Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ そうり たわらや 俵屋 宗理 初代浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 天明2年(1782)?〕
 ☆ 天明三年(1774)    ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・天明三年(1774)記)   ◇七月十三日   〝昨日、在転に貰ひし烟壺、宗理画の菊ゆへ、在転たのみ、今日名印書来る    〈この宗理は初代俵屋宗理と思われる〉      ◇十月二十日   〝歳旦板下を在転へ頼み茶屋宗理へ鶴巣を画せ今日在転持参    〈歳旦摺物の板下絵は十月頃に取りかかっているようである。宗理は一説では前年の天明二年没とされるが、「宗理へ     鶴巣を画せ」という記述の様子からすると、現存しているのではないだろうか〉    ☆ 天明四年(1774)    ◯『宴遊日記』(柳沢信鴻記・天明四年(1784)六月二十七日記)   〝在転早朝長屋迄来る、付合持参、宗理団扇貰ふ〟    ☆ 没後資料    ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱446(大田南畝記・寛政十二年五月以前記)   〝【古俵屋宗理名ヲ続、二代目】宗理【寛政十年の頃北斎と改ム】  【三代目宗理】北斎門人    これまた狂歌摺物の画に名高し。浅草に住す。すべてすりものゝ画は錦画に似ざるを貴ぶとぞ〟    〈この古俵屋宗理が天明二年(1782)頃亡くなったとされる初代の宗理。二代目が後の北斎で、三代目は寛政十年     (1798)頃、北斎の門人が襲名した。「これまた~」以下は二代目宗理に関する記事である〉    ◯『古画備考』三十五「光悦流」下p1574(朝岡興禎編)   〝俵屋宗理 号百琳、琳一作隣    元知、号柳々居百琳、専ラ光琳ノ画法ヲナス、此円印アルモノ、世ニ誤テ光琳トス    宗理、初め住吉広守の門人、後光琳の風を画く、明和安永の比の人なり、光琳画譜    [署名]「百琳斎」[印章]「元知」(丸印)【福禄寿鶴松葉屋口】      [署名]「柳々居百琳宗理筆」[印章]「元知」(丸印)    [署名]「青々宗理筆」[印章]「庭柏」(丸印)菊ノ絵    [署名]「百隣宗理」[印章]「元知」(丸印)白鶏ト朝顔     宗理――――宗琳 秋田へ参――――宗理――――北斎    [印章]「宗理」(方印)「庭柏」(丸印)(補)「元知」(丸印)〟    〈『古画備考』のこの記事に拠れば、住吉広守門人の宗理は三代目宗理、北斎は四代目ということになる。飯島虚心は     これを根拠として、北斎が名を継いだ宗理について「此の人初代にあらず。三代なり」(『葛飾北斎伝』)とし、北     斎を二代目宗理とする『無名翁随筆』や『増補浮世絵類考』記事を改め、四代目としたのであった。(『浮世絵師便     覧』)したがって、北斎宗理から宗理名を譲り受けた俗称宗二の宗理の方は「即五代宗理なり」(『葛飾北斎伝』)     ということなる。しかし、やはり『無名翁随筆』等が述べるように、二代目を北斎とし宗二を三代目とするのが一般     のようである〉  ◯『扶桑名画伝』写本(堀直格著 嘉永七年(1854)序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇俵屋宗理([32]巻十之五 雑家 105/108コマ)   〝宗理 姓名詳ならず 俵屋宗理と号す はじめ住吉広守門人 後に光琳の画風をゑかく 明和頃の人な    り〟  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『近世画史』巻一 細川潤次郎著・出版 明治二十四年六月(1891)刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの)   〝宗理 其の氏を詳らかにせず。俵屋と称す。初め住吉広守に就き画法を問ふ、後ち尾家の法に傚ふ。因    りて又青青と号す。没の年月亦た未だ詳らかならず。或いは曰ふ、明和安永年間の人なりと〟   〈「尾家」とは尾形光琳〉  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』上p248(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝俵屋宗理 初代    姓氏詳カナラズ、俵屋ト号ス、初メ住吉広守ニ学ビ、後チ尾形光琳ニ画風ヲ能クシ、光琳ト均シク、    青口ノ号ヲ唱フ、没年詳カナラズ、明和安永ノ人(人名辞書)〟       ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『葛飾北斎伝』p43(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年刊)   〝俵屋宗理     元知、柳々居、百琳と号す。専(もつぱら)光琳の画法をなす。此円印あるもの、世誤りて光琳とす。    宗理初め住吉広守の門人、後光琳の風を画く。明和安永の頃の人なり。『光琳印譜』    宗理----宗琳 秋田へ行----宗理----宗理 北斎     (印章あり、略)    宝暦八年板、『世諺拾遺』といへる発句集を閲(けみ)するに、百隣宗理の画あり。天道人不殺といへ    る題にて、ゆふくれに、うまれかはるや橋すゝみ、とある下に両国橋の景を画けり。年代を算して考ふ    れば、北斎は蓋し此の人を慕ひ、其の名を継ぎしものなるべし。さてこの宗理が死せしは、いつの頃な    るを知らず。安永の末か、天明の初ならん。『古画備考』に拠れば、此の人は、初代にあらず。三代な    り。『光琳印譜』に、住吉広守門人とある宗理は、即これなり〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『書画名器古今評伝』月巻(西島・高森編 岩本忠蔵 明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(9/74コマ)   〝俵屋宗理 称ハ宗理、江戸ノ人。光琳ノ画風ヲ以テ一時ニ行ル。名元知、字之思、赤松斎ト号ス。明和    ノ頃、江戸ニテ始テ錦絵ヲ板行スルコトヲ始ム。二代目ノ俵屋宗理ハ葛飾北斎ナリ。北斎此人ノ画風ヲ    慕ヒテ門ニ入テ二代目ヲ継ギタリ。サレドモ後ニ一家ヲナシ、門人宗二ナル者ヲ三代目トス〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(125/218コマ)   〝宗理     姓氏詳(つまびらか)ならず 俵屋と号す 初め住吉広守に師事して画法を研究し 大に之を能くす 後    尾形光琳の画風を喜び一家を為す 世称して名手となす 明和安永年間の人なり(扶桑画人伝)〟