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☆ ろちょう みずの 水野 廬朝 (路眺・清線館)浮世絵師名一覧
〔寛延1年(1748) ~ 天保7年(1836)1月22日・85歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」  ☆ 寛政五年(1792)     ◯「絵本年表」(寛政五年刊)    清線館主画    『絵本玉の池水』俳句 三巻 図清線館主(序による)一陽井素外序〔漆山年表〕    『誹諧世吉の物競』俳諧 三冊 清泉館主画 一陽井素外編〔目録DB〕     ☆ 寛政八年(1796)     ◯「絵本年表」〔目録DB〕(寛政八年刊)    水野廬朝画『絵本多能志美種』三巻 廬朝画 一陽井主人叙(巻末画中に署名せり 清線館主)〔漆山年表〕     〈〔目録DB〕は窪俊満画?とする〉    ☆ 文化十一年(1814)    ◯ 肉筆「シカゴ ウエストンコレクション 肉筆浮世絵」    水野廬朝画「縁先美人図」絹本一幅    落款「文化甲戌中春 攀鱗齋野廬朝戯画」印章「攀鱗齋」「廬朝」    〈「甲戌中春」は文化十一年二月、「野盧朝」は水野盧朝を中国風に名乗ったもの〉    ☆ 文化十三年(1816)    ◯ 肉筆「シカゴ ウエストンコレクション 肉筆浮世絵」    水野廬朝画「見立三酔図」絹本一幅    落款「文化丙子時風 應需六十九叟 戯画」印章「廬朝」「攀鱗齋」    賛 「すいといひあまいといふもにがにがし ただなまぐさきおととぞ思へ 蜀山人」    〈「文化丙子」は文化十三年、「時風」は当世流行の風俗といった意味。三人とも下唇は笹紅(笹色紅)、中央の兵庫髷の     遊女といい、当時最も持てはやされた衣装付き・着こなし・化粧法であったのだろう〉    ☆ 文政十年(1827)      ◯「絵本年表」〔目録DB〕(文政十年刊)    水野蘆朝画『盲文画話』一冊 猿水洞蘆朝画・著    ☆ 没後資料    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1405(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)   〝鳥巷斎路眺    [署名]「鳥巷斎路眺」[印章]「刻字未詳」(朱文関防印)「刻字未詳」(朱文方印)       絹中横、娘灯に向、歌書を見る図、栄之より先達か、丈夫の画    (千虎補)[署名]「応需路てう摸」(花押)        片桐々隠が、漢武帝返魂香を焚く図上の香煙中に、日本の傾城を画けり、栄之よりは拙画なり〟    〈水野廬朝。片桐桐隠は山水画家・桜間青崖の師匠。比較された栄之は鳥文斎栄之であろう〉    ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(61/103コマ)   〝水蘆朝【文化元~十四年 1804-1817】其の伝詳ならず〟  ◯『浮世絵師伝』p223(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝廬朝    【生】寛延元年(1748)  【歿】  【画系】北尾重政門人か  【作画期】寛政~文政    水野氏、清線館・攀鱗斎と号す、肉筆美人画に「水廬朝」と落款せるは、姓氏の一字を略せしなり。又    肉筆「太夫と禿の図」には「文化乙亥(十二年)季秋、応需廬朝戯画」とし、同じく「桜下芸妓の図」    には「文政己丑(十二年)時風、八十二叟長丘斎(印文蘆朝)」とせり。此の年齢を逆算すれば、彼の    出生は寛延元年にして、寛攻五年版の『誹諧世吉の物競』(三冊)を画きしは、彼が四十六歳の時に当    れり。同八年版の『絵本多能之美種』(三冊)も亦彼の画く所にして、中に自作の句あり、按ずるに谷    素外に就て俳諧を学びしものならむ。彼は幕府旗下の士にして、向島に住し(佐野純氏の説)、別に烏    巷斎路眺とも号しき(藤懸静他氏著『浮世絵』所載)。肉筆の美人画は、すべて細密に画き、頗る彩色    に意を注ぎたるものゝ如し。    因みに、廬朝の「廬」は一に「蘆」の字をも用ゐしこと、前記落款の一例に依りても明かなり〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「寛政六年 甲寅」(1794)p156   〝正月、清線館主人の『絵本世吉の物競』出版〟    〈『絵本世吉の物競』は一陽斎・谷素外の編集になる俳諧絵本〉     ◇「寛政八年 丙辰」(1796)p159   〝此年、清線館主人廬朝の『絵本たのしみくさ』出版〟    〈「日本古典籍総合目録」は『絵本多能志美種』(谷素外編)の画工を廬朝ではなく窪俊満か?とする〉    △『増訂浮世絵』p185(藤懸静也著・雄山閣・昭和二十一年(1946)刊)   〝盧朝    長丘敢人總卿、或は水盧と署名し、また路眺とも書し、盧朝の印文を用ひ、清線館、鳥巷斎、攀鱗斎    と号し、俳諧世吉之物競三冊寛政五年版、絵本多能之美種三冊寛政八年版の著者で、俳句を一陽斎素外    に学び、丹青の道では、北尾重政門と称せられ、鳥居清長の画風に似たものあることなどは分つてゐた    が、委しい閲歴は知られなかつた。然るに、昭和七年一月発行の史蹟名勝天然記念物第七集第一号に島    田筑波氏が、隠れたる浮世絵師水盧朝と題して、委しい研究を発表された。それによると、盧朝は徳川    幕府の御使番を勤めた千四百五十石の旗本で、浅草鳥越町に屋敷のあつた水野小十郎元休である。始め    元敏といひ隠居して卿山と号した。明和五年十二月西丸御小姓、安永八年四月御本へ移徙、天明元年五    月再度西丸勤、寛政五年正月御使番、寛政八年六月大坂御目付、享和四年正月御先手御鉄炮頭、文化十    三年三月西丸御持筒頭、文化十四年七月新番頭、文政七年二月晦日辞す。盧朝の役人生活はこれで終つ    た。役の暇に風俗画を作つたのである。天保七年正月二十二日病死、享年八十五、浅草本願寺中徳本寺    に葬る。法名元休院釈遊法卿山大居士。     (主な遺作として「桜下美人図」「松風村雨図」「今戸橋二美人図」を挙げる所蔵名省略)    路てうと署名し、片桐桐隠と合作して、漢武帝反魂香を焚く図の上の香烟中に日本の傾城をかいたもの    がある。    なほ清線流盧朝戯画と書した遊女書見図がある。絹本横幅で、淡墨に金泥を以て彩色した高雅なもので    ある。これ等は何れも盧朝の非凡な伎倆をあらはしたものとして、注意に値するものである。これだけ    の伎倆をもちながら、世に知られなかつたのは旗本の士の余技であり、作品も少く、且つ版画を作らな    かつたからである〟    〈「昭和七年一月発行の史蹟名勝天然記念物第七集第一号」の島田筑波の著とは「隠たる浮世絵師/水盧朝」(日本     書誌学大系49(1)『島田筑波集』上巻所収)以下、島田筑波の記事を引用する〉   〝今戸橋場の辺に、二人立の美人を描いた肉筆に、享和壬戌季鳥巷斎清線戯画と云ふ落款があるので、佐    野純は鳥巷清線の雅号を判じて鳥巷は隅田川の都鳥で、清線は清流の意味に解して、なんでも隅田川の    近くに住居されてゐたものではあるまいかと、私に物語られたのは、実にかく第六感の適中である。    (中略)廬朝の鳥巷斎の出所は、邸が鳥越にある事を意味し、また長丘斎と云ふ別号は、隅田土手を指    して名づけたものと私は考へた〟    〈享和壬戌は享和二年〉  ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)    廬朝・路眺名の収録なし    〈但し、猿水洞蘆朝著・画の『盲文画話』(文政十年刊)を一点収録する。蘆朝と廬朝とは別人だとは思うが、参考ま     でに挙げておく〉