Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ わかな うたがわ 歌川 若菜浮世絵師名一覧
〈生没年未詳〉
 ☆ 明治四十一年(1908)  ◯『日本書画名覧』番付 東京(樋口傳編集 書画骨董雑誌社出版 明治四十一年三月刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)    〈「古人浮世絵各派」以外は主な画家のみ収録。都県名は省略〉   〝近代国画各派名家   (一段目)竹内栖鳳 川端玉泉 渡辺省亭 鈴木華邨 梶田半古 松本楓湖 尾形月耕   (二段目)荒木寛畝 鈴木松年 佐竹永湖    (三段目)熊谷直彦 今尾景年 野村文挙 三島蕉窓 竹(ママ)内桂舟   (四段目)寺崎広業 望月玉泉 村瀬玉田 荒井寛方   (五~十段目)鏑木清方 阪巻耕漁 竹田敬方 歌川若菜〟   (欄外)〝水野年方 高橋玉淵〟    〈下掲大正5年1月刊の『婦女新聞』には8年間の遊学から帰国とあるから、この年出国したものと思われる〉  ☆ 大正二年(1913)  ◯『大日本当代画伯名鑑』(田辺貞次郞編集・出版 日月社 大正二年七月刊)   (大正二年五月調べ 画家住所録)(国立国会図書館デジタルコレクション)   〝国画各派 歌川国峯 東京 本郷千駄木林町二四〇〟   〝閨秀各派 歌川若菜 東京 本郷千駄木林町二四〇〟    〈外遊中であるから同居ではなく、国峰の住所を連絡先としているのであろう。してみると国峰と若菜は親子の関係か〉  ☆ 大正五年(1916)  ◯『読売新聞』(大正5年1月5日)   〝歌川若菜女史帰る    五ヶ年間を欧米に送つた女画家 到る処に彩管を揮つて喝采さる    四日新春の喜びを湛へた小波を分けて東洋汽船会社の地洋丸が旭日の出る頃横浜港へ入りました。五    年間一管の彩筆を友として欧米諸国を歴遊し 到る処日本の女画家と称讃され 無事故国に錦を飾ら    れた歌川若菜女史を 白ペンキ鮮やかに塗りかへられし船室に迎へますと、白い帽子いベールを被り    毛皮の外套にくるまつて 女史は微笑を泛(うか)べ乍(なが)ら語られました。    「妾(わたし)は千九百十年横浜を発ちまして 最初英京倫敦(ロンドン)へ参りました 其後は仏蘭西、     独逸、伊太利、瑞西(スイツル)、露西亜、ポンペイ等の各地を歴遊したのでしたが 最初の千九百十一     年の三月より四月迄 倫敦で自作の展覧会を開きました。     丁度百枚許(ばかり)出品しました処 大変な評判で身分不相応の歓迎をされました。夫れ等の評判     で種々の新聞や雑誌の依頼を受けまして 挿絵や表紙を画きましたが 殊にレビュー オブ デコ     レシヨンと申す雑誌には 日本の風俗や物語的の絵を画いて居りました。     千九百十一年の暮に仏国の巴里へ渡りまして 展覧会をする事になりましたが 妾が行くと云ふ事     が知れまして 着車が夜の十一時頃でしたのに 写真班や新聞記者団に見舞はれまして 大変嬉し     い心強さを異郷に感じたのでした。巴里では英国のシフカラスと申す婦人を召使つて居られました     程結構に生活して居りました。     千九百〇(ママ)二年一月後 ロンドンへ帰りまして チープストリーと云ふ子供の雑誌に揮毫して居     ましたが 再び巴里へ参り 巾六尺長さ九尺の浮世絵を二枚富豪から注文されまして描きました。     其時丁度先帝陛下の喪に遇ひましたが 巴里のライ ラフトラソ雑誌が日本の御大葬模様を描けと     の事でしたが 何分未だ御大葬に接した事のない妾でしたから ほと/\困却し 漸く行李の中よ     り後醍醐帝御大葬の模写を見出し 夫を参酌して描きました処が 後程写真が到着して比較します     と 可成り符合して居りましたので好評を得ました。其の為め二千法(フラン)の賞金を送られました     のみでなく各新聞が転載する程の光栄に浴しました。     其後ポートランドの貴族未亡人マーセツト夫人の請託で彼地へ参り 物質的成功を収めました。     追々各地を歴遊したくなりまして各国を経 仏国里昂(リヲン)を見舞ひ 最後にロンドンに帰り 紐     育(ニュウヨーク)に一ヶ年住ひまして 千九百十五年夏より シカゴ、ボストンを経て 無事帰国が出来     ました」    と久し振りに故国に接した喜びを現はし 更に語を継ぎ    「彼地に五ヶ年居ました間 妾の最も驚きましたのは 芸術家の勢力主義なのでした。一枚の画を十     年二十年もかゝつて描く事は珍しくなしさうです。其の芸術的良心とでも申す事は 我々の学ぶべ     き点ではないかと思ひます。各地では日本の婦人と云へば 家庭に燻ぶつて隠れて居るとのみ思は     れて 余り日本を理解して居ない様でしたが 妾が各所で展覧会をやつたり 出張したりなどする     ものですから 驚異の眼を睜(みは)り 日本の新しい婦人と常に呼ばれて居りました 其為めか同     情を得て 斯く満足に帰国が出来た事と存じます」〟  ◯『婦人界三十五年』 福島四郎著 婦女新聞社 1935年5月刊   (「婦女新聞年表」藤沢社史データベース所収)   〝欧米に八年遊びし歌川若菜女史、帰朝〟(大正5年1月記事)  ◯『【大正五年度/現代日本画】帝国絵画番附』番付(編集者・出版元記載なし 大正五年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※は閨秀画家【 】は流派( )は長所(受賞)は文展第1回(明治40年・1807)~第9回(大正4年・1915)までの受賞歴   〝文展作家(入選格)    歌川若菜【浮世】(花鳥・人物)芝区高輪南町三〇(受賞 入選:第2回)  ☆ 大正八年(1919)  ◯『大正八年度帝国絵画番附』番付 東京(吉岡斑嶺編 帝国絵画協会 大正八年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※文展出品者【 】は流派( )は長所(受賞)は文展第1回(明治40年・1807)~第12回(大正4年・1918)までの受賞歴   〝(張出)歌川若菜(年齢空欄)【年方】(花人)芝区高輪南町三〇(受賞 入選:第2回)〈水野年方門人〉  ☆ 大正年間(1912~25)  ◯「大正書画番附」(番付 編者未詳 大正年間刊)〔番付集成 下〕   (五段目 東)   〝横綱 上村松園 大関 跡見玉枝 関脇 栗原玉葉 小結 鈴木けん子    前頭 歌川若菜 水野秀方 椎塚蕉華(他略)〟〈女性画家〉  ☆ 昭和二年(1927)    ◯『増補古今書画名家一覧』大阪(石塚良一蔵編集・出版 昭和二年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝現代各派閨秀名家 京都 上村松園  武蔵 歌川若菜(他略)〟  ☆ 昭和十二年(1937)  ◯『改訂古今書画名家一覧表』大阪(東楓荘散人編 益井文英堂 昭和十二年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝現代浮世絵名家  神奈川 歌川若菜〟    浮世絵師番付(本HP「浮世絵事典・う」)