Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ でんぜん あおうどう 亜欧堂 田善浮世絵師名一覧
〔寛延元年(1748)~ 文政5年(1822)5月7日・75歳〕
 ☆ 寛政九年(1797)    ◯『退閑雑記』〔続大成〕⑥185(松平定信・寛政九年(1797)記)   〝予が領中須賀川に善吉といふ商家あり。ことに画を好みて寝食をも忘れければ、業にもうとく成り侍る    をもていたくいましめけり。それより画かく事やめて年月経しが、業をもつとめ覚へければ、画かきて    んと筆とりてかくに、はじめよりことに上達しけり。いかにとたづぬるに、筆もて画はかゝざれども、    只いぬるとき心のうちにてゑがく事かうがへ侍りぬと言ける。この者の志すぐれければ、かの谷文晃の    弟子にしける。今いろ/\の紙に銅板または木理を摺出しぬるもこのものなり。その子また奇男子なり。    書画をこのみけるが、あきなひの道にもさとかりければ、善吉も産の事は其子にまかせ置けるが、此者    国々ありきて書画まなびたきとのこゝろざしせちなり。その妻ことにうれいて産をもうち捨て、まよひ    出給ふ心こそたのもしからね。幾としそひ侍るべしとも覚えずとて家を出ける。こはいかにと驚きてあ    りきいづる事やめ侍るべしとの設け事なりしが、このものあへておどろく心もなかりけれぱ、術尽てそ    の妻またかへり住む。つゐに此もの産業にてたくはへしこがね、みな/\とり集めふんしをきて善吉へ    奉るてふかきをき、そのうち二分とり出し、旅行の用にし侍ればたまはりねとかきそへて家をたち出け    る。善吉折しも白川に居けるが、このよしきゝてあはてふためき家にかへり、たゞなきに泣て別れをし    たひける。かくでもあらじいそぎおふてみるべしと、心きゝたるもの五たり六たり、あとしたひて出け    るが、つゐにうつのみやにて追付とらへかへりけり。此事予もきゝつたへければ、ゆるして書画ならは    したらば、長く孝子の名をも失はじ、兎や角してこれもまた文晃の弟子にしたりけり。それより文晃の    家に行て寝食を忘れて画のみまなびけり。この家の隣りに伶人すみて、ひる過る頃よりいつも楽するな    り。文晃かれに楽はおもしろきやとたづねしに、露しらずけふもまたあるべししらせ侍らんと言たるが、    例のころ楽はじまりければ、それとてつげしらせたるにぞ、はじめてきゝたりしとぞ、世には奇なるも    のもある者なり。只かくの如き奇なるものありても、武夫と生れば弓いる事もすべし、剣つかふ道も学    ぶべし、馬のるわざも習ふべしといふにぞ、さま/\の事につかはれて、弓馬剣槍の業もすぐれず、た    ま/\ことに好む事も得しとげず、常人にて捨る類ひ少なからず、一芸すぐれたらば何しらずともあり    ぬべし。今の人さま/\の事にうとからじとおもふにぞ、何事にもうとく成行ぞなげかしけれ〟    ☆ 文化十一年(1814)     ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(文化十一年刊)    亜欧堂田善画『青蔭集』一冊 陸奥国石川郡大隅瀧芭蕉碑之図 亜欧堂田善製              須加川 多代女序  随斎成美跋     ☆ 没後資料  ☆ 明治十三年(1881)    ◯『観古美術会出品目録』第1-9号(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (観古美術会(第一回)4月1日~5月30日 上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十三年四月序)   〝亜欧堂田善 水彩画 永田善吉画 一幅(出品者)松田敦朝〟   ◇第六号(明治十三年四月序)    亜欧堂田善 油画  永田善吉画 六枚(出品者)山本五郎  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (第二回 観古美術会 5月1日~6月30日 浅草海禅寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十四年五月序)   〝亜欧堂田善 鐫古銅版 二枚(出品者)福島県 内藤順耳〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 3月25日~5月31日 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝阿欧堂田善 富士山図 紙本 六幅(出品者)帝国博物館〟    ◯『名人忌辰録』上巻p38(関根只誠著・明治二十七年(1894)刊)   〝永田田善 亜欧堂 通称永田善吉。岩代国岩瀬郡須賀川駅の人にて紺屋業なり。江戸に出て司馬江漢の    門人に入り、銅版画の祖と称す。本画は谷文晁門人。文政五年午五月七日歿す、歳七十二〟  ◯「集古会」第八十四回 明治四十四年(1911)九月 於青柳亭(『集古会誌』辛亥巻五 大正2年4月刊)   ◇課題 維新前の銅板   〝大槻文彦(出品者)     亜欧堂田善 文化六年板 両半球図、日本辺界略図 一幅     亜欧堂銅版 三図 一幅      平和女神図      佃島風景      日本全地図三景 附不與賈人静嘉主人蔵 林子平自画自刻 和蘭人晩餐図附    林若樹(出品者)亜欧堂田善觹 解剖図 文化五年戊辰版 一帖    広瀬菊雄(出品者)     亜欧堂田善銅版 御馬図   一枚            両国川開図 一幅    田子泰三郞(出品者)亜欧堂田善觹 解剖図 一帖    羽柴雄輔 (出品者)亜欧堂銅版図 和蘭内景医範提鋼 一帖〟    ◯「集古会」第八十八回 明治四十五年(1912)五月(『集古会誌』壬子巻四 大正2年9月刊)   〝広瀬菊雄(出品者)亜欧堂田善觹銅板 両国川開図 一幅〟  ◯「浮世絵漫録(一)」桑原羊次郎(『浮世絵』第十八号 大正五年(1916)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝(明治四十二年十月十七日、小石川関口町の本間耕曹を訪問して観た北斎ほかの作品リスト)    本間氏蔵の浮世絵 但し本間翁没後他に散逸せしやに聞く    田善筆「暴風雨軍艦図」       「油画山水」是は高橋由一氏の補画なり〟  ◯『狂歌人名辞書』140p(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝通称永田善吉、亜欧堂と号す、岩代国須賀川の産、白河楽翁侯の命を受け司馬江漢に洋画及銅版を学ぶ、    文政五年五月七日歿す、年七十五〟    ◯『浮世絵師伝』p1(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝亜欧堂    【生】 寛延元年(1748) 【歿】文政五年(1822)五月七日-七十五    【画系】僧月僊門人    【作画期】寛政~文政    岩代国須賀川の人、永田氏、名は可大、俗称善吉、其祖先は伊勢国渡会郡永田村の人、故ありて須賀川    に移住し、爾後数代に及ぶ。彼れは五代目(俗称惣四郎)の次男にして、兄は俗称を文吉と云ひ染工を    以て家業とし、且つ狩野派の画を学び、名を守胤、号を崑山といへり。善吉亦染工の技を習得せしが、    幼より画を好みて頗る写生を巧にせり、偶々祖先出生の地たる伊勢に僧月僊の画名あるを伝へ聞きて、    安永元年伊勢參宮の途次、初めて月僊に見え、即ち入門して画技を学びたりき、時に年二十五。其後感    ずる所ありて洋画及び浮世絵の特長を探り、新機軸を出すに至りしが、恰も寛政六年九月に、常時白川    城主松平定信が領地巡遊の際、彼の作品を見て共の画才を賞美し、それより彼を遇するに士分を以てせ    り。斯の如くにして定信の援助を受くる所少なからず、其の間長崎に赴きて洋画と銅版の技を研究し、    帰来して後数多の銅版画を製作せり、其内重なるものを挙ぐれば左の如し。     ◯医範提綱内象図(文化五年) ◯新鐫総界全図(文化六年)  ◯日本辺界略図(文化六年)      ◯セルマ二ヤ廓中之図(同上) ◯万国全図(自文化四年十二月 至同七年三月完成)      ◯大隈瀧(文化十一年)    ◯大日本金龍山之図(年月未詳)◯両国橋(年月未詳)      ◯東都三囲之図(同上)    ◯東都三又之図(同上)    ◯東都の名所(小形数枚)(同上)     ◯幡隨院長兵衛-白井權八比翼塚(文化九年)此圖のみは色摺木版    彼れは画号を亜欧堂田善(永田善吉の略)と云ひ、法名を一翁如旦居士といふ、其菩提所は福島県須賀    川の長禄寺なり。彼れの門人としては安田田騏・遠藤田一・新井令恭等最も著はる〟    ◯「集古会」第百九十二回 昭和八年九月(『集古』癸酉第五号 昭和8年11月刊)   〝中沢澄男(出品者)亜欧堂田善 銅販画 東叡山勝図 一枚〟  ◯「集古会」(第二百三十四回) 昭和十七年一月(『集古』昭和十七年第二号 昭和17年3月刊)   〝勝俣銓吉郎(出品者)田善 銅版洋人乗馬之図 一枚      布地に地球図と二面印刷せるものにて三徳などの裏地に用ひしものか〟  △『増訂浮世絵』p128(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝亜欧堂田善     田膳は永田善吉といひ、岩代国須賀川の人、亜欧堂と号した。染工を以て家業としたが、善吉は初め僧    月僊に絵を学んだといふ。後洋画の法を学び、松平定信の援助によつて、長崎に下り、銅板画の手法を    学んだ。田善は江漢から銅板画の法を得たのではなく、別途に研究したのである。田善は鑑賞のものと、    書籍の挿絵、地図等の実用方面のものとを作つてゐる。田善の銅版画の代表作としては、大きいもので    は、金龍山浅草寺が、横一尺二寸、竪九寸であり、雲龍図は一尺五寸四方ある。こゝに収めた例は佃嶋    真景の小図であるが、銅版画としての技巧は頗る優れてゐることが知られる。また肉筆の洋画の例とし    ては、帝室博物館所蔵の浅間山図六曲屏風がある。これは油絵の手法を以てしので、然かも全く日本化    されたものである。以て田善の伎倆を窺ふことを得るのである。    田善は文政五年五月七日没す、年七十五、法名を一翁如且居士といふ。須賀川の長禄寺に葬る。門人に    遠藤田一、安田田騏、新井令恭がある〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    作品数:1  画号他:亜欧堂  分 類:医学1  成立年:文化5年    (一点は『銅版画解剖図』)