藤岡屋日記・慶応年間

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         『藤岡屋日記』〔慶応元年(元治二年)~四年(1865~1868)〕    ◯ 慶応元年(元治二年)(1865)『藤岡屋日記 第十三~十四巻』     ◇仏国万国博覧会 ⑬436   〝慶応二寅年二月廿八日 町触      仏国博覧会ぇ可差送品書    男女、木綿又ハ絹手袋・足袋・襟巻・織物各種・麻絹・酒類・醤油・油類・茸菌陰食物類・烟草・茶・食    物ニ用る粉・餅数種・野菜もの・菓子之見本・留製之飲物・唐銅・水晶・不二石・紋石・瑪瑙石・其候堅    石各類・建物之雛形・紙之木各種・油製する木・木綿・柏之一旨(ママ)・并桑見本・木綿・日本産之穀之各    種・半故(ママ)麻・芋・菜種・栗・懐中物・烟草具・彫根付・団扇・男女化粧道具・鏡・駕籠類・人形・楽    器・楊弓・花(空白)・塗物各種・錦絵・下駄・雪駄類・飯道具・絵本・独楽・屏風・懸物・釣鐘・農具    ・画図・鋳物細工・画帖・画巻物等・象牙(空白)等之彫刻物・細工花面紙・絹地・木葉へ認し画・手記    等之書冊・木判之書籍・字印を記金(空白)之数書筒紙(以下略)〟      ◇春画 ⑬465   〝三月廿三日 町触     今日拙者共、北御番所ぇ御呼出し有之、罷出候処、今般仏国博覧会ぇ御差出しニ相成候品之内、近世浮世    絵豊国、其外之絵ニて極彩色女絵、又ハ景色にても絹地へ認候巻物画帖之類、又ハまくらと唱候類ニても、    右絵御入用ニ付、売物ニ無之、所持之品ニても宜、御買上ニ相成候義ニは無之、御見本ニ御覧被成度候間、    早々取調、明後廿五日可差出旨被仰渡候間、御組合内其筋商売人手許御調、同日四ッ時、右品各様御代之    衆ぇ御為持、所持主名前御添、北御腰掛ぇ御差出可被成候、無之候ハヾ、其段同刻、御同所迄御報可被成    候。     三月廿三日                                 小口世話掛      右、古今異同を著述    夫、わらい本ハ春画と言て、戦場ニて具足櫃ぇも入候品ニて、なくてならぬ品ニ候得共、若き男女是を見    る時ハ、淫心発動脳乱して悪心気ざす故ニ、此本余り錺り置、増長する時ニハ御取上ゲニ相成、御焼捨ニ    相成候、其品が、此度御用ニて御買上ゲニ相成、仏蘭西国ぇ送給ふ事、余りニ珍敷事なれバ、      母親の子に甘きゆへ可愛がり末ハ勘当する様になし〟     ◇錦絵 ⑬507   〝慶応二丙寅年四月十八日 町触                      世話掛 名主共    錦絵と唱、哥舞妓役者・遊女・芸者等を壱枚摺ニ致し候義、風俗ニ拘り候筋ニ付、以来開板は勿論、是迄    仕込置候分も、決て売買致間敷旨、其外絵草紙類、無益之手数不相成様、天保十三寅年申渡置候処、近来    哥舞妓役者似顔絵開板致し、其外高直之錦絵売出し候由相聞、以之外之事ニ候、是まで仕入候分売買差止、    都て絵草紙類、彩色摺方等手数相掛、高直ニ売出し候義致し間敷旨、名主共支配限、其筋渡世之もの共へ    不洩様申聞、急度取締相立候様可致。    右の通り、今日、当御番所へ被召出、被仰渡、奉畏候、仍如件。     (中略)     佐野松の風役者絵を吹飛し団扇や迄を種をすり本〟     ◇見世物 ⑭204   〝慶応二丙寅年九月      亜墨利加国持渡之道具芸名    足芸曲持、浜碇定吉番組荒益之分    同 三挺階子曲乗芸    同 大幟曲持上乗之芸    同 崩階子上乗之芸    同 壱本竹上乗之芸    同 大半切桶曲持之芸    同 石台曲持、水風呂桶曲持    同 家内喜樽曲持、大障子曲持    同 数小桶上乗之芸、但是をはねむしと云      〆拾壱番          手品遣、隅田川浪五郎芸名荒増分    一 三番叟操消人形  後ニ替り二間四面之幕ニ相成申候    一 唐子人形     同 頭壱尺五寸達磨ニ相成申候    一 替り人形     後ニ替り龍灯    一 叶福助人影    同 替り高サ五尺おかめ形    一 武楽(ママ)之舞   同 花車高サ二尺造り物ニ相成も候    一 ぜんまいからくり 同 傀儡師人形    一 ぜんまいからくり 大和駕籠小鳥の娘(ママ)入    一 千寿万寿の玉水からくり    一 淀川連の水からくり 一蝶之曲    一 丸竹の上一本下駄ニて渡り    一 平障子崩渡り 後ニ中骨一本ニ相成候、上へ居、手品遣    一 二重花台からくり     一 天地八声蒸籠    一 四ッ綱石橋獅子狂ひ    一 平綱渡り     但、此外番数有之候へ共、略之         松井菊次郎、独楽番組    一 大独楽一ッ   但、一尺八寸、目方五〆五百目    一 麻之紐     但、目方一〆七百目    一 羽子板曲独楽 天満宮当物独楽    一 万灯四方開之之中より(鶴牡丹)罷出申候 但、竪二尺、横一尺五寸     一 石橋渡り階子  但、丈四尺二寸四方    一 富突入形独楽  但、ぜんまい仕懸、丈七尺、横三尺四方    一 大独楽 此独楽二ッニ割候へば、此内より壱尺五寸娘つね罷出、所作仕候、此度新工夫    一 浦嶋太郎人形独楽 但、丈ノ(ママ)五尺、横四尺    一 閑子鳥四方ひらき 但、丈七尺、横巾二尺五寸四方    一 駕籠抜独楽   横四間半、竪一尺    一 時計独楽    丈七尺、横二尺五寸    一 刀刃渡之独楽・提灯独楽壱尺    一 後段独楽五ッ  大サ六寸五分     右芸名荒増之分、如此五坐候〟    〈次項に浜碇・隅田川・松井の給金が出ているので、以下示しておく〉    足芸曲持、新吉原京町二丁目 吉兵衛店 浜碇定吉   三十五才 三千五百両(二年)    手品遣い、寛大相生町 源蔵店     隅田川浪五郎 三十七才 千五百両(一年)    独楽廻し、浅草龍宝寺門前、茂兵衛店  松井菊次郎  三十才  七百両(一年)     ◇金銀銭相場 ⑭237   〝慶応二丙寅年     世の中金銭位定    むかしの小判      壱両が三両一分     国持大名    いまの小判       段々ちいさくなる    御譜代御(空白)    むかしの二歩金     大きいが直がならぬ   御三家方    金の【二歩金/二朱金】 だん/\ちいさくなる 【御旗本/御家人衆】    通用の【一歩銀/一朱銀】だん/\性がわるく成 【御老若/小役人】    天保銭         百が三十二文になる  【物持町人/御用達・名主】    寛永青銭        四文が十二文      横浜商人    文久銭         四分が八文ニ成     田舎の物持    むかしの文銭      一文が六文に成    【鉄砲鍛冶/武器職人】    四文の鉄銭       いつも日々損でつまらぬ 江戸の小商人    壱文の鐚銭       一文がいつも一文    宿なし非人〟    ◯ 慶応三年(1867)『藤岡屋日記 第十四~十五巻』     ◇諸色高値 ⑭458   〝慶応三丁卯年春      諸色高直咄し    当春ニ相成、益々諸色高直ニて、御米が百文に壱合壱勺、酒が壱合二百文、油が壱合百八十三文、右故、    薪木高直ニ付、湯銭が三拾二文、蕎麦屋も段々直上ゲ之上ニ、五拾文ニ相成候ニ付      十六が三十二になり片付かず五十に成てまだこもり也〟             ◇三不思議 ⑮158   〝慶応三丁卯年夏    当年絶て無之三不思議      七夕祭りの作りもの     牽牛も織女も出逢なかりしや七夕祭りの作りものなし      両国の花火     大花火玉や/\の声もせず鍵屋もあごが掛てぞ居る      三途の老婆     旅籠銭高ひにこまり婆アさまも十万億土出てもこられず    当年まだ/\絶てこれなきものハ、江戸中にて娘子供の盆おどりなり     〽盆ん/\ハけふあす計り あしたハ嫁のしほれ草/\     〽霑(シホ)れた草を矢倉へあげて 下からみれバぼけの花/\       盆ん/\ハ今日あすならぬ大旱魃稲も霑れてかれる雨乞〟     ◇戊辰戦争絵 ⑮505   〝辰ノ三月、爰ニ面白咄有之    此節官軍下向大騒ぎ立退ニて、市中絵双紙屋共大銭もふけ、色々の絵出版致し候事、凡三十万余出候ニ付、    三月廿八日御手入有之。      右品荒増之分     子供遊び 子取ろ/\  あわ手道化六歌仙〟
   「幼童遊び子をとろ子をとろ」 広重三代戯筆(東京大学総合研究博物館「ニュースの誕生」展)
   「幼童遊び子をとろ子をとろ」二枚組・右図 左図(東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)
   「道化六歌仙」二枚組・右図 左図 署名なし (東京大学史料編纂所「維新前後諷刺画 一」)      〈二図ともに戊辰戦争に取材した諷刺画である。慶応四年二月に出版された「幼童遊び子をとろ子をとろ」は、子供たち     の着物の意匠から、右図が薩摩を先頭とする官軍側を、左図が会津・桑名等の幕府側を表しているとされる。また遊び     を後ろで見ている姉さんが皇女和宮で背負っているは田安亀之助、また官軍側最後尾の長松どんは長州で背負っている     のが明治天皇と目されている。「子をとろ」は現代でいう「花いちもんめ」であるが、それで戊辰戦争を擬えたのであ     る。同年三月刊の「道化六歌仙」の方はそれぞれ長州・薩州・勅使・和宮・輪王寺宮・田安を擬えたとされる。図の上     「善」の面を付けたものが持つ扇に「清正、黒ぬり、七五三」等の文字が配されているが、何を暗示するのかよく分か     らない。ところで「道化六歌仙」の右図には興味深い書き入れがある。「慶応戊辰四月三日購賈貳伯拾陸孔」とある。     「道化六歌仙人」を216文で購入したというのだ。これは随分高い。これを書き込んだ所蔵者は四月三日に入手してい     るのだが、その前の三月廿八日に町奉行の手入れがあったためであろう。評判と入手困難とで高騰したものと考えられ     る。ではもとの小売り値段はどれくらいだったのであろうか。     『藤岡屋日記 第十四巻』慶応三年の記録に「蕎麦屋も段々直上ゲ之上ニ、五拾文ニ相成候ニ付 十六が三十二になり     片付かず五十に成てまだこもり也」(p458)とある。天保の頃16文だった蕎麦がこの時期には50文にも値上がりし     たというのである。この天保の頃16文は一枚絵も同じ。天保十三年十一月晦日の通達には「売直段壱枚拾六文已上之品     可為無用」、つまり一枚16文以下にせよとある。一枚絵をそばを同列に論じられるかどうか心許ないが、今仮に準じて     みると、この頃は一枚絵も50文位ということになる。それが30万余の出回ったというのである。上記二図で30万という     ことでなく、戊辰戦争絵のような時世を題材とする一枚絵の総数をいうのであろうが、それにしても大量である。この     二図でいえば、発売が二月と三月、手入れが三月末、わずか一、二ヶ月である。さて売り上げを見積もってみよう。50     文が30万部で1500万文。これを明治二年(とはいえ翌年のこと)新政府が定めた1両=10貫文=10000文を、これまた     便宜上当てはめると、ちょうど1500両になる。30万という数にどれほどの信憑性があるか確かめるすべもないが、それ     にしても莫大な売り上げである。まして二枚組100文の売り物を官憲の手入れの後216文も出して求める人もいるのであ     る。摺り溜めていたものを隠し持っていて売るものにとってはボロ儲けである。時世を題材とするものは板木没収・過     料・江戸払い・財産没収などの危険と隣り合わせであるが、当たればこれだけの利得をもたらすのである。諷刺画は金     のなる木であった〉