Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ りゅう やまざき 山崎 竜女浮世絵師名一覧
〔生没年未詳〕
   ◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫522(菊岡沾凉著・享保十九(1734)年刊)   〝おりう絵 女画竜は、六七歳のころより天性うき世絵に耽て習はずして得たり。手跡また亜之。能筆也〟    ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年(1802)十月記・文政元年(1818)六月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝おりう 享保中の名画なり。板下をかゝず。略伝、世事談に見ゆ。山崎氏の娘なり〟  ◯『山東京伝書簡集』(竹垣柳塘宛・享和三年(1803)五月)   (『近世の学芸』所収 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   〝菱川絵巻物 御貸被遊、難有ずいぶん大切に致し拝借仕候、僕蔵浮世又兵衛美人之図一幅、おりう絵一    幅、破笠なぞ/\の絵一幅、右御使へ御渡し申上候、ゆる/\御一看可被遊候〟    〈柳塘公子は竹垣庄蔵、幕臣で文化五年(1808)の『武鑑』には「御普請方」とある。山東京伝は菱川の絵巻物を借りた返     礼として、自ら所蔵する「おりう絵」をお見せしたいというのである。この「おりう」は上掲『浮世絵類考追考』に云う     山崎氏。掛軸の由だが図様は分からない〉    ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年(1824)以前成稿・『日本画論大観』中)   〝山崎龍女 江戸下谷の人、画を菱川師宣に学び、其画風一工夫ありて奇趣あり。業平の涅槃像の奇図を    作る、実に女子の英傑なるものなり〟    ◯『花街漫録』〔大成Ⅰ〕⑨299(西村貘庵編・文政八年(1825)序)  「西条高尾之図【長二尺四寸 巾八寸九分】」山崎氏女龍画 花明園蔵」(模写あり)   〝このお龍がうつしゑは時代少しおくれて寛文天和の頃の西条高尾ともいふべし。こは同じ三浦屋の抱遊    女にて、その客に西条吉右衛門といへるがあまたの金銀をなげ出し、揚詰置しによりて、西条を異名と    す。かつ天和二年に右の吉右衛門根引せしことは、廊中の旧記にしるせれば、もともたゝしといふべし〟   ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③294(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年(1833)成立)   〝阿りう 享保中の名画なり、山崎氏の姨なり、略伝は世事談に見ゆ〟    〈『本朝世事談綺』(菊岡沾凉著。享保十九年刊。『日本随筆大成』第二期十二巻所収)の「おりう絵」の項に〝女画     竜は、六七歳のころより天性うき世絵に耽て習はずして得たり。手跡また亜之。能筆也。始は東叡山の麓にあり。今     増上寺門前に住す。現在也。頃年女画工の名手なり〟とあり〉     ◯『花街漫録正誤』〔新燕石〕④188(喜多村筠庭著・成立年代未詳)   〝西条高尾之図【長二尺四寸、幅八寸九分】このお竜がうつしえゑは、時代少しおくれて、寛文、天和の    頃の西条高尾といふべし。こは同じ三浦屋抱遊女にて、その客に西条吉右衛門といへるがあまたの金銀    をなげ出し、揚詰置しによりて、西条を異名とす。且天和二年に右の吉右衛門根引せしことは廊中の旧    記にしるせれば、もともたゝしといふべし    〔正誤〕山崎氏オ竜ガ名ハ沾涼ガ世事談ニモ出テ、ソノ頃現在ノ人ナリ、ヨシソノ事ハ知ラズトモ、風     俗ヲミテモシルベキ事ニオモハルレドモ、此作者マタ画者其他、コレニアスカル人タチ、ミナサル事     ヲモ弁ヘザレバ、気ノ毒、ソノウヘ、コロヲ高尾ニセント思ヒ、カラ梅ノモヤウノ間ニアル、竹ノ葉     ナルベキヲ、紅葉ニコヂツケタルハ、コトニオカシ、桜ニ紅葉ナドハアルベケレドモ、梅ニ紅葉ハ似     合シカラズ、何モ弁ヘナクテ、其クセ、子細ラシク、時代少シオクレテナドイヘルガ、片腹イタキ事     カギリナシ、竜女ガ事ハ、余ガ浮世絵師伝ニ載タリ〟    〈挿絵に「山崎氏女龍画」の署名あり。喜多村筠庭の「正誤」は着物の模様からこれを高尾にあらずとする。喜多村筠     庭の〝浮世絵師伝〟なるものは現在に伝わっているのだろうか〉    ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年(1844)序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝阿りう〈竜〉享保中の〈名〉画なり。山崎氏の娘也。略伝は世事談に見ゆ。    〈月岑補 下谷長者町、御旗同心山崎文右衛門娘也。芝神明の境内へ出て絵を書り〉〟    ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」中p1378(朝岡興禎編・嘉永三年(1850)四月十七日起筆)   〝山崎氏女    享保中の名画なり、板下を書ず、略伝世事談に見ゆ【浮世画類考】    おりう 江戸下谷の人、画を菱川師宣に学ぶ、其画風、一工夫ありて奇趣あり、業平の涅槃像の奇図を    作る、実に女子の英傑なるものなり 逸人画史    一枚摺に云、師ナシ独流    西條高尾之図、天和中ノ遊女    [署名]「山崎氏女龍画」[印章]「刻字未詳」(朱文方印二顆)浅草ニ住、天和中ノ人〟    ◯『【類聚】近世風俗史』(原名『守貞漫稿』)第十八編「妓扮」p48   (喜田川季荘編・天保八年(1837)~嘉永六年(1853)成立)   〝享保頃之遊女図【吉原町花明園所蔵。画工山崎龍女筆。是亦花街漫録に載たり】〟    〈喜田川季荘も、この遊女を西条高尾にあらずとする。喜多村筠庭に従ったのであろう〉    ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪200(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)   〝阿(竜)りう    下谷長者町御旗同心山崎文右衛門娘にて、享保中の名画なり。芝神明前の境内へ出て絵を書り。其略伝 は世事談に見ゆ〟  ☆ 明治以降(1868~)     ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年(1889)刊)   〝享保 於龍女 幼少の頃より、天性画を好み、師なくして浮世絵を善くす。書又能筆たり〟    ◯『浮世絵師便覧』p212(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝龍女(リウジヨ)山崎文兵衛の娘、菱川師宣門人、◯享保〟    ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年(1898)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(26/103コマ)   〝山崎龍女【享保元~二十年 1716-1735】    下谷長者町に住みし、御旗同心山崎文右衛門の女にて、六七歳の頃より浮世絵を好み、学ばずして善く    画き、また能筆なりき、後に芝神明宮の辺に移りて、専ら絵を画きたりといふ、当時名手と呼ばれし女    画工なりき、一説に師宣の門弟なりともいへり    (本伝は『近代世事談』『浮世絵類考』等に拠る)〟  ◯『新撰日本書画人名辞書』下(画家門 青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年(1899)三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(46/218コマ)   〝女龍 山崎氏の女なり 享保年中の人なり 江戸に住す 浮世絵を画きて名あり(扶桑画人伝)〟  ◯『日本帝国美術略史稿』帝国博物館編 農商務省 明治三十四年(1901)七月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(167/225コマ)    阿龍    阿龍は江戸の人、山崎文右衛門といへるものゝ女にして、天性がを好み、遂に浮世絵の名手と為る。人    呼びて阿龍絵と称す。享保の頃の人にして、其の画菱川師宣の風ありて、図様意匠の巧みなるもの多し〟  ◯『浮世絵画集』第一~三輯(田中増蔵編 聚精堂 明治44年(1911)~大正2年(1913)刊)   「徳川時代婦人風俗及服飾器具展覧会」目録〔4月3日~4月30日 東京帝室博物館〕   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇『浮世絵画集』第三輯(大正二年(1913)五月刊)    (絵師)女龍(画題)「娼婦」(制作年代)享保頃(所蔵者)高嶺俊夫〟  ◯『浮世絵師伝』p220(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝龍女    【生】  【歿】  【画系】  【作画期】享保    江戸下谷長者町御旗同心山崎文左衛門の娘、天性画を好み、六七歳の頃より浮世絵を描くといふ、世に    「おりう絵」と称す、肉筆美人画多し、十四歳の筆にして既に相当見るべき作品あり、初め東叡山の麓    に住し、後ち増上寺門前に移る〟