Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ てるかた いけだ 池田 輝方浮世絵師名一覧
〔明治11年(1878)3月 ~ 大正10年(1921)5月6日・39歳〕
 ※「近代書誌・近代画像データベース」(国文学研究資料館)  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十一年刊)    輝方画    『松前騒動』 口絵・表紙 輝方    顛転堂竹吟 朗月堂(2月)    『奥平源八郎』口絵 輝方・表紙 未詳 宝井馬琴  朗月堂(10月)  ◯「月岡芳年翁之碑」明治三十一年五月 芳年七回忌 向島百花園に建立   〝年方門人 池田輝方〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十二年刊)    輝方画    『豊川利生記』 口絵・表紙 輝方 末広亭辰丸 萩原新陽館(3月)    『敵討観音丹次』口絵・表紙 輝方 末広亭辰丸 萩原新陽館(4月)  ◯『東京専門書画大家一覧表』番付 東京(市橋安吉編集・出版 明治三十二年六月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝南北画 池田輝方 谷中清水丁ノ十九〟  ☆ 明治三十三年(1900)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第八回 日本絵画協会展 明治三十三年四月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    尾形月耕 ◎◎◎用明天皇道行 銀牌         三曲(三枚)・寒梅・船・菩提    水野年方 富峯 銅牌         端唄・秋の夜・春暁・秦武文・落葉・寒梅・春の曙・義太夫    池田輝方 楠公訣別 三等褒状    鏑木清方 霜どけ 三等褒状         暮れゆく沼・冬の朝・稽古帰り    寺崎広業 后徳・桜見物・寒鴉・春水・暮色・清元梅の春・秋月    橋口五葉 野辺・鹿児島・もの見・犬    富岡永洗 新内・落葉・春暁    梶田半古 春の曙・寒意    大野静方 吉凶  ◯『読売新聞』(明治35年8月26日)   〝千種の花 例の滑稽堂より池田輝方筆にて標題の如き十二ヶ月行事に因みたる十二葉の錦絵を発売せる    が 至極美麗の出来なり〟  ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   ◇「傘谷から京橋へ」p130(明治三十三年記事)   〝 浮世絵の出ではあるが、師の年方が日常歴史画を主として画いた関係もあったろうが、この年の八月    に先生の宅で開かれた研究会では、輝方が「知盛入水」静方が「伊賀の局」私も「劉備」「仁徳天皇」    他に画題を不明ながら寛方の歴史画がある。寛方は後に美術院に属した荒井寛方なので、その歴史画は    不明ながら、私や輝方がこれに筆を染めているのも一つには時世であろう、容斎派の盛りの頃から歴史    画が日本画の主流と見られる傾向を示したのが、日清戦争の済んだ後はその擡頭は一層目立って、歴史    画、歴史小説の流行を促した。代表的は出版者であった博文館では歴史関係の出版は少年ものにも及ん    でいた。「読売新聞」は歴史画題を募って、日本美術院がこの課題制作を採り上げた。街頭にはまた    「われとにかくになるならば、世を尊氏の代となりて」の歌声が続けられていた〟  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十一回 日本絵画協会展 明治三十四年十月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    寺崎広業 月光灯影(小督) 金牌 ・春山水 ・秋山水 ・唐美人 ・鶴(屏風一双) ・競寿    富岡永洗 加藤清正 銀章 ・嫦娥    水野年方 源為朝  銅牌    池田輝方 中将姫  一等 ・美人    荒井寛方 児島高徳 二等 ・子供遊    大野静方 木村重成 二等    尾形月耕 風神雷神・観桜  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十五年刊)    輝方画『教育小説』 金港堂(8月)    「松ヶ谷村」大石霧山  挿絵 輝方 「尼法師」竹田仰天子 挿絵 輝方    「人の哀」 徳田秋声  挿絵 輝方 「白菊記」山岸荷葉  挿絵 寛方    「郷先生」 田村松魚  挿絵 静方 「玉霰」 柳川春葉  挿絵 静方    「初霜」  幸田露伴  挿絵 寛方    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十五年刊)    輝方画『日の出島 朝日の巻』口絵 輝方 村井弦斎 春陽堂(上巻 8月)〈見開き色摺口絵〉  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十二回 日本絵画協会展 明治三十五年三月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    寺崎広業 今様美人 銀牌 ・月夜山水    尾形月耕 大物浦 銀牌 ・気界下瞰     梶田半古 春宵怨 銀牌    池田輝方 山王祭 一等    新井芳宗 浅草寺 二等褒状 ・京遊女    水野年方 弥生・江畔美人・春の夜    荒井寛方 桜下美人  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十三回 日本絵画協会展 明治三十五年十月開催 於谷中初音町日本美術院)    水野年方 橘逸勢女 銀牌 ・日野阿新・旅途雨・少女摘花・美人聴雨・海浜遊鶴    鏑木清方 孤児院  銅牌    池田輝方 婚礼  一等    荒井寛方 落武者 二等    芳野尚方 空房  二等    笠井鳳斎 左遷  三等 ・愛    富岡永洗 浴後美人・雄快    尾形月耕 軒端梅・夕涼    名取春僊 秋色・霜夜    大野静方 月夜  ☆ 明治三十六年(1903)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十六年刊)    輝方画    『三日月形』口絵・表紙 輝方 仰天子   青木嵩山堂(3月)〈2ページ大折込口絵〉    『相模灘』 口絵・表紙 輝方 水蔭・佳水 青木嵩山堂(6月)〈2ページ大折込口絵〉    『山霧』  口絵・表紙 輝方 礒萍水   青木嵩山堂(10月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十四回 日本絵画協会展 明治三十六年四月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    寺崎広業 王陽明      銀章    池田輝方 江戸時代の猿若町 銅章    池田(榊原)蕉園 つみ草    尾形月耕 群盲評象・旅僧    梶田半古 鷲・朧夜    水野年方 熊沢蕃山  ☆ 明治三十七年(1904)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十七年刊)    輝方画    『無名城』    口絵・表紙 輝方 松葉 青木嵩山堂(前編 5月)〈2ページ大折込口絵〉    『最後の岡崎俊平』口絵・表紙 輝方 浪六 青木嵩山堂(前編 12月)〈2ページ大折込口絵 後編は翌38年1月刊〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十七年刊)    輝方画「大日本帝国海軍大勝利万歳」三枚続 輝方 福田初次郎(4月)  ◯『明治の東京』「築地川」p93(鏑木清方著・昭和九年五月記)   〝日露戦争の始まる二、三年前、私の先師年方がまだ繁昌だった時分、同門の池田輝方が木挽町生れ、私    は神田で生れはしたけれど育ちは木挽町、町を同じゅうして、同じ師に就いて同じ道を学べばおのずか    ら仲もよく、その輝方君が蕉園女史との恋物語はあまねく世間に知られていることであるが、ちょうど    その頃が二人の恋の芽ばえた頃、夏の夜の月かげ、橋の下の川瀬に砕けて、さまざまの水の綾(アヤ)、縺    (モツ)れ、ほぐれ、千々にみだるる光を凝(ジ)っと見つめていた輝方君が、だしぬけに、欄干についてい    た私の手を把(ト)って、     「ね、ね、あすこの水ん中に百合さんの顔が見える、ほら、ね」    そんな狂(キチガ)い染(ジ)みたことをいう輝方君を笑殺するには、私はまだ若かった。何にも見えぬ川の    面を二人は手をとり合ったまま黙っていつまでも見戍(ミマモ)っていた、その軽子橋〟    〈日露戦争は明治三十七年(1904)。その二、三年前というと、輝方二十四、五歳の頃である。後の池田蕉園は、この時     分、榊原百合、十六、七歳の少女であった〉  ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   ◇「烏合会」p213   〝 その頃(明治三十年代)輝方の家は、私と同町内で、三十間堀の川縁(カワベリ)にある六畳の二階に、    晃々と燿くランプの下で、洋紙を貼り合せた大画面を片端から捲きかえしながら、色白な輝方が双頬を    紅潮させて出品と取り組むのを又なく頼もしいものに見た。本名は正四郎と云って明治十六年二月木挽    町の家に生れた。父は家具職で兄がその仕事を襲ぎ、弟思いのいい姉もいた。二十八年に年方先生の神    田時代塾生として入門したのだが画の筋が善く、驚くほどの進歩ぶりだった〟     ◇「烏合会」p214(明治三十六年三月五日~八日、第六回「烏合会」)   〝 第六回、三十六年は「花」(課題)であった。ここでは輝方の二作、「墨染」「暮靄」が傑出して    いた。どちらも尺八か二尺の竪物で、一は「関の扉(ト)」に出る墨染桜の精、一は花散りかかる山の手    の住宅地らしい黒塀の前に、物思いに耽る女学生を画いた。相愛の仲と許された蕉園女を写したものと    すぐ見てとれる。私には、多く技巧を弄せずに、ゆったりとして凄艶の漂った墨染の立姿と、後年彼が    文展に出した「両国」とを、彼の最も好調な作と思える。好調の時のゆたかな調子は、学ぶともなく学    んだ清長の影響であろう。彼がその秋に日本美術院に出品の「江戸時代猿若町」に至ってそれが一層著    しい。聴く人は意外に思うか知らぬが、従来年方先生の塾では、あまり浮世絵についての知識を深める    機会はなかったのを、輝方の塾生時分、先生は文人幸堂得知所蔵の黄表紙を借覧して、これを輝方に写    させたことがある。この蒐集に清長の挿絵が多く、輝方は勿論、通い弟子だった静方にも、偶に師家を    訪う私にも、清長の世界を窺い知る又とない機縁になったのである〟     ◇「烏合会」p220   〝 創立以来の有力な同志であり、同門の親友輝方が、我々の列を去ったことにまだ言及する折がなかっ    た。彼の一身上に思いがけぬ変化が起って、友人達も温かい気持ちで待っていた蕉園との結婚も、どう    なることか解らず、一時彼の消息は杳(ヨウ)として伝わらなくなった。ハッキリした日時を記憶しないが    三十七年頃であったろう。蕉園の出品もそれぎり望めなくなったのは是非がない〟     ◇「文展開設(二)」p250   〝 輝方と蕉園のことは前にも記してあるが、この二人が漸く結婚したのは四十四年のことであった。四    十五年の正月三日に新婚の夫婦はうちつれて私どもを訪れた。その日であったか、時を措いてか、私た    ち四人で撮った写真がある。     大正期の初めには共に文展の中堅として、夫婦揃っての活躍が話題になったが、人生は儘ならぬと云    おうか、蕉園の作品に示された意気の充実は、却って婚前に認められるのに徴して、作者の環境の芸術    の及ぼす複雑な作用について、私はいつも深く考えさせられる〟  ☆ 明治三十八年(1905)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十八年刊)    輝方画    『最後の岡崎俊平』口絵・表紙 輝方    浪六   青木嵩山堂(後編 1月)〈2ページ大折込口絵 前編は前年12月刊〉    『造船博士』   口絵・表紙 テルカタ(輝方) 小栗風葉 青木嵩山堂(3月)〈2ページ大折込口絵〉    『漁師の娘』   口絵・表紙 輝方    江見水蔭 青木嵩山堂(3月)〈2ページ大折込口絵〉    『鬼士官』    口絵・表紙 輝方    小栗風葉 青木嵩山堂(6月)〈2ページ大折込口絵〉  ☆ 明治四十二年(1909)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十二年刊)    輝方画『謡曲お伽噺』口絵・挿絵・表紙 輝方 井口南台 内外出版協会(6月)〈2ページ大色摺口絵〉  ☆ 明治四十四年(1911)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治四十四年刊)    輝方画『幼年絵話百番』「花子の巻」挿絵 輝方(ほか多数) 竹貫佳水 博文館(8月)  ☆ 刊年未詳(明治)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「当世風俗寿語録」輝方 静方 清方他 秋山加弥 ②  ☆ 大正元年(明治四十五年・1812)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正元年刊)    輝方画『宮と貫一』口絵 池田輝方 須藤寒泉 福岡書店(4月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯『大日本画家名鑑』大正二年度改正 現代之部(前田鐘次郎編 東洋画館 大正元年12月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「一流」の部   〝池田輝方 東京 上野桜木町〟   「第六回文部省 美術展覧会出品画図題及画伯名 第一科 第二部」   〝池田輝方 小矢児・於七〟  ☆ 大正二年(1913)  ◯『大日本絵画著名大見立』番付 名古屋(仙田半助編集・出版 大正二年十一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   (東方)   〝前頭 池田蕉園 東京市下谷中根岸九〇   (西方)   〝前頭 池田輝方 東京市下谷中根岸    前頭 鏑木清方 東京市日本橋区浜町〟  ☆ 大正三年(1914)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(大正三年刊)    輝方画『相合傘』口絵 池田輝方 同蕉園合作・装幀 橋口五葉 泉鏡花 鳳鳴社(7月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ◯『読売新聞』(大正3年11月1日)   〝よみうり抄    池田輝方氏 及び蕉園女史はこの程府下田端東台四七七に移転したる由〟  ☆ 大正五年(1916)  ◯『【大正五年度/現代日本画】帝国絵画番附』番付(編集者・出版元記載なし 大正五年刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    ※【 】は流派( )は長所(受賞)は文展第1回(明治40年・1807)~第9回(大正4年・1915)までの受賞歴   〝文展作家   (二等賞格)    池田輝方【浮世】(美人)府下田端東台四七九(受賞 二等:第9回 三等:8回 褒状:6回)    〈二等賞格では他に鏑木清方も入る〉  ☆ 大正六年(1917)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正六年刊)    輝方画    『幻の絵馬』  表紙のみ  てる方 泉鏡花   春陽堂  (1月)    『河内山と直侍』口絵のみ  輝方  一竜斎貞山 演芸画報社(6月)〈2ページ大折込口絵〉    『誘惑』    口絵・挿絵 輝方  徳田秋声  新潮社  (前後編 6・8月)    『竜巻』    口絵 滴水・挿絵 清方 輝方? 洗厓 渡辺霞亭 実業之日本社(後編 8月)〈2ページ大折込口絵〉  ☆ 大正七年(1918)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正七年刊)    暉方画『千鳥ケ淵』口絵のみ 輝方 渡辺霞亭 講談社(10月)  ☆ 大正八年(1919)  ◯『帝国美術院第一回 美術展覧会図録』(文部省編 審美書院 大正八年十一月刊)   (近代書誌・近代画像データベース)   〝日本画之部    池田輝方 「絵師多賀朝湖流さる」(其一)(其二)  ◯『大正八年度帝国絵画番附』番付 東京(吉岡斑嶺編 帝国絵画協会 大正八年刊)   (東京文化財研究所「明治大正期書画家番付データベース」)    ※ 文展出品者 数字は年齢【 】は流派( )は長所     (受賞)は文展第1回(明治40年・1807)~第12回(大正4年・1918)までの受賞歴   〝(五段格)    池田輝方37【玉堂】(美人)麹町区麹町二番町二六     (受賞 二等:9回 特薦:10-11回 三等:8回 褒状:6回)〟  ☆ 大正十年(1921)(五月六日逝去・三十九歳)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正十年刊)    輝方画『新しい奥さま』口絵 輝方 巌谷小波 博多成象堂(12月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ◯『読売新聞』(大正10年5月7日)   〝池田輝方画伯 昨夜大磯の病院で逝く    【大磯電話】兼ねて病気の為め 大磯の佐々木病院で療養中であつた麹町下六番地十番地 池田輝方    画伯は長らく肺病の為 同病院副院長なる進藤医師の療養を受けて居たが 六日七時廿分 遂に薬石    効なく死去した 享年卅九歳 遺骸は七日荼毘に附し遺骨は八日東京に送附して葬儀を営むと〟   〝大作を好んだ放胆な男でした 川合玉堂氏談    池田氏の訃報を旧師川合玉堂氏に齎す 河合氏は「ハハアたうとうなくなりましたか 実は今(六日)    危篤との電報があつたのですが!」と大に驚愕し「池田君は実に芸術味に富んだ美術家でした。若い    時分から負けん気の思つたことは飽迄もうやり通す気性でした。そして日常の行動は放謄磊落の方で    した。いつも大作を好んでやつた、「木挽町の今昔』とか「夕立」と云つたものが逸作です、実に惜    しいことをしました〟  ☆ 大正年間(1912~25)  ◯「大正書画番附」(番付 編者未詳 大正年間刊)〔番付集成 下〕   (二段目 東)   〝前頭 平福百穂 川端龍子 松岡映丘 池田輝方 前田青邨 島崎柳塢 小林古径(他略)〟    ☆ 没後資料    ◯『浮世絵師伝』p123(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝輝方    【生】 明治十七年(1884) 【歿】  大正十年(1921)-三十八     【画系】年方門人      【作画期】明治~大正    池田氏、本名正四郎、東京に生る、年方の門に入り、浮世絵を学ぶ、大正元年文部省第六回美術展覧会    へ「都の人」を出品して褒状を受け、第八回展へ「両国」を第九回展には「木挽町の今昔」を出品して    二等賞、翌年は「夕立」一対を出品して特選、十一回展に「凉宵」を出品して無鑑査特選、十二回には    「浅草寺」の四曲屏風一双、大正八年帝国美術院第一回展覧会へ「絵師多賀朝湖流さる」六曲屏風一双    出品す、最後の大作であつた、新聞雑誌に挿画されたるものも多し〟    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊)   ◇「男優りの女流画家 晴湖女史から蕉園女史まで」p279   〝年方画伯門下の花形榊原蕉園、同門の秀才池田輝方と恋のローマンス、輝方は木挽町の建具屋棟梁の息    子さん、一方は堂々たる元日鉄の重役、話がもつれて師門を飛ぴだした輝方、地方を回って放浪の旅、    師を始め同門諸子も心配して大骨折の結果、ようやく納まって放浪の旅、師を始め同門諸子も心配して    大骨折の結果、ようやく納まって池田夫人となった蕉園女史、恋は遂げたが不幸にも数年ならずして大    正六年歿、明治最後の花は散った〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「下谷区」谷中墓地(谷中天王寺町)   〝池田輝方(画家)名正四郎。水野年方につきて風俗画を研究す、その美人画は世に持て囃され、文展に    屡々賞を受く。大正十年五月六日歿。年三十九〟    ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
   「歌川系図」〝水野年方門人 池田輝方〟