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画人伝-明治-東京古跡志(とうきょうこせきし)浮世絵事典
 ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『【高名聞人】東京古跡志』(一名『古墓廼露』)微笑小史(大橋義三)編集・出版 明治三十一年六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ※(原文は漢字に振り仮名付だが、本HPは取捨選択、半角括弧(かな)で示す。◎は不明文字)       〝一勇斎国芳 (浅草)高原町 大仙寺 (20/119コマ)    三枚続き武者絵の家元、近頃盛に行はれし、芳年といひ芳虎といひ、皆此門より出でたる者、実に此派    の開山と云ふべし、今日よりして観ればこそ、甲冑の故実など皆無なれど是其時勢の然らしむる所にて、    敢て此人のみの事に非ず、此人固より一箇の侠客(きをい)にて読書などせし者にあらねば、是を責るは    酷と云ふべし、されば亦其活達の図に至ては、最も得意の技量を見る、或時両国万八楼の書画会に、国    芳大酔興に乗じ、いで衆人を驚ろかしくれんと坐中の墨汁(すみ)を皆摺鉢に集め、一(いつ)の大なる帚    に浸し、満坐の客を廊下に退かしめ、数十畳の敷紙(しきかみ)へ水滸伝中有名の事跡たる、花(くわ)和    尚魯智深と九紋龍史進が、雪中奮闘の一大画を為せしかば、満場の喝采暫しは已ざりしとぞ、並の墓に    戒名四つ識しある内、深修院注山居士とあるがそれにて下の台石に井草と刻す〟    〈国芳の席画記事としてよく知られているのは、嘉永六年六月二十四日に行われた梅の家秣翁(鶴子)の書画会における     パフォーマンス。斎藤月岑の『武江年表』によれば、国芳は畳三十畳ほどの渋紙に九紋龍史進の憤怒の像を画いたと     ある。然るに、この微笑小史の伝える挿話は、同じ両国柳橋でも河内屋ならぬ万八楼であるし、題材も同じく水滸伝     とはいえ九紋龍史進単独ではなく花和尚魯智深との「雪中奮闘」とあるから、別のものなのであろう。戒名正しくは     「深修院法山国芳信士」〉   〝長谷川雪旦 (浅草)田圃 幸龍寺 (21/119コマ)    名は宗秀、一に一陽菴とも云、斎藤彦麿の頼みを受け、江戸名所の図を画くを請(うけが)ひ、諸所真景    写しあるきし内、御茶水の景には最も心を用ひ、同所の鰻屋守山の二階にて、良(やや)久く図を取り帰    りしに、其夜同家に盗賊の難ありしかば昼の客人こそ怪しけれと、早速訴へたるまゝに、忽ち縄にかゝ    りて番屋に引れしが、こは真景縮写の為めなりと、段々訳を述しかば、漸く赦さる事になれり、されば    鰻屋守山方にては、大に気の毒の思ひを為(な)し、為めに一日同楼にて、盛んなる会を開きしとぞ、正    面に長谷川氏代々之墓として左右に五つ戒名ある内、初めに巌岳斎長谷川法眼雪旦としてあり〟    〈「斎藤彦麿」は斎藤月岑が正しい。お茶の水の鰻屋の挿話は嘉永3年(1850)起筆の『古画備考』や明治17年(1884)刊『石     亭雅談』が伝えている。戒名「巌岳斎長谷川法眼雪旦居士」〉   〝高嵩谷 (浅草)新堀 西福寺 (25/119コマ)    浅草観音堂に掲げし、頼政の額にて頗る名高し、墓の正面篆書にて横に高家親眷とし、竪に逝水元朕楽、    邦何東西咄と二行に識し、台石に屠龍翁と刻せり、此人の師嵩之が墓は誓願寺中称名院にありし由なる    が、如何しけん今不見〟    〈嵩谷の師は佐脇嵩之〉   〝歌川豊春 (浅草)松山町 本立寺 (32/119コマ)    浮世画歌川派の元祖、四つ並べし戒名の中、歌川院豊春日要信士とある通常の石〟(32/119コマ)   〝立斎広重 (浅草)松山町 東岳寺    本名は安藤徳兵衛と云し由なるが、台石には田中とあり、何せよ浮世画にて真景をかき初めし人とて、    折々尋ぬる者ありと見へ、札を建て表しあり、戒名四つ並べし中、顕功院徳応(ママ)立斎信士と云が是也〟    〈戒名正しくは「顕功院徳翁立斎信士」〉   〝鳥居清満 (浅草)永住町 法成寺 (33/119コマ)    鳥居風と云て、今猶芝居の招牌(かんばん)に、其流伝へて衰へず、墓は大勢合葬にして、先祖代々と上    に刻す〟   〝葛飾北斎 (浅草)永住町 誓教寺 (33/119コマ)    筆力剛健一種の面白味、実に画人中の一豪傑、容斎すら一時は是に学びしほどの事、今や盛(さかん)に    世に行はる、亦ゆへなしとせざるなり、本名は中島八右衛門又鉄蔵とも称したり、台石に川村氏とある    は、何の訳か未だ考へず、右の横に「ひと魂でゆく気散じや夏の原」と誌し、正面は即ち前に挙げたる    図の通り、(p35図「画狂老人卍墓」「川村氏」)因みに云ふ其画号、一に戴斗と唱へ、又或は俵屋宗    理の名を嗣て、二代目宗理といひし事もあり、然(しか)して晩年に至ては、北斎の名を橋本庄兵衛と云    者に譲り、戴斗は近藤伴右衛門と云ふに譲りぬ、されば其後の画には、自ら前北斎とせしもの、今も世    に多くあり、世人或は疑ふものあらんかと、特に聊か考証するになん、北斎漫画数巻あり、今専ら世に    行はる〟   〝渓斎英泉 (四谷)伊賀町 福寿院 (58/119コマ)    通称は善次郎、一つに一筆菴と云、馬琴が小説中年以後は、多く此人の挿画に成れり、その辞世の「い    ろどれる五色(ごしき)の空にのりの道(みち)心にかゝる隈取(くなどり)もなし」と云は、実に画師の辞    世に不負(そむかず)と云ふべし、三つ並びし内、真中の石に渓斎池田英泉、渓琳妙声大姉と並べ刻す〟   〝一陽斎豊国っl (三田)聖坂 功運寺 (73/119コマ)    真中に得妙院実彩麗毫信士としてあるが、即ち初代の名人豊国、左右に亦豊国院貞匠画僊信士、三香院    豊国寿貞信士とあるは、三代目までの戒名を、只供養の為め誌せしなり、右の横に大きく、歌川豊国事    と表してあり〟    〈「豊国院貞匠画僊信士」は初代国貞(自称は二代目豊国だが三代目)、「三香院豊国寿貞信士」が四代目豊国(二代国貞)〉   〝二代一蝶 (深川)寺町 陽岳寺    一に長八一蝶と呼れし画家、墓面には機外道倫信士としてあるが、余の見し時は台石より落てありき〟    (81/119コマ)   〝司馬江漢 (深川)猿江 慈眼寺 (82/119コマ)    通称は勝三郞とて、初め浮世絵を為(な)せしが、後長崎に行き油絵を学び、遂に我邦油画の祖と称せら    るゝに至る、其他天文暦数等にも頗る得たる所ありしと云ふ、一生の履歴様々にて随分奇行多かりし様    子、若き時至て貧く暮し、負債余多(あまた)生じたるが、とても返すべき目的(あて)無きまゝ、頓死せ    しと言触し、いづくへか隠れ居たりしに、一日(ぢつ)とある町中にて、借のある人に出遇ひしかば、驚    ひて横町へ逃込みし処、其人猶追来り、返せぬならばそれで可(よ)きが、一言の辞もかけぬとは余り甚    だしからずやと尤(とが)めけるに、江漢漸くふり顧り、死(しん)だ者が何でまた、辞をかける事出来や    うやと、言(いひ)捨(すて)て猶逃げたりとなん、細長き石にて、江漢司馬峻之墓と刻し立てり〟   〝香蝶楼国貞 亀戸 光明寺 (90/119コマ)    五つ目渡船場(わたしば)に住て居たるゆへ、一に五渡亭とも名乗りたり、晩年豊国の名を嗣(つぎ)しゆ    へ、戒名六つの中三番目に、豊国院貞匠画僊信士と誌し、台石に大きく歌川と彫つてあり〟     〝酒井抱一 (築地)西本願寺本坊 (91/119コマ)    一に雨華菴とも号せり、大名にして此位の名手は古今稀なる事とす、且其身の貴人なるに似気(にげ)な    く、真率を以て人に接せられし事、亦以て多とするに足る者あり、或時何か認(したゝ)め物して居られ    し処へ、亀田鵬斎初(ママ)め数人の名士、ふと尋ね来りしゆへ、画きながら話などして居られけるに、向    (むかひ)の窓より風吹入(いつ)て紙屡々動きけるにぞ、鵬斎の方を顧みて、一寸其紙の端、押へてくれ    られよと言はれけるに、応(おう)と答へて鵬斎其紙に乗り、膝にて端を押へければ、こは無礼の振舞な    りと、一坐皆驚きけるに、抱一少しも意と為さず、御苦労/\と言ながら、其一枚を画き終り、あとは    談笑に余念も無かりしにぞ、鵬斎が剛気貴人に屈せざると、抱一が雅量小事を咎めざると、実に一対の    事なりとて、時人並べ称せしと云ふ、墓は表門前の通り細き道の右手、丸形の細長き石にて、等覚院文    詮墓と誌しあり〟   〝英一蝶 二本榎 承教寺 (94/119コマ)    是ぞ即ちかの朝妻船の図を画き、嫌疑を受て流罪と為りし、有名の初代一蝶にして、寺中顕乗院に属せ    る地の方に在り、正面には北窓翁一蝶墳(つか)と題し右の横手に「まぎらはす浮世の夢のいろどりも    ありとや月の薄墨の空」と名代の歌あり、さて就(つい)て今一寸一言せんに誰も知る如く朝妻船の図と    云(いふ)は、近江国朝妻の渡しなる、遊女の体を画きしなるが、てうど時の大将軍綱吉公、愛妾於伝の    方を伴ひ、吹上泉水に船遊びせられし由、風聞屡々ある折なりしかば、暗に是を当付(あてつけ)たりと    云嫌疑にて、遂に流罪と為りたりとは、従来伝へし所の説、然る処亦又近頃或人の説には、当時最も禁    制なりし、不受不施教と云ものを、彼専ら主張せしに拠(よれ)りとも云ひ、未だ孰れか是なるを知らず、    但し其前名は、多賀長湖といひしなるが、其三宅島に在りける折、蝶の一つ飛来りし夢を見たるに、間    もなく赦免の状来りしかば、是より一蝶と云号を附けしとは、こは先づ異論無き所の説なるべし〟     〝喜多武清 二本榎 清林寺 (94/119コマ)    号を可菴といひて文晁門下屈指の名手、其没せんとするに及び、詠じたりし辞世と云は「来て見れば二    本榎もおもしろし噺の友は其角一蝶」因て此に葬りし由、墓面には同玄院幽誉可菴武清居士、映玄院遍    誉智清大姉と並べ書し、台石に右の辞世を刻す〟   〝佐脇嵩之 (浅草)誓願寺中称名院 (104/119)    かの名高き嵩谷が師たりしほどの画伯にて、着色物などには頗る佳作ある人なりが、是も今当寺に無し、    或は焼けしならんとも云ふ〟