※①〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」 ⑦〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』
⑮〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』
☆ 寛政四年(1792)
◯「絵暦年表」(本HP・Top)(寛政四年)
②「菱川宗理画賛」(打ち出の小槌に白鼠)1-4/28〈小槌の胴に漢数字〉
「鼠賛ふゆる黄がねの福寿草たからは槌の中にこそあれ」
☆ 享和三年(1803)
◯「絵入狂歌本年表」(享和三年刊)
菱川宗理画『狂歌絵本職人鑑』一帖 菱川宗理画 浅草庵市人編 蔦屋重三郎板 ①
☆ 文化二年(1805)
◯「絵入狂歌本年表」(文化二年刊)
菱川宗理画『狂歌かゆ杖』菱川宗理・北馬其他 版元不記載 ⑦
☆ 文化三年(1806)
◯「絵本年表」(文化三年刊)
葛飾北斎画『遠州流挿花百瓶図式』菱川宗理画 如月庵馬丈著 ①
☆ 文化四年(1807)
◯『市川白猿追善数珠親玉』(立川談州楼序・文化四年正月刊)
〈白猿追悼の肖像画。早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」所収の画像より〉
(『助六』白猿の役者絵)署名「菱川宗理画」
(他に豊国画・鳥居清長筆・笑艸筆・六十四歳春好左筆・政奴画・辰斎画・北鵞画・
向島隠居之像葛飾北斎写之)
〈追悼詠〉
〝鳴神のをとに涙の大雨は此世の注連のきれてゆく雲 歌川豊国〟
〝いにしへ一切経を取得たるハ三蔵法師 今台遊法子と戒名もいとたふとし
念仏の百首をよみて西遊記孫悟空にもまさる白西遊記孫悟空にも猿 かつしか北斎〟
〝写してもうつりてかなし氷面鏡 春好〟
〝はつ雪やきゆるものとハ知ながら 菱川宗理〟
〝我みちの筆も涙のこほりかな 清長〟
〝秀鶴が身まかりし比の句をおもひいでゝ 今又念仏百首
よまれて極楽の舞台に同座せらるゝ御仏にゑかう申て
仲蔵がましじやとおもふ暑哉といひしましらも南無阿弥陀仏 尚左堂俊満〟
☆ 刊年未詳
◯「絵入狂歌本年表」(刊年未詳)
菱川宗理画
『職人三十六番』一帖 菱川宗理画 ①
「狂歌摺物本」 一冊 菱川宗理画 落栗菴常恒序・養拙園白壁跋 ①
☆ 没後資料
☆ 文政元年(文化十五年・1818)
◯『【諸家人名】江戸方角分』(瀬川富三郎著・文化十四年~十五年成立)
「馬喰町 古人・浮世画」
〝宗理 菱川 馬喰町原(ママ馬場) 俵屋(名空欄)〟
〈文化十五年(1818)当時、菱川宗理は既に故人〉
◯「絵本年表」
◇絵本(文政元年刊)
菱川宗理画『挿花四季詠』菱川宗理写 蜀山人序 弘簡堂板 ⑮
〈〔目録DB〕この宗理を葛飾北斎一世とする。また早大の写本に「文化一三巣雲斎菱宗理写」とある由〉
☆ 文政初年(1818~)
◯『浮世絵類考』「三馬按記」(式亭三馬記・文政元~四年)(Topの「浮世絵類考」項目に所収)
〝三馬按、三代目宗理、初ニ宗二ト呼ブ。後年、俵屋ヲ改テ菱川宗理トナル〟
☆ 天保四年(1833)
◯『無名翁随筆』〔燕石〕③311(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)
(「葛飾為一」の項)
〝始めは、業を勝川春章に受く、勝川春朗と画名す、故ありて破門せられ、叢春朗と云り、古俵屋宗理の
跡を継て、二代目菱川宗理となり、此比画風をかへて【宗理ノ頃ハ狂歌ノ摺物多シ、錦絵ハカゝズ】一
派をなさず、【堤等琳孫二ノ風ヲ慕フ】亦、門人宗二に宗理を譲り【三代目宗理トス】名を家元へ帰せ
り〟
〈岩波文庫の『葛飾北斎伝』(飯島虚心著)の校注者・鈴木重三氏によると、春朗(葛飾北斎)は俵屋宗理とは名乗っ
たが、菱川宗理とは名乗らなかった由、下出『葛飾北斎伝』p43参照〉
☆ 嘉永三年(1850)頃
◯『古画備考』三十五「光悦流」下p1574(朝岡興禎編)
〝俵屋宗理 号百琳、琳一作隣
元知、号柳々居百琳、専ラ光琳ノ画法ヲナス、此円印アルモノ、世ニ誤テ光琳トス
宗理、初め住吉広守の門人、後光琳の風を画く、明和安永の比の人なり、光琳画譜
[署名]「百琳斎」[印章]「元知」(丸印)【福禄寿鶴松葉屋口】
[署名]「柳々居百琳宗理筆」[印章]「元知」(丸印)
[署名]「青々宗理筆」[印章]「庭柏」(丸印)菊ノ絵
[署名]「百隣宗理」[印章]「元知」(丸印)白鶏ト朝顔
宗理――――宗琳――――宗理―――――北斎
秋田へ参
[印章]「宗理」(方印)「庭柏」(丸印)(補)「元知」(丸印)〟
〈『古画備考』のこの記事に拠れば、住吉広守門人の宗理は三代目宗理、北斎は四代目ということになる。飯島虚心は
これを根拠として、北斎が名を継いだ宗理について「此の人初代にあらず。三代なり」(『葛飾北斎伝』)とし、二
代目宗理とする『無名翁随筆』や『増補浮世絵類考』記事を改め、四代目としたのであった。したがって北斎門人の
宗二は五代目宗理となる〉
☆ 明治年間(1868~1911)
◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)
〝文化 俵屋宗理 寛政の末、北斎より号を受け、二代北斎と改め、狂歌摺物を多く画く〟
◯『浮世絵師便覧』p218(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
〝宗理
俗称宗二、北斎門人、宗理の名を譲られ、俵屋宗二といふ、後に菱川を称す、宗理の五世なり、
◯寛政、文化〟〈宗理が菱川姓を名乗るのはこの人のみ〉
◯『葛飾北斎伝』p43(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)
〝同七年群馬亭、俵屋宗理の画風を慕ひ、名を改めて菱川宗理と称す〟
〈「同七年」は天明七年だが、この記事に岩波文庫本『葛飾北斎伝』の校注者・鈴木重三氏は次のような脚注をしている〉
「北斎の俵屋宗理改号は寛政六年末か七年。また菱川宗理を名乗らぬことは既述」
◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝北斎辰政【寛政元年~十二年 1789-1800】(47/103コマ)
通称橋本庄兵衛、為一の最初の門弟にて、初名宗二後に宗理の名を譲られ、菱川宗理(三世)となりぬ、
『浮世絵類考』に為一が、はじめ菱川宗理と名乗りしとあれども、全く此の三世宗理と混じて誤れるも
のなり、為一は菱川と呼ばず、俵屋宗理といへり、三世宗理のち再び師の号を譲り受けて、二代目北斎
辰政となる、浅草山谷に住みて、狂歌摺物の絵を多く画けりと云ふ〟
〝菱川宗理【文化元~十四年 1804-1817】(61/103コマ)
二世北斎辰政の名を改めしなり、其伝は前にあり〟
◯『浮世画人伝』p121(関根黙庵著・明治三十二年(1899)刊)
「葛飾北斎系譜」〝宗二(北斎門人)三世宗理ト更ム〟
◯『浮世絵』第十五号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)八月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
◇「偽の菱川氏」宮武外骨(18/26)
菱川宗理
浮世絵界の大立物葛飾北斎の前名である、これをイカサマ者として罵倒するのは可哀想だと云ふ人もあ
るか知らないが、菱川氏に縁もゆかりも無くて、デモ時代の天明七年から寛政十一年まで菱川宗理と名
乗つたのは不埒である、シカモ其氏名を俵屋宗二に譲り渡したなどは罪が深い
〈岩波文庫の『葛飾北斎伝』(飯島虚心著)の校注者・鈴木重三氏によると、春朗(葛飾北斎)は俵屋宗理とは名乗っ
たが、菱川宗理とは名乗らなかった由〉
◯「浮世絵漫録(一)」桑原羊次郎(『浮世絵』第十八号 大正五年(1916)十一月刊)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
〝(明治四十二年十月十七日、小石川関口町の本間耕曹を訪問して観た北斎ほかの作品リスト)
本間氏蔵の浮世絵 但し本間翁没後他に散逸せしやに聞く
菱川宗理筆「竹に蛇図」是も審美書院にて着色複製したる物あり、北斎が宗理と署名せし時の得難き好
標本なり〟
☆ 昭和以降(1926~)
◯『浮世絵師伝』p116(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
〝宗理 五代
【生】 【歿】 【画系】北斎門人 【作画期】寛政~文化
初め俵屋宗二といひ、別に琳斎と号したりしが、寛政十一年五代宗理(諱は完知)を襲名し、別号を巣
雲斎といふ、肉筆画及び摺物などに往々「菱川宗理」と落款せり、錦絵は「美人古歌合(七枚続)」と
題するもの(落款、琳斎宗二画)の外、殆ど其の作を見ず〟
◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
◇「寛政一一年 己未」(1799) p164
〝正月、国政・春好・春英・俵屋宗理の挿画ある『今日歌白猿一首』出版〟
◇「享和元年(二月五日改元)辛酉」(1801) p166
〝八月、俵屋宗理の画ける『挿花衣の香』出版〟
◇「文化四年 丁卯」(1807) p176
〝正月、鳥居清長・歌川豊国・勝川春好・菱川宗理・柳々居辰斎・葛飾北鵞等の画『追善数珠親玉』出版〟
◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)
〔菱川宗理画版本〕
数品数:2点
分 類:狂歌1・華道1
成立年:文化2年序(花道・如月庵馬丈著『遠州流百瓶図式』)
記載なし (狂歌・『職人三十六番』一帖)