画・十返舎一九作〕 榎本屋板    『運次第出雲縁組』署名「自画」    「一九作」   泉市板    『心学芋蛸汁』  署名「自画」    「一九作」   山口屋板    〔昔話味縁熟〕  〔十返舎一九画・十返舎一九作〕     〈備考、本作品は『貧福蜻蛉返』と同本とする〉    ◯『噺本大系』巻十九「所収書目解題」   ◇咄本(寛政十二年刊)    十返舎一九画『臍煎茶呑噺』署名「一九画」永寿堂作 西村屋    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕   ◇狂歌(寛政十二年刊)    十返舎一九画『夷曲東日記』十返舎一九画・作 村山次郎兵衛板    ☆ 享和元年(寛政十三年・1801)    ◯『稗史提要』p397   ◇黄表紙(寛政十三年刊)    作者の部 京伝 楚満人 慈悲成 馬琴 三馬 一九 傀儡子 可候 和樽 竹塚東子 香保留         福亭三笑 玉亭     画工の部 重政 可候 豊国 春亭 子興 歌川豊広    ◯『黄表紙總覧』後編   ◇黄表紙(寛政十三年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『伊呂波短歌』  署名「自画」    「一九作」   岩戸屋板    『質流思外幸』  署名「自画」    「一九作」   岩戸屋板    『開帳延喜繁花』   〔十返舎一九画〕「一九作」   岩戸屋板    『敵討巌流島』     十返舎一九画  同作     岩戸屋板     〈備考、署名はないが、次書『報讐後日話』の前書にあたる由〉    『報讐後日話』  署名「十偏舎一九画」        岩戸屋板    『敵討初嵐桐弌葉』   十返舎一九画 「十徧舎一九作」西村屋板     〈備考、署名はないが、絵題簽に「十徧舎一九作」とあり、また次書『敵討操艸菊之籬』の前書にあたる由〉    『敵討操艸菊之籬』署名「自画」    「十返舎戯作」 西村屋板    『五人桐曾根崎染』署名「自画」    「十返舎戯作」 西村屋板    『厄掃西海原』    〔十偏舎一九画〕「一九作」   西村屋板     〈備考、笑丸作画は間違いとする〉    『金実身体直』    〔十返舎一九画〕「十偏斎一九作」榎本屋板    『福徳三年酒』    〔十返舎一九画〕「一九作」   榎本屋板    『春霞男達引』  署名「十偏舎一九画」 十返舎一九作 榎本屋板    『男達東錦絵』     十返舎一九画  十返舎一九作 榎本屋板       〈備考、本書は前年寛政十二年刊『男達東錦絵』と前書『春霞男達引』とを合成したもの〉    『山神御祭礼』  署名「自画」    「一九作」   村田屋板      『画㕝素人狂言』    十返舎一九画 「一九作」   村田屋板     〈備考、一九の口上から自画とする〉    『福種蒔』      〔十返舎一九画〕「遠唐沖人作」 村田屋板    『馬鹿附薬』   署名「自画」    「十返舎一九作」泉市板    『人心両面摺』    〔十返舎一九画〕「十偏舎一九作」山口屋板    ◯『噺本大系』巻十八「所収書目解題」   ◇咄本(絵入本)(寛政十三年刊)    十偏舎一九画『福種蒔』(署名なし)十偏舎一九作 村田屋板    ☆ 享和二年(1802)    ◯『五十鈴川狂歌車』〔江戸狂歌・第六巻〕千秋庵三陀羅法師編・享和二年(1802)刊    「風流五十人一首」(「百人一首」をまねて仮装の画像と狂歌を配した狂歌本)   〝十編舎一九      はつかしや君にふらるゝ錫杖のかたちよりして生れたる身は〟    ◯『稗史提要』p398   ◇黄表紙(享和二年刊)    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 新好 通笑 馬笑 傀儡子 石上 慈悲成 感和亭鬼武         木芽田楽 一麿    画工の部 重政 豊国 歌丸 豊広 長喜 春喬 菊丸    ◯『黄表紙總覧』後編   ◇黄表紙(享和二年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『車川話種本』  署名「十遍斎一九画」 十返舎一九作 山口屋板    『忠臣陶物藏』    〔十返舎一九画〕「一九戯作」  山口屋板    『異療寐鼾種』  署名「一九画」   「鬼武作」   山口屋板    〔玄徳武勇伝』    〔十返舎一九画・十返舎一九作〕〔山口屋板〕    『美男狸金箔』  署名「自画」    「一九戯作」  岩戸屋板    『屈伸一九著』    〔十返舎一九画〕「一九作」   岩戸屋板    『嗚呼愚舗話』    〔十返舎一九画〕「一九作」   岩戸屋板    『旅恥辱書捨一通』  〔十返舎一九画〕「一九戯作」  榎本屋板    『夏衯男達縞』     十返舎一九画  十返舎一九作 榎本屋板     〈備考、本書は次書『夏木立恋◎(オモニ)』の前編。◎は「重」+「荷」の合成漢字〉    『夏木立恋◎』  署名「十偏舎一九画」        榎本屋板     『的中地本問屋』    十返舎一九画 「一九作」   村田屋板    ◯「読本年表」〔目録DB〕   ◇読本(享和二年刊)※角書は省略    十返舎一九画『雙葉草』十返舎一九画・作    ◯『洒落本大成』第二十一~二十二巻   ◇洒落本(享和二年刊)    十偏舎一九画    『起承転合』 署名「一九画」  十偏舎一九作・画    『竅学問』  署名「みつから画」十偏舎一九作・画    『狐竇這入』 署名「自画」   十偏舎一九作・画    『素見数子』 署名「自画」   十偏舎一九作・画    『商内神』  署名なし     十偏舎一九作・画    『松の内』  署名なし     十偏舎一九作・画    『遊冶郎』  署名なし     十偏舎一九作・画    『吉原談語』 署名なし     十返舎一九作・画    『鄽意気地』 署名なし     十返舎一九作・画    ◯『噺本大系』巻十四「所収書目解題」   ◇咄本(享和二年刊)    十返舎一九画?『落咄臍くり金』(署名なし)十返舎一九序 田中板    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕   ◇狂歌(享和二年刊)    十返舎一九画『旅眼石』一冊 一九自画 十返舎編 村田屋治兵衛板〈〔目録DB〕は滑稽本とする〉    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(享和二年刊)    十返舎一九画    『道中膝栗毛』初十返舎一九画・作 村田屋治郎兵衛板〔目録DB〕     『旅眼石』  一冊 十返舎一九自画 十返舎編(注記「改題本に「馬士の歌囊」あり」)〔目録DB〕    ☆ 享和三年(1803)    ◯『稗史提要』p399   ◇黄表紙(享和三年刊)    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 三馬 一九 可候 鬼武 三笑 石上 虚呂利 板本舎邑二 楓亭猶錦         萩庵荻声 徳永素秋 薄川八重成    画工の部 重政 豊国 可候 豊広 長喜 一九 春亭 秀麿 一九門人ゑい女    ◯『黄表紙總覧』後編   ◇黄表紙(享和三年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『裏面心抜路次』〔十返舎一九画〕「十返舎一九識」山口屋板        一楽亭栄水画    『前編安部川敵討』   一楽亭栄水画 十返舎一九作 村田屋板     〈作者・画工名はないが、次書『安部仇討後編話』の前編であることから栄水画・一九作とする〉    『安部仇討後編話』署名「栄水画」  「十返舎」   村田屋板    『色外題空黄表紙』   一楽亭栄水画「門人ゑい女作」岩戸屋板     〈備考、署名はないが、同年刊『安部川敵討』の巻末広告によるとする〉     〈栄水と一九に関して、同人説、別人説。二人の栄水説あり。備考は「享和年間の一九作の洒落本・黄表紙・滑稽本に見    える栄水とは、一九自身に他ならず、栄水は一九の画号であったと考えられる(中略)とすると、栄水を号した人物は    二人、一人は一九、もう一人は鳥文斎栄之の門人と伝えられる浮世絵師栄水と云うことになる」とする〉       ◯「読本年表」〔目録DB〕   ◇読本(享和二年刊)※角書は省略    十返舎一九画『怪物輿論』十返舎一九画・作    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇読本(享和三年刊)    十返舎一九画『怪物輿論』十返舎一九画・作    ☆ 享和年間(1801~1804)    ◯『増訂武江年表』2p26(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「享和年間記事」)   〝(当時江戸の戯作者、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬・六樹園飯盛・小枝繁・感和亭鬼武に続き名あり)    一九はたゞしやらくものにて人愛敬あり〟    ☆ 文化元年(享和四年・1804)    ◯『稗史提要』p401   ◇黄表紙(享和四年刊)    作者の部 京伝 楚満人 石上 馬琴 一九 東子 赤城山家女 待名斎今也    画工の部 重政 豊国 春亭 豊広 長喜 月麿 北岱    時評〝かたき打の本、いよ/\行はれ、京伝・馬琴、此年より始て敵打の作あり。今年の新刻かたき打       三分の二にして、其余わつかに戯作あり〟    ◯『噺本大系』巻十四「所収書目解題」   ◇咄本(享和四年刊)    十返舎一九画『落咄腰巾着』(署名なし)十返舎一九作・画 靏屋板          『笑府商内上手』(署名なし)十返舎一九作、一九画か?(板元名なし)    ◯『黄表紙總覧』後編   ◇黄表紙(享和四年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『人慾看通卜巫』〔十返舎一九画〕「十返舎一九著」山口屋板    『化物太平記』 〔十返舎一九画〕「一九作」   山口屋板    『化もの敵討』 〔十返舎一九画〕「一九作」   村田屋板    『帰花再度譽』 〔十返舎一九画〕「十返舎一九著」蔦屋板    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(享和四年刊)    十返舎一九画『田舎草紙』  五冊 十返舎一九画・作 駿河屋半兵衛板〔目録DB〕    ◯『伊波伝毛乃記』〔新燕石〕⑥130(無名子(曲亭馬琴)著・文政二年十二月十五日脱稿)   〝文化二年乙丑の春より、絵本太閤記の人物を錦絵にあらはして、是に雑るに遊女を以し、或は草冊子に    作り設けしかば、画師喜多川歌麿は御吟味中入牢、其他の画工歌川豊国事熊右衛門、勝川春英、喜多川    月麿、勝川春亭、草冊子作者一九等数輩は、手鎖五十日にして御免あり、歌麿も出牢せしが、こは其明    年歿したり、至秋一件落着の後、大坂なる絵本太閤記も絶板仰付られたり〟    〈読本『絵本太閤記』は、武内確斎作・岡田玉山画で、寛政九年から享和二年にかけて出版された。この「絵本太閤記」     一件、諸本、文化元年のこととするが、馬琴が文化二年としているのは不審。ともあれ、大坂の玉山画『絵本太閤記』     はこれまで咎められることもなく無事出版できていた。それでおそらくそれに触発されたのであろう。江戸の歌麿、     豊国、春英・月麿・春亭・一九たちも便乗するように「太閤記」ものを出版してみた。ところが案に相違して、摘発     を受け入牢・手鎖に処せられてしまった。しかも累は『絵本太閤記』にまで及び、絶版処分になってしまった。どう     も大坂と江戸では禁制事項にずれがあるらしく、江戸の方がそれを読み違えたのかもしれない〉    ◯『街談文々集要』p29(石塚豊芥子編・万延元年(1860)序)   (「文化元甲子之巻 第十八 太閤記廃板」)   〝一 文化元甲子五月十六日絵本太閤記板元大阪玉山画同錦画絵双紙      絶板被仰渡           申渡    絵草紙問屋                                   行事共                                 年番名主共      絵草紙類の義ニ付度々町触申渡候趣有之処、今以以何成品商売いたし不埒の至りニ付、今般吟味の      上夫々咎申付候      以来右の通り可相心得候    一 壱枚絵、草双紙類天正の頃以来の武者等名前を顕シ書候儀は勿論、紋所、合印、名前等紛敷認候義      決て致間敷候    一 壱枚絵に和歌之類并景色の地名、其外の詞書一切認メ間敷候    一 彩色摺いたし候義絵本双紙等近来多く相見え不埒ニ候 以来絵本双紙等墨計ニて板行いたし、彩色      を加え候儀無用ニ候    右の通り相心得、其外前々触申渡趣堅く相守商売いたし行事共ノ入念可相改候。     此絶板申付候外ニも右申渡遣候分行事共相糺、早々絶板いたし、以来等閑の義無之様可致候    若於相背ハ絵草紙取上ケ、絶板申付其品ニ寄厳しく咎可申付候            子五月      此節絶板の品々    絵本太閤記 法橋玉山筆 一編十二冊ヅヾ七編迄出板     此書大に行ハる。夫にならひて今年江戸表ニて黄表紙ニ出板ス    太閤記筆の聯(ツラナリ)【鉦巵荘英作 勝川春亭画 城普請迄 寛政十一未年三冊】    太々太平記【虚空山人作 藤蘭徳画 五冊 柴田攻迄 享和三亥】    化物太平記【十返舎一九作自画 化物見立太閤記 久よし蜂すか蛇かつぱ】    太閤記宝永板【画工近藤助五郎、清春なり 巻末ニ此度            歌川豊国筆ニて再板致候趣なりしか相止ム】    右玉山の太閤記、巻中の差画を所々擢て錦画三枚つゞき或ハ二枚、壱枚画に出板、画師ハ勝川春亭・歌    川豊国・喜多川哥麿、上梓の内太閤、五妻と花見遊覧の図、うた麿画ニて至極の出来也、大坂板元へ被    仰渡候は、右太閤記の中より抜出し錦画ニ出る分も不残御取上之上、画工ハ手鎖、板元ハ十五貫文ヅヽ    過料被仰付之〟    〈「日本古典籍総合目録」によると、竹内確斎著・岡田玉山画『絵本太閤記』は寛政九年(1797)~享和二年(1802)に     かけての出版。荘英作・勝川春亭画『太閤記筆の連』は寛政十一年刊。虚空山人作・藤蘭徳(蘭徳斎春童)画『太々     太平記』は天明八年(1788)刊とあり、『街談文々集要』がいう享和三年(1803)のものは見当たらない。『絵本太閤     記』の評判にあやかって、この年、再版本を出したものとも考えられる。十返舎一九作・画『化物太平記』は享和四     年(1804)(文化元年)の刊行。さて最後、宝永板、近藤助五郎清春画の「太閤記」とあるのが、よく分からない。東     北大学附属図書館・狩野文庫の目録に、近藤清春画『太閤軍記 壹之巻』なるものがあるが、あるいはそれを言うの     であろうか。しかし、そのあとに続く、歌川豊国初代の記事「再板致候趣なりしが相止む」の意味も、それ以上に分     かりずらい。清春の「太閤記」を下敷きに、豊国が新趣向で再板するという意味なのであろうか。結局のところ、企     画倒れになってしまったようであるが、それならば「此節絶板の品々」に名を連ねるのは不自然ではないのか。春亭     と一九の「太閤記」ものが名を連ねるのは分かるが、藤蘭徳と清春の「太閤記」ものがどうして入っているのか、よ     く分からない。ともあれ、この一件以降、「壱枚絵・草双紙類、天正の頃已来之武者等名前を顕し画候義は勿論、紋     字・合印・名前等紛敷認候儀、決て致間敷候」という禁制は、出版界に重くのしかかってゆくことになったのである〟
   『化物太閤記』 十返舎一九作・画〔『筆禍史』所収〕    ◯『筆禍史』「絵本太閤記及絵草紙」(文化元年・1804〕)p100(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝是亦同上の理由にて絶版を命ぜられ、且つ著画者も刑罰を受けたり『法制論簒』に曰く     文化の始、太閤記の絶版及び浮世絵師の入獄事件ありき、是より先、宝永年間に近藤清春といふ浮世     絵師、太閤記の所々へ挿絵して開板したるを始にて、寛政の頃難波に法橋玉山といふ画工あり、是も     太閤記の巻々を画き      〔署名〕「法橋玉山画図」〔印刻〕「岡田尚友」(白文方印)「子徳(一字未詳)」(白文方印)     絵本太閤記と題して、一編十二巻づゝを発兌し、重ねて七篇に及ぶ、此書普く海内に流布して、遂に     は院本にも作為するものあり、又江戸にては享和三年嘘空山人著の太々太閤記、十返舎一九作の化物     太閤記など、太閤記と名づくる書多く出来て、後には又勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、     喜多川月麿などいふ浮世絵師まで、彼の太閤記の挿画を選び、謂はゆる三枚続きの錦絵に製せしかば、     犬うつ小童にいたるまで、太閤記中の人物を評すること、遠き源平武者の如くなりき、斯くては終に     徳川家の祖および創業の功臣等にも、彼れ是れ批判の波及すらん事を慮り、文化元年五月彼の絵本太     閤記はもとより、草双紙武者絵の類すべて絶版を命ぜられき、当時武者絵の状体を聞くに、二枚続三     枚続は事にもあらず、七枚続などまで昇り、頗る精巧を極めたりとぞ、剰へ喜多川歌麿武者絵の中に、     婦女の艶なる容姿を画き加ふる事を刱め、漸く風俗をも紊すべき虞あるに至れり、例へば太閤の側に     石田三成児髷の美少年にて侍るを、太閤その手を執る、長柄の銚子盃をもてる侍女顔に袖を蔽ひたる     図、或は加藤清正甲冑して、酒宴を催せる側に、挑戦の妓婦蛇皮線を弾する図など也、かゝれば板元     絵師等それ/\糾問の上錦絵は残らず没収、画工歌麿は三日入牢の上手鎖、その外の錦絵かきたるも     の悉く手鎖、板元は十五貫つゝの過料にて此の一件事すみたり云々    又『浮世絵画人伝』には左の如く記せり     喜多川歌麿と同時に、豊国、春亭、春英、月麿及び一九等も吟味を受けて、各五十日の手鎖、版元は     版物没収の上、過料十五貫文宛申付られたり     豊国等の描きしは、太閤記中賤ヶ嶽七本槍の図にして、一九は化物太閤記といふをものし、自画を加     へて出版せしによるなり      〔頭注〕喜多川歌麿    歌麿手鎖中、京伝、焉馬、板元西村などの見舞に来りし時、歌麿これ等の人々に向ひ、己れ吟味中、恐    怖のあまり、心せきて玉山が著したる絵本太閤記の事を申述べたりしによりて、同書も出板を禁ぜられ    たるは、此道のために惜むべく、且板元に対して気の毒にて、己れ一世の過失なりと語れりといふ、さ    れば絵本太閤記が七編までにて絶版になりしは、これが為なりと『浮世絵画人伝』にあり    歌麿絵本太閤記の図を出して御咎を受たり、其後尚又御咎の事ありて獄に下りしが、出て間もなく死す    と『浮世絵類考』にあれども、其再度の御咎といふ事真否不詳なり         化物太閤記 十返舎一九作画 黄表紙二冊 山口屋忠兵衛版       享和四子初春(即文化元年)出版      全編悉く化物の絵と物語のみなれど、其化物の紋所又は旗印等に戦国次代の諸将即ち織田、明智、      真田、豊臣等の紋又は合印を附けて諷刺の意を寓しあるなり〟
   「太閤五妻洛東遊覧之図」三枚組左 三枚組中 三枚組右 歌麿筆(東京国立博物館所蔵)
   『絵本太閤記』 法橋玉山画 (早稲田大学図書館「古典籍総合データベース)
   『化物太閤記』 十返舎一九作・画 〔『筆禍史』所収〕    ◯『享保以後 江戸出版書目 新訂版』p371(朝倉治彦、大和博幸編・平成五年刊)   〝享和四年甲子正月    絵本播州舞子浜 彩色摺 全二冊 重田重兵衛(ママ)作 歌川豊春(ママ)画 板元売出し 近江屋与兵衛    同二十一丁     右之書文化元年五月十八日、北番所ニおゐて彩色板絶板被仰付、已来墨摺斗ニ而商売可致旨被仰渡候〟    〈「享和四年甲子正月」とは売り出し年月。「重田重兵衛」は十返舎一九とあるべきところ。一九が重兵衛と称したこ     とがあるのだろうか。また歌川豊春も豊広が正しい。北町奉行所は彩色摺を贅沢として絶板にしたのである。国文学     研究資料館の「日本古典籍総合目録」は十返舎一九作・歌川豊広画の読本『播州舞子浜』とする〉      ☆ 文化二年(1805)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(文化二年刊)    十返舎一九画『手製集』一冊 一九画 十返舎一九序 鶴屋喜右衛門板    ◯『稗史提要』p403   ◇黄表紙(文化二年刊)    作者の部 京伝 楚満人 石上 馬琴 三馬 一九 素速斎 東紫 新好 鬼武 萩声 赤城山人          面徳斎夫成    画工の部 重政 豊国 豊広 月麿 石上    ◯『黄表紙總覧』後編   ◇黄表紙(文化二年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『帰花再度譽』〔十返舎一九画〕「十返舎一九著」蔦屋板    『金生木息子』〔十返舎一九画〕「十返舎一九著」山口屋板    ◯『洒落本大成』第二十三巻   ◇洒落本(文化二年刊)    十返舎一九画『倡売往来』署名なし 十返舎一九作・画    ☆ 文化三年(1806)    ◯『稗史提要』p404   ◇黄表紙(文化三年刊)    作者の部 京伝 楚満人 馬琴 一九 石上 鬼武 慈悲成    画工の部 重政 豊国 豊広 国長 春亭 国丸 北馬    ◯『黄表紙總覧』後編   ◇黄表紙(文化三年刊)※角書は省略。〔 〕は著者未見、或いは他書によるもの、または疑問のあるもの    十返舎一九画    『郷見家軍談』  署名「十偏斎一九画」序「十偏斎述」    岩戸屋板    『怪談深山桜』  署名「一九画」    「一九作」     岩戸屋板    『木下陰狭間合戦』署名「十偏斎一九画」序「山川堂主人誌」  岩戸屋板     〈備考、寛政十一年の再板本の由〉    『天下茶屋敵討』 署名「十遍舎一九画」序「十遍斎誌」    岩戸屋板     〈備考、寛政十二年板『敵討住吉詣』と『殿下茶屋誉仇討』の合成改題再板本〉    『敵討巌流島』  署名「十偏舎一九画」叙「十偏舎一九誌」  岩戸屋板     〈備考、岩戸屋の文化三年新版目録より〉    『串戯しつこなし』  〔十返舎一九画〕 「十返舎一九作」  山口屋板    『敵討此方の世界』  〔十返舎一九画〕序「十返舎一九識」  山口屋板    『怜悧怪異話』    〔十返舎一九画〕 「十返舎一九作」  山口屋板    『花聟大安売』    〔十返舎一九画〕序「十返舎一九がいふ」山口屋板    『唯よし/\』    〔十返舎一九画〕 「十返舎一九作」  板元不明    『やくハん』     〔十返舎一九画〕序「通油町十返舎一九」板元不明        一雅画    『青嵐柳下蔭』前編    一雅画 序「十返舎一九識」山口屋板    『柳下蔭後編』後編 署名「一雅画」 「十返舎一九著」山口屋板    ◯「咄本年表」   ◇咄本(文化三年刊)    十返舎一九画    『噺の見世開』自作・自画〔小咄〕    『唯よしよし』十返舎一九作・画 文化三年序〔目録DB〕      ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(文化三年刊)    十返舎一九画    『即興跡引上戸』一冊 十返舎一九画・作    ☆ 文化四年(1807)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(文化四年刊)    十返舎一九画『滑稽鹿嶋詣』一冊 十返舎一九画并詠(馬士の歌囊と同本なるべし)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕   ◇合巻(文化四年刊)※角署は省略    十返舎一九画    『其身益金持親玉』十返舎一九画・作〈頭注に刊年「文化三年カ」とある〉     『敵討仲間入』 (寛政十二年刊『昔咄味縁熟』の改題再版本)    『連歌怪譚』   十返舎一九画・作    ☆ 文化五年(1808)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕   ◇合巻(文化五年刊)※角署は省略    『商人金の采配』十返舎一九画・作    『漉返浅草法』 十返舎一九画・作    ◯『筆禍史』「商人金采配」〔文化五年〕p107(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝『日本小説年表』に「商人金采配三冊、十返舎一九画作、文化五年刊、此草紙出版の際、函館一件に付    障る事あり、暫く禁売せらる」とあり    右の函館一件とは露艦来寇をいへるなるべし、障る事の何たるは知らずといへども、其実物を一閲する    に、商家の番頭が若旦那を勘当せしめて一家を横領し、後終に負債山をなすに至り、其悪番頭を放逐し    て若旦那を呼帰し、漸く商運復旧すといふ筋なり、何かの寓意はあるならんも、函館一件の諷刺と見え    しは、幕吏の誤解たりしこと判明して、間もなく解禁となりしものならんか〟
   『商人金の采配』 十返舎一九作・画 〔『筆禍史』所収〕    ☆ 文化六年(1809)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕   ◇合巻(文化六年刊)※角署は省略    十返舎一九画    『郷見家軍談』十偏斎一九画・作    『化物尽』  十返舎一九画・作    ☆ 文化七年(1810)    ◯「合巻年表」   ◇合巻(文化七年刊)※角書は省略    十返舎一九画    『女忠臣仮名文章』十返舎一九作・画〔書目年表〕     〈寛政十年刊『仮名文章女忠臣』の改題再版本〉    『趣向筋鰻鱺』  十返舎一九作・画〔目録DB〕     〈寛政十二年刊『出世鯉四方滝水』の改題再版本〉      ◯『柳亭種彦日記』p149 文化七年(1810)四月朔日   〝此頃北斎門人北周改名して雷周といふ者、祖母ぎんに孝行ゆへ、白銀三枚ぎんへ一人ぶちくださる、住    居ハ本材木町七丁目なり、此孝行之次第北斎かたよりたのミ来リ、梅塢主人とゝもにさくをなしけるが、    北斎かたよりとりにきたらず、一九がさくにて先へねがひにいでたる由、これらの故ニや〟    〈北周の雷周改名と祖母孝行で褒美を頂戴したという記事。梅塢は如実道人、荻野梅塢。喜多村筠庭の考証『瓦礫雑考』     (文化十五年(1818)刊)に序を寄せた人。その『瓦礫雑考』(『日本随筆大成』第一期二巻)の解題には「梅塢名は     長、字元亮、号は蛇山病夫とも称した。幕府天守番で、台教に精しく仏教学者として当時名を成していた」とある。     また、文政三年(1820)、平田篤胤の『仙境異聞』によれば、天狗にさらわれて仙境に遊歴したという寅吉の見聞を妄     説として退けた人でもあり、文政八年には名妓玉菊の墓誌『遊女玉菊之墳記』を残している。北斎が依頼した雷周の     孝行次第は、結局、十返舎一九の原稿が先になったようである〉    ☆ 文化九年(1812)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(文化九年刊)    十返舎一九画『世の中貧福論』前編 十返舎一九画・作 角丸屋甚助他板    ◯『狂歌波津加蛭子』〔江戸狂歌・第八巻〕宿屋飯盛編・文化九年(1812)刊    挿絵署名「一九画」     ☆ 文化十年(1813)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(文化十年刊)    十返舎一九画    『江戸名所図会』二冊 十遍舎一九画 西村源六他板(寛政十二年版の夷曲東日記と同本歟)    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕   ◇狂歌(文化十刊)    十返舎一九画    『江戸名所図会』一冊 一九自画 十返舎一九著 南総舎板     『江戸名所絵本』一冊 十返舎一九画 三陀羅撰 山田佐助板    ◯『狂歌関東百題集』〔江戸狂歌・第八巻〕鈍々亭和樽編・文化十年(1813)序    挿絵署名「十返舎一九画」「一九画」    ☆ 文化十一年(1814)    ◯「読本年表」〔目録DB〕   ◇読本(文化十一年刊)※角書は省略    十返舎一九画『絵本身延山利生記』十返舎一九作〈文化四年刊『甲州鰍沢報讐』の改題再摺本〉   ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②84(岩本活東子編・安政三年成立)   〝(本HP注、文化十一年春、墨亭月麿の書画会が行われた時、同席した十返舎一九が、『稗史通』の自    分に関する小伝中に、寺の門番をしていたという浮説を書いたのはけしからんと、著者・雪麿に抗議し、    二人は不和になる)三五日を隔て、予(本HP注、雪麿)が同門式麿が書画の会ありければ、此日たが    ひに出席して和睦をすることよからめと、式麿らがはからひにて(中略)和睦の盃をめぐらして、終に    に波風は納りぬ〟    〈不和の発端は、一九が記事の取材源を明らかにせよと雪麿に迫った時、雪麿が相手の迷惑になるのを案じて「ただ世     の浮説を聞たるまゝに書たり」と答えたことにあった。根も葉もない浮説を広められては生業の妨げになると、一九     は抗議したのである〉    ☆ 文化十二年(1815)    ◯「絵入狂歌本年表」〔目録DB〕   ◇狂歌(文化十二刊)    十返舎一九画『東海道膝栗毛画帖』二帖 十返舎一九画・作    ☆ 文化十三年(1816)    ◯『江戸小咄辞典』「所収書目改題」   ◇咄本(文化十三年刊)    十返舎一九画『弥次郎口』自作・自画    ◯『柳亭種彦日記』p155 文化十三年(1816)八月十五日   〝きのふ山平ミたて六歌仙のがくをもちきたる、おれハ揚弓場の女は小町ニ見たてたる也、京伝馬琴三馬    一九おのれニいま一人はさだまらず      雪の肌すきやちゝミに色見へて詠歌も六ッの花にこそいれ      小町にもはちぬ女か半面で 九十九中ハぬけめないこと    なおよミなをすへし〟    〈山平は板元山本屋平吉か。この六歌仙の趣向、もうひとつよく分からないのだが、山東京伝・曲亭馬琴・式亭三馬・     十返舎一九・柳亭種彦ともう一人、この戯作者六人を古今集時代の六歌仙にそれぞれ見立て、種彦の場合で云うと、     種彦は小野小町に見立てられ、そしてなおかつ種彦が揚弓場(矢場)の女を小町に見立てて「雪の肌~」の狂歌を詠     む、というのであろうか。山平が持参した六歌仙の額とはどのようなものか。記事には絵師名がないが絵入りではな     いのか。また、馬琴がこの種のものに狂歌を詠んだのであろうか。そしてもう一人は誰か。後年になるが、参考のた     めに『戯作六家撰』を見ると、安政三年(1856)の序で、岩本活東子は次のように擬えている。京伝・在原業平、馬琴     ・文屋康秀、三馬・僧正遍照、一九・大伴黒主、種彦・小野小町、もう一人は烏亭焉馬で喜撰法師に見立てている〉    ☆ 文政元年(文化十五年(1818))    ◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)   (「馬喰町」合い印「戯作者」)   〝一九  (号)十返舎  通り油町  重田与七〟    ◯『馬琴書翰集成』①105 文政元年(1818)十二月十八日 鈴木牧之宛(第一巻・書翰番号-19)   〝十遍舎、貴宅ニ止宿の折の雑話、不佞噂等、あらましの趣、汗顔仕候。一体一九とハ、ふかくも交り不    申候へども、気質ハ悪からぬ仁と見うけ申候。式亭などゝハ遙に立まさりて覚申候。如仰、一九ハ浮世    第一の仁ニて、衆人に嬉しがられ候故、遊歴の先々ニても、餞別の所得格別なるべし。そこらの手段ハ、    中々不佞などの不及事ニ御座候。彼仁ハ、寔に戯作一通りの仁ニ候。画も少々ハ出来候故、おのづから    愛相ニなり申候。但し、文人のかたには遠し。学者のかたにハいよ/\遠し。天晴の戯作者ニ御座候。    十遍舎ハ能を妬むことなく、おのれを錺り不申事ハ、尤賞すべき事ニ覚申候〟    〈引き合いに出された式亭三馬こそ迷惑な話であるが、馬琴は一九の人柄に対して遙かに好意的な印象をもっていたよ     うだ。馬琴にとって一九は無害というか、自分の領域を侵す心配のいらない人だったのだろう〉    ☆ 文政二年(1819)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕   ◇合巻(文政二年刊)※角書は省略    十返舎一九画    『万福きつねの嫁入』十返舎一九画・作    『今年青物語』   十返舎一九画・作 西村屋与八板    『怪談猫嫁入』   十返舎一九画・作    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(文政二年刊)    十返舎一九作『清談峯初花』初編〈最初の人情本とされる。挿絵に署名なし。後編は文政四年刊〉    ☆ 文政三年(1820)    ◯「合巻年表」〔目録DB〕   ◇合巻(文政三年刊)※角書は省略    十返舎一九    『恩愛猿犬敵討』十返舎一九〈作者名のみ〉    ◯「咄本年表」〔目録DB〕   ◇咄本(文政三年刊)    十返舎一九画『咄の蔵入』十返舎一九作・画    ☆ 文政四年(1821)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕   ◇絵本(文政四年刊)    十返舎一九画『夷曲ことし俵』狂歌 二冊 十返舎一九画 大湊舎田原船積編 六樹園序 伊藤与兵衛板    ☆ 文政十年(1827)    ◯「絵入狂歌本年表」   ◇狂歌(文政十年刊)    十返舎一九画    『狂歌絵入職人盡』一冊 十返舎一九画・作 森屋治兵衛板〔狂歌書目〕    『狂歌波津加蛭子』一冊 一向舎・一九・英山画 六樹園飯盛編(『狂歌毎月集』寛政十二年刊の解題本)〔目録DB画像〕     ☆ 文政十年(1827)     ◯「合巻年表」〔目録DB〕>   ◇合巻(文政十年刊)※角書は省略    十返舎一九画『寓談小夜時雨』十返舎一九画・作     ☆ 文政十二年(1829)       筆禍『神風和国功』(合巻)       処分内容 絶版             ただし、板元(岩戸屋喜三郎)・作者(十返舎一九)・画工(歌川貞房)御咎めなし       処分理由 幕臣諷刺    ◯『兎園小説拾遺』〔新燕石〕⑦68(著作堂主人(曲亭馬琴)編)       〝去己丑の春新板、十遍舎一九の草双紙、神風和国の功し、二冊物、蒙古入寇の事を作るといへども、高    橋作左衛門を諷して、素襖着たる武者の画に、剣かたばみを七曜の剣にしたれば、いかゞ敷由にて、同    年の春二月中、草紙類改名主より相達して、絶版せられ畢、此版元は地本問屋岩戸屋喜三郎也、但し、    板元作者等御咎めなし〟    〈己丑は文政一二年。文政十一年、長崎のオランダ商館医・シーボルトが帰国しようとしたところ、幕府天文方の高     橋作左衛門(景時)が、伊能忠敬の日本地図をシーボルトに写し取らせていたことが発覚。地図は幕府の禁制品で     あったことから、幕府にとっては大事件である。この合巻はそれを踏まえたものとされたのであろう。剣片喰(ケンカ     タバミ)は高橋景時の家紋、七曜は北斗七星だから、これで天文方の高橋景時を擬えたものと、改名主たちは判断し     たのであろうか。同年、高橋景時は獄死し、シーボルトは国外追放処分となった。2015/10/14追加〉     ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇滑稽本(文政十二年刊)    十返舎一九画『売色安本丹』三冊 十返舎一九画・作 西村屋与八他板     ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   ◇人情本(天保元年刊)    十返舎一九画『仇競今様櫛』初・二編 呉鳥斎主人画・一九一世画 紀山人(一九二世)作    ☆ 天保二年(1831)     ◯『藤岡屋日記 第一巻』p468(天保二年八月七日)   〝八月七日      戯作者十返舎一九卒    重田氏、名貞一、下谷土富店善龍寺に葬す、寺中東陽院檀越なり。      辞世 此世をバどりやお暇にせん香と           とも終には灰左様なら〟
   国貞画「十返舎一九像」 (早稲田大学「古典籍総合データベース」岩本活東子撰『戯作六家撰』)      ◯『増訂武江年表』2p84(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「天保二年」)   〝八月七日、戯作者十返舎一九終る(重田氏、名貞一、下谷どぶ店善龍寺に葬す。寺中東陽院檀越なり。    辞世、此の世をばどりやお暇にせん香とともにつひには灰左様なら)〟    ☆ 嘉永二年(1849)    ◯「咄本年表」〔目録DB〕   ◇咄本(嘉永二年刊)    十方舎一丸画『笑ひ袋』十方舎一丸自作・自画    ☆ 没後資料  ☆ 天保五年(1834)   △『近世物之本江戸作者部類』p44(曲亭馬琴著・天保五年成立)  〝十遍舎一九   生国ハ遠江也、小田切土州大坂奉行の時、彼家に仕へて浪華にあり、後に辞して去て、大坂なる材木商   人某甲の女婿になりしが、其処を離縁し流浪して江戸に来つ、寛政六年の秋の比より通油町なる本問屋   蔦屋重三郎の食客になりて、錦絵に用る奉書紙にドウサなどをひくを務にしてをり、その性滑稽を好ミ   て聊浮世画をも学ひ得たれバ、当年蔦屋が誂へて心学時計草といふ三冊物の臭草紙を綴らしめ、画も一   九の自画にて、寛政七年の新板とぞ、【この冊子の趣向ハ石川五老が思ひ起して、蔦重に説示せしを、   蔦重やがて一九に誂へて綴らしたりと云、時計草ハ吉原の昼夜十二時の事を綴りたり、文化中又六樹園   五老が吉原十二時といふ仮名文を綴りて、蔵板にしたり。頗るに一九が時計草のことき吉原の事を綴り   て心学と題せしハ、当時心学のはやりたる故のミにあらず、禁忌を憚りて紛らかせし也、当年心学と題   せし臭草紙多かりしハさる意味なきもみな流行によりて也】是その初筆也、この冊子頗世評よりしかり   しかば、是より年々に臭草紙の作あり、初は多く自画にて板したれども、その画拙ければにや、時好に   稱はず、故に後には皆別人に画せたり、かくて寛政の季に至りて、長谷川町なる町人某乙が家に入夫と   なりて数年在りしに、又其処をも離縁して妻を娶り、通油町鶴屋の裏なる地本問屋の会所を預りて、其   の処に住ひぬ。後の妻に女の子出生したるのミ、この女児二八の比より儛踏(ヲドリ)の師となりて、親   の生活(ナリハヒ)を資けしとぞ、みづからいふ、重田氏、名ハ貞一、しかれども人只一九を喚へるのミ、性   酒を嗜むこと甚だしく、生涯言行を屑とせず、浮薄の浮世人にて、文人墨客のごとくならざれバ、書賈   等に愛せられて、暇ある折、他の臭草紙の筆工さへして、旦暮に給しその半生を戯作して送りしハ、こ   の人の外に多からず、しかれども臭草紙に花(ケヤ)けきあたり作なし、只膝栗毛といふ中本のミ大(イタ)く   時好に称ひて十数篇に及べり、その名聞三馬に勝れるハこの戯作あるによりて也、文化の初め、絵本太   閤記に擬して化物太閤記といふ臭草紙を作りたるおん咎めにより罪あり、手鎖五十日にして赦されけり、   【この事ハ一九のミならず画工も多かり、そハ画工の部に録すべし】文政己丑の春三月の大火に会所も   類焼いたれバ、長谷川町辺なる新道の裏屋に借宅す、その比より手足偏枯の(疒+登)にて遂に起(タタ)   ず、天保辛卯の秋七月二十九に没す、享年六十七歳なり   附ていふ、一九が戯作の弟子に半九三九といふ二人あり、【その実名ハ聞知らず】師の没後に師の名号   を承嗣(ウケツガ)んとて争ひしが、半九ハ別に生業あれバ、戯作をせでもあるべしとて、一九の後家些か   黄白に易て一九の名号を三九に名のらすと聞にき、この事伝聞なれば詳なることをしらず、なほたづぬ   べし〟  ☆ 天保六年(1835)    ◯『後の為の記』(曲亭馬琴著・天保六年自序)   〝十返舎一九は女子ありて男子なし、戯作の弟子に師の名を冒すものあるのみ〟  ☆ 天保十二年(1841)    ◯『椎の実筆』〔百花苑〕⑪317(蜂屋椎園著・天保十二年序)   (「一九の墓并英泉の墓」の項)   〝一返舎一九の墓ハ、下谷どぶ店善立寺【日蓮宗】にあり。     心月院一九日光信士【天保二卯年八月七日】     辞世 此世をばどりやおいとまにせん香とともにきえては灰さようなら 十返舎一九〟  ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)    ◯『増補浮世絵類考』(斎藤月岑編・天保十五年序)   (「喜多川歌麿」の項)   〝歌麿の吉原年中行事を大いに流行す。作者十返舎一九が云、吉原の事を委しく書し文章故に行れしと云    ひければ、歌麿は絵組ゆへに行れしと互いに争ひ、大に取合となりし事ありしとぞ。是を以て察するに    大にほこりし人と見ゆ。    歿故の前、絵草紙問屋云合せ、歌麿必此度は病死すべしとて、各錦画板下を頼み、夥しき書物なりしと    ぞ。其頃は外に画者なきが如く用られし人なり。     因に云、月岑按るに、十返舎一九、画をなせり。自画作の草双紙多し。拙き画なれど膝栗毛全部の画    は略画にして、いさゝかの風韻あり〟  ☆ 天保末頃~弘化初年    △『戯作者撰集』p181(石塚豊芥子編・天保末頃~弘化初年成立、後、嘉永期まで加筆)   〝十返舎一九 寛政七乙卯年より    通油町書肆仙鶴堂が裏に住せり【初め橘町又深川佐賀町にも住居す】姓は重田、名は貞一、駿河の産    なりと云。俗称与七。    墨川亭曰、    一九、幼きとき市丸と呼ぶ。故に市を一に作り雅名とす。弱冠の頃、東都に出、或侯舘【一説に小田    切侯江都尹にておはせし時/その舘にて注簿たりしといふ】に仕へ、そのゝち大坂へ登り、彼地に住    て志野流の香道に称誉あり。十返舎の号は黄熟香の十返をとりて然よぶといへり。其頃のことにや、    並木千柳、若竹笛躬と倶に木下蔭の繰戯曲を編述したるよし。後、故ありて自ら香道に遊ぶ事を禁ず。    寛政六寅年、復び東都に来て始めて稗史両三部を著述して耕書堂が梓に上せて発市せり。天保二辛卯    年、病て没す。浅草土富店善龍寺【俗にぬけ寺と云】地中にて東陽院【墓石は惣乱塔裏門方より二側    目にて東三軒目】     戒名 心月院一九日光信士【天保二辛卯八月上旬七日】    石塔左り方に     辞世 此世をばどりやおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら    〈「寛政七乙卯年より」とあるのは草双紙(黄表紙)の戯作。「日本古典籍総合目録」によると、作画は寛政六年から     ある〉  ☆ 安政三年(1856)    ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②83(岩本活東子編・安政三年成立)   〝十返舎一九     重田氏、名貞一、通称与七といふ、駿河の産にして、居を橘町又深川佐賀町に占め、畢に通油町【書肆    仙鶴堂が裏】に移住せり、    墨川亭曰、一九幼き時、市九と呼ぶ、故に市を一に作り雅名とす、若冠の頃東都の出、或侯【一説に、    小田切君江都尹にておはせし時、その館にて注簿たりしといふ】に仕へ、そのゝち大坂へ登り、彼の地    に住て志野流の香道に称誉あり、十返舎の号は、黄熟香の十返をとりて然よぶといへり、其頃のことに    や、並木千柳、若竹笛躬と倶に、木下蔭の繰戯曲を編述したる由、後、故ありて自ら香道に遊ぶ事を禁    ず、寛政六寅年、復び東都に来りて、始て稗史両三部を著述して、耕雲堂が梓に上せて発市せり、天保    二辛卯年、病て没す、浅草土富店善竜寺【俗にぬけ寺と云】地中の東陽院に葬る、【墓所は惣乱塔裏門    方より二側目にて東三軒目】  (墓の図あり)心月院一九日光信士【天保二辛卯八月上ノ七日】    辞世 此世をばどりやおいとまにせん香とともにつひには灰左様なら 十返舎一九   (以下、文化十一年に発生した十返舎一九と墨川亭雪麿との騒動顛末記あり。発端は、前年、雪麿が書     き上げた『稗史通』(黄表紙作者略伝)の記事。一九漂泊中、寺の門番にもなりたることありとの内     容。これに一九が浮説として激怒し激しく対立する。が、程なく雪麿と同門の式麿の書画会で両者和     睦する由の記述あり。また一九の狂歌あり。略)〟
   国貞画「十返舎一九肖像」(早稲田大学「古典籍総合データベース」『戯作六家撰』)      〈『戯作者撰集』に同文あり。ただし戯作名の下に細書で〝寛政七乙卯年より〟とある。これは戯作の初出を意味する     のであろう。「国書基本DB」はこの年の一九自作自画の黄表紙を三点あげている。もっとも絵師としての登場は一     年早く、寛政六年のこと。『戯外題鑑』及び「国書基本DB」は黄表紙『初役金烏帽子魚』(山東京伝作・十返舎一     九画)を寛政六年としている。なお「木下蔭の繰劇曲」とは浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』のこと。一九は「近松余七」     を名乗りし由、注記あり。また「始て稗史両三部を著述して、耕雲堂が梓に上せて発市せり」は『戯作者撰集』には     正しく「耕書堂」(蔦屋重三郎)とある。『稗史通』は黄表紙作者の伝記で『戯作者撰集』の源流。この『稗史通』     の記事をめぐる騒動は墨川亭雪麿の項参照のこと〉    ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝狂歌戯画    (牡丹花省柏) 式亭三馬 十反舎一九 太田蜀山人 加茂季鷹 宿屋飯盛 曲亭馬琴 山東京伝 暁鐘成〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループの左右筆頭   〝雅俗遊戯    (近松門左衛門)曲亭馬琴 浮世又平 式亭三馬 十返舎一九 太(ママ)田蜀山人      英一蝶斎   耳鳥斎  宿屋飯盛 市川白猿 浅草菴 暁鐘成(岩佐又兵衛)〟  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『浮世絵師便覧』p203(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝一九(シ)      駿河の人、重田氏、名は、貞一、俗称與七、十返舎と号す、戯作の大家、よく自作の草双紙を画く、    天保二年死、膝栗毛の作最著はる〟    ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『名人忌辰録』下巻p31(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝十返舎一九 酔斎    名貞一、通称重旧(*ママ)与七、幼名幾五郎。天保二卯年八月七日歿す、歳六十八。浅草土富店善龍寺地    中東陽院に葬る。      辞世 此世をばどりやおいとまに線香のけむりと共にはい佐様なら〟      ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(50/103コマ)   〝十返舎一九【寛政元年~十二年 1789-1800】    姓は重田、名は貞一、通称与七、幼名を市丸といひて、駿府の町同心重田与八郎の三男なり、年稍(や    や)長じて江戸に出で、小田切土佐守に仕へて小吏となり、主の大阪町奉行を命ぜられし時、一九も共    に大阪に到りしも、放蕩無頼にして吏務を理(おさ)めず、遂に職を辞して、同地の材木商人某の女婿と    なりしが、間も無く離縁せられしに因り、再び江戸に帰りて、寛政の末、長谷川町の市人某の家に入夫    したりしが、是れまた幾程もなくして離縁せられき、大阪に在りしとき、志野流の香道を学びたり、後    ち故ありて全く廃せりと雖も、十返舎の号は黄熟香の十返をとりて、然(し)か名づけたりと云ふ、寛政    六年の秋とかや、通油町の地本問屋蔦屋重三郎の食客となりて、錦絵に用ゐる奉書紙に、明礬を引く役    なそ務め居るうちに、文才ありて浮世絵の心得もありしより、自画の草双紙を出版したるに、頗る世評    よろしかりしを以て、是れより専ら戯作の筆を把(と)れり、その『膝栗毛』は最も世に行はれて、一九    の名は遠近に聞えぬ、同書の挿絵は一九自ら画きしものなり、天保二年辛卯七月廿九日没す、享年六十    七、浅草土富店善立寺内東陽院に葬る、辞世の狂歌に      此世をばどりやお暇(いとま)にせむ香と ともにつひには灰左様なら    一九の没せる月日を『列伝体小説史』には、前のごとく記せりと雖も『戯作者略伝』に出たる、一九が    墓碑の図面には、心月院一九日光信士、天保二年辛卯八月上ノ七日とあり、また現今東陽院にある所の    墓碑には、天保二年卯八月八日とありと云ふ、最も『戯作者略伝』に図せる墓碑は何時か失せたるを、    後に現今の墓碑を建立したるものなるべし、昔の墓碑と今のものとは、大に相違する所あり〟  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯『滑稽百話』(加藤教栄著 文学同志会 明治四十二年十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇十返舎一九   〝十返舎死後の戯れ(45/123コマ)    十返舎一九死にのぞみて、沐浴せしめずして直に火葬せよと命ず、門人等よつて火を点ぜしに、櫃炎々    として燃えあがりしと共に、数個の流星爆声と共に屍中より迸りいでしかば、会葬者皆愕然として驚き    ぬ、一九在世中の戯らにあきたらず、死してまでも戯らせんとて、予め児戯に供する煙火を懐にせしな    り、其の辞世に曰く     此の世をばドリャお暇に線香の/煙となりてハイ左様なら〟   〝十返舎一九借衣にて年礼す(101/123コマ)    十返舎一九常に赤貧にして筆始の衣服なし、即ち一策を案じ出し、一月元旦朝湯を調へおきて、早々年    礼に来りし某へ頻りに入湯を進め、客の衣を解いて浴室に入るや、その脱ぎたる衣服をそのまま借着し    て内を飛び出し、客の未だ風呂よりいでざる先きに、近所五六軒の年礼をすます〟  ☆ 昭和以降(1868~)  ◯「日本小説作家人名辞書」p758(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝十返舎一九    重田貞一    幼名幾五郎、通称市九のち與七と改む。酔斎、十遍舎、十偏舎、十偏斎等の号がある。明和元申年(17    64)に生る。父は駿府町奉行の勘定役であり、父の死後は一九これを継いだが、豪宕不羈な彼には、そ    の職に長くとゞまるを得ず、弟にゆづりて自分は諸所に転じ遂に江戸に上る。蔦屋重三郎の食客になつ    てゐた事もある。滑稽本に成功した。又狂歌も浮世絵もよくし黄表紙には自作自画のものが多い。性淡    泊で生理の道を知らず、常に貧苦に追はれてゐたが、少しもそれにとらはれる事なく、僅に銭あれば酒    を飲み、平素一文の蓄へもなかつたといふ。住所も一定せず所々に移る。天保二年(1831)八月七日歿、    享年六十七。名人忌辰録六十八。浅草上(ママ土)富店善龍寺地内東陽院に葬る〟    ◯『浮世絵師伝』p5(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝一九    【生】明和元年(1764)  【歿】天保二年(1831)八月七日-六十八    【画系】         【作画期】寛政~文政    駿河府中の人、重田氏、名は貞一、俗称与七、幼名を幾次郎と云ふ、弱冠の頃江戸に出でゝ某侯に仕へ    しが、後ち辞して大阪に赴き、彼地にて志野流の香道を学び、又、狂言作者となりて一時近松余七と称    しき、寛政五年(三十歳)頃再び江戸に復りて、専ら戯作に従事し、併せて画筆を執れり、斯れば自画    自作の草双紙類甚だ多く、又若干の一枚絵をも出したり、一九の号は即ち戯作と作画とに併用せるもの    にして、別に一丸(或は市丸)・醉翁・十返舎・十遍斎等の号あり、彼の傑作として世に周く知られた    る『東海道中膝栗毛』は、当時(文化年間)旅行趣味を鼓吹する上に多大の効果ありしのみならず、延    ひて浮世絵風景画に及ぼし、間接の影響も亦尠からざりしなり。    彼れは江戸に於ては、初め橘町に住し、それより深川佐賀町に移り、最後に通油町に転居せしと云ふ。    辞世に曰く「此世をばどりやおいとまにせん香と共につひには灰左樣なら」 法名を心月院一九日光信    士とし、淺草善龍寺地中東陽院に葬りしが、墓石は墓地整理の爲め先年千住飛地へ移されたり〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)       ◇「寛政六年 甲寅」(1794)p156   〝十返舎一九の処女作『初役金烏帽子魚』に現はる〟    〈『初役金烏帽子魚』は山東京伝作・一九画〉        ◇「文化一〇年 癸酉」(1813)p184   〝正月、十遍舎一九自画作の『絵本江戸名所』出版。    五月、辰斎・一九・柳斎・辰湖・京伝・三馬・北嵩・北馬・北寿・俊満・辰光・辰一・辰暁・秋艃の挿       画に成れる『狂歌関東百題集』出版〟     ◇「天保二年 辛卯」(1831)p209   〝八月七日、十返舎一九歿すう。行年六十八歳。(十返舎一九は駿河の産にして江戸に住し、戯作者を以    て名あり、膝栗毛は実に其の作なり。浮世絵を画き『江戸名所』はその傑作なり。寛政の頃自作の黄表    紙に多く画けり。画は拙にして栄水・一雅と同格なり。姓は重田氏、名は貞一、通称与七、幼名幾次郎    といふ。十偏舎又十返斎とも号せり)〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年(1940)序)   「京橋区」東陽院(月島一一ノ五)日蓮宗   〝十返舎一九(戯作者)本姓重田與七、初め黄表紙本を書きたるも時好に投ぜず、依て滑稽本に筆を転じ、    享和二年道中膝栗毛を出して名声上る。それより諸国を遊歴して、金の草鞋、一九が紀行等の滑稽本を    作る。又画を能くし、黄表紙には自画のもの多しといふ。著述実に三百余種あり。天保二年八月七日歿。    年六十七。心月院一九日光信士。     辞世、此世をばどりやおいとまに線香と共に終には灰左様なら〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔十返舎一九画版本〕    作品数:187点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)          〈作品総数は617点であるが、ここでは自作自画作品のみ対象とした〉    画号他:重田・貞一・一雅・十遍斎・十偏舎・十遍舎・十返舎・十辺舎・十扁舎・近松与七・        桃猿舎犬雄・道楽山人・重田貞一・十偏斎一九・十返舎一九・十返舎・十遍斎一九・        一九・十偏舎一九・十遍舎一九・十扁舎一九・十徧舎一九・十辺舎一九・重田一九・        一九老人    分 類:黄表紙139・合巻16・咄本10・洒落本10・滑稽本8・読本1・狂歌3・        絵画1・絵本1    成立年:寛政7~13年(98点)        享和1~4年 (42点)        文化1~7・9~10・12~13年(32点)(文化年間合計33点)        文政2~5・10・12年(7点)   (一雅名の作品)    作品数:1点    画号他:一雅    分 類:黄表紙1    成立年:文化3年序         『青嵐柳の下蔭』黄表紙・十返舎一九作・一雅画・文化三年(1806)自序   (桃猿舎犬雄名の作品)    作品数:1点    画号他:桃猿舎犬雄    分 類:洒落本    成立年:文化年間        『夜鄽行燈』洒落本・桃猿舎犬雄作画・文化年間刊  
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