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浮世絵文献資料館
浮世絵師総覧
☆ でんいち えんどう 遠藤 田一
浮世絵師名一覧
〔寛政5年(1793)~弘化2年(1845)・53歳〕
☆ 文政五年(1822) ◯「亜欧堂田善の肖像画」油井夫山著 (『浮世絵』第弐拾二(22)号 酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(20/24コマ) 〝(門人遠藤田一画く田善肖像画(絹本・彩色)の榜記) 文政五壬午年(五月七日没 亜欧堂如旦居士)寿(七十五)曙山田一 字如洋謹写〟 〝遠藤田一(寛政五年生 弘化二年没)は、須賀川の人、通称忠兵衛、字如洋、曙山楼と号し、早くより 亜欧堂に師事した、銅版画は無い様であるが、洋画風に描いた額や、日本画は四條風に画いたのが多く ある。人物画を得意としたので、石井家に蔵する俳人雨考の肖像なども立派である。田一は師の田善の 没後に、文晁の風を学んで趣雲斎文豊と改号し、晩年は多く仏画及び人物画を描いて、弘化二年に五十 三歳で没した〟
〈石井家とは須賀川町の石井清吉。田善肖像画の所蔵者〉
☆ 天保元年(文政十三年・1830) ◯「曙山楼田一の奉納額」石井研堂著 (『浮世絵』第十六(16)号 酒井庄吉編 浮世絵社 大正七年(1917)七月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
(11/13コマ) 〝(岩城国田村郡守山村 大元帥社)田一(亜欧堂田善唯一の門人)の油絵風の奉納額 額 立六尺 横八尺(佃島南望之図)文政十三庚寅年三月吉祥日 曙山楼田一 図は佃島海岸の景で、中央部に乗り合い船有り、十二人の客をのせ、二人の船頭之を漕ぎ進め、左の 岸上は土蔵でもあるのか、怪しげな建物の内から、窓外に煙を吐いて居て、其の前に、二人の壮漢(わ かもの)、各投網を肩にして立ち居る図である、大体の画風色彩の模様などは、今日の活動写真の看板 めいた感じが十分である〟 ◯『浮世絵』第弐拾二(22)号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正六年(1917)三月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「亜欧堂田善の肖像画」油井夫山(20/24コマ) 〝(門人遠藤田一画く田善肖像画(絹本・彩色)の榜記) 文政五壬午年(五月七日没 亜欧堂如旦居士)寿(七十五)曙山田一 字如洋謹写〟 〝遠藤田一(寛政五年生 弘化二年没)は、須賀川の人、通称忠兵衛、字如洋、曙山楼と号し、早くより 亜欧堂に師事した、銅版画は無い様であるが、洋画風に描いた額や、日本画は四條風に画いたのが多く ある。人物画を得意としたので、石井家に蔵する俳人雨考の肖像なども立派である。田一は師の田善の 没後に、文晁の風を学んで趣雲斎文豊と改号し、晩年は多く仏画及び人物画を描いて、弘化二年に五十 三歳で没した〟
〈石井家とは須賀川町の石井清吉。田善肖像画の所蔵者〉
◯『浮世絵師人名辞書』(桑原羊次郎著・教文館・大正十二年(1923)刊)
(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)
〝
田一
田善門人、遠藤氏、俗称忠兵衛、字は如洋曙山楼と号す、後ち文晁の門に入り、趣雲斎と号し、 文豊と改む、弘化二年没、五十三歳〟