Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ てるくに うたがわ 歌川 輝国浮世絵師名一覧
(歌川国輝参照)
 △『旧聞日本橋』p367(長谷川時雨著・昭和四~七年(1929~1852)刊)   (著者・長谷川時雨の父・長谷川深造(天保十三年(1842)生)、六七歳(弘化四年~嘉永元年)の少年時    代を回想して)   〝歌川輝国は、宅(ウチ)のすぐ前にいたのさ。うまや新道--油町と小伝馬町の両方の裏通り、馬屋新道    とは、小伝馬町の牢屋から、引廻しの出るときの御用を勤めるという、特別の役をもっている荷馬の宿    があったから--の小伝馬町側に住んでいた。くさ双紙の、合巻かきでは、江戸で第一の人だったけれ    ど、貧乏も貧乏で、しまいは肺病で死んだ。やっぱり七歳ぐらいから絵をおしえてくれた。その時分三    十五、六でだったろう。豊国の弟子だったから、豊国の画いたものや、古い絵だの古本だの沢山あった。    種彦がよこした下絵の草稿もどっさりあった。私は二六時中(シジユウ)見ていても子供だからそんなに大    切にしなかったし、おかみさんのおもよというのは、竈河岸(ヘツツイガシ)の竈屋の娘で、おしゃべりでし    ようのなかった女だから、輝国が死んでから、そういうものはどうなってしまったかわからなかった。    住居(スマイ)は入口が格子で、すこしばかり土間があって、二間に台所だけ、家賃は(今の金)で三十銭    位だとおぼえている。それでもお酒は大好きで、たべものはてんやものばかりとっていた。貧乏でもそ    ういうところは驕っていた。芝の泉市だの、若狭屋だのという絵双紙屋から頼みにきても、容易なこっ    ては描いてやらなかった。その時分、定さんという人がよく傭われてきたものだ。輝国が絵--人物や    背景を描くと、その人は、軒だの窓だとか、縁側だとか、襖とかいったものの、模様や線をひきにくる。    腕はその当時いい男だといわれていたのに、弁当も自分持ちで、定木も筆も持参で来て、ひどい机だけ    かりて仕事をして、それで一日がたった天保銭一枚(当時の百文・明治廿年代まで八厘)。今の人がき    くと嘘のようだろう〟    〈この輝国名は『原色浮世絵大百科事典』第二巻「浮世絵師」にも、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」にも     見当たらないが、豊国の弟子といい種彦の下絵の草稿があったということからすると、あるいは、回想者・長谷川深     造は三代目豊国(歌川国貞)門人国輝と混同しているのかもしれない。「日本古典籍総合目録」によると、柳亭種彦     が亡くなったのち、二世種彦を自称した笠亭仙果の合巻を、国輝は十点作画している。したがって、この二世種彦の     下絵草稿が国輝の許にあったのは不自然ではない〉    〈この記事の原稿にあたる『読売新聞』(大正4年7月7日記事)では「輝国」のところが「国輝」となっているから、や     はり誤植であった。2023/01/22〉