※①〔目録DB〕〔国書DB〕:「日本古典籍総合目録」国文学研究資料館
⑤〔東大〕 :『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』 ⑮〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』
⑱〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」
角書は省略
☆ 寛政七年(1795)
◯『稗史提要』p385(比志島文軒(漣水散人)編・天保年間成稿)
◇黄表紙
作者の部 通笑 森羅亭 三和 楚満人 慈悲成 馬琴 善好 坪平 十返舎一九 黄亀
画工の部 重政 政美 栄之 豊国 春朗 二代目春町 長喜 一九
板元の部 鶴屋 蔦屋 榎本 西村 西宮 泉市 村田〟
◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
◇黄表紙(寛政七年刊)
春町二世画『万歳諷諸神柱立』万宝作〈春町二世は恋川行町〉
☆ 享和元年(寛政十三年・1801)
◯「艶本年表」(享和元年刊)
喜多川歌麿二世画『いさ鴛鴦草』三冊 喜多川歌麿二世画(注記「日本艶本目録による」)①
〈喜多川歌麿二世画とするが、歌麿は存命中〉
☆ 文化五年(1808)
◯「合巻年表」(文化五年刊)
喜多川歌麿二世画
『質流人行末』表紙「歌麿画」一返舎一九画・作 山口板 ⑤
〈備考、享和元年刊『質流思外幸』(一九自画作・岩戸屋喜三郎板)の改題改作本〉
☆ 文化八年(1811)
◯「絵本年表」(文化八年刊)
喜多川歌麿画
『朝鮮人来朝行列之記』「画図 喜多川歌麿画」判治晋瓶筆耕 西村源六・鶴屋金助板 文化八年十一月刊 ①
〈今回は対馬にて朝鮮通信使を迎え入れる。江戸までは来ず〉
◯「滑稽本年表」(文化八年刊)
喜多川歌麿画『狂言田舎操』奥付「画図 喜多川歌麿」口絵 国直画 式亭三馬・楽亭馬笑作 鶴屋金助板 ①
〈二代目歌麿。恋川行町〉
◯『藤岡屋日記 第一巻』p128(文化八年十月二十八日)
〝文化八年辛未年十月廿八日
浅草東門跡御遷仏供養也
去る文化三寅年三月四日、芝高輪より出火之節、大火ニ相成、御堂残らず御類焼也しが、早速御普請
ニ御取懸り、日追而成就ニ趣き、去午年御棟上にて今年御遷仏也、御遷仏参列式、喜多川歌麿画ニて図
出候也。
夫専修専念の宗致は末法の時機ニ調熟して、貴賤道俗ひとしく仰ぎ尊びず(ママ)と云事なし、むべなる
哉、去年上棟より数日ならずして今年御遷仏の法会行せ給ふ、此故に遠近之御門葉拝し奉らんと希ふ、
此時や御堂高廊下を構、衆僧参列まし/\て伶倫舞楽をなし、列を正して供奉せさせ玉ふ有様、斯る御
法会ニ逢奉ること、何事か是ニしかんや、然れ共遠国辺鄙之此法会に逢がき人々ぇ万分一を絵図ニ顕し、
其荒増をおがましめんとしかいふ〟
〈この喜多川歌麿は二代目か〉
☆ 文化十一年(1814)
◯『噺本大系』巻十五「所収書目解題」(文化十一年刊)
喜多川歌麿画『駅路馬士唄』署名「哥麿画」二世恋川春町作 山口屋板
〈この歌麿は二代目。挿絵は歌麿、表紙は国安が担当した(署名「國安画」)〉
☆ 文化十二年(1815)
◯「人情本年表」(文化十二刊)
歌麿二世画『馬方蕎麦』「歌麿画」瓢箪園一寸法師著 豊年舎出来秋序 ①
☆ 文化十三年(1816)丙子
◯「滑稽本年表」(文化十三年刊)
歌麿二代画『木曾街道 続膝栗毛』七編「歌麿画」十返舎一九画・作 ①
☆ 文化十五年(1818)
◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)
「馬喰町 浮世画」〝歌麿 二世喜多川 一号春晁 号梅雅堂 馬喰町 北川鉄五郎〟
☆ 文政四年(1821)
◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)
(本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
〝三馬按 二代目恋川春町ト唱タル画工アリシガ、近年改テ二代目歌麿トナル。倉橋春町ト先ノ歌麿トハ、
共ニ鳥山石燕ノ門人ナリ〟
〝三馬按、歌麿門人菊麿、今月麿ト改ム。式麿、秀麿等アリ。二代目歌麿、初号春町、別記ニ伝アリ〟
☆ 文政五年(1822)
◯「絵本年表」(文政五年刊)
歌麿画
『上野国一宮記録』一冊 江戸歌麿画 高橋幸輔撰 ⑮
『上野国一宮正一位抜鉾大神御記録』一冊「江戸歌麿画」①
奥付「于時文政五年壬午正月吉日刻成 上野国甘楽郡南牧岩戸村 一宮大社司 高橋幸輔印施」
〈この江戸の歌麿を二代目歌麿とみた。抜鉾神社は群馬県富岡市にある一之宮貫前神社「流鏑馬之神事」図と「祭礼之
図」の二葉あり。いつどのような経緯があって歌麿が作画することになったのか分からない〉
☆ 文政年間(1818~1829)
◯「合巻年表」(文政年間刊)
喜多川歌麿二世画『北條時政一代記』十五ウ「恋川春町作 哥麿画」森治板 ⑤①
(⑤備考「この哥麿は二世春町とも推定される」①の書誌「文政年間刊」)
☆ 天保四年(1833)
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③303(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
(「喜多川歌麿」の項、歌麿門人)
「喜多川歌麿系譜」
〝歌麿門人 二代目歌麿【俗称(空白)、馬喰町ニ住ス、文化ヨリ天保ノ頃ノ人、二世恋川春町ト云シ人
ナリ、書ヲ善ス故、歌麿ガ妻ニ入夫セシナリ】〟
〈滝沢馬琴の『後の為の記』(天保6年記)には「喜多川歌麿は妻もなく子もなし、没後無祀の鬼となりたるなるべし」と
あり。英泉、馬琴、何れの記述が正しいのか決しがたい〉
☆ 刊年未詳
◯「合巻年表」(刊年未詳)
喜多川歌麿二世画『北條時政一代記』哥麿画 恋川春町(二世) 森屋治兵衛板 ⑤
十五ウ「恋川春町作 哥麿画」〈備考、この哥麿は二世春町とも推定されるとする〉
◯「艶本年表」(刊年未詳)
喜多川歌麿二世画
『好色図会十二候』一帖 歌麿(恋川行町)画 ①
(注記「勝川春潮画のものを二世歌麿により模写板行日本艶本目録(未定稿)による」)
『恋の花そめ』 一帖 歌麿(恋川行町)画 ①(注記「ウキヨヱ内史による」)
『会本色形容』 一冊 歌麿(恋川行町)画 ①
『亥中源氏』 二冊 喜多川歌麿 画 ①(注記「艶本目録による」)
☆ 没後資料(下記『新増補浮世絵類考』の作画期により、以下の資料を没後と推定した)
△『戯作者撰集』p98(石塚豊芥子編・天保~弘化に成立)
〝恋川行町【春町門人天明七より】李庭亭と号す、著述の書多からず〟
〝落し咄 百福物語【小本、俗ニ油揚本ト云】春町喜三二ゆき町掛合の作あり【序は春町同ゆき町、跋春町、
口画歌麿也、三人の像なり〟〈咄本『百福物語』は天明八年刊〉
◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)
「喜多川歌麿系譜」(歌麿門人)
〝二代目歌麿 俗称(空白) 馬喰町に住す 二世恋川春町と云し人なり 書を善す 故歌麿が妻に入夫
せしなり 錦画あれども拙き方なり 文化より天保の頃の人〟
△『戯作者考補遺』p447(木村黙老編・弘化二年(1845)序)
〝二世 哥丸 馬喰丁 北川鉄五郎〟
◯「今昔名家奇人競」(番付 快楽堂 刊年未詳)
(東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)
〝画人遊客
彩画 故歌川豊国/精密 梅雅堂歌麿〟
〈この「故豊国」初代と思われるが確証はない。また梅雅堂は二代目歌麿(戯作者・恋川春町二世)の画号だが、なぜ初代
豊国と対になるのか分からない〉
◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪186(竜田舎秋錦編・慶応四年(1868)成立)
(「鳥山氏系譜」の項) 「喜多川歌麿系譜」
〝二代目 歌麿
【馬喰町ニ住ス。二世恋川春町ト云人也。書ヲ能ス。故歌麿ノ妻ニ入夫セシ也。錦絵アレドモ拙キ方、
文化ヨリ天保ノ頃ノ人、俗称北川鉄五郎】〟
◯『古代浮世絵買入必携』p22(酒井松之助編・明治二十六年(1893)刊)
〝歌麿の初代と二代の区別
初代哥麿は画の出来宜しく、髪の結ひ方は第八図、九図、又十図の三種にして、二代哥麿は初代に比す
れば筆拙く、髪の結ひ方は第十図、十一図、及び十二図の三種なり。尤も第十図は初代及び二代とも同
様なるも、初代は髪の毛の書き方細く、二代は粗なり。
「女絵髪の結ひ方」 第一図~第九図 第十図~第十三図(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
◯『浮世絵師便覧』p219(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝歌麿 喜多川、◯二世歌麿、俗称鐵五郎、二世恋川春町といひし人なり、拙し、◯文化、天保〟
◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)(57/103コマ)
〝喜多川歌麿 二世【文化元~十四年 1804-1817】
通称北川鉄五郎、馬喰町に住みて、二世恋川春町と称せしが、初代歌麿の没せし後、その妻に入夫して、
二世歌麿となれり、錦絵を画きしと雖もいと拙く、書道の方却て巧みなりきと云ふ〟
◯『浮世画人伝』p69(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)
〝二世 歌麿
初名不詳、二世恋川春町ノ号ヲ嗣ギ、後ニ初代歌麿ガ寡婦ノ夫ト成テ、二世ノ名を襲フ、天保ノ頃錦絵
ヲ画クニは甚拙ナリ〟
「喜多川歌麿系譜」
◯「集古会」第六十七回 明治四十一年(1908)三月 於青柳亭(『集古会誌』戊申巻三 明治42年3月刊)
〝林若樹 (出品者)二代目歌麿筆 浮絵両国橋納涼図板木 一枚〟
竹内久一(出品者)歌麿筆 浅草御坊御遷仏参列式 文化八年板〟
◯『狂歌人名辞書』p28(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)
〝喜多川歌麿(二代)、二世恋川春町といふ、通称鉄五郎、初代歌麿の没後その寡婦に入夫して二世歌麿
といひ、別に梅雅堂と号せり、其絵は拙にして見るに見らずと云ふ。(二代春町を看よ)〟
◯『浮世絵師伝』p11(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝歌麿 二代
【生】 【歿】 【画系】初代歌麿門人 【作画期】文化
喜多川を称す、俗称鉄五郎、別号梅雅堂、居所馬喰町一丁目。初め恋川春町に就て戯作を学び、恋川幸
町と云ひて黄表紙五六種を作りたり(自天明七年、至寛政七年)、師の歿後二代目春町を襲名し、文化
年間にも二三の草双紙を作れり、それより前、初代歌麿の門に入りて画を学びしが、画名は戯作名と同
じく春町を称せしものゝ如し。然るに、文化三年九月、初代歌麿の歿するや、彼は間も無く二代歌麿を
名乘り、画風師の晩年に酷似せる美人画の錦絵を数多出だせり。茲に不審なるは、初代歌麿門下に於て
は、彼よりも早く入門し、且つ彼よりも技倆の優れし者もありしなるべきに、儕輩を抜きて彼が師名を
継ぎしは、其の間何等かの事情の潜在せしにはあらずやと謂ふべき一事なり。いま『新増補浮世絵類考』
系譜の部には「馬喰町ニ住ス、二世恋川春町卜云人也、書ヲ能ス、故歌麿ノ妻ニ入夫セシ也、錦絵アレ
ドモ拙キ方、文化ヨリ天保ノ頃ノ人、俗称北川鉄五郎」とし、また『戯作者略伝』二世恋川春町の絛に
は「下谷坂本町に住居と聞けり、文寿堂書房なりし頃の話に、貴家の剃髪して隠居し賜へりともいひ、
又医師なりともいふ、何れ歟是ならん、故春町が門人にて、恋川幸町といひけるよし自らいへりとぞ」
と記せり。彼が二代歌麿としての作画期は、文化三年以後同十三年までは確証あれど、それ以後は如何
なりしや不明なり。世間往々にして、初代晩年の作と彼が襲名当時の作とを混同せる場合あれど、これ
を区別する方法は、其が錦絵に附刻せる検印に拠りて、例へば「寅九」即ち文化三年九月を境界として、
それ以前のものを初代以後のものを二代と認める事、検印無きものは、画風落款等を比較して、類似点
の如何によつて兩者を区別することも難きにあらざるべし。(口絵第四十二図は、「辰六」即ち文化五
年六月の検印を有するものなり)
尚ほ、二代目春町作としての草双紙は、文政三年以後天保二年までに、二十種近くのものあり、此の春
町は果して、彼と同一人なりや否や、未だ確証を得ざれども、若し同一人なりとせば、天保二年まで在
世の一証とすべし〟
△『増訂浮世絵』p161(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)
〝二世歌麿といわれるのは、通称を小川市太郎といひ、或は鉄太郎ともいひ、初め恋川春町に学んで、李
庭亭幸町又は雪町と号して。絵は歌麿に従つたのであるが、歌麿の没後、その寡婦に入夫して二世歌麿
となり、梅雅堂と号した。文化、文政頃の人。歌麿の晩年作と称して居るものには、この二世歌麿の作
が甚だ多い。長屋裏住の記す所によると、二世の作で初代のものとして伝へられたものが、案外に多い
といふことである〟
◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
春町二世・歌麿二世画
全作品数:42点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
(恋川春町二世名の作品)
作品数:26点
分 類:合巻20 黄表紙4 咄本1 狂歌1
成立年:寛政7年(2)文化11年(1)文政4年(1)同6年(1)同8年(2)
文政10年(3)同11年(3)同12年(2)同13年(1)
天保2年(3)同3年(3)安政6年(1)未記載(2)
喜多川歌麿二世画『源平合戦記』黄表紙 恋川春町二世作 成立年未記載
〈自作・自画は1点である〉
恋川春町二世画 『万歳諷諸神柱立』黄表紙 森羅亭万宝作 寛政七年(1795)刊
〈恋川春町二世名での作画は1点のみ。あとの25点は全て戯作名〉
(喜多川歌麿二世名の作品)
作品数:4点
分 類:艶本2 咄本1 黄表紙1
成立年:享和元(1点)文化11年(1点)未記載(2点)
〈4点全て作画。咄本と黄表紙は戯作名が恋川春町二世であるから自作自画になる〉
(喜多川歌麿名の作品)
作品数:3点
分 類:滑稽本1 外交1 未記載1
成立年:文化8年(2)
『狂言田舎操』滑稽本 式亭三馬・楽亭馬笑作 喜多川歌麿・歌川国直画 文化八年(1811)刊
『朝鮮人来朝行列記』 外交 喜多川歌麿画 文化八年刊
『時政記』分類未記載 恋川春町作 喜多川歌麿画 文政年間刊
(歌麿二世名の作品)
作品数:3点
分 類:艶本3
成立年:未記載3
『会本色形容』『恋の花そめ』『好色図会十二候』
(恋川ゆき町名の作品)
作品数:2点
分 類:黄表紙1 咄本1
成立年:天明8年(1)寛政元年(1)
〈二作とも戯作〉
(恋川春町名の作品)
作品数:4点
分 類:滑稽本1 合巻1 狂歌1 未記載1
成立年:文化5年(1)文政12年(1)文政年間(2)
『江戸前噺鰻』滑稽本 十返舎一九作 恋川春町画 文化五年(1808)刊
〈恋川春町名での作画は1点のみ〉
(恋川行町名の作品)
作品数:3点
分 類:黄表紙2 歌謡1
成立年:天明7年(1)寛政2年(1)未記載(1)