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画人伝-明治-見ぬ世の友(みぬよのとも)浮世絵事典
 ☆ 明治三十三年(1900)  ◯『見ぬ世の友』巻一 東都掃墓会 明治三十三年六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝堤等琳墓    佐藤松民拝掃     深川 道本山霊巌寺中 松露窟に在り 総高五尺許    (表)「東琳堤先生之墓 寛政十二年 歳在庚申◎六月十有七日卒」    (裏)「寛政十二庚申年六月十七日 鶴誉雪山等琳居士        文化五戊辰年十一月十七日 瓊誉宝琳信女」    等琳は堤氏、通称孫二、雪舟派の画裔と称す、後ち一派を立て、安永天明年間より大に市中に行はれ、    幟画祭礼の燈籠画等、専ら此風を選ぶに至れり、筆力雄強にして当時町画師と称せらる、嘗て耳疾を患    ひ聴を失す、故に人呼て聾等琳と云、寛政十二年六月十七日没す、享年詳ならず、深川霊巌寺に葬る、    墓は南方総卵塔の中、孤松の下に在り     松民云、此松露窟といふは霊巌寺第二世珂山上人の弟子珂碩上人【奥沢久品仏開基】の住せし寮にて、     普通には珂碩寮と唱へしが、明治維新の後廃寮と成りて双樹寺と云に合併せり、◎等琳の家は子孫泯     滅して墓前香花絶たりと、双樹寺住職の談なり〟(巻1-5 8/55コマ)   〝尚左堂俊満墓  絵馬屋拝掃 明治三十三年五月二十八日     浅草黒船町 浄土宗正覚寺 総卵塔中央にありて竪石にて惣高さ五尺位    (表)「善誉尚左俊満居士 文政辰三年九月廿日        相誉善心妙月大姉 文化十四年丑年六月十五日」〈八戒名のうちの二つ〉     尚左堂俊満小伝  絵馬屋額助    俊満は姓窪田氏、名は俊満、通称を易兵衛、幼児父を喪ひ、伯父何某の許に養はれて人と為り、小伝馬    町河岸亀井町に住す、常に左腕にて自在に用便を為す故、尚左堂と号せり、性風流にして初め楫取魚彦    に就て後素の道を学び、魚彦より春満といふ画名を授りしが、勝川春章の門人ならむと人に疑はるゝを    厭ひて俊満と改めり、浮世画は北尾重政に教を受け、其名世に喧伝せり、又沈金彫を工みにす、狂歌は    六樹園の社中にて伯楽側の判者たり、戯作には南陀加紫蘭といひ、曾て回向院前なる猫茶屋の事を著作    し、通ひけり猫のわざくれと題して刊行せしに大に世に行はれしといふ      夜るの梅見て戻りしといひわけくらき袖のうつり香    といふ歌は今の斯道に感吟せらるゝ所の秀逸なり、文政三年九月廿日没す、享年六十四歳、浅草黒船町    正覚寺に葬る、法号「善誉尚左俊満居士」〟(巻1-5 10/55コマ)  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『見ぬ世の友』巻九~十 東都掃墓会 明治三十四年四~五月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻6-13 35/76コマ・42/76コマ)   「一勇斎歌川先生墓表」東条琴台撰文   (明治六年十月、国芳門人および義子田口其英等が向島三囲稲荷の境内に建立したもの)      〈文面は本HPの歌川国芳の項に収録されているものと同じなので、ここでの収録は割愛した〉   ◯『見ぬ世の友』巻十 東都掃墓会 明治三十四年五月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻6-13 38/76コマ)   〝鳥山石燕之墓  兼子伴雨     浅草永住町(旧名新寺町)浄土宗 攝取山新光明寺 左手惣卵塔の中央に有り      総高さ五尺計 小松なれ共拝掃稀なるを以て草苔滑らかなり    (表)「水無月の頃(以下三行読めず)七十六翁石燕        秋月落水別世界        隈刷毛の消ぎはを見よ秋の月」    (台)「鳥山」「佐野」     鳥山石燕  兼子伴雨    鳥山石燕、本姓佐野氏、名豊房、始め狩野玉燕周信を師とす、故に石燕の号あり、後出て浮世絵に変ず、    喜多川歌丸恋川春町等皆其門に出づ、宝暦の頃各神社仏殿に絵馬を奉納せんとし、先づ小石川氷川明神    の社に樊噲破門の図を画き、湯島天神の社には時致義秀草摺引の図を掲げ、雑司ヶ谷鬼子母神には大森    彦七の図を納めたり、就中世評の高かりしは浅草観音堂の定香炉の傍なる柱へ長さ二尺四五寸・巾八九    寸の粗造なる白木の額へ歌舞伎女形中村喜代三郞(【喜代三には非らざるか、喜代三は屋号伊勢屋俳名    花暁と云ふ、宝暦五年江戸市村座へ出勤せる上方役者なり】)の狂言似顔を画きて奉納す、是れ東都役    者似顔の濫觴なるべしと塵塚談に見へたれども疑はし、鳥山彦を刊行す、其彩色摺は今も世に伝ふる拭    ボカシと称する隈取りの板木色ザシにて、恰も刷毛を以てするが如くなりしかば、見る人最も奇と称せ    り、蓋し此法は彫工緑文堂東英・摺工鶴富南季が尽力に拠るものなり、其他著す所絵本百鬼夜行、絵事    比絹(ママ)、画図勢勇伝(ママ)、水滸画潜覧、石燕斎画譜等にして、鳥山彦、百鬼夜行殊に愛重せらる、天    明八申年八月三日没す、享年七十六、浅草永住町【旧名新寺町】浄土宗攝取山新光明寺に葬る    石燕が墳墓三面悉く法名を刻す、然れども裏面の法名は鬼籍に所見なきを以て何者たるを知るに由なし、    但し石燕以前の者なり、右側は石燕以後にて正心院哀誉宗愍居士、俗名佐野宗七は奥坊主を勤めし者に    て、明治九子年十月七日没す、今は僅に宗七の妻某が毎年一二度展墓するのみなりとぞ、又左側には、     天明八申天(ママ)八月五日 画照院月窓石燕居士  安政六午天正月五日 実相院通誉宗円居士     安永七戌天五月十三日  順光院緑誉随情大姉            大円院鏡誉永寿大姉     文化五辰天六月廿三日  究意院岸誉遊心居士  文化二丑天二月二日 冬幻智法童女    と鐫たり、画照院は石燕にて順光院は妻なり、究意院は佐野宗盛事、実相院佐野宗円事、大円院は没年    なきを以て不詳なれども、宗円の妻なるべし、冬幻智法は宗盛の子にして鬼籍に十二月七日とあり〟    〈「絵事比絹」は「絵事比肩」、「画図勢勇伝」は「画図勢勇談」が正しい〉  ◯『見ぬ世の友』巻十一 東都掃墓会 明治三十四年六月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻6-13 47/76コマ)   〝細田栄之之墓  山口豊山     谷中 日蓮宗 寂静山蓮華寺に在りて、        其位置は総卵塔の奥にて、高さ四尺余、歴代の墳墓数十基並列す    (表)「広説院殿皆信栄之日随居士」     細田栄之  山口豊山    姓は藤原、名は時富、鳥文斎栄之と号す、通称は細田弥三郞と云ふ、宝暦年間御勘定奉行たりし丹後守    時俊が孫弾正時行が長男にて、世々幕府に仕へ五百を領し、初めは浜町に住居せしが、後ち本所割下水    に移り、其後同所御竹蔵の後に転居す、嘗て狩野栄川院法印の門に入りて出籃の名あり、時に大将軍家    治公絵図を好ませられ、絵具役の御小納戸を徴出されんとて、人選ありしに栄之其撰に当りしも勤仕僅    に三年にして病に罹り、其職に耐へ難きに依て之れを辞し、男和三郎時豊に家を譲り、致仕せんことを    請ひしに、許さるゝを得て遂に隠退す、其長病閑居の床に在るや独り熟ら思へらく、狩野家の画法高尚    なりといへども風流ならず、今は勤仕の身ならず只心の楽のみなれば、画風を浮世絵に転ずべしとて其    趣を変ぜり、浮世絵類考に文龍斎に学び、鳥居風の浮世絵をも慕ひしかば、鳥居の鳥と文龍斎の文の字    を採りて鳥文斎と号すとあるは何に拠ていへるにや、又葛飾北斎が風をも移し猶工夫を凝らし浮世画一    派を画き、大に其名を博するを以て、追々婦人画の一枚摺大に流行せしかども、寛政の改革に際し仮令    隠退の身なりとも、旗下の士にして浮たる婦人のうつし画等を画くだに遠慮すべきに、板下等を画き絵    草紙屋等に与ふは当主の不為(ふため)なりと、断然之を画く事を廃したり、栄之天覧の印を給はりしと    は、寛政十二年閏四月妙法院宮関東下向の時、栄之の画を召されしかば、隅田川の風景を画て呈進せし    に、宮帰京の後ち後桜町上皇の叡覧に備へ奉りしに、其景色の幽艶を愛でさせたまひ叡慮斜めならず、    其画を長く留めさせられ天覧の印を下し給はりければ、謹で拝受せしも恐れありとして、堅く納めて捺    印することを慎みしと云ふ、栄之・抱一上人・太(ママ)田南畝等も紫蘭の交りあり、隠退の後ち剃髪し治    部卿と落款せしは如何なる事にや、文政十二年七月二日病て没す、法名 広説院殿皆信栄之日随居士と    云ふ〟  ◯『見ぬ世の友』巻十五 東都掃墓会 明治三十四年十一月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 14/76コマ)   〝廃墓録(其四)兼子伴雨     頭ノ光之墓    郭公(ママ)自由自在に聞く里は酒屋へ三里豆腐屋へ二里 の狂歌を遺せし牛門狂歌四天王の一人頭の光は    姓岸氏、名誠之、通称宇右衛門【一に卯に作る】光甫、桑揚尾(ママ)、巴人亭の別号あり、東都亀井町に    住し町代を勤む、壮年より酒を好みしため頭赤く禿げて光りける故に、頭の光と戯名せり、寛政八丙辰    年四月十二日病んで歿す、享年七十、駒込蓬莱町(旧名四軒寺町)浄土宗桂芳山瑞泰寺に葬り、法号恕    真斎徳誉素光居士と云ふ、明治三十の春、予駒込に赴きし際、同寺を隈なく捜索せしも、遂に求め得ず、    寺僧に就きて之を問へば、何頃にや廃墓せりと答ふ、口惜しき限りなり、東都古墳誌【写本】に頭の光    の墳墓を図せり、兜巾形棹石共三段にて、棹石正面丸に抱柏の定紋ありて、左側に法名歿年月を刻し、    台石正面に地紙形の中に三ッ巴を鐫たり、之れ牛門より得たる処の紋なり、古墳誌は文化二年の著述な    れば其以後の廃墓たるは論なし、其の辞世の碑のみ本堂前に遺りあるはせめてもの心遣りなり〟    〈郭公の読みは「ほとゝぎす」。牛門狂歌とは当時牛込に住んでいた天明狂歌の総帥・四方赤良(大田南畝)の狂歌連。四天王と     は天明狂歌四天王で、宿屋飯盛・鹿津部真顔・銭屋金埒と頭光をいう。「桑揚尾」は桑楊庵の誤記〉  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯『見ぬ世の友』巻十八 東都掃墓会 明治三十五年四月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 39/76コマ)   〝歌川国直之墓  兼子伴雨     八王子横山 浄土宗 宝樹山極楽寺 卵塔入口左側高さ五尺許の根布川石なり    (表)歌川国直墓 鼎斎方◎書◎     歌川国直 兼子伴雨    歌川国直は通称鯛蔵、浮世庵、柳烟楼、一烟斎、写楽斎【天保十二年刊『公益諸家人名録』第二編に両    国米沢町、吉川四郎兵衛とありて、極楽寺過去帳にも国直事四郎兵衛とあり、蓋し晩年の通称にや】等    の号あり、信濃の人にて、始め麹町に居を卜し、後ち所々に転して田所町に住し、遂に八王子に移る、    幼にして明画を学び又北斎の画風をも好みしが、壮年の比豊国の門人となり、文化の末より草双紙に画    く、其後錦絵・読本多く出して国貞に匹敵せり、之れ皆三馬が推挙して取立たりと、故に三馬が作に挿    画多し、従来明画を好むほどの画才ある人なれば、一派の画風を立んとして暫く之を廃せり、後天保の    始めより草双紙・中本抔多く画く、彼の名手国芳なぞも一時は国直が家に塾生の如く居て学びたりと云    ふ、小枝繁が作『景清外伝』宮田南北が作『双玉伝』等の挿画は、当時の人気に適して最も著名なる物    なり、安政元寅年六月廿八日歿す、行年六十二、法名高(扌+禿)琮運居士、府下八王子極楽寺に葬る〟    〈『景清外伝』は文化12年刊、『雲晴間雙玉伝』は文政8年刊、いずれも読本〉